楼蘭
Loulan「楼蘭」の名前が始めて歴史上に現れたのは、司馬遷の「史記」の「匈奴伝」。 紀元前176年、匈奴の冒頓単于が前漢の文帝に送った親書に「楼蘭以下二十六国を完全支配下に収めた」と記したことを伝えています。今から二千年以上も前のことです。 西域北道、西域南道の分岐点に位置していた楼蘭は、砂漠の中のオアシス都市として繁栄を極め、紀元前七十七年に漢に降伏し「ピチャン」と国名を変えた後も漢の「西域三十六国」を治める軍事拠点として栄えました。 中国の僧・法顕が仏典を求めてインドへ旅する途中、ちょうど400年前にこの楼蘭へ立ち寄り、当時は小乗仏教を篤く信仰し、4000人もの僧侶がいたことを伝えています。しかしその250年後、玄奘三蔵がインドから唐へと帰国する途中、644年に至った時には全くの廃墟となっていました。「城郭あれど、人煙なし」。「大唐西域記」において玄奘はこのように簡潔に記しています。これ以後、楼蘭は歴史から全く消え去り、幻の王国となりました。