秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

『草原の椅子』最後の桃源郷フンザロケ

  • パキスタン

2013.03.01 update

草原の椅子 最後の桃源郷フンザロケ バルティスタンの砂漠地帯にてバルティスタンの砂漠地帯にて

世界初・北部パキスタンでの長期映画ロケ

 フンザを舞台にした宮本輝氏の小説「草原の椅子」。この小説をきっかけにフンザに行かれた方、いつか行きたいと思っている方も少なくないのではないでしょうか。長らく「映像化は難しい」と言われてきたこの小説が映画化され、2月23日(土)から全国の映画館で放映されています。西遊旅行は2012年夏に行われたパキスタンロケの手配を担当いたしました。今回は、ロケが成功するまでの現地でのエピソードや北部パキスタンの魅力、映画撮影に携わった地元の人々の活躍についてご紹介いたします。

映画の舞台・バルティスタンとフンザ

1997年12月から1年間、毎日新聞朝刊で連載された小説「草原の椅子」。小説の舞台は中国西部のタクラマカン砂漠とフンザでしたが、映画ではタクラマカン砂漠のかわりに北部パキスタンのバルティスタンにある砂漠地帯で撮影が行われました。
バルティスタンはパキスタン北東部に位置し、中国のアクサイチンやインドのカシミールと接する地域で、チベット系のバルティ族やワハーン回廊からやってきたワヒ族などの人々が暮らしています。この地域の年間降水量は約150mm極端に低く、ところどころに高冷地砂漠(colddessert)ができています。周囲を世界第2位の高峰K2(8,611m)を始めとする8,000m峰、7,000m峰に囲まれているため、空気中の水分が山とぶつかり雪として降ってしまい、内側には乾燥した風しか入ってくることができないのです。美しい砂丘の背後に雪を抱いたカラコルムの山々が聳え、独特の不思議な雰囲気を醸し出す砂漠地帯。撮影はスカルドゥの町近くとシガール渓谷への途中の2ヶ所の砂丘で行われました。
もうひとつの映画の舞台であるフンザはかつてはミール(藩王)の治める藩王国で、旅人から「最後の秘境」「桃源郷」と呼ばれ親しまれてきました。フンザに住む人々はブルシャスキー語という独自の言葉を話し、白い肌に高い鼻、中には青い目をした人もいます。その起源は未だはっきりしておらず、アレキサンダー大王の遠征軍の末裔という説もあるほどです。フンザはイスラム教の中でも穏健なイスマイリ派が信仰されており、女性たちが外で働く姿も印象的です。日本人登山家長谷川恒男氏が愛した谷でもあり、氏の遺志を継いだ「ハセガワ・メモリアル・スクール」も建てられています。深い谷間にあるにもかかわらずフンザの識字率はパキスタン国内で最も高く、子どもたちの多くは英語を話すことができます。

最後の桃源郷フンザの谷
最後の桃源郷フンザの谷

フンザの人々の活躍

美しい自然に囲まれたフンザは「長寿の里」としても有名で、昔は100歳をこえるお年寄りもたくさんいました。物語の重要な登場人物のひとりに、人の瞳の中に星を見ることができるフンザの老人がいます。この老人を、実際にフンザに暮らす101歳のダドゥおじいさんが演じることになりました。おじいさんが出演するシーンは、フンザから川を隔てた谷にあるナガールで行われました。ナガールはフンザから四輪駆動車で30分の距離ですが、19世紀までフンザとは敵対する別の藩王国でした。フンザのお年寄りの中にはブルシャスキー語しかわからない方や、自分の生まれ育った村から一度も出たことがない方もたくさんいます。ダドゥおじいさんもその一人で、はじめナガールでの撮影になかなか協力してくれませんでした。しかし、子どもの頃からおじいさんを知るフンザ出身の日本語通訳ガイド・サリームの熱心な説得により、最終的に映画出演に了承してくれたのです。撮影中は、監督が日本語で演技を説明し、それをサリームがブルシャスキー語に訳しておじいさんに伝えました。
もうひとつの重要な登場人物(動物)が、おじいさんとともに登場するヤギの群れです。ヤギは、草を求めて冬は低地、夏は高地の牧草地に移動します。撮影の行われた8月、ヤギたちはフンザよりも標高の高い放牧地で過ごしていました。そのため、ヤギの持ち主に事情を話し、撮影のために3日かけて山から下りてきてもらいました。本番では、ヤギたちもおじいさんとともに上手に演技をしてくれました。
撮影時間に間に合うようにおじいさんやヤギに撮影場所へ来てもらうことや、台本通りの動きをしてもらうことは想像以上に困難なことでした。しかし、サリームなどフンザ出身の日本語通訳ガイドの頑張りや地元の人々の協力のおかげで、なんとか撮影を終えることができました。高峰に囲まれたナガールで、ヤギの群れを連れたダドゥおじいさんと主人公の遠間が話をするシーンは、映画の中で最も美しく印象的なシーンとして描かれています。サリーム自身も「日本語ガイド役」として映画に出演しました。

ダドゥおじいさんとヤギたち
ダドゥおじいさんとヤギたち
サリーム(右)と貴志子役の吉瀬美智子さん
サリーム(右)と貴志子役の吉瀬美智子さん
バルチット城下での撮影風景
バルチット城下での撮影風景

