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シムシャール・パミール SIMSHAL PAMIR
カラコルム地図の空白地帯にヤクとともに生きる

  • パキスタン

2013.03.01 update

シムシャールの伝説とクッチ「移動」

 シムシャールの村は今から400年前、14代遡る祖先マムシンがワヒ族の妻とこの地に住み始めたことからはじまったと信じられています。彼らの息子シェールはある日、カラコルムの山に分け入りこの「パミール」を見つけます。「パミール」とはワヒ族にとって“人々が家畜とともに暮らすことができる山の草地”。ところがこの「パミール」の所有をめぐってキルギス族と争いになりました。そこで、ワヒ族とキルギス族は「ポロ」で勝ったほうがこのパミールを所有することで決着をつけることになりました。馬に乗って戦うキルギス族とヤクに乗って戦うワヒ族。シェールは見事キルギス族に勝ち、この「パミール」を手に入れたのです。毎年6月20日ごろ、夏のヤクの放牧地をもとめてワヒ族とヤクの群れが「パミール」の集落、シュウェルトを目指して大移動します。

シムシャール・パミール SIMSHAL PAMIR ~カラコルム“地図の空白地帯” にヤクとともに生きる~

シムシャールについて

シムシャールはギルギット・バルティスタン州(旧ノーザン・エリア)の村の中でも最後までアクセスが難しい村のひとつでした。カラコルム・ハイウェイ沿いのパスーから60キロ、ジープに揺られること3時間。村人の17年間の努力によって村への自動車道が完成したのは2003年のことでした。それまでは村人の足でも2日がかりでしか訪れることができない村だったため、他の上部フンザ(ゴジャール地区)比べ、シムシャールの独自の文化が残されています。現在人口はおよそ1700人、180世帯が暮らしています。

シムシャールの歴史

シムシャールの人々はワヒ族ですが、フンザ藩王国のミール(藩主)へ忠誠を誓い、王国の存在した1973年までフンザの領土として税を納めてきました。そのため、初期よりワヒ語とワヒ族の文化、ブルシャスキー語(フンザの言葉)とフンザの文化が混在することとなりました。そして100年ほど前にフンザのミールがイスマイリ派に改宗して以来、シムシャールの人々もイスマイリ派を信仰しています。
シムシャールの人々はミールの家畜を育て、その産物と羊やヤクを税として、歩いてフンザに届けていました。村には今でもその経験を持つ老人達が残っています。1973年、フンザ藩王国がなくなりシムシャールがミールの領土からパキスタンの一部となったとき、人々は混乱しました。さらにシムシャールの土地と認識されていた場所に「クンジェラーブ国立公園」が設立され、ワヒ族の「パミール」が失われることが危惧されました。人々は村に組織(Shimshal Nature Trust)を作るなどしてこれらの変化の中で伝統と権利を守ってきました。そして、2003年、カラコルム・ハイウェイに通じる自動車道が開通してからは新しいものが入り始め、若者は外に飛び出していきました。人々の価値観・伝統が変わり始めています。

シムシャールのワヒ族の暮らし

シムシャールの人々の暮らしはそのほとんどをヤギ・羊とヤクなどの家畜にたよっています。家畜の乳から乳製品を作り主食とし、その毛や肉を利用したり売ったりすることが主な収入です。この毎日の放牧(春~秋の定期的な移牧)と乳製品作りは女性の仕事です。男性は、高地に強く山歩きが得意なことから山岳ガイドやポーターとして働いているケースが多く見られますが、ヤクの毛を刈ったり、毛を紡いで絨毯を作ったりする仕事、そして冬のヤクの移牧も男性の仕事です。

移牧の暮らし

シムシャールの女性は夏の間、シュイズヘラブ(標高4,350m)とシュウェルト(標高4,670m)の2个所の草地での放牧のため集落を移動し、家畜を放牧しながら乳製品を作って暮らします。この集落への移動を「クッチ(移動)」といい、クッチの日には男性、その他の家族も手伝いにかけつけ、大掛かりに行われます。クッチが終わると男性は村に帰り、5月から10月までこの集落には女性のみが暮らします。そして10月末になると女性たちはヤギ・羊をつれて村にもどってきます。冬の間、家族は一緒に村で過ごしますが、村から選ばれた男性達が山に残り、ヤクとともに冬を越します。これもシムシャールの人々の間に伝わる「冬のシュプーン(放牧)」と呼ばれる伝統です。
シムシャールでは、草地を求めて家畜を移動させる「移牧」にあわせた生活と男女の役割分担が存在しています。現在は、子供達が学校に行き始め、若い人の放牧・移牧への参加が少なくなってきています。それでも、学校のテスト明けの休みを使って家族の手伝いに来ている少女や、クッチの手伝いに都会から戻ってくる若者の姿が見られます。

ワヒ族 (Wakhi)

東イラン系パミール諸族のひとつで、現在のアフガニスタン・タジキスタンの国境パンジ川、ワハーン川渓谷とその山地〈ワハーン〉の民族。1883年まで独自の王国を築いていましたが、アフガン政府の介入やロシアとイギリスによる「グレートゲーム」による国境線引き(1895年)のため、1883年から1919年に多くのワヒ族が現在の中国、パキスタン領へと移動しました。現在のワヒ族の推定人数は、9,500人(アフガニスタン・ワハーン回廊)、12,000人(タジキスタン・ゴルノバダフシャン/ワハーン渓谷)、2,500人(中国・新疆)、10,500人(パキスタン・ギルギットバルチスタン:旧ノーザンエリア)。パキスタンのノーザン・エリアではゴジャール地区を中心に、チャプルソン、イシュコマン、ブルグル、ヤルクン、ヤスィーン地区に暮らしています。

