大阪支社 高橋です。
前回に引き続き、日本屈指の景勝地である上高地の見どころをご紹介します。
滞在2日目。上高地の専門ガイドと共に奥上高地・徳沢を目指す『奥上高地自然探勝ハイキング』(約7km)へ出掛けます。
朝9時にホテルで専門ガイドと合流し、朝の静けさの中で河童橋を渡り、梓川左岸ルートへ入りますが、天気が良ければ、スタート早々から穂高連峰、振り返ると焼岳の風景をご覧いただくことができます。
梓川の下流方向には焼岳も展望
<現地ガイド情報>
現地ガイドより、河童橋から望む焼岳は、天候の目安になるという解説がありました。
梓川下流に望む焼岳は、河童橋から見て西寄りとなるため、こちらの空に雲がなく焼岳がキレイに見えている時はその後も晴天が続きやすいそうです。
ただ、焼岳の硫黄の匂いが河童橋まで漂って来たりすると「西から湿った風が吹いている」ということで雨になりやすいそうです。
湧水口から梓川に合流するまで300mほどしかない透明度に驚かされる清水川などの風景を楽しみながら歩いていると、小梨平キャンプエリアに差し掛かります。
驚きの透明度を誇る清水川に陽光が射しこむ
河童橋近くのキャンプエリア 小梨平
上高地では、その昔リンゴ栽培が計画され、その際に接ぎ木としてコナシ(小梨)が植えられたことが、この地の名の由来です。コナシは一般的にズミ(酢実)の名で知られ、上高地ではよく似たエゾノコリンゴ(蝦夷の小林檎)も同じく「コナシ(小梨)」と呼ばれているそうです。現在の小梨平では、コナシの木はかなり減ってきており、大正期に植林されたカラマツが多く見られるキャンプエリアです。
キャンプをしなくても、賑やかな河童橋周辺から少し離れているため、静かに森で佇みたい方にはオススメのスポットです。
小梨平キャンプ場
溶結凝灰岩から噴き出す風穴
小梨平キャンプエリアを通過した後、梓川左岸の林間ルートを歩いていると、様々な見どころに出会います。
岩体や石積みなどの内外での温度差や気圧差によって風の流れが生じて出入口部を通じて大気が循環している穴を風穴(ふうけつ)と言います。
石積みの中に熱が蓄積されると、冷たい空気は下へ、暖かい空気は上へ移動します。春先に雪解け水が蓄冷熱した岩体を通過することで地下に氷の塊を作り出し、夏でも涼しさを保ち、天然の冷蔵庫とも言われています。上高地にもいくつか風穴があるそうで、河童橋のホテルでは食材の保管などで使われているそうです。
なお、梓川左岸の林間ルートにある風穴周辺の岩壁は、176万年前の大噴火で火山灰が圧縮された「溶結凝灰岩」と呼ばれています。
火山活動で形成された溶結凝灰岩から噴き出す風穴
ユニークな姿で成長する針葉樹
林間ルートを歩いていると、腰の曲がった姿から「黄門様」という別名を持つものや、ユニークな形に成長するカラマツやシラビソなどのマツ科の針葉樹も多く見られます。
専門ガイドの解説だと、カラマツは上に向けて成長する性質があり、枝の先端などが折れたり、枯れたりしてそれ以上伸びなくなると周辺の枝が変わって上に向けて成長を始めるため、様々な形状を見せるのだそうです。
黄門様のカラマツ
散策ルートに突如現れる登り坂
その後、林間ルートを歩いていると起伏のある道が続くことがあります(胸突き八丁のような坂ではないのでご安心を)。
梓川に流れ込む沢が雪解け水や雨水と共に大量の土砂を運び、長年にわたって堆積して丘のようになったことが要因だそうです。
大雨などによる増水時にできた激流の沢の跡は、上高地を散策していると至るところで遭遇し、改めて自然の驚異というものを感じる瞬間でもあります。
大雨などによる増水時にできた激流の沢の跡
明神岳の麓に鎮座する穂高神社奥社と明神池
穂高神社奥宮は、穂高見神(ほたかみのかみ)を祀る長野県松本市にある穂高神社の奥宮です。
太古の昔、奥穂高岳に天降ったと伝えられる穂高見神(ほたかみのかみ)は海神綿津見神(かいしんわたつみのかみ)の御子神で、海神の宗族として遠く北九州に栄え信州の開発に功をたてた安曇族の祖神として奉斎されています。
上高地明神付近は古くから「神合地」、「神垣内」、「神河内」などとも呼ばれ、神々を祀るにふさわしい神聖な場所とされてきました。
穂高神社奥宮の鳥居
明神池は、針葉樹林に囲まれた穂高神社奥宮の境内にあり、穂高神社の神域で古くは「鏡池」とも称されていました。
梓川の古い流路に明神岳からの湧水が溜まってできた池で、常に伏流水が湧き出ているため、冬でも全面凍結しません。また、かつては一之池、二之池、三之池がありましたが、土砂崩れで三之池は埋まってしまいました。
