秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

金子貴一のマニアックな旅

連載|第八回

ベトナムで坐禅…南無阿弥陀仏はナモアジダファット

食堂の本尊と祖師・釈圓成和上像の前で、静かに食事を進める尼僧たち


前日の賓客用の精進料理とは違い、修行僧の精進料理は粗食だった。おぼんに乗っていたのは、ご飯、細麺、麺用スープ、野菜スープ、野菜炒め、漬物、茹でた野菜、醤油、そして、最後にアイスクリームが1本ずつ配られた


私の休息用に宛がわれた僧坊は3人部屋で、室内では、若い僧侶が寸暇を惜しんで漢文で書かれた仏典を書写し勉強していた


本堂にぶら下がっていた蓮華形提灯


夜9時からは30分間の坐禅が行われ、講堂内外は静まり返った



香寺の奥の院「香蹟洞」に行くには、船に1時間揺られ、ケーブルカーに乗り、下車後、山内の参道を上がって行く


香寺の奥の院「香蹟洞」の内部には仏殿が祀られ、僧侶と在家信者が真剣に祈りを捧げていた

 「暑い!」と、妻が連発する。もう夕方だというのに、私の額からは、拭いても拭いても汗が滝のように流れ落ちる。今年の7月は、ベトナムでも記録的な猛暑だった。


 私たちは、首都ハノイから南に車で約3時間の場所にある名刹「香寺」寺院群のひとつ、興慶寺の境内にある石製丸テーブルのイスに座っていた。


 「鐘が3回鳴ったら、食堂に来てください」。

 住持・釈明同師の言葉に、しばしの間、日陰で待っていた。

 そこに、寺から出て来たばかりの老女2人がニコニコしながら目の前に座り、ベトナム語で話しかけてきた。


 「私は、毎月1、15、30日の3日間、この寺で、掃除、食事、法要や祭りのお手伝いをさせて頂いているの」。

 言葉が分からずキョトンとしている私たち夫婦におかまいなく、老女は話し続ける。私が焦げ茶色をしたベトナムの僧衣を羽織っているためか、何の違和感も感じないらしい。思わず、隣に座っていた通訳のクエンさんに助けを求めた。


 「もう13年間も続けているのよ。お陰様で功徳を頂き、長生き出来ているわけ。今年で73歳になるわ。伽藍の建物を新設するような時には、村の周りの人たちに声をかけて、勧進をお願いするの。周辺の村々の年寄り100人以上が、私みたいにこの寺でご奉仕しているのよ」。


 おばあちゃんは可愛いらしい笑顔で一通り語ると、住持に合掌して挨拶を済ませてから帰っていった。


 老女の話などによると、興慶寺は約300年の歴史があるが、現在食堂として使っている堂宇以外はなくなってしまい、近年になって、観音菩薩像を祀る「大悲宝殿」、仏法を学ぶ「講堂」、阿弥陀仏を祀った本堂(その屋根の上に「興慶寺」の額が掲げられている)、僧坊、鐘楼などを建立したのだという。


 カーン!カーン!カーン!


 鐘の音と共に、食堂に僧尼や在家信者が集まってきた。時計を見ると夕刻6時半だ。住持の命で、私たちには若い男性在家信者が付き添い、細々とした注意点を教えてくれた。


 「食事中は無言で食事に集中してください。また鐘が3回鳴ったら食事開始です」。


 各テーブルに出されたのは、前日の賓客用の精進料理とは違い、修行僧用の粗食だった。直径60センチはありそうな巨大な金属製のお盆に乗っていたのは、ご飯、そうめん、麺用スープ、野菜スープ、野菜炒め、漬物、茹でた野菜、スイカと醤油。これらのおかずを、各自のご飯を盛った茶碗にとって食べるのだが、不思議なことに、テーブルマナーは、食器をテーブルに置いたまま持ち上げないことを原則とする中国式ではなく、お茶碗を持って食べる日本式だった。味の方はと言うと、野菜そのものの味に、お盆の中央に置いた醤油につけるやり方で、さっぱりとした素朴な美味しさが口に広がった。一通り食べ終わると、各自にデザートのアイスバーが配られた。剃髪に焦げ茶色の僧衣を羽織った僧尼たちのアイスバーにかじりつく姿が、とても微笑ましい。食事は、後片付けも含めて30分で終了した。


 食事終了とほぼ時を同じくして、外では激しい雨が降り出した。夕立だ。もう既に日は暮れたと言うのに気温はほとんど下がらず、逆に湿度が急上昇したため、私の顔から流れ出す汗は止まらない。