シムシャール村:6月、ショルミッシュ(カラシ菜)の花が咲き村人が畑に出て働く姿が見られます。
シムシャール村:6月、ショルミッシュ(カラシ菜)の花が咲き村人
が畑に出て働く姿が見られます。
シムシャール村:6月、ショルミッシュ(カラシ菜)の花が咲き村人が畑に出て働く姿が見られます。
シムシャール村のワヒ族の伝統的家屋の天井(ラテルネンデッキ天井)
天井の白い装飾は4月の春祭り・タガムのときに描かれたものです。
ヤクの毛を紡ぐのは男性の仕事です。
シムシャール村:6月、ショルミッシュ(カラシ菜)の花が咲き村人が畑に出て働く姿が見られます。
シュイズヘラブの夏の放牧地にて。クルトという乾燥チーズを屋根の
上で乾かす女性。

Column – 「クッチ(移動)」とパミールでの暮らし

6月下旬、シュイズヘラブの夏の放牧地からシュウェルトの放牧地までの「クッチ(移動)」が行われます。20~30家族のワヒ族、ヤク、ヤギ・羊が大きな群れとなって標高4,755m のシムシャール峠を越えシュウェルト(標高4,670m)を目指します。クッチの日は長老達の話し合いによって前日に決まります。クッチの日が決まると、早朝からの乳搾りに続いて荷造り、家屋の戸締りをし、荷物をヤクに積みます。そして荷を積んだヤクのキャラバンとシムシャールの男たちが出発すると、続いてヤク、ヤギ・羊の囲いが明けられ一斉に峠を目指して移動を開始します。歩けない老人はヤクに乗り、村人は生まれたての子ヤギを抱き、皆で「パミール」を目指して歩きます。人と家畜が一斉に美しい高原を移動するこの光景は圧巻であり、今でも残る貴重な伝統の体験でもあります。
シュウェルトに到着すると荷物を家に降ろし、各家から手作りのチーズ等を持ち寄りジュマット・ハナ(イスマイリ派の礼拝所)に集まります。クッチに参加した村人全員が集まりクッチの無事に感謝する祈りが持たれます。長老たちにより厳しかった冬のこと、この夏への希望が語られ、祈りが終わるとそれぞれ家の準備をし、夕方にはいつも通りの乳搾りの光景が見られます。シムシャールの女性はこの日から約3か月、家畜の面倒を見ながら乳製品を作り、10月にたくさんの収穫物とヤギ・羊とともに村へ戻るのです。

「クッチ」の荷造りの様子。女性が中心であるため、小さな子供も参加します。
「クッチ」の荷造りの様子。女性が中心であるため、小さな子供も
参加します。
子供を背負いグルチンワシュクサムの峠を登る女性。お祈りしながら歩いていました。
子供を背負いグルチンワシュクサムの峠を登る女性。お祈りしながら
歩いていました。
シムシャール峠にせまるヤクの群れ
シムシャール峠にせまるヤクの群れ
シュウェルトに到着後の祈りの集会。手作りのチーズなどを持ち寄ります。
シュウェルトに到着後の祈りの集会。手作りのチーズなどを持ち寄
ります。
「クッチ」シュイズヘラブの家畜の囲いが開き、人とヤク、ヤギ、羊の大移動が始まります。
「クッチ」シュイズヘラブの家畜の囲いが開き、人とヤク、ヤギ、羊の大移動が始まります。

関連ツアーのご紹介

シムシャール・パミールトレッキングと6,000m峰登頂

カラコルム“地図の空白地帯”に赴く。パキスタンと中国との国境「地図の空白地帯」に暮らすワヒ族。夏の民族大移動「クッチ」に参加し、数千頭のヤクと共にパミールを目指す。

シムシャール・パミール SHIMSHAL PAMIR

ワヒ族の夏の移動「クッチ」にヤク・サファリとトレッキングで同行するアドベンチャー。夏のシムシャール・パミールでワヒ族の暮らしを体験。

インド最北の祈りの大地 ラダック

  • インド

2013.01.01 update

「ladwags」峠を越えて、という意味を持つラダック。 ラダックは、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間のインダス河源流域に位置し、インドでもっとも高い高山地帯の一部です。

ラダックの中心地レーの街並み
ラダックの中心地レーの街並み

ラダックへ

インドの首都デリーから航空機で約1時間。暑く、ぬるい風が吹くデリーから標高3,500mのラダックの中心地・レーへの移動。空路では峠を越えた実感は伴いませんが、陸路でレーを目指す場合は3,000~5,000m級の峠をいくつも越えて行かなければなりません。

航空機がレーに到着して機外から出ようとするときに感じる冷たく澄んだ空気、見渡すと広がっている荒々しい山肌、そして顔つきの違うラダックの人々。インドのなかのチベット仏教圏ラダックは、寒冷期は雪に閉ざされていたため、独自のチベット文化が受け継がれてきた場所でした。

