秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

南北ブラジル大自然
ブラジルの4大絶景を訪ねて

  • ブラジル

2013.09.01 update

地球の裏側ブラジルに乾季のベストシーズンに訪れ、ブラジルらしい壮大な自然を堪能してきました。
その中から「パンタナール大湿原」「イグアスの大瀑布」「レンソイスの白砂漠」「アマゾン川」の4つの大自然をご紹介いたします。

ベリーズ・ATM(アクトゥン・チュニチル・ムクナル)洞窟大冒険


「野生動物の楽園」パンタナール大湿原

ブラジル、パラグアイ、ボリビアの3ヶ国にまたがる世界最大の湿原です。ポルトガル語で“沼地”を意味し、雨季には80%以上が水没し、世界で最も水量が多い平原となります。動植物の種類の豊富さで世界一といわれるパンタナール湿原は「野生動物の楽園」とも言われ、今回訪れた乾季には少ない水場にたくさんの野鳥や動物が折り重なるように集まり、絶好のサファリ日和となりました。
ツアーでは、北パンタナールの拠点の街クイアバからパンタナール縦貫道路と呼ばれるまっすぐ南に延びた一本の道をパンタナールの中心部に向かって進んでいきます。道の両脇にはカピバラ、メガネカイマン、アナコンダやたくさんの野鳥の群れと出会えました。特にパンタナールを象徴する怪鳥トヨヨの迫力は圧巻で、白い体に、首から頭が黒く、首輪のような赤が映える独特な風貌です。コウノトリの仲間で、体長150cm、体重10kgを超える大迫力の鳥です。
日中のサファリだけでなく、ナイトサファリ、ボートクルーズ、ウォーキングサファリと盛りだくさんの内容でパンタナールを満喫できます。

ATM1
メガネカイマン
ATM1
パンタナール最大の鳥 トヨヨ
ATM1
キイロアナコンダ
ATM1
ピンクに色づくイペーの木

「世界最大の滝」イグアスの大瀑布

イグアスとは先住民の言葉で「大いなる水」の意味。ブラジルとアルゼンチンにまたがる世界最大の滝で、この滝の最大のハイライト「悪魔の喉笛」では圧巻の景色が堪能できます。滝の轟音が響きわたり、圧倒的な水量に思わず足がすくんでしまいます。アルゼンチン側・ブラジル側どちらも遊歩道で滝の近くまで歩いて行くことができるので、イグアスの滝の水しぶきを直接浴びることができます。
その後は滝つぼに飛び込むボートツアーへ。ライフジャケットを着て、全身びしょ濡れになる覚悟でスピードボードへ乗船します。ボートごと滝に近づいていき、そのまま滝の真下に入っていきます。イグアスの滝に打たれるという体験は本当にスリル満点。滝の写真を見るだけでは絶対に味わうことのできないイグアスの滝を「体感」できます。

ATM1
世界最大のイグアスの滝
ATM4
イグアスの滝の真下にいくボート
ATM4
遊歩道を歩いて滝の中央へ

「白砂漠」レンソイス大砂丘

レンソイス・マラニャンセス国立公園は、ブラジル北部マラニョン州にあります。レンソイスとはポルトガル語で「シーツ」の意味。まさにシーツが揺らめくような白い砂丘が延々と広がります。雨季には神秘的な碧い湖がその砂丘の低地に現れ、その美しい白と青のコントラストを、遊覧飛行と地上を歩いての両方でお楽しみいただきます。
日中の暑い時間を避け、お昼過ぎに拠点の町バヘリーニャスを出発しました。プレギシャス川を艀で渡り、ガタガタの未舗装の悪路を4WDで走り、巨大な白砂漠に到着。白砂漠を裸足で歩きながら写真を撮ったり、いくつかの青い湖で泳いだりしながら夕暮れまでゆっくりと過ごしました。
特におすすめなのは夕暮れの時間。昼間の白砂漠の白と青のコントラストが、刻々と赤色に染まっていきます。時間の変化と共に橙、赤、赤紫などその時々の太陽の色を白い砂漠が吸収して染まっていく姿はまさに絶景でした。完全に暗くなってしまうと道に迷ってしまう危険性もあるため、後ろ髪を引かれつつ、後ろを何度も振り返り景色の移り変わりを楽しみながらレンソイスを後にしました。

ATM1
上空より望む砂丘
ATM1
ATM5
ATM4

大河アマゾン

世界最大の河川で、流域面積はオーストラリア全体の面積に相当する大河です。このツアーではアマゾン川流域の最大の都市マナウスからアマゾン川クルーズに出発します。まず最初は、黒いネグロ川と白く濁ったソリモンエス川が合流しアマゾン川になるアマゾン川合流点へ。温度や速度、成分の違いから、約40kmもの区間、混じり合わずに隣り合って流れている独特な景色に出会えます。
アマゾン川といえばピラニア釣り!簡易な木の棒でできた釣り竿に牛肉をつけて釣りをします。釣りを始めるとすぐにピラニアがエサをつついてくるのですが、それを釣り上げるとなるとなかなか難しく、ピラニアの餌付け状態になることも。釣ったピラニアは帰りの船で唐揚げにしておいしくいただきました。見た目とは裏腹に淡白でとてもおいしいお魚です。

ATM1
交じり合わない2河川合流ポイント
ATM1
ボートクルーズでアマゾンを散策
ATM1
ピラニア

関連ツアーのご紹介

南北ブラジル・大自然を巡る旅

ブラジル屈指の絶景を乾季のベストシーズンに!パンタナール大湿原・レンソイスの白砂漠・イグアスの大瀑布・そしてアマゾン川…。憧れの絶景を効率よく巡るブラジル大自然の旅。