 夜9時から始まる坐禅まで、私は男性用僧坊の2階の一室を休憩室としてあてがわれた。その部屋は20畳ほどの広さで、半分が一段高い寝台となっており、もう半分の土間には2つの机が並べられていた。私を含めて住人は3人。ゆったりとくつろげる空間だ。寝台ではちゃぶ台に向かって、若い僧侶が寸暇を惜しんで勉強していた。近くに行って見ると、漢文で書かれた仏典を書写して暗記しているのだ。ベトナムは、紀元前214年に秦の始皇帝の侵略を受けてから約1150年の長きにわたって歴代中国王朝の支配を受け、文字は漢字で表記されてきた。それが、1954年に公式に漢字が廃止され、ローマ字表記に取って代わられてからは、漢字の読み書きは、僧侶など一部のベトナム人にしかできなくなった。1973年生まれの住持をはじめ若い僧尼が中心のこの僧団では、漢文の経典を暗記することは、私たちが思うよりハードルが高いに違いないのだ。住持によると、夏安居の3カ月間は、ベトナムの僧侶たちが仏典の研鑽に励む大切な時期なのだという。


 すると、階下の本堂から読経の声が聞こえてきた。行ってみると、女性在家信者が集団で礼拝をしているところだった。この寺では出家在家を問わず、求道者の真摯な姿が目立つ。


 夜9時になり、講堂で坐禅が始まった。修行者全員が堂内に、そして、入りきれない初信者は、堂外に秩序立って座った。他の在家信者と共に堂外に座した私たちは、例の担当者から坐り方の指導を受けた。四角い座布団の上に丸いクッションの坐蒲(ざふ)を重ね、その上にお尻を乗せて背筋を伸ばして足を組む。組み方は、両方の足を反対側の太ももに乗せる「結跏趺坐(けっかふざ)」、もしくは、片方の足を反対側の太ももに乗せる「半跏趺坐(はんかふざ)」だ。両手で印を組み、ゆっくりと呼吸する。日本の坐禅と同じ作法だ。しかし、日本では行われる「警策」(指導僧が集中できない修行者の肩を棒で叩くこと)はなかった。30分間の坐禅中、あたりは静寂に満ち、伽藍の周囲から聞こえるセミや虫の大合唱を一段と際立たせていた。


 坐禅が終了すると、今度は全員が正面の仏像に向き直り、木魚の音に合わせて読経が始まった。一番印象に残ったのが、何度も連呼した「ナモアジダファット」というフレーズだ。「南無阿弥陀仏」のベトナム語読みである。昼間の住持とのインタビューでは密教の教義が語られたが、食事と坐禅は禅宗、読経中の念仏は浄土教を彷彿とさせるものだった。


 夜10時過ぎに帰る際も、住持はわざわざ山門の外まで来られ、私たちの車を見送ってくださった。別れ際に住持は、「とてもベトナムに因縁がある方ですね。明日の昼食も是非、お立ち寄りください。お布施や供物などは無用ですよ」と、優しく語りかけてくださった。実は、昼間のインタビューの際は、タンさんのアドバイスでベトナムの礼儀に従い、五種類の果物を供物として捧げたのだ。住持の慈しみの心が強く感じられ、一同、深い歓びに浸った。


 その夜、私たちは、タンさんが経営する巡礼者用宿舎に泊まり、翌朝は、香寺全山の奥の院とも言える「香蹟洞」を参拝することにした。


 出発前にお礼を言おうと、朝早く、ホテル内の事務所を訪ねると、タンさんは上機嫌で迎えてくれた。丁寧に感謝を述べると、宿泊料は要らないという。話を聞くと、タンさんは、在家信者として密教修行を行い、香寺住職の私設秘書を務めるだけではなく、陰陽の原理を用いる易者として村人の相談にも乗っているというのだ。タンさんは事務所の本棚から、一冊の本を取り出すと私に見せてくれた。110年程前に密教僧によって書かれた漢文の易学書で、その内容は、密教の真髄と易学とを融合させたものだった。私の頭には仏教用語の「摂受(しょうじゅ)」という言葉が思い浮かんだ。私は、摂受を、「相手と融和し、慈悲で大きく包み込み、共存共栄すること」と理解している。密教は、仏教を中心として、およそメソポタミア以東の古代の叡智を摂受した教えの集合体だが、この易学書もその密教の特徴を端的に物語っていた。余談だが、この「摂受」こそ、私は、まだまだ戦乱や対立が収まらない21世紀の世界に必要な思想だと思っている。


 巨大な鍾乳洞の香蹟洞は、石灰岩の岩盤で出来た山岳地帯「香山」の山頂付近にあった。「燕泉(川)」を手漕ぎボートで1時間、ケーブルカーに10分、更に、土産物屋が並ぶ参道を20分程登ってやっとたどり着く。香寺は、17世紀末に建立され、20世紀初頭までは香山全山で100以上の寺院が建ち並ぶ大伽藍だったが、旧宗主国フランスに対する独立戦争(第一次インドシナ戦争)で壊滅的打撃を受けた。巡礼者の話によると、その際、この香蹟洞は労働党(後の共産党)司令部として使われ、度重なる空爆にも耐えることができたのだという。洞内には、新しくてきらびやかな仏像群と道教の神像群が混在した祭壇が設けられており、巡礼の僧侶や信者たちが熱心に礼拝を繰り返していた。ここが、旧暦の正月六日から三月中旬までベトナム最大級の参拝者で賑わう、ベトナムの大聖地なのだ。