  • デリーからレーへの山岳フライト
    デリーからレーへの山岳フライト
  • ラダックの女性
    ラダックの女性

ラダックの仏教美術 ~リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院~

ツァワ・リンチェンサンポという人物がいます。リンチェンサンポは11世紀にグゲ王の命を受け、当時仏教が盛んだったカシミールに2度留学。戻った後は膨大な数の経典翻訳に励んだことから、大翻訳家(ロツァワ)と呼ばれ、仏教発展に大きな足跡を残しました。ロツァワは2度目の帰路時に、カシミールから32人の大工や仏師、絵師を連れ帰ったことで、カシミール様式の仏教美術を西チベットに持ち込むことに成功し、グゲにトリン僧院、ラダックにニャルマ僧院、そして仏教美術の宝庫・アルチ僧院を建てました。

ラダックの仏教美術は11世紀のリンチェンサンポ時代と、14世紀頃からのポスト・リンチェンサンポ時代に分けることができます。

リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院
リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院

リンチェンサンポ様式はカシミールや中央アジア美術の系統をひいており、壁画の着色に<群青>を多用していることが特徴として挙げられます。対しポスト・リンチェンサンポ様式はカシミールの様式が薄れ、チベットの影響を受けるようになり、かつ<赤>の多様が目立ちます。

リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院スムツェク<三層堂>に入ると、まずは三立像が迎えてくれます。壁には青を基調とした千体仏が描かれています。また視線を上にずらすと壁の隅には白鳥の絵が描かれており、柱は溝彫り式でうずまき模様が施されています。そして独特の明り取りの仕様であるラテルネン・デッキ(持ち送り式天井)。どれもカシミール様式の特徴といえます。

そしてこの堂内での見所は何と言っても般若波羅密仏母の壁画です。堂内に入って左側、観音菩薩の立像の足元にひっそりと佇む仏母は、細字の黒色の線で美しくくま取りされ、丁寧に施された着色、ななめ下に向けられた視線は控えめな美しさを感じさせます。手持ちのライトで光を当てるとはっと、息をのむほどです。

残念ながらアルチ僧院内部の写真撮影は許可されていませんので、内部の様子をこの場で写真を用いてご紹介することができないのは残念ですが、このアルチ僧院を、ぜひ体感していただきたく思います。

ラダックの祭り ~ヘミス・ツェチュ~

ラダックではお祭りが冬季ではほぼ毎月催されており、そのほとんどが仏教関連です。チベット暦に合わせて行われるので開催日は毎年変動します。

ラダック全域に共通する行事は、釈迦の誕生・成道・入滅を記念するサカダワ、ゲルクパの開祖ツォンカパの命日を記念するガルダン・ナムチョ、そして正月のロサルなどです。

6月には夏のラダックの最大の祭典、へミス僧院のツェチュが開催されます。「ツェチュ」というのは「月の10日」という意味で、聖者グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)の誕生とさまざまな事蹟が、いずれも10日に起きたことを記念しています。

お祭りの際には、地元の人が大挙となって押し寄せ、僧院の中庭にて行われるチャム(仮面舞踊)に見入ります。若者は普段よりおめかしをして会場に訪れ、若者同士たむろしおしゃべりに興じています。ラダックのお祭りは若い男女の出会いの場ともなっています。

  • ラダックの最大のツェチュが開催されるへミス僧院
    ラダックの最大のツェチュが開催されるへミス僧院
  • 見物客で賑わう会場
    見物客で賑わう会場

2012年に訪れた際のヘミス・ツェチュの様子を紹介させていただきます。チベットホルンが低重音を響かせシンバルが一定のリズムで叩かれる中、舞踊は始まります。

まずはタンカの開帳。ヘミス僧院ではタクツァン・レーパのタンカがご開帳です。次にハトゥワという祭り会場が清浄であるかどうかの確認、その後ジャナといわれる黒帽13人の踊り。そして祭りの主役パドマサンバヴァの登場、グル・ツェンゲ(パドマサンバヴァの八変化)。馬頭観音や憤怒尊、そして観客にいたずらをして会場を沸かせるチティパティがひととおり登場し舞を披露し、祭りは幕を閉じます。

  • クツァン・レーパのタンカ
    クツァン・レーパのタンカ
  • 黒帽の舞
    黒帽の舞
  • パドマサンバヴァの登場
    パドマサンバヴァの登場
  • 墓場の主チティパティ
    墓場の主チティパティ

ラダックの昔ながらの暮らしにふれる

ラダックの中心地・レーでは観光客用のお土産物やレストランが並び、いち観光地として賑やかですが、一足村のなかへ入ると、昔ながらの伝統的な衣服をまとい、農耕を営みながら自然とともに生きる人々の暮らしが見えてきます。

ラダックは冬季の寒さが厳しいため、村に暮らす人々の活動は4月半ばから10月までに限られます。4月半ばから5月初旬はヤクを引いての田おこし、そして種まきの時期。8月は黄色に色付いた田畑で収穫作業が行われます。

村をのぞきに行くと、気さくな笑顔で迎えてくれ、お茶か、チャン(ラダックのどぶろく。チンコー麦から作る)、そして焼き立てのラダッキ・ブ レッドをひっきりなしに勧めてくれます。家の造りも、ラダックの冬季の寒さに対応できるよう1階が家畜用のスペース、2階に夏用の部屋、冬用の部屋と区別されており、それぞれ窓の仕様などが違います。

伝統として受け継がれてきた、生きるための知恵と工夫は至る所に見られ、気付くと同時に深く納得させられます。

  • コルゾック僧院
    シュクパチャン村
  • 春の田お越し
    春の田お越し
  • 8月は収穫の季節
    8月は収穫の季節
  • 焼きたてのラダッキ・ブレッド
    焼きたてのラダッキ・ブレッド

