エルサレムとベツレヘム
Jerusalem Bethlehemユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3宗教の聖地とされ、はるか昔から様々な国家や人種、文化が絡み合う複雑な歴史を歩いてきた聖地エルサレム。都市として歴史に登場してから4000年にわたるその歴史は、聖都であるがために実に入りくんでいます。 世界遺産に登録されているこの旧市街は、約1㎞四方に過ぎない城壁で囲まれた小さなエリアですが、聖書の地であり、モハメッド昇天の地でもある3つの宗教にとって非常に大切な場所です。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の3宗教の聖地とされ、はるか昔から様々な国家や人種、文化が絡み合う複雑な歴史を歩いてきた聖地エルサレム。都市として歴史に登場してから4000年にわたるその歴史は、聖都であるがために実に入りくんでいます。 世界遺産に登録されているこの旧市街は、約1㎞四方に過ぎない城壁で囲まれた小さなエリアですが、聖書の地であり、モハメッド昇天の地でもある3つの宗教にとって非常に大切な場所です。
嘆きの壁を前に、足元から頭まで黒づくめのユダヤ教徒の人々が祈りを捧げる敬虔な姿は、私たち日本人にとって印象深いものです。黒装束やタリットと呼ばれる白い布を纏った人だけでなく、普段着の人もいます。 また、できる限り近づこうと嘆きの壁にぴったりと寄り添い、壁に手をふれたり口づけをする人、涙を目に浮かべながら一心に聖書を読む人、壁に背を向けまいと後ろ歩きで立ち去る人など、服装や信仰心の表現はそれぞれですが、神への畏怖と真摯な姿は皆一様で胸が打たれる思いがします。
そもそも「嘆きの壁」ができたのは、イスラエルを取り巻く周辺各国による侵入と破壊の歴史が背景にあります。旧約聖書の時代、紀元前1000年頃にダビデ王がエルサレムを首都と定め、その子ソロモンの時代に神殿が建てられました。その後、紀元前586年にバビロニアにより国は滅ぼされ神殿は破壊されますが、バビロニアが滅亡すると再びユダヤ人により神殿が再建されます。
紀元前37年にユダヤの王となったヘロデ大王は、無類の建築好きで領土の各地に様々な建築物を建てる傍ら、神殿を修復・拡張しましたが、紀元後の70 年にローマ軍の侵略により再び神殿は壊滅的に破壊されます。 この時以来、毎年ユダヤ人は崩壊後に残った壁を訪れて祈るようになり、その祈りに応えて神の霊が白い鳩となって共に嘆いたといわれています。また、朝ごとに壁が夜露にぬれて泣いているように見えることから「嘆きの壁」と呼ばれるようになりました。
イエスが死刑を言い渡された後、磔にされる十字架をイエス自らが背負わされ、処刑場(ゴルゴダ)まで歩いた約1キロの道のりを「ヴィア・ドロローサ」と呼んでいます。ラテン語で悲しみの道という意味です。 現在では、毎週金曜日にフランシスコ会の修道士によって、実物大とされる大きさの十字架を担いだ行進と祈りが行なわれています。
聖墳墓教会はゴルゴダの丘とされる場所の上に位置します。教会内部には、イエスが十字架に架けられ処刑された場所やイエスの遺体を埋葬したとされる場所などがあります。 ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の終着点でもあるこの教会には巡礼者や観光客など訪れる人々が絶えず、入場を制限される場合もあります。
エルサレムの南方10キロメートルに位置するベツレヘムには、イエス・キリスト生誕の地に建つとされる聖誕教会があります。ベツレヘムはパレスチナ自治区にあり、イスラエルとパレスチナの両者の間には検問が設けられています。 なかなか訪れる機会のない場所ですが、西遊旅行のツアーではこの聖誕教会へも足を運びます。
外観は石の壁で覆われた要塞のごとき面持ちで、外敵から教会を守るために、屈まないと通れないほど入口は小さく造られています。内部へ入ると、薄暗い空間に金属製のランプが数多く吊るされた祭壇があり、その脇から地下へ下ると洞窟があります。ここがイエス・キリストが生まれた場所であるとされています。 教会内にはイエスが寝かされたとされる飼い葉桶の跡があります。またイエス・キリストを拝みに来た東方の3人の博士を導いたとされる星を模った銀の星がはめ込まれています。この星には直接手をふれることができます。祈りを捧げ、屈んで星に口づけする巡礼者もおり、そういった人たちからは気持ちの高揚が伝わってくるようです。薄暗い教会の奥まった静かな洞窟は雑然とした外の世界からかけ離れた聖なる空間だということを実感できます。
この聖誕教会だけでなく、イスラエルの各地では世界中からやってきた様々な巡礼者に出会います。聖歌を合唱したり、黙想する巡礼者、教会の中で厳かに行われるミサなどをいたるところで目にすることができます。イスラエルを訪れた方はきっとそれぞれの見学地がたんなる「史跡」ではなく、まさに信仰が息づく「聖なる地」だということをひしひしと感じることでしょう。