イラン西部
Western Iranイランの首都テヘランから、紀元前13世紀頃栄えたエラム王国の遺跡まで、イラン西部のみどころをご紹介します。
イランの北西部に位置する同国の首都。エルブルース山脈の麓に広がるこの街は、全人口の10%に当たる人々が生活する大都市です。近代的な建物やモスク、道路に溢れかえる車の数、バザールなどの人々の活気など満ち溢れたエネルギーを肌で感じることが出来る街です。
イラク、イラン、アゼルバイジャンにも近い北西部、東アゼルバイジャン州の州都。起源はササン朝までさかのぼるとも言われているこの街は13世紀モンゴルのイル・ハン朝の首都として繁栄を極めました。見どころはアゼルバイジャンの民俗学、考古学に関する展示品がいくつか保管してある「アゼルバイジャン博物館」や、15世紀に造られたタイル装飾が美しい「ブルーモスク」の名で親しまれているマスジェデ・キャブード等があります。
東アゼルバイジャン州から独立した比較的新しい州、アルダビル州の州都。標高1300mであるため避暑地として人気があり、近くには温泉保養地もあります。またサファビー朝の祖シェイフ・サフォーオッディーンや彼の子孫シャー・イスマイルの廟がありたくさんの人が訪れます。
テヘランとタブリーズの間にザンジャーンという町があります。ザンジャーンはペルシャ語よりトルコ語系のアーザリー語をしゃべる人が多い町です。ザンジャーンから車で30分ほど走ると、イル・ハン朝の首都として栄えたスルタニエに着きます。ゴンバデ・スルタニエはイル・ハン朝の王の墓で、大きなドームの内部は幾何学模様の装飾がきれいに施されています。2005年にユネスコの世界遺産として新に登録されました。
イラン北部、タカブという町の近くに2つの遺跡があります。最も古い建築はアケメネス朝時代のものまでさかのぼります。タフテ・スレイマンはソロモン王の玉座という意味で、ササン朝時代に造られたゾロアスター教(拝火教)の神殿などが残っています。 ゾロアスター教は火を崇拝の対象とするため当時は、神殿の他にも各家庭にも火を祀る祭壇があったといわれております。ゼンダーネ・スレイマンはソロモン王の牢獄という意味で、火山の噴火口をそのまま利用した祭祀の場でした。
人口約65万人、ザクロス山脈に抱かれたケルマンシャー州の州都です。紀元前5世紀ごろアケメネス朝の領土内にはりめぐらされた「王の道」の中継点として栄えたことが街の起源と言われています。交通の要所であるため、現在でもクルド人をはじめ多くの民族が生活しています。 近くにはササン朝時代のレリーフが美しく残っている「ターク・イ・ブスタン洞窟」や、岸壁にレリーフやダレイオス1世の記念碑が残る「ビストゥーン」などがあります。
フーゼスタン州の州都で、イラン有数の原油の産地でもあります。20世紀の始め、油田が発見されたことをきっかけに町は急速に工業化し発展しました。またイラク国境が近いため、イラン・イラク戦争の激戦地にもなりました。街自体の見どころは少ないですが、エラム王国時代の遺跡の拠点となっているため旅行者が多く訪れています。
シューシュタルはアケメネス朝の王都があった町で、3世紀のササン朝時代に世界最先端の運河が造られたことで有名です。周辺に張り巡らされた水利網を「カナート」と呼び、河川とため池や建物とを結び、シューシュタルの町に水を供給しています。滝や池が集まるこの水利施設は一見自然の風景のようですが、すべて大がかりな土木工事によって人工的に造営されたものです。ダムから引かれた水を溜めて高所から低所へと流す間に水を利用しました。40の水車が設けられて麦が大量に製粉され、20世紀には水力発電にも用いられました。水利施設が産業を生み出して町を発展させました。さらに水は町の住居の冷房用として使われ、その後に農業用水になりました。
この都市は紀元前13世紀ころの首都でしたが、紀元前640年頃にアッシリアによって焼き払われてしまいました。アケメネス朝時代にはダレイオス1世によって一時復興し、ペルセポリスと並び称されるほどまで栄えましたがアレクサンダーの侵略によって再び陥落しました。 その後はササン朝時代にキリスト教の中心地として栄えたのを最後にアラブ人の侵入を受け、歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1979年、イスファハンのイマーム広場やペルセポリスと共にイランで最初に世界遺産に登録されたチョガ・ザンビールは、イラン南西部のスーサ近郊に位置するエラム王国の都市遺跡です。1935年油田を調査している途中に偶然発見されました。エラム王国の遺跡の中では一番保存状態の良いジグラット(階段状ピラミッド)は当時の3分の1ほどまではっきりと残っていて、当時の壮大な姿を想像することが出来ます。 ジグラットは宗教儀式に使われており、当時50メートルの高さを誇っていたとされている頂上部分には寺院がありエラム人の最高神を祀っていたそうです。
アケメネス朝の行政の中心地として栄えました。1852年からイギリス人考古学者によって発掘が開始されました。入ってすぐフランス考古学者によって立てられた建物がある丘は、アケメネス朝時代城砦がありました。現在ではスーサの町が一望できます。またダレイオス1世の冬の宮殿跡もあり、この宮殿は後に作られたペルセポリスと同様のスタイルであったことがわかっています。