ダックのベストシーズンは短いですが、春先には杏の花、夏には眩しく光る新緑、秋には黄葉、とそれぞれのシーズンそれぞれの景色で私達を迎えてくれます。お祭りの時期に合わせての訪問もおすすめですし、一度ラダックを訪れた方にはラダックの村里で民家に宿泊するツアーもおすすめです。

 

リキール僧院で学ぶ子供たち
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インド北東部 アルナチャール・プラデーシュ州へ

  • インド

2013.01.01 update

インド北東部 アルナチャール・プラデーシュ州へ

インド北東部に取り残されたように存在するアルナチャール・プラデーシュ州。中国・チベットやブータンに隣接するこの州は、仏教徒のモンパ族やノーズプラグや刺青などの独特な文化を持ち今まだアニミズム(精霊信仰)を信仰するアパタニ族など多くの民族が暮らしている地域です。

山奥という厳しい立地ゆえにそれぞれの村は独立性が強く、独自の信仰・文化・食習慣がはぐくまれて現在まで残されています。インドにありながら、巷のイメージとは全く別の側面をご覧いただけるアルナチャール・プラデーシュ州の旅をご案内いたします。

カラパタールから仰ぐエベレスト(左)とヌプツェ(右)
(左)ジロの村のシャーマン (右)モンパ族の女性

アルナチャール・プラデーシュへの玄関口はアッサム州の州都ガウハティという街です。「創造の神」としてヒンドゥー教の三大神にもなっているブラフマー神の名前を持つ大河『ブラマプトラ河』に抱かれたこの街は、まだまだインドのイメージそのままヒンドゥー文化圏です。

この街から陸路移動で1日半。まずは国境に程近いタワンの街を目指します。 出だしはブラマプトラ河沿いを走り、途中のテズプールという街からは山に向かって進みます。山深くまで車を進め、標高4,200mのセ・ラ(峠)を超えた先にありますのがモンパ族の暮らす里タワンです。実はこのルートはかつてダライラマ14世が亡命した際に通ったルートと言われています。

  • 標高4,200mのセ・ラ(峠)
    標高4,200mのセ・ラ(峠)
  • モンパ族の踊り
    モンパ族の踊り

モンパの里タワン

ブータン、チベットとの国境に囲まれた場所に位置する街、タワン。この街は敬虔なチベット仏教徒のモンパ族が暮らす仏教の街で、大小数多くの仏教寺院が点在しています。

その中でも中心とされるのが17世紀にメラ・ラマという高層によって建てられた古刹『タワン僧院』です。「神の馬に選ばれし最も聖なる場所」という名前を持つこのタワン僧院はタワンの街を見渡す高台に建てられ、この辺りのチベット仏教の総本山の役目を果たしています。 対岸のタワンの街から眺める僧院は、さながら城塞の様で圧巻です。

一方、人口約5千人程度のタワンの街は、インド国内にありながらそこはもう国境を越えた先のブータンやチベットと変わらぬ街並みです。 タワン周辺には、ダライラマ6世の生誕の地で、敷地にはダライラマ6世にゆかりのある井戸や大木が残されている『ウルゲリン僧院』や古いタンカ(仏画)が見所の『プラマドゥンチェン尼僧院』など、由緒ある寺院がたくさんございます。

  • タワンの街と僧院
    タワンの街と僧院
  • タワン僧院本殿内の仏像
    タワン僧院本殿内の仏像

辺境の村ジミタン

タワンから更に奥へと車を進めますと、チベットとの国境真近にある『ジミタン』の村を訪れることができます。タワンからジミタンまでは車で約3時間弱の道のりで、途中の峠からはブータンとの国境と、そしてダライラマ14世が1952年にブータンを通ってインドに亡命してきたルートをご覧いただけます。

『ジミタン村』は車で来る事ができるインド側最奥の村でして、パンチェンタ族が暮らす小さな村です。 このパンチェンタの人々は元々山向こう(中国側チベット)から降りてきた部族で、タワンのモンパ族とは異なり、言葉も元は全く違う言葉を使っていたそうです。パンチェンタの人たちはモンパ族の人よりも身長が低いのも特徴の一つです。

山と共に生きる彼らの生活はとても素朴で、脈々と流れる時の中で何百年も前から同じ生活を繰り返してきた事を容易に想像させてくれます。

  • 村の手前に建つゴルサム・チョルテン
    村の手前に建つゴルサム・チョルテン
  • ジミタンの民家
    ジミタンの民家

次には、タワンを離れアルナチャール・プラデーシュ州を更に東に進み、今なお精霊を信仰する村々がある地域を訪れます。 タワンから一度山を下り、アッサム州に一度戻り、更に1日かけて東へと山に入って行きますと、仏教の影響は次第になくなり、いまだにアニミズム(精霊信仰)を続ける多くの民族が暮らす地域です。

古くからこの辺りは険しい地形や厳しい自然環境によって民族や地域を結ぶ交通網が発達せず、強力な権力によって統一された事もなかったため「山一つ超えると、そこは違う文化の違う国」と言われるように州内アチコチに言葉も文化も異なる民族が独自に暮らしてきました。一説によるとアルナチャール・プラデーシュ州には26の異なる民族が更に200の部族に分類されて、3600の村で暮らしていると言われていて、その全てにおいてそれぞれ異なる言葉や服装、習慣、宗教を持っているとされています。