困難を乗り越えて

 パキスタンでの撮影は順調に行く事ばかりではありませんでしたが、中でも「移動」と「天候」に関しては予定通りにいかないことが多々ありました。最初に撮影が行われたスカルドゥへは国内線で約1時間半の距離ですが、出発当日、雨によりフライトがキャンセルになりました。そのため、数十人のスタッフ、何百キロもの機材とともに計800km陸路移動することになりました。カラコルム・ハイウェイと標高4,100mのバブサル峠を越え、インダス川沿いの絶壁の道を進みます。崖崩れにより車を停めて道路が整備されるのを待つ場面がありましたが、2日間約30時間かけてなんとかスカルドゥに到着することができました。
イスラマバードでは道路が水に浸かるほどの雨でしたがスカルドゥでは晴れ、砂漠での撮影日は気温が40度を超えました。砂漠の中心まで四輪駆動車に分乗し、砂漠に足跡がつくたびにさらに奥へと移動します。炎天下の中、皆ふらふらになりながら撮影しました。
フンザの北部にあるカラコルム山脈の好展望地、ドゥイカルの丘の撮影では、厚い雲が山々を覆い、天候が回復するのを何時間も待つこともありました。電力の確保も大きな問題でした。北部パキスタンでは電力の供給が不安定なため、各地から発電機を運び、撮影に臨みました。

パキスタンの人々の願い

2001年のアメリカ同時多発テロによる治安悪化、2005年に起こったマグニチュード7・6の大地震、2010年に起こった水害など、ここ10年以上の人災、天災によりパキスタンの旅行業は大きなダメージを受けてきました。しかし、かつて「最後の秘境」「桃源郷」と謳われ、多くの旅行者で賑わった村や谷、美しい山々は今も昔のままの姿でそこにあります。
パキスタンの人々は、映画がきっかけとなり「フンザ」や「バルティスタン」に興味を持った日本からの旅人で、北部パキスタンが再び賑わう日を願っています。

関連ツアーのご紹介

最後の桃源郷フンザとバルティスタン

緑溢れる季節に訪れる北部パキスタン。万年雪を抱き白く輝く山と緑眩しいフンザの谷。この季節ならではの美しい景観を楽しむ11日間の特別企画。

クンジュラブ峠越え パミール大横断 11日間

パキスタンから中国へ。「もうひとつのシルクロード」を行く。ガンダーラ都市遺跡タキシラ、インダス川沿いのカラコルム・ハイウェイを走り、パミール高原を越え、かつての交易都市カシュガルを目指す。

クンジュラブ峠越え パミール大横断 9日間

憧れのカラコルム・ハイウェイ、パミール高原を9日間で走破!桃源郷フンザ、パミール高原、カラクリ湖、そしてカシュガルへ。 ガンダーラを代表するタキシラ遺跡も訪問。

ナンガパルバット展望ハイキングと桃源郷フンザ滞在

ナンガパルバットの展望地フェアリー・メドウに2連泊、桃源郷フンザに3連泊しパキスタンが誇るヒマラヤとカラコルムの絶景を満喫。長寿の里として知られるフンザの食もお楽しみいただきます。

パトゥンダストレッキングと桃源郷フンザ

知られざる2つの絶景地・パトゥンダスとウルタル・メドゥへ。桃源郷フンザを取り巻く名峰群を望む。360度フンザの名峰群に囲まれる・パトゥンダスとウルタル・メドゥを訪問。

地獄の門と奇跡の大地
~カラ・クム砂漠が生んだ2つの絶景を訪ねて~

  • トルクメニスタン

2013.03.01 update

今シーズン新たに発表した「地獄の門と奇跡の大地」。トルクメニスタンのカラ・クム砂漠の絶景を訪ねる新コースの視察へ、昨年12月に行って参りました。 今回は、その時の写真を交えツアーのご紹介をさせていただきます。

カラ・クム砂漠の荒野に突如としして空く穴。昼夜を問わず40年以上も炎を上げ続けるこのクレーターは、その異様な光景から「地獄の門」と呼ばれる。カラ・クム砂漠の荒野に突如としして空く穴。
昼夜を問わず40年以上も炎を上げ続けるこのクレーターは、その異様な光景から「地獄の門」と呼ばれる。

かつての海の底 ヤンギ・カラの大地へ

首都アシュハバード到着時の気温は5度。しかも飛行機の到着が5時間も遅れる程の濃霧でした。大陸性気候のため、冬はマイナスにもなる過酷な地、今回の視察はこの時期にあたりましたが、ツアーの設定は春から秋にしています。アシュハバードから四輪駆動車で走ること5時間、トルクメニスタン西部の町・バルカナバードに到着しました。まずはこのツアーのハイライトの

