隊商都市 ブハラ
ブハラはソグディアナの東に位置するオアシスで、サンスクリット語で「僧院」を意味します。5世紀の唐の文書に「不花刺」と記されたソグド人の街で、古来から交易の中継地として栄えました。ソグド人は中央アジア一帯の隊商として名を馳せた民族で、ペンジケント、サマルカンド、ブハラなどの小規模な都市国家しか形成しなかったにも関わらず、シルクロードの歴史に深く係り、中国やアラビアの史書にも登場します。隊商を組んで活動していたソグド人は、このブハラにも拠点を置き、各地からの様々な品物を商っていました。
当時の面影をそのまま残すブハラの旧市街には、古くからの建築物が数多く残っています。13世紀のチンギス・ハーン襲来の際に破壊を免れたサーマーン朝の王イスマイル・サマニの廟は、現存する中央アジア最古の建物です。また、隊商が交易品を売買した「タキ」と呼ばれる商業施設には、現在も店が軒を連ね様々な物が売られています。そして、砂漠を行く隊商の灯台の役割をした巨大なカリヤン・ミナレットが、今もブハラの街を見下ろすようにそびえ立っています。
仏教伝来の玄関口 テルメズ
大河アムダリヤに面したスルハンダリヤ州の州都テルメズ。アムダリヤ川の対岸はアフガニスタンのため、ソビエト時代は外国人の立ち入りが禁止されていました。アレキサンダー大王は東方遠征の際、アフガニスタンからアムダリヤを渡ってウズベキスタンに入りました。テルメズ近郊に残るカンプル・テパは、まさに大王が渡河した場所で、アレキサンドリア・オクシアーナ(アムダリヤのアレキサンドリア)であったという説があります。紀元1世紀のクシャン朝の時代、インドで興った仏教は同じくアムダリヤを渡って中央アジアに伝播しました。そしてこのルートを逆行して唐からインドヘと向かったのが玄笑三蔵でした。彼はテルメズのことを「大唐西域記」に坦蜜国の名で「伽藍十余ヶ所、僧徒千余人」と記載しています。現在のテルメズには、仏教文化が花開いた時代の史跡が数多く残っています。ウズベキスタンのダルベルジン・テパの発掘に生涯を捧げた加藤九詐博士が調査したカラ・テパからは2世紀初期の仏教寺院と僧院の複合建築が出土しており、ファヤズ・テパには、現代の新しいストゥーパにまるまる包み込まれて保護されたかつてのストゥーパや、僧院、食堂跡などが残っています。
かつての栄華を今に伝えるウズベキスタンの壮麗な建築群
ウズベキスタンの旅の魅力のひとつは、その美しい建築物にあります。14世紀、この地に大帝国を築きあげたティムールは、征服地から数多くの技術者を集め、都市の壮麗化に力を注ぎました。彩釉タイルなど装飾技術も発展を遂げ、サマルカンドをはじめとするオアシス都市には絢爛たる建築物が次々と誕生していきました。16世紀以降、喜望峰の発見によりシルクロードの隊商貿易が停滞していくなかも美しい建築物は作られ続け、いまも世界中の人々を魅了しています。
中央アジアのイスラム建築史
7世紀、アラブ軍がアラビア半島から北アフリカ、西アジアから更に東へと勢力を拡大していくとともに、支配階級や都市民の間から中央アジアのイスラム化が始まりました。一般民衆の間で続いていたゾロアスター教の信仰も、10 世紀中頃にはほぼ完全にイスラム化されていきました。
アラブ軍との闘いによって廃墟と化した都市は、その後、中世封建都市として復興していきます。防衛と政治の拠点であった都市は、徐々に経済活動の中心としての性格も強め、城や宮殿、バザール、キャラバンサライ、そしてモスクやメドレセなどの宗教建築が次第に重要な役割を担うようになりました。そして、初期イスラム建築としてサーマーン朝、カラ・ハン朝、セルジューク朝を経て、中世末期ホラズム・シャー朝の時代には中央アジアのひとつの繁栄期として美しい建築物が次々と生まれました。そんな中、全てを消し去ったのが1221年のモンゴル軍による侵略でした。徹底的な破壊活動により、都市は再び廃墟と化すことになります。
しかし、ティムールの登場と共に、中央アジアのイスラム建築は突如として黄金時代を迎えます。東はインドの一部から西はシリアやアナトリアの一部にまで及ぶ広大な大帝国を築き上げたティムールは、征服地から数多くの技術者を捕虜として連行。その労働力を駆使して首都サマルカンドの壮麗化に力を注ぎました。それは、帝国の成立と共にシルクロード上の東西通商貿易が活発化し、その利益が中央アジアのオアシス都市に蓄積されていった結果でもありました。
