西方砂漠
Western Desertエジプトの国土の90%を占める砂漠地帯。ナイル河の西に拡がるこの砂漠地帯を「西方砂漠」と呼びます。 西方砂漠のオアシスには古来からの隊商都市が栄え、古王国・新王国時代からグレコ・ローマン時代までの知られざる遺跡が数多く残されています。
エジプトの国土の90%を占める砂漠地帯。ナイル河の西に拡がるこの砂漠地帯を「西方砂漠」と呼びます。 西方砂漠のオアシスには古来からの隊商都市が栄え、古王国・新王国時代からグレコ・ローマン時代までの知られざる遺跡が数多く残されています。
アレキサンドリアから約1時間半の場所に世界遺産に指定されているアブ・メナがあります。 ここは4世紀に殉教した聖メナスが埋葬されている場所。 この場所で様々な奇跡が起こった事からコプト教の巡礼地として今なお多くの巡礼者で賑わいを見せています。 広大な敷地の中には1959年にナセル大統領の命によって建設された巨大なキュロス6世の修道院が建ち、毎日ミサが執り行なわれるこの修道院の内部には聖メナスの遺体が安置され、静かで厳かな空気が流れています。 また、現在の修道院の近くには奇跡が起こった聖メナスの街の遺跡が広がっています。
リビアとの国境近くにあるこのオアシスは紀元前331年にアレキサンダー大王がアモン神の神託を受けた場所として知られています。 このオアシスに住む人々は独自の文化、風習を今なお大切に守りながら生活しており、アラビア語では無くベルベル系のシウィ語を話しています。
緑溢れるシーワ・オアシスのシンボルともなっているのがシャーリーと呼ばれる旧市街。カルシフと呼ばれる塩や貝殻が混ざった泥で形成されたこの旧市街は現在では完全な廃墟となっています。現在のシーワ・オアシスの街はこのシャーリーの周囲に広がっており、夜にはライトアップされた美しい姿を見せています。
アレキサンダー大王はこのシーワで神託を受けたと言われています。その神託の場所が26王朝の頃に建設された巨大なアモン神殿。神託の場所である至聖所から望む景色はまさに絶景。周囲に生い茂るナツメヤシの木々とその先に広がる広大なアグルミ湖の姿。ここがオアシスだと言う事を改めて実感させてくれます。
アモン神殿の少し先に忽然と現れる神殿の一部。現在も発掘調査が続けられているこの神殿はオシリス神とアメン・ラー神を祀る為に建てられました。現在ここには一枚の壁が残っており、そこにはミイラを作る儀式をモチーフとしたレリーフが残っています。
オアシスの少しはずれに聳える死者の山は末期王朝時代からローマ時代にかけての墳墓群。内部に美しい壁画が碑文の残る墳墓が点在しています。この墳墓群からは遠くに旧市街・シャーリーの姿を望むことができます。
「バハレイヤ」とはアラビア語の「バハル=海」から来た地名。昔この辺りは海に近い場所にあったのだそうです。石英や玄武岩によって黒く染められた丘に囲まれたこのオアシスは2000平方㎞もの広大な範囲に広がっています。ここには旧石器時代から人が住み始め、中王国時代まで独自の文化を育んで来ました。紀元前4世紀にはアレキサンダー大王の支配を受けており、当時の神殿のものといわれる基礎が残されています。 10世紀にはベルベル人の独立国家が興りましたが、その国家も長くは続かず、11世紀にはファーティマ朝に併合されイスラム化が進みました。ローマ時代からの灌漑施設を水源とするこのオアシスでは、なつめやしや米、とうもろこし等が栽培され、多くの野生動物も住んでいます。鉱泉や硫黄泉も有名で、近くにはグレコローマン時代の美しい壁画の残された墳墓が残っています。
グレコローマン時代の美しい壁画が残る墳墓群。末期王朝時代の大金持ちバネンティウとその父ジェドアムンアンカーの墓の内部には、素晴らしい保存状態の壁画が残されています。
バハレイヤの街を出てしばらく走ると周囲の光景が黒く染まってきます。この一帯が黒砂漠と呼ばれる場所。 玄武岩が広がり大地を黒く染めるこの一帯にはピラミッドの様な形をした黒い山が並んでいます。
黒砂漠を越えてしばらく走ると目の前に小高い丘が見えてきます。強烈な陽光を浴びてキラキラ光るこの丘がクリスタルマウンテン。アラビア語でハガル・イル・ハマームと呼ばれ、丘全体がクリスタルで形成されているのです。