ひとつ、ヤンギ・カラへ向かうためにこの町で一泊しました。
翌朝、幹線道路からオフロードに入り、ヤンギ・カラの絶景地帯へ。カスピ海東岸に広がるこの地のことは日本で調べていましたが、トルクメニスタンの北に位置しカザフスタンに広がるウスチュルト台地と同じような風景と思っていました。ヤンギ・カラもウスチュルト台地もかつては海の底だった所で、大地の隆起の後に、風雨の浸食によって奇岩広がる絶景地帯へと変わったのです。石灰質の大地なので白を基調としたテーブルマウンテンが広がる風景は同じなのですが、ヤンギ・カラは地層にヨウ素を大量に含んでいます。そのため、このヨウ素が生み出すピンク色と石灰質の白色が不思議な模様を織りなした絶景が広がっていたのです。
ヤンギ・カラに近づくにつれ、遠くにだんだんと大きなテーブルマウンテンが見えてきました。幹線道路からはこのテーブルマウンテンを下から見上げるように走り、その後標高を少し上げた所からオフロードへ、台地の上に上がっていきました。台地の上からは、果てしなく奇岩が連なる広大な景色を見ることができます。ツアーではこの台地の上に滞在する時間を多く取り、絶景の中でテント泊をすることができるよう考えました。その後、カスピ海沿岸の町・トルクメナバードへ。近年、トルクメニスタンのリゾート地となり、郊外には大きなホテルがたくさん建設されていましたが、庶民が集うバザールでは、カスピ海で採れたチョウザメがたくさん並んでいました。
大地が隆起したあと、風と雨による浸食によって削られた大地が
大地が隆起したあと、風と雨による浸食によって削られた大地が不思議な模様を生み出す(ヤンギ・カラ)
石灰質の白とヨウ素を含むピンクの地層
石灰質の白とヨウ素を含むピンクの地層
チョウザメが並ぶトルクメナバードの市場
チョウザメが並ぶトルクメナバードの市場
台地の上から果てしない光景を望む
台地の上から果てしない光景を望む

驚愕のクレーター群

視察はその後、ウズベキスタンとの国境に近いタシャウズへと向かい、いよいよ「地獄の門」へと向かいます。タシャウズは、なんと気温マイナス20度。あまりの寒さで4WDのエンジンがかからず出発が遅れましたが、幹線道路を走ること4時間、いよいよクレーター群に到着です。ダルワザという地名は、その名も「門」。ここには、40年程前に天然ガスの採掘作業中に空いた大きなクレーターが3つ残っています。最初に、底に地下水が湧き出た「水のクレーター」、泥がたまった「泥のクレーター」を見学。どちらも地下から吹き出すガスによって、泡がブクと湧きあがっています。その後、メインの「火のクレーター」へ。オフロードを走ること30分あまり、とうとう念願の「地獄の門」に到着。車を降りて近づくと、まずは火の燃える轟音に驚きました。横60メートル、縦50メートルのだ円系のクレーターの内部ではものすごい勢いで火が燃えており、熱によって生まれた陽炎に覆われていました。夢中でクレーターの回りを何周も歩いて写真を撮っているうち、だんだんと陽が落ちてあたりが暗くなってきました。真っ暗な闇が辺りを覆う頃、漆黒の中に燃え続けるクレーターの迫力は、言葉では表現できない程です。まずは、皆様も現地へ行って実際に体感していただきたいです。

日中も燃え盛る「地獄の門」
日中も燃え盛る「地獄の門」
荒野に突如として空くクレーター
荒野に突如として空くクレーター
水のクレーター
水のクレーター

伝統を守る遊牧民

翌日は、アシュハバードへ向かう途中で砂漠の中に佇む小さな村・ダムラ村に向かいました。なんと、朝から雪が降り出し、「黒い砂漠」を意味するカラ・クム砂漠が真っ白な雪化粧に包まれていきました。村では、雪の中を歩くラクダの群れに出迎えられ、一件の民家を訪問。この村は、ソビエト時代に建てられた住宅のほか伝統的なユルタも常設しており、村の人々は両方の建物を使って暮らしていました。村の広場にはナンを焼く釜戸「タンドール」があり、村の人が共同で使ってナンを焼く風景を見ることができました。ここではバザールで買った米を持参し、民家でプロフを作っていただきました。豊富な天然ガスにより近年どんどんと近代化が進むトルクメニスタンですが、羊の毛で作った帽子・カルパックを被り、伝統的な暮らしを続ける人々の生活にふれることができました。今回の視察は冬場になったので、村も一面の雪景色でしたが、皆様がツアーで訪れる頃は、放牧の動物もたくさん見られることと思います。  極寒と強風の中の視察でしたが、古代遺跡だけではないトルクメニスタンの別の魅力を知ることができました。トルクメニスタンのヤンギ・カラの絶景、燃 え続ける「地獄の門」、そして伝統的な暮らしを守る砂漠の民が、皆様をお待ちしています。

砂漠が雪景色に、ダムラ村で出会ったラクダの群れ
砂漠が雪景色に、ダムラ村で出会ったラクダの群れ
村に常設されているユルタ
村に常設されているユルタ
山頂を目指す
伝統的なユルタの暮らしを続ける村の家族
タンドール窯でナンを焼く様子
タンドール窯でナンを焼く様子

関連ツアーのご紹介

地獄の門と奇跡の大地 12日間

カラ・クム砂漠に燃えるガス・クレーター地獄の門と、奇岩広がるヤンギ・カラの大地を巡る。トルクメニスタンの2つの絶景と、遊牧民の暮らしを訪ねる旅。地獄の門のガス・クレーターと絶景のヤンギ・カラにてキャンプ。

地獄の門と奇跡の大地 9日間

トルクメニスタンの2つの絶景と、遊牧民の暮らしを訪ねる9日間。カラ・クム砂漠に燃えるガス・クレーター地獄の門と、奇岩広がるヤンギ・カラの大地を巡る。地獄の門のガス・クレーターと絶景のヤンギ・カラにてキャンプ。