昔は違う部族間の結婚は禁止されていましたが、交通の発達にしたがって最近は異部族間の結婚も許されてきているので、その区分も徐々に消えつつあるようです。 また、この地方ではいまだに焼畑農業が行われているため、時期によっては途中の山中では原始的な農作風景である「野焼き」の光景にも出会えます。

 

アパタニ族のシャーマン
アパタニ族のシャーマン

アパタニ族の里「ジロ」

『アパタニ族』は仏教やヒンドゥー教などの宗教に染まらず、いまだに独自の神と信仰を保持している貴重な部族です。

昔から彼らは「太陽と月の精霊」を『ドニ・ポロ』と呼んで神様と崇め、独自の信仰文化を築き上げてきました。

こうした自然に存在するものを神と見立てて信仰する姿を精霊信仰(アニミズム)と呼びます。このアニミズムは他の宗教のように神様を形として表現することはなく、このドニ・ポロ信仰の場合は太陽と月そのものが神様となります。

そしてこの「ドニ・ポロ」と唯一交信できて、神のお告げなどを村の人々に告げる役目を負うのが『シャーマン(霊媒師)』と呼ばれる人たちです。

アパタニの世界ではこのシャーマンが僧侶のような役目から先生やお医者さんなど、大事なことを決める時には色々な役回りを果たすことになります。アパタニ族の各村では毎年春のお祭りが開かれ、豚やミトン牛を生贄として太陽神ドニ・ポロに捧げて一族の繁栄などをお祈りします。一方、1年間で不幸などがあったお家にとっては、厄払いをお願いする機会でもあります。

  • ジロ郊外の村の風景
    ジロ郊外の村の風景
  • ジロの街並み
    ジロの街並み
  • オールド・ジロの民家
    オールド・ジロの民家

そんなアパタニ族の村の一つが「ジロ」です。ジロ周辺では竹で建てられたアパタニ族の伝統的な家屋の街並みがご覧いただけ、家々の前には子供の数を知らせる「ボボ」と呼ばれるポールと「アギャン」と呼ばれる魔よけの竹かごが置かれ、また村の数箇所には長老達が村の決め事などを話し合う会議(ブーセン)を行う少し高くなった集会所「ラパン」を今でも見ることができます。

そして、道を行けばアパタニ族の象徴でもある「籐で出来たノーズプラグ(鼻栓)をして顔に入れ墨」を施している年配の女性に頻繁に行き会います。これは今では法律で禁止されているようですが、古くからのアパタニ族女性の習慣でもありました。

アパタニ族の女性があまりにもキレイな為、近隣の部族にさらわれる事が多く、そうした事を防ぐためにあえて顔を醜く見せるために施されたものだと言われています。 このノーズプラグの習慣は最近では徐々に消えつつある習慣なので、ある一定年齢の年配の方にしか見られません。

村の民家では地元料理を楽しむ事もできます。アパタニ料理の特長は生活にはなくてはならない「竹」で調理されていて、ご飯やお肉などを竹筒にそれぞれ詰めて、煮たり焼いたり調理するのです。 味は極めて薄味で、竹の香りが調味料の役目も果たしています。

  • ノーズプラグ(鼻栓)をしたアパタニ族の女性
    ノーズプラグ(鼻栓)をしたアパタニ族の女性
  • ジロの民家で地元料理を楽しむ
    ジロの民家で地元料理を楽しむ

特徴的な帽子のニシ族

この地域のもう一つ代表的な部族に「ニシ族」があります。 アパタニ族の暮らすジロから南へ向う地域にニシ族の村は点在しており、彼らの最大の特長としては、彼らのかぶる帽子があげられます。

今ではあまり見られなくなってしまいましたが、竹で出来た帽子に色とりどりの鳥の羽やサイチョウのくちばしなどで装飾を施したそれは、色鮮やかで個性的、誰が見てもすぐに「ニシ族」と分かります。

ニシ族の伝統家屋は全て高床式。 竹と木で出来ており、屋根は椰子の葉やバナナの葉などで葺くのが伝統手法です。 そしてもう一つニシ族の大きな特徴は「一夫多妻制」。他の周辺部族が全て「一妻制」であるのに対しニシ族の男性は「最大5人まで」妻を持つことが許されているのです。

そんな男性の家は長屋になっており皆一緒の屋根の下で生活をします。中にお邪魔すると、そこにはそれぞれの奥さん専用の囲炉裏が横に並んで作られており、妻が増えるごとに家を増築して囲炉裏を増やしていくそうです。

  • ニシ族の長屋
    ニシ族の長屋
  • 鳥の羽やくちばしで装飾の施された竹の帽子を被るニシ族の男性
    鳥の羽やくちばしで装飾の施された竹の帽子を被るニシ族の男性
アッサム・ティーの紅茶園
アッサム・ティーの紅茶園

こうしてアルナチャールの山中を走り回った後は、元来た陸路を再びテズプール、ガウハティと戻って行きます。実はこの道中、テズプールの周辺は世界的に有名なアッサム紅茶の産地でして、道沿いには広大な紅茶園もご覧いただけ、紅茶好きにはたまらない地域だったりもします。

このようにインドの東端に位置するアルナチャール・プラデーシュ州の山奥では、多種多様な文化・風習を持った部族が今なお昔からの伝統を守りながら暮らしています。 世間一般で言われる「インド」のイメージとは全く別の世界が広がり、素朴ながらも人懐っこい村人たちが出迎えてくれるはずですので、ぜひ一度ご旅行ください。

