トルクメニスタン
Turkmenistan国土のほとんどがカラ・クム(黒い砂)砂漠で占められ、世界最大の湖、カスピ海に面します。 天然ガスが豊富で、2006年12月に死去したニヤゾフ大統領の指導のもと、近代国家に変貌しました。 中央アジアとペルシャ、アフガニスタンを結ぶシルクロードの要衝にあり、古くから多くの民族が行き交った場所です。また、ジェイトゥン文化やカラクム文明等、古くから文明が興った場所でもあります。
「愛の街」という意のトルクメニスタンの首都。独立後、大理石や金を用いた建物が立ち並ぶ近代都市になりました。 国立博物館では、パルティア時代の出土品やメルヴ、マルグシュを始め、豊富な展示物に圧倒されます。
1221年にチンギス・ハーンに滅ぼされるまで、中央アジア一帯の覇権を握っていたホラズム・シャー朝の首都跡。近くを流れるアムダリア川が流れを変えてしまったため、ホラズム王国の都は後世ヒワに遷都されました。クニャ・ウルゲンチには、中央アジアで最も高い「クトゥルグ・チムールのミナレット」を始め、歴代のホラズム・シャー朝の王の廟など、ウズベキスタンとは一味趣の違う建築群が残っています。
紀元前3世紀に興った騎馬民族国家パルティアの都跡。馬上から振り向きざまに弓を引いて矢を放つ「パルティアン・ショット」の戦法で、ローマ帝国とも渡り合った強大な国家でした。 ヘレニズム様式を好み、ギリシャの神々を祀った神殿跡や、ワインを貯蔵した宝物殿跡などが残ります。1948年、調査のために宝物殿を開けた翌日、アシュハバードで大地震が起きたという逸話が残ります。
紀元前5世紀には都市として成立し、前2~3世紀にパルティア、紀元3世紀にササン朝の都市として栄えました。11~12世紀のセルジュク朝の時代に全盛期を迎えますが、1222年のチンギス・ハーンの攻撃により破壊され滅ぼされました。中央アジア最大の遺跡で、広大な敷地の中に残る高さ15メートルを超える大キズカラの巨大さには圧倒されます。ここで出土した出土品の一部は、アシハバードの国立博物館で見ることができます。
マルグシュ遺跡のそばを流れていたムルガブ川に人々が住み始めたのは、はるか昔BC4000年頃とも言われ、マルグシュ発掘に一生を捧げたサリアニディ氏によると、アナウ文化系の人々がBC2000年頃、コペトダーグ山麓方面からムルガブ方面へ移動したと考えられます。このマルグッシュの遺跡は、東のバクトリアの遺跡と合わせて「バクトリア・マルギアナ考古学複合」BMACと呼ばれます。BC2000年頃インダス、メソポタミアとなんらかの関わりのある第五の文明と言っても過言はないでしょう。王宮があったゴヌール・テペや、原始ゾロアスター教の神殿跡のトゴルク21号等が発掘されています。
カラ・クム砂漠のほぼ中心に位置するダルワザ。この地域に残る3つのガス・クレーターは、すべてトルクメニスタンに豊富な天然ガスの採掘作業中に空いたクレーターです。クレーターの底に地下水が湧き出し、天然ガスの泡が噴出する「水のクレーター」と「泥のクレーター」もありますが、圧巻は、噴出するガスに火を放ったため、40年以上も燃え続ける「火のクレーター」です。何もない砂漠の中に突如として現れたこのクレーターは、その異様な光景から「地獄の門」と呼ばれています。横60メートル、縦50メートルの楕円形をしたこのクレーターの内部は、轟音を立てて火が燃え、熱が生んだ陽炎が回りを覆っています。
カスピ海東岸に位置するヤンギ・カラ。かつて海の底だったこの地域は、石灰質の白い地層と、ヨウ素を含んだピンク色の地層によって形成されています。大地が隆起した後、風と雨による浸食によって削られた台地は、奇岩連なる光景を生み出しました。大きなテーブル状の台地の上からは、果てしなく奇岩が連なった光景が広がります。