カラカルパクスタンとトルクメニスタン

歴史遺産の宝庫・トルクメニスタンと知られざるホラズム王国の都。トルクメニスタンのすべての世界遺産を巡り、中央アジアの歴史を紐解く古代遺跡探訪の旅。

シムシャール・パミール SIMSHAL PAMIR
カラコルム地図の空白地帯にヤクとともに生きる

  • パキスタン

2013.03.01 update

シムシャールの伝説とクッチ「移動」

 シムシャールの村は今から400年前、14代遡る祖先マムシンがワヒ族の妻とこの地に住み始めたことからはじまったと信じられています。彼らの息子シェールはある日、カラコルムの山に分け入りこの「パミール」を見つけます。「パミール」とはワヒ族にとって“人々が家畜とともに暮らすことができる山の草地”。ところがこの「パミール」の所有をめぐってキルギス族と争いになりました。そこで、ワヒ族とキルギス族は「ポロ」で勝ったほうがこのパミールを所有することで決着をつけることになりました。馬に乗って戦うキルギス族とヤクに乗って戦うワヒ族。シェールは見事キルギス族に勝ち、この「パミール」を手に入れたのです。毎年6月20日ごろ、夏のヤクの放牧地をもとめてワヒ族とヤクの群れが「パミール」の集落、シュウェルトを目指して大移動します。

シムシャール・パミール SIMSHAL PAMIR ~カラコルム“地図の空白地帯” にヤクとともに生きる~

シムシャールについて

シムシャールはギルギット・バルティスタン州(旧ノーザン・エリア)の村の中でも最後までアクセスが難しい村のひとつでした。カラコルム・ハイウェイ沿いのパスーから60キロ、ジープに揺られること3時間。村人の17年間の努力によって村への自動車道が完成したのは2003年のことでした。それまでは村人の足でも2日がかりでしか訪れることができない村だったため、他の上部フンザ(ゴジャール地区)比べ、シムシャールの独自の文化が残されています。現在人口はおよそ1700人、180世帯が暮らしています。

シムシャールの歴史

シムシャールの人々はワヒ族ですが、フンザ藩王国のミール(藩主)へ忠誠を誓い、王国の存在した1973年までフンザの領土として税を納めてきました。そのため、初期よりワヒ語とワヒ族の文化、ブルシャスキー語(フンザの言葉)とフンザの文化が混在することとなりました。そして100年ほど前にフンザのミールがイスマイリ派に改宗して以来、シムシャールの人々もイスマイリ派を信仰しています。
シムシャールの人々はミールの家畜を育て、その産物と羊やヤクを税として、歩いてフンザに届けていました。村には今でもその経験を持つ老人達が残っています。1973年、フンザ藩王国がなくなりシムシャールがミールの領土からパキスタンの一部となったとき、人々は混乱しました。さらにシムシャールの土地と認識されていた場所に「クンジェラーブ国立公園」が設立され、ワヒ族の「パミール」が失われることが危惧されました。人々は村に組織(Shimshal Nature Trust)を作るなどしてこれらの変化の中で伝統と権利を守ってきました。そして、2003年、カラコルム・ハイウェイに通じる自動車道が開通してからは新しいものが入り始め、若者は外に飛び出していきました。人々の価値観・伝統が変わり始めています。

シムシャールのワヒ族の暮らし

シムシャールの人々の暮らしはそのほとんどをヤギ・羊とヤクなどの家畜にたよっています。家畜の乳から乳製品を作り主食とし、その毛や肉を利用したり売ったりすることが主な収入です。この毎日の放牧(春~秋の定期的な移牧)と乳製品作りは女性の仕事です。男性は、高地に強く山歩きが得意なことから山岳ガイドやポーターとして働いているケースが多く見られますが、ヤクの毛を刈ったり、毛を紡いで絨毯を作ったりする仕事、そして冬のヤクの移牧も男性の仕事です。

移牧の暮らし

シムシャールの女性は夏の間、シュイズヘラブ(標高4,350m)とシュウェルト(標高4,670m)の2个所の草地での放牧のため集落を移動し、家畜を放牧しながら乳製品を作って暮らします。この集落への移動を「クッチ(移動)」といい、クッチの日には男性、その他の家族も手伝いにかけつけ、大掛かりに行われます。クッチが終わると男性は村に帰り、5月から10月までこの集落には女性のみが暮らします。そして10月末になると女性たちはヤギ・羊をつれて村にもどってきます。冬の間、家族は一緒に村で過ごしますが、村から選ばれた男性達が山に残り、ヤクとともに冬を越します。これもシムシャールの人々の間に伝わる「冬のシュプーン(放牧)」と呼ばれる伝統です。
シムシャールでは、草地を求めて家畜を移動させる「移牧」にあわせた生活と男女の役割分担が存在しています。現在は、子供達が学校に行き始め、若い人の放牧・移牧への参加が少なくなってきています。それでも、学校のテスト明けの休みを使って家族の手伝いに来ている少女や、クッチの手伝いに都会から戻ってくる若者の姿が見られます。

ワヒ族 (Wakhi)

東イラン系パミール諸族のひとつで、現在のアフガニスタン・タジキスタンの国境パンジ川、ワハーン川渓谷とその山地〈ワハーン〉の民族。1883年まで独自の王国を築いていましたが、アフガン政府の介入やロシアとイギリスによる「グレートゲーム」による国境線引き(1895年)のため、1883年から1919年に多くのワヒ族が現在の中国、パキスタン領へと移動しました。現在のワヒ族の推定人数は、9,500人(アフガニスタン・ワハーン回廊)、12,000人(タジキスタン・ゴルノバダフシャン/ワハーン渓谷)、2,500人(中国・新疆)、10,500人(パキスタン・ギルギットバルチスタン:旧ノーザンエリア)。パキスタンのノーザン・エリアではゴジャール地区を中心に、チャプルソン、イシュコマン、ブルグル、ヤルクン、ヤスィーン地区に暮らしています。