 ベトナムは何度となく訪問したことがあるが、今回ほどディープなベトナム体験をしたのは初めてだった。私たちは、首都ハノイのホテルへと向かう車のなかで、貴重な体験をさせてくださった釈明同師や、秘書のタンさん、通訳のクエンさん、そして、何よりも、ベトナム仏教の諸神諸仏に深い感謝を捧げていた。


※朝日新聞デジタル「秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き」(2010年8月26日掲載)から


1962年、栃木県生まれ。栃木県立宇都宮高校在学中、交換留学生としてアメリカ・アイダホ州に1年間留学。大学時代は、エジプトの首都カイロに7年間在住し、1988年、カイロ・アメリカン大学文化人類学科卒。在学中より、テレビ朝日カイロ支局員を経てフリージャーナリスト、秘境添乗員としての活動を開始。仕事等で訪れた世界の国と地域は100近く。
好奇心旺盛なため話題が豊富で、優しく温かな添乗には定評がある。

NGO「中国福建省残留邦人の帰国を支援する会」代表(1995年~1998年)/ユネスコ公認プログラム「ピースボート地球大学」アカデミック・アドバイザー(1998~2001年)/陸上自衛隊イラク派遣部隊第一陣付アラビア語通訳(2004年)/FBOオープンカレッジ講師(2006年)/大阪市立大学非常勤講師「国際ジャーナリズム論」(2007年)/立教大学大学院ビジネスデザイン研究科非常勤講師「F&Bビジネスのフロンティア」「F&Bビジネスのグローバル化」(2015年)

公式ブログ:http://blog.goo.ne.jp/taka3701111/

主な連載・記事
・文藝春秋「世界遺産に戸惑うかくれキリシタン」(2017年3月号)
・朝日新聞デジタル「秘境添乗員・金子貴一の地球七転び八起き」(2010年4月~2011年3月)
・東京新聞栃木版「下野 歴史の謎に迫る」(2004年11月~2008年10月)
・文藝春秋社 月刊『本の話』「秘境添乗員」(2006年2月号~2008年5月号)
・アルク社 月刊『THE ENGLISH JOURNAL』
・「世界各国人生模様」(1994年):世界6カ国の生活文化比較
・「世界の誰とでも仲良くなる法」(1995~6年):世界各国との異文化間交流法
・「世界丸ごと交際術」(1999年):世界主要国のビジネス文化と対応法
・「歴史の風景を訪ねて」(2000~1年):歴史と宗教から見た世界各文化圏の真髄

主な著書
・「秘境添乗員」文藝春秋、2009年、単独著書。
・「報道できなかった自衛隊イラク従軍記」学研、2007年、単独著書。
・「カイロに暮らす」日本貿易振興会出版部、1988年、共著・執筆者代表。
・「地球の歩き方:エジプト編」ダイヤモンド社、1991~99年、共著・全体の執筆。
・「聖書とイエスの奇蹟」新人物往来社、1995年、共著。
・「「食」の自叙伝」文藝春秋、1997年、共著。
・「ワールドカルチャーガイド:エジプト」トラベルジャーナル、2001年、共著。
・「21世紀の戦争」文藝春秋、2001年、共著。
・「世界の宗教」実業之日本社、2006年、共著。
・「第一回神道国際学会理事専攻研究論文発表会・要旨集」NPO法人神道国際学会、2007年、発表・共著。
・「世界の辺境案内」洋泉社、2015年、共著。

※企画から添乗まで行った金子貴一プロデュースの旅

金子貴一同行 バングラデシュ仏教遺跡探訪(2019年)
金子貴一同行 西インド石窟寺院探求の旅(2019年)
金子貴一同行 中秋の名月に行く 中国道教聖地巡礼の旅(2019年)
金子貴一同行 アイルランド゙古代神殿秋分の神秘に迫る旅(2018年)
金子貴一同行 南インド大乗仏教・密教(2017年)
金子貴一同行 ミャンマー仏教聖地巡礼の旅(2017年)
金子貴一同行 ベトナム北部古寺巡礼紀行(2016年)
金子貴一同行 仏陀の道インド仏教の始まりと終わり(2016年)
金子貴一同行 恵みの島スリランカ 仏教美術を巡る旅(2016年)
金子貴一同行 十字軍聖地巡礼の旅(2015年)
金子貴一同行 中秋の名月に行く 中国道教聖地巡礼の旅(2015年)
金子貴一同行 南イタリア考古紀行(2014年)
金子貴一同行 エジプト大縦断(2013年)
金子貴一同行 ローマ帝国最後の統一皇帝 聖テオドシウスの生涯(2012年)
金子貴一同行 大乗仏教の大成者龍樹菩薩の史跡 と密教誕生の地を訪ねる旅(2011年)
金子貴一同行 北部ペルーの旅(2009年)※企画:西遊旅行
金子貴一同行 古代エジプト・ピラミッド尽くし(2005年)
金子貴一同行 クルディスタン そこに眠る遺跡と諸民族の生活(2004年)
金子貴一同行 真言密教求法の足跡をたどる(2004年)
金子貴一同行 旧約聖書 「出エジプト記」モーセの道を行く(2003年)
金子貴一同行 エジプト・スペシャル(1996年)

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