白砂漠は変化に富んだ様々な景観が魅力の西方砂漠の中でも最大の見どころ。小さいものから数メートルに及ぶ巨大なものまで、チョーク岩という白亜色の泥質の石灰岩が林立します。これらはどれも不思議な形をしており、長い年月の風食により造られた自然の芸術品です。 日中は空の青さに褐色の砂漠と白い奇岩の美しいコントラストを、夕方は暮れゆく日に染まる幻想的な景観をお楽しみいただく事が出来ます。遮るものが何もない一面の夜空をご覧いただけるのも魅力のひとつ。無数の星が埋め尽くす満天の星空を、誰もいない静寂の中で堪能することができます。
古くからベルベル人が住んでいたダグラ・オアシス。ダグラとはアラビア語で「真ん中」を意味する言葉。この西方砂漠の真ん中に位置することからこの名前が付けられました。中心地はテーベの女神であり古代エジプトのアモン神の妻の名前が付けられたムートの街で、このオアシスの周囲では米や果物が栽培されています。郊外に建つディル・アル・ハガル神殿は古代テーベの3神を祀る為に建てられました。また、現在の中心地であるムートから35km離れたアル・カスルの街は中世のダグラの中心地。迷路のように入り組んでいるその街は元々ローマ人が造り始め、イスラームが完成させた街だと言われています。
「ディル」とは修道院。「ハガル」とは岩のこと。その名の通りここはローマ時代に建てられた岩で出来た古代エジプト式の神殿です。 壁画にはローマ皇帝ネロのカルトゥーシュが見られ、空の神であるヌト神の美しいレリーフが残っています。
7世紀以降このダグラ・オアシスにイスラムが入って来ました。そしてそのイスラムの影響の下でこの土地に新しい街造りが始まります。 現在旧市街と呼ばれているアル・カスルが当時の中心だったのです。青空に美しく映えるミナレットがこの街のシンボル。迷路のような路地が入り組んだ泥の壁で出来た街並みには、当時粉を挽いた場所やオリーブオイルを搾った工場。学校やモスク、裁判所等が残っています。現在でも細々とではありますが、このアル・カスル内で生活を送る人たちもいます。
6万人もの人口を擁し、近代的な町並が広がるこのカルガ・オアシス。かつては悪名高い南北アフリカを結ぶ奴隷貿易ルートの最終地点でした。このオアシスの周辺には数多くの知られざる遺跡が集まっています。ここまで来ると悠久のナイルの流れはもうすぐ。街にも活気が満ち溢れています。
カルガの街のすぐ北にバガワトのネクロポリスが広がっています。全部で265の墓が発見されたこの場所はローマ時代迫害を避けるためにアレキサンドリアから逃れてきたコプト教徒の墓地。泥レンガで造られたそのお墓の内部には美しい壁画も残っており、アダムとイブの絵が描かれた平和の壁画や、モーセが率いるユダヤ人をファラオの軍隊が追う姿を描いた出エジプト記の壁画。ノアの箱舟や葡萄の壁画を見ることができます。
「高い場所にある見張り台」という名前を持つこの神殿は、まさにその名の通りカルガ・オアシスを見下ろす小高い丘の上に建っています。 現在目にする事が出来る建造物は本当にその一部だけですが、ローマ時代に建てられた神殿と、イスラムが入って以降のマムルーク朝時代に要塞として造り足された神殿の外壁を見ることができます。
カルガの南1時間半。 砂漠の中にある小高い丘を登りきるとこの神殿の壮大な全景が目に飛び込んできます。東側の門から神殿内に入り最奥の至聖所まで。 この神殿は古代スーダンの都・クシュに由来し、イシス神とセラピス神を祀っています。
周囲の他の神殿と同じく小高い丘の上に建つこの神殿は、カルガ周辺ではヒビス神殿に次いで2番目に古い遺跡です。 第27王朝の頃からローマ時代にかけて建設されたこの神殿の内部の壁にはプトレマイオス王のカルトゥーシュが残っています。
長いエジプトの歴史中で、末期王朝時代にはペルシャの支配を受ける事になります。カルガ周辺で一番古いこのヒビス神殿は、そのペルシャの支配時代に建設された神殿。 現在も発掘、修復中のため見学できる場所は限られていますが、壁に残されている禿鷹の絵や、ダリウス王がエジプトの神々に挨拶をしている巨大なレリーフに当時の支配者であったペルシャの文化とエジプトの文化の融合を見ることができます。