シムシャール村:6月、ショルミッシュ(カラシ菜)の花が咲き村人が畑に出て働く姿が見られます。
シムシャール村:6月、ショルミッシュ(カラシ菜)の花が咲き村人
が畑に出て働く姿が見られます。
シムシャール村:6月、ショルミッシュ(カラシ菜)の花が咲き村人が畑に出て働く姿が見られます。
シムシャール村のワヒ族の伝統的家屋の天井(ラテルネンデッキ天井)
天井の白い装飾は4月の春祭り・タガムのときに描かれたものです。
ヤクの毛を紡ぐのは男性の仕事です。
シムシャール村:6月、ショルミッシュ(カラシ菜)の花が咲き村人が畑に出て働く姿が見られます。
シュイズヘラブの夏の放牧地にて。クルトという乾燥チーズを屋根の
上で乾かす女性。

Column – 「クッチ(移動)」とパミールでの暮らし

6月下旬、シュイズヘラブの夏の放牧地からシュウェルトの放牧地までの「クッチ(移動)」が行われます。20~30家族のワヒ族、ヤク、ヤギ・羊が大きな群れとなって標高4,755m のシムシャール峠を越えシュウェルト(標高4,670m)を目指します。クッチの日は長老達の話し合いによって前日に決まります。クッチの日が決まると、早朝からの乳搾りに続いて荷造り、家屋の戸締りをし、荷物をヤクに積みます。そして荷を積んだヤクのキャラバンとシムシャールの男たちが出発すると、続いてヤク、ヤギ・羊の囲いが明けられ一斉に峠を目指して移動を開始します。歩けない老人はヤクに乗り、村人は生まれたての子ヤギを抱き、皆で「パミール」を目指して歩きます。人と家畜が一斉に美しい高原を移動するこの光景は圧巻であり、今でも残る貴重な伝統の体験でもあります。
シュウェルトに到着すると荷物を家に降ろし、各家から手作りのチーズ等を持ち寄りジュマット・ハナ(イスマイリ派の礼拝所)に集まります。クッチに参加した村人全員が集まりクッチの無事に感謝する祈りが持たれます。長老たちにより厳しかった冬のこと、この夏への希望が語られ、祈りが終わるとそれぞれ家の準備をし、夕方にはいつも通りの乳搾りの光景が見られます。シムシャールの女性はこの日から約3か月、家畜の面倒を見ながら乳製品を作り、10月にたくさんの収穫物とヤギ・羊とともに村へ戻るのです。

「クッチ」の荷造りの様子。女性が中心であるため、小さな子供も参加します。
「クッチ」の荷造りの様子。女性が中心であるため、小さな子供も
参加します。
子供を背負いグルチンワシュクサムの峠を登る女性。お祈りしながら歩いていました。
子供を背負いグルチンワシュクサムの峠を登る女性。お祈りしながら
歩いていました。
シムシャール峠にせまるヤクの群れ
シムシャール峠にせまるヤクの群れ
シュウェルトに到着後の祈りの集会。手作りのチーズなどを持ち寄ります。
シュウェルトに到着後の祈りの集会。手作りのチーズなどを持ち寄
ります。
「クッチ」シュイズヘラブの家畜の囲いが開き、人とヤク、ヤギ、羊の大移動が始まります。
「クッチ」シュイズヘラブの家畜の囲いが開き、人とヤク、ヤギ、羊の大移動が始まります。

関連ツアーのご紹介

シムシャール・パミールトレッキングと6,000m峰登頂

カラコルム“地図の空白地帯”に赴く。パキスタンと中国との国境「地図の空白地帯」に暮らすワヒ族。夏の民族大移動「クッチ」に参加し、数千頭のヤクと共にパミールを目指す。

シムシャール・パミール SHIMSHAL PAMIR

ワヒ族の夏の移動「クッチ」にヤク・サファリとトレッキングで同行するアドベンチャー。夏のシムシャール・パミールでワヒ族の暮らしを体験。

インド最北の祈りの大地 ラダック

  • インド

2013.01.01 update

「ladwags」峠を越えて、という意味を持つラダック。 ラダックは、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間のインダス河源流域に位置し、インドでもっとも高い高山地帯の一部です。

ラダックの中心地レーの街並み
ラダックの中心地レーの街並み

ラダックへ

インドの首都デリーから航空機で約1時間。暑く、ぬるい風が吹くデリーから標高3,500mのラダックの中心地・レーへの移動。空路では峠を越えた実感は伴いませんが、陸路でレーを目指す場合は3,000~5,000m級の峠をいくつも越えて行かなければなりません。

航空機がレーに到着して機外から出ようとするときに感じる冷たく澄んだ空気、見渡すと広がっている荒々しい山肌、そして顔つきの違うラダックの人々。インドのなかのチベット仏教圏ラダックは、寒冷期は雪に閉ざされていたため、独自のチベット文化が受け継がれてきた場所でした。

