ナイル川流域
Nile basinオールド・ドンゴラから現在のエジプトとの国境まで。ナイル流域には様々な時代、様々文明の遺跡が残されています。
オールド・ドンゴラから現在のエジプトとの国境まで。ナイル流域には様々な時代、様々文明の遺跡が残されています。
6~8世紀にかけて栄えたヌビアのキリスト教国・マクリア王国の遺跡が残ります。ナイルの河岸にはあるものの、砂漠の中の廃墟といった感じです。古い教会は14世紀にモスクに作り変えられています。廃墟の中には十字架の彫刻のある柱も。周囲にはイスラム以降の墓地・聖者廟が広がります。
紀元前2500年~1500年ごろ、ナイル川右岸に栄えた文明。エジプト中王国との交易により栄えた古代クシュ王国のもので、王により建設された東西2つの遺跡があります。このデフーファと呼ばれ、神殿と思われる建造物は、周囲を王宮、居住区、墳墓が取り囲んでいます。 デフーファは本当の使用用途はわかっていませんが、ヌビア語で宗教建築を意味します。アドベれんがで作られたこの建築物は鳥の巣になっていました。周囲の墓地では、屈葬式の一人用のものもあれば、強制的な殉死埋葬のあとも見つかっています。
古代エジプト第18王朝トトメス3世の花崗岩の石切り場として使われました。石を切り出した後とトトメス3世の碑文が残されています。ナイルの急流(カタラクト)は花崗岩地帯にあり、石切り場が近くにあります。アスワンのナイル第1急流に石切り場「未完成のオベリスク」があるように、このトンボスもナイル第3急流の近くです。
カワは紀元前14世紀のエジプト代18王朝ツタンカーメンの時代から紀元前7世紀のエジプト第25王朝タハルカ王の時代、アクスム王国に滅ぼされる紀元後4世紀まで続いた都市遺跡。 赤砂岩と白砂岩からできた建築物の跡が残りますが、発掘が進められている途中ため、発掘隊のいない時は砂に埋められており、一見遺跡とはわからないこともあります。
ナイル川の第3急流。エジプトのアスワンにある第1急流はアスワン・ダムにより水量調節を受けていますが、ここは自然のままの水量。 訪れる時期により水量とその景色が変わります。
エジプト第18王朝イクナートン(アメンホテップ4世)の建てた神殿でアテン神に捧げられたもの。3本の円柱のみが残ります。
1844年ドイツ人のエジプト考古学者カール・リヒャルト・レプシウスによって発掘。紀元前1400年頃、エジプト第18王朝アメンホテップ3世により第3カタラクト北、ナイル川西岸に建てられた砂岩の神殿。アモン神殿にはパピルスの茎を束にしたデザインの柱やヒエログリフなどの彫刻が美しく残されています。周囲にはこの神殿にかかわるエジプト人の町が営まれ、神官や職人によっては、ピラミッド型の礼拝堂を備えた墓を作ったことが分かっています。
石器代、ケルマ文明、エジプト中王国、クシュ、キリスト教、イスラム期から近代のオスマン時代の要塞など幅広い時代の遺跡が見られる島。 紀元前1500年頃のエジプトの神殿を使って建てられたオスマン・トルコの要塞などもあり、発掘調査が進行中です。
エジプト・アスワンへのナイル川のフェリーの港があり、ハルツームからの鉄道の駅がある町ワディ・ハルファ。数年前の大洪水で以前の街は破壊され、復興の過程にあります。ヌビア人の他、内戦で難を逃れてきたダルフールの人々も多く暮らします。 大変小さな町ですが、アフリカ大陸縦断を目指すバック・パッカーや旅人で賑わう町です。
ワディ・ハルファからアスワンへ向うフェリーは、約18時間のナセル湖の船旅。発着時間もはっきりしない航路ですが、ナイル流域、アフリカを旅するものには、一度は経験してみたいルートです。
アフリカ大陸東北部を流れ地中海に注ぐアフリカ最長の河川ナイル。 ナイル川の水は周辺諸国にとって貴重なものであり、イギリスが1925年に計画しスーダン政府に引き継がれたゲジラ計画で、青ナイルと白ナイルに挟まれた地域において水利用と開発が進み、1930年代には世界有数の綿花生産国になると同時に、小麦などの生産も向上して「アフリカのパン籠」と呼ばれるまでになりました。川の流れとともに暮らす人々の様子も見られます。