 

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インド最果ての地 アルナチャール・プラデーシュ

[特別入域許可取得]シャクナゲの花咲く季節に行く、春のアルナチャール・プラデーシュ。北東インドに残るチベット世界と精霊とともに生きる人々に出会う旅。

インドヒマラヤの王者 カンチェンジュンガ

  • インド

2012.10.01 update

世界に14座ある8,000m峰。カンチェンジュンガ(8,586m)はその内、第3位の高さを誇り、 ネパール東部とインド・シッキム州の国境に聳えています。1850年頃には世界の最高峰と考えられていました。その事が納得できる高さ、大きさ、迫力があります。その南壁を眼前に望む好展望地ゴーチャ峠を目指すトレッキングの様子をご紹介いたします。

ラムニ、ゴーチャ峠間の展望地より、朝日に輝くカンチェンジュンガ(8,586m)
ラムニ、ゴーチャ峠間の展望地より、朝日に輝くカンチェンジュンガ(8,586m)

シッキムへ

インドの首都デリーから国内線にて西ベンガル州の都市バグドグラへ。そこからシッキム州に入り、トレッキングの起点となるヨクサムへはツアー3日目に到着し、トレッキングは4日目~11日目の計8日間です。
シッキム州は、インドにある28の州の内22番目の州として、1975年にインドの一部となりました。人口は61万人とインドで最も少なく(インド人口は約12億2700万人、首都デリー人口は1100万人)、面積も下から数えて2番目に小さな州です。

元々ここはシッキム王国(1642-1975)として機能していました。チベットにおいてゲルク派(現ダライ・ラマやパンチェン・ラマも属する最大宗派)の勢いが増し、ニンマ派の高層はここシッキムやブータン方面へと移り住みます。その中で、プンツォク・ナムギェルがシッキム王国を造ったのです(1642年)。ですのでチベット人由来の王国なのですが、18世紀以降はネパール、ブータン、イギリス等に領土を侵されるようになったのです。

 

トレッキンク1日目 ヨクサム(1,780m)~バッキム(2,750m)

トレッキング初日は16km、昼食含め約8時間の行程です。初日にしてはアップダウンもあり多少厳しい行程ですが、ところどころに咲いている可愛らしい花々に癒されながら進みます。タルチョがかかる吊り橋もいくつも渡り、更にプレク川(Prek Chu)を渡る吊り橋を通ってからジグザグの最後の急登を乗り切ればキャンプ地に到着です。

  • タルチョがかかる吊り橋
    タルチョがかかる吊り橋
  • キャンプ地への急登
    キャンプ地への急登

トレッキンク2日目 バッキム(2,750m)~ゾングリ(4,030m)

翌日は18km、昼食含め約8時間の行程。かつてのシッキム王国時代に王国から特別許可証をもらって暮らしていたチベット族の村ツォカ(Choka)、ピクニック昼食場所のフィタン(Phethang)を過ぎ、シャクナゲ林に包まれた木道や尾根道を通り、好展望地のゾングリへ。

急登もところどころにあり2日目も決して一筋縄にはいかないでしょうが、天気が良ければカンチェンジュンガを拝むこともでき気分は爽快です。他にも、カンチェンジュンガの南南東15kmに位置する聖峰パンディム(6,691m)が見えてきます。山名は先住民のレプチャ語で「王者の従者」、つまりカンチェンジュンガの護衛峰です。

このキャンプ地からは4,000mを越えてくるので高山病にも注意が必要です。気温もグッと下がり、夕方5℃~早朝マイナス3℃にもなります。

  • 木材を使って整備されたルートを進む
    木材を使って整備されたルートを進む
  • 好展望地ゾングリ
    好展望地ゾングリ。左からパンディム(6,691m)、テンジンカン(5,693m)、ジョプノー(5,842m)。

トレッキンク3日目 ゾングリ滞在

3日目はゾングリに滞在します。隣丘のゾングリ・ビューポイント(4,250m)に日の出前から登り<約1時間>、朝日に映えるカンチェンジュンガを含む連山を楽しんだり、ラトン渓谷を臨むゾングリ峠(4,550m)へ趣きます<片道約2時間>。カンチェンジュンガの南南西9kmに位置するカブルーはサンスクリット語で「戦士」、つまりカンチェンジュンガの防人となります。

この日は標高4,030mでの連泊を設けることで、高所順応をしながら溜まった疲労も取り除いていきます。

  • 東の空が紅く染まりだす
    東の空が紅く染まりだす
  • カンチェンジュンガを含む連山の展望
    ビューポイントへの道中、カンチェンジュンガを含む連山の展望
  • ゾングリ峠を目指す
    ゾングリ峠を目指す
  • ゾングリ峠から望むラトン渓谷
    ゾングリ峠から望むラトン渓谷

トレッキンク4日目 ゾングリ(4,030m)~ラムニ(4,100m)

4日目は12~13km、昼食含め約7時間の行程。途中、カンチェンジュンガの大展望やパンディム連山を眺めながら、気持ちの良いトレッキングです。

復路に宿泊予定のコクチュン(3,650m)まで一気に急な下り坂をゆっくりと降りていき、プレク川の対岸へ渡り、河原の大岩の合間を縫って昼食場所のタンシン(Tangshing; 3,930m)へ。ここからはパンディムがより近くにグッと見えます。昼食後、カンチェンジュンガ南峰の好展望地ラムニへ。