  • デリーからレーへの山岳フライト
    デリーからレーへの山岳フライト
  • ラダックの女性
    ラダックの女性

ラダックの仏教美術 ~リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院~

ツァワ・リンチェンサンポという人物がいます。リンチェンサンポは11世紀にグゲ王の命を受け、当時仏教が盛んだったカシミールに2度留学。戻った後は膨大な数の経典翻訳に励んだことから、大翻訳家(ロツァワ)と呼ばれ、仏教発展に大きな足跡を残しました。ロツァワは2度目の帰路時に、カシミールから32人の大工や仏師、絵師を連れ帰ったことで、カシミール様式の仏教美術を西チベットに持ち込むことに成功し、グゲにトリン僧院、ラダックにニャルマ僧院、そして仏教美術の宝庫・アルチ僧院を建てました。

ラダックの仏教美術は11世紀のリンチェンサンポ時代と、14世紀頃からのポスト・リンチェンサンポ時代に分けることができます。

リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院
リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院

リンチェンサンポ様式はカシミールや中央アジア美術の系統をひいており、壁画の着色に<群青>を多用していることが特徴として挙げられます。対しポスト・リンチェンサンポ様式はカシミールの様式が薄れ、チベットの影響を受けるようになり、かつ<赤>の多様が目立ちます。

リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院スムツェク<三層堂>に入ると、まずは三立像が迎えてくれます。壁には青を基調とした千体仏が描かれています。また視線を上にずらすと壁の隅には白鳥の絵が描かれており、柱は溝彫り式でうずまき模様が施されています。そして独特の明り取りの仕様であるラテルネン・デッキ(持ち送り式天井)。どれもカシミール様式の特徴といえます。

そしてこの堂内での見所は何と言っても般若波羅密仏母の壁画です。堂内に入って左側、観音菩薩の立像の足元にひっそりと佇む仏母は、細字の黒色の線で美しくくま取りされ、丁寧に施された着色、ななめ下に向けられた視線は控えめな美しさを感じさせます。手持ちのライトで光を当てるとはっと、息をのむほどです。

残念ながらアルチ僧院内部の写真撮影は許可されていませんので、内部の様子をこの場で写真を用いてご紹介することができないのは残念ですが、このアルチ僧院を、ぜひ体感していただきたく思います。

ラダックの祭り ~ヘミス・ツェチュ~

ラダックではお祭りが冬季ではほぼ毎月催されており、そのほとんどが仏教関連です。チベット暦に合わせて行われるので開催日は毎年変動します。

ラダック全域に共通する行事は、釈迦の誕生・成道・入滅を記念するサカダワ、ゲルクパの開祖ツォンカパの命日を記念するガルダン・ナムチョ、そして正月のロサルなどです。

6月には夏のラダックの最大の祭典、へミス僧院のツェチュが開催されます。「ツェチュ」というのは「月の10日」という意味で、聖者グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)の誕生とさまざまな事蹟が、いずれも10日に起きたことを記念しています。

お祭りの際には、地元の人が大挙となって押し寄せ、僧院の中庭にて行われるチャム(仮面舞踊)に見入ります。若者は普段よりおめかしをして会場に訪れ、若者同士たむろしおしゃべりに興じています。ラダックのお祭りは若い男女の出会いの場ともなっています。

  • ラダックの最大のツェチュが開催されるへミス僧院
    ラダックの最大のツェチュが開催されるへミス僧院
  • 見物客で賑わう会場
    見物客で賑わう会場

2012年に訪れた際のヘミス・ツェチュの様子を紹介させていただきます。チベットホルンが低重音を響かせシンバルが一定のリズムで叩かれる中、舞踊は始まります。

まずはタンカの開帳。ヘミス僧院ではタクツァン・レーパのタンカがご開帳です。次にハトゥワという祭り会場が清浄であるかどうかの確認、その後ジャナといわれる黒帽13人の踊り。そして祭りの主役パドマサンバヴァの登場、グル・ツェンゲ(パドマサンバヴァの八変化)。馬頭観音や憤怒尊、そして観客にいたずらをして会場を沸かせるチティパティがひととおり登場し舞を披露し、祭りは幕を閉じます。

  • クツァン・レーパのタンカ
    クツァン・レーパのタンカ
  • 黒帽の舞
    黒帽の舞
  • パドマサンバヴァの登場
    パドマサンバヴァの登場
  • 墓場の主チティパティ
    墓場の主チティパティ

ラダックの昔ながらの暮らしにふれる

ラダックの中心地・レーでは観光客用のお土産物やレストランが並び、いち観光地として賑やかですが、一足村のなかへ入ると、昔ながらの伝統的な衣服をまとい、農耕を営みながら自然とともに生きる人々の暮らしが見えてきます。

ラダックは冬季の寒さが厳しいため、村に暮らす人々の活動は4月半ばから10月までに限られます。4月半ばから5月初旬はヤクを引いての田おこし、そして種まきの時期。8月は黄色に色付いた田畑で収穫作業が行われます。

村をのぞきに行くと、気さくな笑顔で迎えてくれ、お茶か、チャン(ラダックのどぶろく。チンコー麦から作る)、そして焼き立てのラダッキ・ブ レッドをひっきりなしに勧めてくれます。家の造りも、ラダックの冬季の寒さに対応できるよう1階が家畜用のスペース、2階に夏用の部屋、冬用の部屋と区別されており、それぞれ窓の仕様などが違います。

伝統として受け継がれてきた、生きるための知恵と工夫は至る所に見られ、気付くと同時に深く納得させられます。

  • コルゾック僧院
    シュクパチャン村
  • 春の田お越し
    春の田お越し
  • 8月は収穫の季節
    8月は収穫の季節
  • 焼きたてのラダッキ・ブレッド
    焼きたてのラダッキ・ブレッド