建築様式
イスラム建築は、モスクやメドレセ、霊廟などの宗教建築と、宮殿やキャラバンサライなどの世俗建築に大きく分けられます。いずれも歴史的事実の生き証人として、当時の人々の宗教生活や宮廷生活、商業生活を現在の私たちに垣間見せてくれます。
建築様式1墓標建築
本来イスラムでは特定の死者を崇拝したり墓石を立てたりすることは禁じられていましたが、聖者信仰の習慣や権力者の墓廟建設によって次第に一般化し、特に東方イスラム圏において廟建築が高度に発展しました。方形また正多角形の集中式プランを基本とし、その上にドームがかけられるのが一般的で、参詣を考慮した構造になっています。中央アジアでは、サマルカンドのグル・エミル廟や霊廟建築のアンサンブルと呼ばれるシャーヒー・ジンダ廟が代表的。また、ブハラには初期の墓廟建築として貴重なイスマイル・サマニ廟が残っています。
建築様式2メドレセ建築
高等教育を受けるための学校にあたる施設。2階には教授と学生が寄宿するための小部屋が並んでいます。回廊に囲まれた中庭に向かって高い天井を持つ開放的な空間が配置され、これが教室として利用されていました。中央アジアでは多くのメドレセが建設されれおり、最大のものはヒヴァにあるムハンマド・アミン・メドレセ。このほか、ブハラのナディール・ディヴァンベキ・メドレセやサマルカンドのウルグベク・メドレセなど、各地で美しいタイル装飾の残るメドレセを見ることができます。
メドレセ建築3モスク建築
ムハンマドがメディナに建てた「預言者の家」がモスクの規範となっており、地域の特性を帯びたプランに発展していきました。ウズベキスタンでは、ヒヴァのジュマ・モスクやブハラのボロ・ハウズ・モスクなど、建物の正面や側面に非常に高い天井を持つ箱型のテラスをつけるアイヴァン式のモスクも見ることができます。中央アジア最大のモスクはサマルカンドにある「ビビ・ハニム・モスク」で1万人以上の礼拝者を収容できたとされています。
シャーヒー・ジンダ廟
ムハンマド・アミン・メドレセ
ジュマ・モスク
構造
イスラムは、北アフリカから中央アジアに至る広大な地域を舞台に拡大を続けるにつれ、様々な地域性を帯びつつも共通性のある構造を確立していきました。大人数で同時に同じ方向を向いて礼拝するための多柱式プランやメッカの方向を定めるためのミフラーブ、より高く見せるための二重殻のドームや礼拝時間を知らせるアザーンを遠くまで響かせるためのミナレットなど…ここでは中央アジアのイスラム建築を読み解くために役立つ代表的な構造の一部をご紹介します。
構造1ミナレット
ミナレットは、信者に礼拝の時間を呼びかけるアザーンが行われる塔を指します。しかしながら、この機能はのちの時代に付与されたもので、当初はイスラムの存在を広く視覚的に示す象徴としての役割が主であったのではないかと考えられています。中央アジアでは、オアシスを目指して砂漠からやってくるキャラバンの目印になるように、さらには周辺を見渡し、監視する見張り塔としての目的があったとも言われています。
構造2ドーム
イスラム建築の象徴とも言えるドーム天井は、柱に妨げられることのない大空間を形成できることが特徴で、高貴なものの象徴とされました。宇宙を想起させる大空間は、墓廟などモスク以外の建築にも用いられるようになり、徐々に象徴的意味を強めていきました。その結果、より高くより美しく見せるためにドームを内側と外側の二重構造にする方法が生まれました。中央アジアでは多くの二重殻ドームを目にすることができます。
構造3ムカルナス
鍾乳石飾りと呼ばれる技法で、ドームや玄関上部の装飾として用いられます。凹状の立体を積み重ねた複雑な形状で、多色のタイルで覆われています。これはイスラム特有の技法で13世紀後半から流行したスクィンチ(※)の装飾的処理が由来とされますが、ムハマンドが啓示を受けたヒラー山の洞窟を象徴しているという説もあります。
※スクィンチ:四角形のプランの上に円形のドームを作る時、小さなアーチを斜めに渡して四角形から八角形の上部プランを作って徐々に円に近づけていく構造。
カリヤン・ミナレット
コク・グンバス廟の2つのドーム
グル・エミル廟のムカルナス
装飾