明神池・一之池
因みに穂高神社は、長野県安曇野市穂高にある本宮(里宮)のほか、上高地・明神池に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があることから「日本アルプスの総鎮守」の通称があります。
明神エリアより望む明神岳
かつての上高地の入口は明神にあった
釜トンネルが開通されるまでは、松本市の島々(しましま)から徳本峠(2,135m)を越えて上高地へ、8時間ほど歩いて入るのが一般的なルートでした。徳本峠を越えて上高地への入口が明神エリアを出発してすぐの場所にあります。
因みに「徳本」と書いて「とくごう」と読み、専門ガイドの解説では、読み方と漢字にそれぞれ別の由来があるためだそうです。読み方の「とくごう」はかつて明神地区を指した地名「徳郷」や木こりの名前「徳吾」が由来とされ、漢字の「徳本」は医師または僧侶の名からとったと言われているそうです。
かつて上高地の入口は明神にあったそうです
その後も静寂に包まれた林床内の植生を楽しみながら、徳沢を目指します。
上高地には様々な岩石があり、風穴のあった場所にあった溶結凝灰岩は176 万年前にできた岩で桁違いの古さですが、上高地で最も古いのが1 億5,000 年前にできた頁岩(けつがん)です。明神を通過して徳本峠への分岐点を過ぎたあたりに多く、海溝の底に泥が堆積してできた岩石とのことです。
専門ガイドより「上高地という山岳リゾートとして有名な景勝地に、かつては海だった名残があるというのも不思議なこと」というお話を伺った際、「海神の御子神である穂高見神が海神の宗族である安曇族とともにこの地に移ってきたことと、大昔この地が海だったこととは関係はないのか・・・」、そんなことを一人で考えて歩いていました。
私は各所に咲く花々に夢中になり過ぎてしまい、最も古い岩を見落としてしまいました。またの機会に写真は掲載します。
針葉樹と広葉樹が混在する林間ルートを歩く
かつては牧場だった 奥上高地・徳沢
13時過ぎ、標高1,550mの上高地の奥座敷・徳沢に到着。
今では信じられませんが、かつては牧場だったのです。
明治以前に上高地へ出入りしていたのは木こりたちだけだったそうですが、明治時代に入ると、地元島々の上條百次良氏は松本周辺で牛や馬を集め、徳本峠を超えて上高地に入り、許可を得て放牧を行っていたそうです。牧場は、小梨平、明神、徳沢の3ヶ所にあり、特に徳沢は『徳沢牧場』と呼ばれ、古きよき時代の牧歌的な光景の一部として訪れる登山者に親しまれていたそうです。昭和9 年(1934)北アルプス一帯が中部山岳国立公園に指定されると牧場は閉鎖されました。
当時、牧場の番小屋だった建物は山小屋となり、現在では「氷壁の宿 徳澤園」として営業しています。
かつて牧場だった徳沢の風景
どこからどこまでの範囲が上高地?
昼食後は徳沢で自由時間。ご希望の方と共にさらに先の横尾へ向かうこととしました。
上高地の範囲を調べてみると、資料によって様々。ガイドブックでは「上高地~河童橋まで」、上高地の散策マップも明神エリア、徳沢エリアまでを示すものが大半です。
自然公園法に基づいた管理計画の中で上高地は「中部山岳国立公園・上高地管理計画区」とされ、『釜トンネル~徳沢と横尾の間にある新村橋』とされています。
また、穂高連峰の麓、梓川沿いに開けた平地一帯いう点から『平地の終点・横尾まで』とする考えもあります。それ以降が本格的な涸沢や槍ヶ岳などを目指す登山道となることが要因かもしれません。
個人的には『梓川沿いの平地の始点~終点』という観点と観光客が問題なく歩ける(制限時間は別として)エリアという2 つの点から『上高地は大正池から横尾までの区間』と考えています。
自然探勝が目的のツアーでしたが、横尾へ向かった事で「上高地を端から端まで歩こう」という想いを達成することができました。中にはのんびりと新村橋までの散策を楽しまれ「自然公園法に基づいたエリアの最奥まで歩けた」と、参加された皆様が様々な思いを達成できたことが喜ばしいことでした。
徳沢から明神岳と前穂高岳を望む
この日は、井上靖の長編山岳小説『氷壁』の舞台となった『氷壁の宿 徳沢園』で宿泊。
上高地・徳沢という静寂と自然に囲まれながら山小屋とは到底思えない徳澤園での宿泊は、非常に有意義なひとときでした。
翌日は、徳沢から再び河童橋へ戻ります。ただ戻るだけではなく、往路とは違う「梓川右岸ルート」を歩き、梓川の水の色に驚き、〇〇湿原を見学しながら歩いたのですが・・・、それは次回にご紹介。 つづく