ダックのベストシーズンは短いですが、春先には杏の花、夏には眩しく光る新緑、秋には黄葉、とそれぞれのシーズンそれぞれの景色で私達を迎えてくれます。お祭りの時期に合わせての訪問もおすすめですし、一度ラダックを訪れた方にはラダックの村里で民家に宿泊するツアーもおすすめです。

 

リキール僧院で学ぶ子供たち
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  • インド

2013.01.01 update

インド北東部 アルナチャール・プラデーシュ州へ

インド北東部に取り残されたように存在するアルナチャール・プラデーシュ州。中国・チベットやブータンに隣接するこの州は、仏教徒のモンパ族やノーズプラグや刺青などの独特な文化を持ち今まだアニミズム(精霊信仰)を信仰するアパタニ族など多くの民族が暮らしている地域です。

山奥という厳しい立地ゆえにそれぞれの村は独立性が強く、独自の信仰・文化・食習慣がはぐくまれて現在まで残されています。インドにありながら、巷のイメージとは全く別の側面をご覧いただけるアルナチャール・プラデーシュ州の旅をご案内いたします。

カラパタールから仰ぐエベレスト(左)とヌプツェ(右)
(左)ジロの村のシャーマン (右)モンパ族の女性

アルナチャール・プラデーシュへの玄関口はアッサム州の州都ガウハティという街です。「創造の神」としてヒンドゥー教の三大神にもなっているブラフマー神の名前を持つ大河『ブラマプトラ河』に抱かれたこの街は、まだまだインドのイメージそのままヒンドゥー文化圏です。

この街から陸路移動で1日半。まずは国境に程近いタワンの街を目指します。 出だしはブラマプトラ河沿いを走り、途中のテズプールという街からは山に向かって進みます。山深くまで車を進め、標高4,200mのセ・ラ(峠)を超えた先にありますのがモンパ族の暮らす里タワンです。実はこのルートはかつてダライラマ14世が亡命した際に通ったルートと言われています。

  • 標高4,200mのセ・ラ(峠)
    標高4,200mのセ・ラ(峠)
  • モンパ族の踊り
    モンパ族の踊り

モンパの里タワン

ブータン、チベットとの国境に囲まれた場所に位置する街、タワン。この街は敬虔なチベット仏教徒のモンパ族が暮らす仏教の街で、大小数多くの仏教寺院が点在しています。

その中でも中心とされるのが17世紀にメラ・ラマという高層によって建てられた古刹『タワン僧院』です。「神の馬に選ばれし最も聖なる場所」という名前を持つこのタワン僧院はタワンの街を見渡す高台に建てられ、この辺りのチベット仏教の総本山の役目を果たしています。 対岸のタワンの街から眺める僧院は、さながら城塞の様で圧巻です。

一方、人口約5千人程度のタワンの街は、インド国内にありながらそこはもう国境を越えた先のブータンやチベットと変わらぬ街並みです。 タワン周辺には、ダライラマ6世の生誕の地で、敷地にはダライラマ6世にゆかりのある井戸や大木が残されている『ウルゲリン僧院』や古いタンカ(仏画)が見所の『プラマドゥンチェン尼僧院』など、由緒ある寺院がたくさんございます。

  • タワンの街と僧院
    タワンの街と僧院
  • タワン僧院本殿内の仏像
    タワン僧院本殿内の仏像

辺境の村ジミタン

タワンから更に奥へと車を進めますと、チベットとの国境真近にある『ジミタン』の村を訪れることができます。タワンからジミタンまでは車で約3時間弱の道のりで、途中の峠からはブータンとの国境と、そしてダライラマ14世が1952年にブータンを通ってインドに亡命してきたルートをご覧いただけます。

『ジミタン村』は車で来る事ができるインド側最奥の村でして、パンチェンタ族が暮らす小さな村です。 このパンチェンタの人々は元々山向こう(中国側チベット)から降りてきた部族で、タワンのモンパ族とは異なり、言葉も元は全く違う言葉を使っていたそうです。パンチェンタの人たちはモンパ族の人よりも身長が低いのも特徴の一つです。

山と共に生きる彼らの生活はとても素朴で、脈々と流れる時の中で何百年も前から同じ生活を繰り返してきた事を容易に想像させてくれます。

  • 村の手前に建つゴルサム・チョルテン
    村の手前に建つゴルサム・チョルテン
  • ジミタンの民家
    ジミタンの民家

次には、タワンを離れアルナチャール・プラデーシュ州を更に東に進み、今なお精霊を信仰する村々がある地域を訪れます。 タワンから一度山を下り、アッサム州に一度戻り、更に1日かけて東へと山に入って行きますと、仏教の影響は次第になくなり、いまだにアニミズム(精霊信仰)を続ける多くの民族が暮らす地域です。

古くからこの辺りは険しい地形や厳しい自然環境によって民族や地域を結ぶ交通網が発達せず、強力な権力によって統一された事もなかったため「山一つ超えると、そこは違う文化の違う国」と言われるように州内アチコチに言葉も文化も異なる民族が独自に暮らしてきました。一説によるとアルナチャール・プラデーシュ州には26の異なる民族が更に200の部族に分類されて、3600の村で暮らしていると言われていて、その全てにおいてそれぞれ異なる言葉や服装、習慣、宗教を持っているとされています。