  • カンチェンジュンガの展望を楽しみつつラムニへ
    カンチェンジュンガの展望を楽しみつつラムニへ
  • パンディム連山を拝む
    パンディム連山を拝む
  • プレク川沿いを進む
    プレク川沿いを進む
  • 好展望地ラムニ
    好展望地ラムニ

トレッキンク5日目 ラムニ(4,100m)~ゴーチャ峠(4,940m)往復

山が赤く燃えだす
山が赤く燃えだす

いよいよゴーチャ峠へ。この日は14~15km、昼食含め約10時間の行程。夜中に出発し、途中にある展望台を目指します<約2時間半>。朝日が昇り、グッと近付いたカンチェンジュンガを紅く染めます。

更にここからゴーチャ峠まで更に2時間半。眠気眼をこすりながら、苦しい道のりを進みます。峠前は辛い急登が続きますが、谷間になかなか当たらなかった太陽の光が、徐々に背中を後押ししてくれます。

そしてついにゴーチャ峠に到着!眼前にはカンチェンジュンガの南壁が立ちはだかります。眼下には氷河とターコイズブルーの氷河湖が広がります。

眼前に立ちはだかるカンチェンジュンガ南壁
眼前に立ちはだかるカンチェンジュンガ南壁
  • 氷河とターコイズブルーの氷河湖
    氷河とターコイズブルーの氷河湖
  • スタッフ一同も万歳!
    スタッフ一同も万歳!
カンチェンジュンガ南壁の大迫力
カンチェンジュンガ南壁の大迫力

帰りは同じルートを引き返します。下山も楽ではありませんが、一歩一歩足を前へ運びます。
キャンプ地到着後は、倒れこむようにテントへ。夕食まで熟睡です。

 

トレッキンク6日目~8日目 ラムニ(4,100m)~ヨクサム(1,780m)

ラムニから3日かけてヨクサムへ下ります。草紅葉の赤、オレンジ、黄と白い雪が絶妙な景観を造り出しています。

決して楽ではない8日間のトレッキングを支えてくれるのは専属コックが作ってくれる美味しい料理の数々。
夕食時、ビールにて乾杯!食後はホテルの庭でスタッフを集めて唄って踊ってのキャンプファイヤーです。スタッフの皆さん、ありがとうございました!

  • トレッキンク中の食事の例
    トレッキンク中の食事の例
  • トレッキンク中の食事の例
  • トレッキンク中の食事の例
  • 下山開始
    下山開始
  • 下山後の夕食時、ビールで乾杯!
    下山後の夕食時、ビールで乾杯!

登山後はダージリンの観光もお楽しみください

登山後はダージリンに移動し観光です。ダージリンは標高2,134mの高地に位置し、北側にはカンチェンジュンガがしっかりと見える好展望地であり、かつインドの紅茶の15%を生産する良質の紅茶が手に入る都市です。人口は約12万人。イギリス人が植民地時代に避暑地として開発しました。

チベット難民センター、エベレスト初登頂者テンジン・ノルゲイが初代校長を務めたヒマラヤ登山学校、ユキヒョウのいるヒマラヤ動物園、世界遺産トイ・トレイン等々。登山の疲れを一気にリフレッシュしていただきます。

  • 世界遺産ダージリン・ヒマラヤ鉄道、通称トイ・トレイン
    世界遺産ダージリン・ヒマラヤ鉄道、通称トイ・トレイン
  • 線路幅はなんと610mm
    線路幅はなんと610mm

インドヒマラヤの王者カンチェンジュンガ。チベット、ネパール、パキスタンにあるどの8,000m峰とも違う山容と迫力で皆様を迎えてくれるでしょう。スタッフ共々、皆様も全力でサポートさせていただきます。天候が安定しやすい秋のみにツアーを設定しているので、山の展望率は非常に高いところも魅力です。是非一度カンチェンジュンガの雄姿をその目に拝んでみませんか?

 

関連ツアーのご紹介

カンチェンジュンガ大展望 シッキムヒマラヤトレッキング

圧巻の世界第3位峰カンチェンジュンガ(8,586m)を仰ぎ見る。ヒマラヤ展望のベストシーズン限定企画。好展望地「ゴーチャ峠」を目指す。

悠久の歴史流れる地 ペルシャ

  • イラン

2012.08.01 update

ペルシャ、その言葉の響きに惹かれる方も多いことでしょう。
今回はペルシャを中心に興った王朝と、彼らが後世に残したものをご紹介いたします。

イスファハンのイマーム広場
イスファハンのイマーム広場

魅惑の国に流れる歴史

ペルシャ、その言葉の響きに惹かれる方も多いことでしょう。今回はペルシャを中心に興った王朝と、彼らが後世に残したものをご紹介いたします。 1979年のイラン革命以来、イラン・イスラム共和国となったこの地は、かつてはペルシャと呼ばれ、数千年の歴史の中で様々な王朝の栄枯盛衰の舞台となった地です。紀元前2000年紀に、コーカサス、アナトリア、メソポタミア、中央アジア、そしてペルシャ湾に囲まれたイラン高原に、アーリア人が南下して定住しました。イラン高原は、その地理的背景から交易ルートの通過点となり、また様々な勢力の支配下に置かれました。下記の年表をご覧いただくと、世界史に登場する帝国や王朝が、この地を支配したことがお分かりになります。