イスラム建築の魅力のひとつは連続性のある文様を中心として、さまざまな技法で飾られた色鮮やかな壁面装飾です。偶像崇拝を禁止とするイスラムにおいて特別な進化を遂げたそれらは、隙間ないほどに空間を埋め尽くし、見るものを不思議と捉えてはなさない魅力を持っています。イスラムの装飾文様は、文字文、幾何学文、植物文の3種が主要なモチーフとなっています。それぞれは歴史と意味を持ち、建築だけでなく工芸品や写本芸術にも生きています。
技法としては、日干し煉瓦を材料として厚く塗り上げたスタッコの上に浮彫や彩色を施す方法が主流でしたが、それらは時代と共に進化していきました。浮彫テラコッタの登場や焼き煉瓦の使用を経て、窯業の貢献がさらに高まると12世紀には表面に釉薬をかけた彩釉煉瓦や釉薬タイル、彩釉浮彫テラコッタなど光沢と色彩をもつ仕上げ材料が現われます。青と白の2種にすぎなかった彩釉煉瓦も14世紀の黄金期にはその種類も増え、モザイク技術も誕生、装飾の技法も多彩に発展を遂げていきました。
文様1文字文
イスラムにとってアラビア語は神聖なる宗教語。特定のメッセージを伝える媒体でありつつ図案化されて装飾要素のひとつとなりました。内容は主にコーランの引用や信仰告白、持ち主への祝福や詩の引用などです。
文様2幾何学文
イスラム地域で発展した数学的作図を用いてデザインされており、無限に続くパターンは神が創造した完璧な世界を暗示するものとなります。なんらかの具像物を極度に図案化したのではなく、純粋な抽象文です。
文様3植物文
蔓草模様、いわゆる「アラベスク文様」。連続性と非現実的な造形がイスラムの楽園思想と結びついていると考えられます。イスラム装飾において唯一の有機物由来の文様で、葉・花・蔓などが流麗に組み合わされます。
技法1タイル
建物の壁や床をタイルで覆う建築装飾は13世紀後半よりイラン・中 央アジアを中心に発展しました。釉薬がかけられているものは色を失わず当時の色を今に伝えます。1枚で完結して図柄を示すものもあればパネルやフリーズを形成し何枚かでひとつの大きな構図を描くものもあります。
技法2浮彫
壁面を覆う漆喰を型押し、彫刻したり、石版や木版のパネルを彫刻して浮彫を施します。浮彫のテラコッタは耐久性に優れ外壁の装飾に用いられました。多くの浮彫はさらに着色され、14世紀には釉薬がかけられるようになります。
ティムール
Timur / 1336-1405
軍事指導者、ティムール朝の建国者
出生地: キシュ(現在のシャフリサブス/ウズベキスタン)
1370年~1507年にかけて中央アジアを支配し、軍事的天才と言われたティムール朝の始祖。東はインドの一部から西はシリアやアナトリアの一部にまで及ぶ広大な大帝国を築き上げ、その首都をサマルカンドに制定。新たな政治的秩序をもたらしました。ティムールは、征服地から数多くの技術者を捕虜として連行。その労働力を駆使してサマルカンドの壮麗化に力を注いだことでも知られています。
ウズベキスタンの独立後、国を生んだ英雄とのことで3つの町に大きなティムールの像が建てられました。タシケントには馬にまたがったティムール、サマルカンドには王座に座ったティムール、そして生まれ故郷のシャフリサブスには、彼の立像があります。
ウルグベク
Ulughbek / 1394-1449
ティムール朝第4代君主、天文学者、数学者
出生地:スルターニーヤ(現在のザンジャーン州東部/イラン)
ティムールの孫で天文学者であるウルグベクは聡明な学者肌の人物で、詩や音楽の鑑賞を好み、学問、芸術を奨励しました。1420年頃サマルカンドに天文台を建設。優秀な学術者達を率いて天文学、数学、暦学などの分野で多くの成果を挙げ、当時のサマルカンドは最先端の学術都市として名を馳せました。幼名はムハンマド・タラガイ。後にティムールの意向によりテュルク語で「偉大な指揮官」を意味するウルグベクと改名しました。
ウルグベクは恒星時1年間を365日6時間10分8秒と計算しました。これは現在の精密機器で計算した時間とわずか1分の誤差しかなく、当時の技術でどのように割り出したのか、詳細は未だ解明されていません。
アリシェール・ナヴォイ
Alisher Navoi / 1441-1501
ティムール朝の政治家、詩人
出生地:ヘラート(現在のアフガニスタン西端・イラン国境付近)