昔は違う部族間の結婚は禁止されていましたが、交通の発達にしたがって最近は異部族間の結婚も許されてきているので、その区分も徐々に消えつつあるようです。 また、この地方ではいまだに焼畑農業が行われているため、時期によっては途中の山中では原始的な農作風景である「野焼き」の光景にも出会えます。

 

アパタニ族のシャーマン
アパタニ族のシャーマン

アパタニ族の里「ジロ」

『アパタニ族』は仏教やヒンドゥー教などの宗教に染まらず、いまだに独自の神と信仰を保持している貴重な部族です。

昔から彼らは「太陽と月の精霊」を『ドニ・ポロ』と呼んで神様と崇め、独自の信仰文化を築き上げてきました。

こうした自然に存在するものを神と見立てて信仰する姿を精霊信仰(アニミズム)と呼びます。このアニミズムは他の宗教のように神様を形として表現することはなく、このドニ・ポロ信仰の場合は太陽と月そのものが神様となります。

そしてこの「ドニ・ポロ」と唯一交信できて、神のお告げなどを村の人々に告げる役目を負うのが『シャーマン(霊媒師)』と呼ばれる人たちです。

アパタニの世界ではこのシャーマンが僧侶のような役目から先生やお医者さんなど、大事なことを決める時には色々な役回りを果たすことになります。アパタニ族の各村では毎年春のお祭りが開かれ、豚やミトン牛を生贄として太陽神ドニ・ポロに捧げて一族の繁栄などをお祈りします。一方、1年間で不幸などがあったお家にとっては、厄払いをお願いする機会でもあります。

  • ジロ郊外の村の風景
    ジロ郊外の村の風景
  • ジロの街並み
    ジロの街並み
  • オールド・ジロの民家
    オールド・ジロの民家

そんなアパタニ族の村の一つが「ジロ」です。ジロ周辺では竹で建てられたアパタニ族の伝統的な家屋の街並みがご覧いただけ、家々の前には子供の数を知らせる「ボボ」と呼ばれるポールと「アギャン」と呼ばれる魔よけの竹かごが置かれ、また村の数箇所には長老達が村の決め事などを話し合う会議(ブーセン)を行う少し高くなった集会所「ラパン」を今でも見ることができます。

そして、道を行けばアパタニ族の象徴でもある「籐で出来たノーズプラグ(鼻栓)をして顔に入れ墨」を施している年配の女性に頻繁に行き会います。これは今では法律で禁止されているようですが、古くからのアパタニ族女性の習慣でもありました。

アパタニ族の女性があまりにもキレイな為、近隣の部族にさらわれる事が多く、そうした事を防ぐためにあえて顔を醜く見せるために施されたものだと言われています。 このノーズプラグの習慣は最近では徐々に消えつつある習慣なので、ある一定年齢の年配の方にしか見られません。

村の民家では地元料理を楽しむ事もできます。アパタニ料理の特長は生活にはなくてはならない「竹」で調理されていて、ご飯やお肉などを竹筒にそれぞれ詰めて、煮たり焼いたり調理するのです。 味は極めて薄味で、竹の香りが調味料の役目も果たしています。

  • ノーズプラグ(鼻栓)をしたアパタニ族の女性
    ノーズプラグ(鼻栓)をしたアパタニ族の女性
  • ジロの民家で地元料理を楽しむ
    ジロの民家で地元料理を楽しむ

特徴的な帽子のニシ族

この地域のもう一つ代表的な部族に「ニシ族」があります。 アパタニ族の暮らすジロから南へ向う地域にニシ族の村は点在しており、彼らの最大の特長としては、彼らのかぶる帽子があげられます。

今ではあまり見られなくなってしまいましたが、竹で出来た帽子に色とりどりの鳥の羽やサイチョウのくちばしなどで装飾を施したそれは、色鮮やかで個性的、誰が見てもすぐに「ニシ族」と分かります。

ニシ族の伝統家屋は全て高床式。 竹と木で出来ており、屋根は椰子の葉やバナナの葉などで葺くのが伝統手法です。 そしてもう一つニシ族の大きな特徴は「一夫多妻制」。他の周辺部族が全て「一妻制」であるのに対しニシ族の男性は「最大5人まで」妻を持つことが許されているのです。

そんな男性の家は長屋になっており皆一緒の屋根の下で生活をします。中にお邪魔すると、そこにはそれぞれの奥さん専用の囲炉裏が横に並んで作られており、妻が増えるごとに家を増築して囲炉裏を増やしていくそうです。

  • ニシ族の長屋
    ニシ族の長屋
  • 鳥の羽やくちばしで装飾の施された竹の帽子を被るニシ族の男性
    鳥の羽やくちばしで装飾の施された竹の帽子を被るニシ族の男性
アッサム・ティーの紅茶園
アッサム・ティーの紅茶園

こうしてアルナチャールの山中を走り回った後は、元来た陸路を再びテズプール、ガウハティと戻って行きます。実はこの道中、テズプールの周辺は世界的に有名なアッサム紅茶の産地でして、道沿いには広大な紅茶園もご覧いただけ、紅茶好きにはたまらない地域だったりもします。

このようにインドの東端に位置するアルナチャール・プラデーシュ州の山奥では、多種多様な文化・風習を持った部族が今なお昔からの伝統を守りながら暮らしています。 世間一般で言われる「インド」のイメージとは全く別の世界が広がり、素朴ながらも人懐っこい村人たちが出迎えてくれるはずですので、ぜひ一度ご旅行ください。

 

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