広大な地域を支配したため、様々な民族の建築様式や伝統文化を取り入れたこと、またペルシャを起源とする王朝のみならず、モンゴルや中央アジアの王朝に支配されたことにより、それぞれの時代に華麗なペルシャ文化が花開きました。そして、シルクロードを通り、日本までペルシャの影響が伝わった時代もあります。 また様々な世界情勢の背景のもと、いくつかの王朝はヨーロッパの勢力としのぎを削り、世界史の舞台にもなりました。東征途中のアレキサンダー大王に滅ぼされたアケメネス朝、ローマ帝国を破ったササーン朝など、当時のオリエント世界の超大国として君臨した時期もありました。

奴隷交易の歴史を物語るゴレ島(セネガル)
j左:チャドルを纏った子供。 右:精緻を極めたタイルワークが美しいミフラーブ。イランのほぼ中央に位置する町ヤズドの金曜モスクである。ササーン朝 時代のゾロアスター教神殿の跡地に建てられている。
伝統料理「アブ・グーシュト」肉や野菜、豆類の壺煮込み 料理で日本人の口にもよく合う。
伝統料理「アブ・グーシュト」肉や野菜、豆類の壺煮込み 料理で日本人の口にもよく合う。

イラン系諸王朝を紹介

イランに興った代表的な王朝をご紹介いたします。彼らが歴史上に残した出来事は、後世の歴史に大きな影響を与え、彼らが史跡として残したものは、当時の栄華を今に語り伝えます。

長い歴史のなかで興っては消えていった各々の王朝は、その栄華を誇るかのように様々な史跡を残し、今も訪れる人を惹き付けて止みません。そして、その壮大さ、華麗さを実際にご覧になると、強大な権力を持った各王朝の華やかかりし時代が、目に焼き付くことでしょう。

世界史に刻まれた大帝国 アケメネス朝

220年もの間、西はギリシャ、 エチオピア、東はパキスタンまで36の属州を擁して君臨した大帝国。紀元前331年、東征途中のアレキサンダー大王によって滅ぼされました。大王がダーダネルス海峡を越えて入った小アジア(現在のトルコ)は、すでにアケメネス朝の支配下でした。インドへ向かう大王は、アケメネス朝の領土を東に進軍し、ついに拠点のペルセポリスを陥落させます。かねてからアケメネス朝に攻撃を受けていたギリシャ人からは、野蛮な民族の国家と思われていましたが、大王が実際に見たものは、様々な民族、宗教を束ね、発達した文化を持った帝国だったのです。今は廃墟と化したペルセポリスは、大帝国と呼ぶにふさわしい史跡です。

ペルセポリスの象徴「万国の門」

日本文化にも影響を与えた ササーン朝

アケメネス朝よりも長く、425年間に渡って君臨した王朝。かつて栄華を極めたアケメネス朝の復興を目指し、ペルシャが起源とされるゾロアスター朝を国教としました。文化面として歴史に残るものは、支配化においたメソポタミアから導入したガラス器の製造が挙げられます。唐の時代、シルクロードを通って日本にまで伝わっており、奈良の東大寺正倉院にはペルシャ様式にカットされたガラスの器が収められています。また、紀元260年ローマ帝国との戦闘でローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にしました。皇帝シャープール一世は戦勝記念として、命乞いをするローマ皇帝を刻んだレリーフをナクシェ・ロスタムに残しています。

壮大なレリーフが残るナクシェ・ロスタム

イランにおけるモンゴル政権 イル・ハーン朝

チンギス・ハーンの征西の後、イラン高原を中心に興ったモンゴル系の王朝。モンゴルの第四大ハーン・モンケの弟フラグが初代君主となりました。彼は当時の強大なイスラム王朝アッバース朝を滅ぼし、タブリーズを首都とするイル・ハーン朝を興しました。首都タブリーズ近郊には、世界遺産に登録されたゴンバデ・スルタニエが残ります。後世のイスラム建築に大きな影響を与えたこの巨大な建造物は、中央アジアの建造物によく見られる二重のドームを取り入れています。また宗教面では、この時期にペルシャのイスラム化が進んだ時代でもありました。

ゴンバデ・ソルターニーイェ

華麗なる首都イスファハン サファビー朝

イル・ハーン朝の後、サマルカンドを首都としたティムール朝の支配を受けたのち235年間続いた王朝。ペルシャにシーア派をもたらしたことも大きな特徴ですが、最盛期、領土としたコーカサスからアルメニアやアゼルバイジャンの建築職人を集め、首都のイスファハンを壮麗な町にしました。この時期のイスファハンは、「世界の半分」と謳われ、各国からの商人が集う大都市に変貌します。今でもイマーム広場に残るシェイクルトフォラーモスクは、イスラム建築の最高傑作のひとつとされています。ペルシャ様式の、植物の描かれた青いタイル装飾は中央アジアの建築物にも影響を与え、そこにはペルシャ文化の広がりを見ることができます。

ライトアップされたイスファハン

関連ツアー

ペルシャ歴史紀行

イスラム世界で最も精緻な建築を誇るイラン。悠久の歴史が物語る数々の遺跡、イラン二大聖地のひとつコムやゾロアスター教の町ヤズドも訪れる充実の11日間。

イラン北西部周遊

カスピ海とザグロス山脈の豊かな自然と遺跡の旅。フーゼスタンからクルディスタンへ。荒々しい岩山と高原地帯・イラン北西部を巡る。チョガザンビルをはじめ5つの世界遺産を訪問。

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