ティムール朝の政治家であり詩人でもあるアリシェール・ナヴォイ。ペルシャ文学を題材としながらも、自らの母国語であるチャガタイ語(古代ウズベク語)で詩作を行い、チャガタイ文学の発展に大きな功績を残しました。その作品はオスマン帝国の宮廷をはじめ、中央アジアのテュルク系民族の間で広く親しまれ、ナヴォイは現在のウズベキスタンに於いても「ウズベク文学の父」とされています。
中央アジアが生んだ偉大な詩人ナヴォイ。その功績は現代でも高く評価され、タシケントには彼の名を冠した公園や通り、大劇場があります。1947年に完成したナヴォイ劇場(アリシェー ル・ナヴォイ記念国立アカデミー大劇場)は、第二次世界大戦後、ソ連軍の捕虜として抑留されていた旧日本軍兵士が建設に携わったことでも知られています。
バーブル
Babur / 1483-1530
ティムール朝サマルカンド政権の君主、ムガル帝国初代皇帝、詩人
出生地: フェルガナ地方(現在のウズベキスタン東部)
ティムール朝の王子として生まれたバーブル。父親はティムールの血、母親はモンゴル帝国のチンギス・ハーンの血を継ぐ輝かしい出自であったと言えます。諸勢力のサマルカンド獲得を巡る攻防の中で3度にわたるサマルカンド支配に失敗したバーブルですが、その後、アフガニスタンのカーブルからインドのパンジャーブへと進軍し、ついにはサファヴィー朝やオスマン帝国からの援助を受けパーニーパットにてローディー朝を破り、デリー、アグラヘ入城。1526年にムガル帝国の建立に至りました。
バーブルが43歳にして建国したムガル帝国。「ムガル」とは、ペルシャ語で「モンゴル人の国」を意味する語が変化したもの。バーブルがティムールの子孫であるとともに、モンゴル系の血統を継いでいることから、インドで定着した呼称です。
ジャラルッディーン・マングベルディ
Jalal al-Din Manguberdi / 1199-1231
ホラズム・シャー朝第8代君主
出生地:不明(ホラズム)
現在のイラン、ウズベキスタン、アフガニスタンを中心に栄えたホラズムシャー朝の最後の皇帝。チンギス・ハーンの侵略によって故郷を追われ、モンゴル帝国への抵抗に生涯を費やしました。破竹の勢いで押し寄せるモンゴル軍に勇猛果敢に立ち向かったジャラルッディーンは、今でも中央アジアの人々から英雄視されています。
ホラズムシャー朝の名を冠したウズベキスタンのホラズム州。その州都のウルゲンチには、ウズベキスタン各地に建つティムールの像に替わり、ジャラルッディーンの像が建っています。ホラズムの人々は、14世紀に自分たちの地を侵略したティムールよりも、モンゴルに勇敢に立ち向かったジャラルッディーンを英雄と見なしているのでしょう。
伝統文化をつなぐ手仕事に出会う
アジアとヨーロッパを繋ぐこの地には、東西を行き交う旅人や物資と共に、各地から染色・刺繍などの手仕事の技術が伝えられました。乾燥した大地にひときわ映える、鮮やかで大胆な色柄の絣と刺繍の布をご紹介します。
多様なルーツが混ざり合ったウズベク料理を味わう
シルクロードの中継地として栄え様々な文化が行き交う中で食文化が形成されてきたウズベキスタンは、美味しい料理が楽しめる国でもあります。メインディッシュのプロフは、シルクロードの炊き込みご飯、いわゆるピラフです。各地方でプロフの味が異なりますので味比べも楽しいでしょう。麺料理ラグメン、串焼きのシャシュリクも美味です。サマルカンドはノン(ナン)も有名です。サマルカンドに行ったら是非トライしてみてください。料理が運ばれる順番はロシア式で、前菜、スープ、メイン、デザートとなります。ウズベキスタン料理は日本人の口によく合いますが、少し油っぽいので、食事と一緒に出される熱いお茶と一緒に召し上がってください。お茶には脂肪分を分解し消化を助けてくれるタンニンが含まれています。是非、食でもシルクロードを感じてみてください。
多民族国家ウズベキスタン現在のウズベキスタンは、ウズベク人のみならず、タジク人、タタール人など様々な民族が混在する多民族国家です。ソビエト時代は、共産主義とロシア語という共通の思想・言語でまとめられていましたが、この地はもっと長いかつての歴史の中で、ペルシャ、メソポタミア、バクトリア、インドなど様々な人々や品物が交わった場所であり、人々の顔、文化、建築等の中に溶け込んだ、シルクロードの面影を見ることができます。ウズベキスタンを訪れると、まさにその事実を体感できることでしょう。