チュニジア中部
Tunisia Central地中海とサハラの出会う国チュニジア。チュニジア中部に中世の美しい町並みが残されています。
9世紀頃フェニキア人によってつくられた地中海沿岸の街で「サヘル(沿岸)の真珠」とも呼ばれています。 スースはハシェド広場を中心として新市街中心部、メディナ(旧市街)、ビーチ・エリア、港エリアの4つのエリアに分けることが出来ます。中でも周囲を高さ8メートルの城壁で囲まれているメディナは見所が多く、南北約700m、東西約450m程の壮大な規模を誇り、その中には9世紀アグラブ朝時代に建てられたグラン・モスク、メディナ最古の建造物で元々は要塞であったリバトなどがあります。 このメディナは1988年にユネスコの世界遺産に登録されました。
ビザンチン帝国時代、チュニジアの最高責任者グレゴアールがコンスタンチノープルからの独立を宣言しこの地を首都としました。 その後アラブ兵によるスベイトラ襲撃でグレゴアールは処刑され、チュニジアでのビザンチン時代はこの地で終焉を迎えます。 かつてカルタゴに次ぐ都市として栄えていましたが、その都市はほとんど破壊されてしまい、スフェチュラ遺跡では当時の繁栄を想像させるフォーラム(公共広場)や神殿群などを見ることが出来ます。
古代にはシスドラスと呼ばれ、ローマ帝国時代交通の要衝として栄えました。1世紀には人口4万人を抱える大都市となり、2世紀にゴルディアン皇帝によって円形闘技場が造られました。 闘技場は縦149m、横124m、高さ36m チュニジアで最も保存状態の良いものとされています。7世紀のアラブ軍の侵略に際しベルベル人達はこの闘技場に立て篭もり、最後の決戦が行われた場所でもあるのです。
7世紀、マグレブ地方をアラブ化する目的でウマイヤ朝から派遣された総督、ウクバ・イブン・ナーフィにより建設された北アフリカにおけるイスラム教発祥の地。 イスラム教徒にとって、メッカ、メディナ、エルサレムに次いで四番目に重要な聖地とされ、「カイラワーンへの7回の巡礼はメッカへの1度の巡礼に値する」とも言われています。