テネレ砂漠
Tenereテネレは、サハラ砂漠中南部の一帯を指す呼称。「テネレ」とはトゥアレグの言葉で「何もないところ」、「砂漠の中の砂漠」を意味します(ちょうどアラビア語で砂漠をサハラというのと同じようなことです)。年間雨量が25mm以下ほどで水を探すことが難しく、ニジェール北東からチャド西部に広がる40万平方キロメートルを超える広大な砂漠です。その境界とされるのは、西のアイール山地、北のホガール山地、北東のジャド高原、東のティベスティ山地、南のチャド湖盆地です。
テネレ砂漠の中でも最も美しい砂丘地帯のひとつがアラカウ (Arakao)。ニジェールがフランスから独立した1960年以降、アイール山地とテネレ砂漠境界付近の探索が行われました。1972年に航空写真をとり、東側の開いた馬蹄形の岩山に囲まれた砂丘地帯だとわかりました。この丸い馬蹄形の岩山は死火山のカルデラで、その陥没部分に北東から吹く風で砂丘が押し込まれ、高さ200m、長さ15キロ以上にわたる砂山を作り上げています。周辺にある丘には新石器時代にさかのぼる古墳があるほか、岩山には線刻画が残されています。
アドラール・シリエットの山塊と砂丘のコントラストの美しい場所。火山性の岩山の中にはこの地域だけに育つ薬草アガラシムがあります。アイール山地とテネレ砂漠の境界にあり、見る場所によってその景色が異なります。
アイール山地、グレブン山の麓の砂丘地帯で、サハラでも有数の高低差300mといわれる大砂丘のある地帯です。
「テネレの木」はかつて「世界で一番へき地にあるアカシアの木」としてランドマークになってきましたが、1973年、リビア人ドライバーによって倒されてしまいました。現在は鉄製の木が置かれ、変わりなくランドマークの役割を果たしています。もともとあった「テネレの木」はかつてこの付近が緑だった時代の名残のサバンナ・アカシア Acasia Tortilisで木の根は地下36mまで届いていたといいます。 1998年には日本のアーティスト篠原勝之(KUMA)氏による「風の樹」が建てられましたが、強風で倒されてしまいました。
トゥアレグによって営まれる塩のキャラバンを「アザライ」といいます。20世紀初頭には2つのアザライが存在しました。ひとつはマリのトンブクトゥ~タウデニ・ルート、もうひとつがこのアガデス~ファシ~ビルマ(カワル山地)・ルート。この2つは現在も残る唯一のサハラのキャラバンですが、ニジェールではトラックの輸送が発達してきたため、キャラバンは衰退しつつあります。 ビルマからアガデスやアイール山地の村までおよそ600Km、3週間ほどのキャラバンが組まれます。
アグラム山脈の麓、"3万本の椰子の茂るオアシスを持つ要塞都市"で、見事な旧市街が残されています。キャラバンルートにあり、治安を維持するために城壁で固められた要塞都市が発達しました。 旧市街・新市街のある区画と塩田のある区画にわかれており、塩田ではベリベリ族(自称カノウリ族)が働いています。現在もトラックの立ち寄りが難しいル-ト上にあることから塩のキャラバンが訪れる塩田オアシスです。
人口約1000人、カワールの断崖の麓にあるオアシス。古くから塩の採掘とサハラ交易で栄えてきました。現在は南部からのトゥブゥ族、ベリベリ族が多く暮らします。ビルマからファシにかけては"グランド・エルグ・デ・ビルマ=ビルマ砂丘"が広がります。 町はオアシスのある旧市街・新市街と塩の塩田のある区画にわかれ、灌漑用水路の巡らされた果樹園があります。
多くの出稼ぎのトゥアレグの人々と物資をつんで、リビアのセブハーからアガデスへ向かうトラック。日中と夜に休憩しながらゆっくりゆっくり進み10日~2週間かけて移動します。リビアの内乱の後、少し変化があるようです。