世界最大級のデルタ地帯「オリノコ・デルタ」

  • ベネズエラ

2013.08.01 update

アマゾン川、ラプラタ川に次ぐオリノコ川は、ベネズエラ南部のブラジル国境に近いパリマ山地を源として大西洋へ注いでいます。その河口は”カーニョ”と呼ばれる無数の支流に分かれており、複雑に入り組んだ扇状地を形成しています。これが世界最大級のデルタ地帯、オリノコ・デルタです。「オリノコ」とは、先住民ワラオ族の言葉で「漕ぐところ、場所、家」という意味の言葉が由来だとされています。ツアーでは、このオリノコ・デルタを家として生活する彼らのありのままの姿を間近で見ることができます。

ケツァール
ワラオ族の住居を模したロッジ

 

水上に暮らす人々 ワラオ族

オリノコ・デルタの支流を探検していると、小さなボートを漕いで移動する人々を目にします。彼らこそが、オリノコ・デルタをはじめとするベネズエラの北東部およびガイアナの西に住むワラオ族です。この地域に約36,000人いるとされ、そのうち約20,000人がオリノコ・デルタに暮らしていると言われています。彼らは水路しかないオリノコ・デルタの支流をボートに乗って移動します。朝もやでまだ少し景色の霞む早朝から、日が落ちて暗くなる夕方まで、一日中川面を行き交うボートの姿を目にします。ワラオ族は水と深く関わりながら一生を過ごすため、ワラオ族の赤ちゃんは母親の首にしっかりつかまる能力や、バタ足の能力に長けていると言われています。彼らは漁業はもちろんのこと、野菜や果物の栽培、蜜や果物の採集も行います。迷路のようなオリノコ・デルタの水路を熟知して生活しています。

  • ウラコア港
    ウラコア港
  • 好奇心旺盛な子供たち
    好奇心旺盛な子供たち

彼らの住居は高床式で水上にあります。木造で、屋根はありますが四方の壁は特にありません。とても開放的な空間に、子どもから大人までが一緒に生活しています。ツアーでは実際にこの住居を訪問させてもらいます。まだまだ観光化してないこの集落に私たちが訪れると、辺りを走り回っていた好奇心旺盛な子どもたちが寄ってきてくれました。私たちにとっては危なげで、滑らないようにゆっくりと歩く必要のある水上の細い通路の上を、ワラオ族の子どもたちは身軽に駆け回っています。
開放的な住居に置かれたキッチンで料理をする女性もいれば、洗濯物もはためいています。彼らの寝床はハンモックで、昼間から何をするでもなくハンモックに揺られている人もいます。われわれ日本人とは全く異なる生活様式をもつワラオ族。ツアーでは、彼らの生活圏内にあり、また彼らの住居を模したロッジにお泊り頂きます。

  • 料理する女性
    料理する女性
  • 細い通路を走る子ども
    細い通路を走る子ども
  • 朝もやのオリノコ・デルタ
    朝もやのオリノコ・デルタ
  • 村で出会ったワラオ族の子供たち
    村で出会ったワラオ族の子供たち

ワラオ族の住居を模したコテージ風のロッジに宿泊

ツアーで泊まるロッジは、ワラオ族の住居を模したコテージ風の建物です。オリノコ・デルタの支流沿いにあり、ジャングルと一体化したようなロッジです。もちろんボートでのみ辿り着くことができる場所です。ギアナ高地観光の起点となる町プエルト・オルダスから車で約2時間のところにあるウラコアという港でボートに乗り込み、ボートを飛ばすこと約1時間でオリノコ・デルタロッジに到着です。 ロッジの向かい側の岸には学校があり、朝は通学する子どもたちを乗せたボートを見ることができました。
また、ワラオ族の人々がロッジの正面の船着き場にやってきたかと思うと、彼らが植物を編んで作った民芸品を並べて小さな露店が開かれました。しっかりとした作りの小物入れやコースターはおみやげにぴったりです。

  • ワラオ族の住居を模したコテージ風の建物
    ワラオ族の住居を模したコテージ風の建物
  • 部屋の一例
    部屋の一例
  • ロッジでの食事
    ロッジでの食事
  • ワラオ族の民芸品
    ワラオ族の民芸品

手つかずの自然が残るオリノコ・デルタですが、自然だけでなくワラオ族の人々との触れ合いも醍醐味のひとつです。
ロライマ山やエンジェル・フォールが有名なギアナ高地とあわせて近年注目度の高まっているこのオリノコ・デルタへ、
ぜひ足を運んでみてください。

パキスタン・カラコルム山脈の7,000m峰に挑む
スパンティーク登頂

  • パキスタン

2013.08.01 update

パキスタン北部、四方をカラコルムの名峰・秀峰に抱かれた桃源郷フンザ。フンザを見下ろす山々の中でも、ひときわ目立つ7,000m峰がスパンティーク(別名ゴールデンピーク:7,027m)です。1902年、アメリカのワークマン夫妻に試登されて以来、日本はもちろん世界各国の登山家から愛され続けたスパンティーク。その南東稜は、数ある7,000m峰の中でも比較的登りやすいことで有名です。山容の美しさもさることながら、カラコルムの氷河の中でも最も美しいとされるチョゴルンマ氷河を渡ってのアプローチや、周囲に聳える名峰群(マルビティン、ライラ・ピーク、クプルタン・クン)の圧巻の景色が多くの登山家を魅了し、毎年各国から公募隊がこぞって訪れています。 カラコルムの隠れた名峰、憧れの7,000m峰に来夏は踏み込んでみませんか?

シムシャール・パミール SIMSHAL PAMIR ~カラコルム“地図の空白地帯” にヤクとともに生きる~スパンティークの頂上から望むラカポシ(7,788m)、ディラン(7,257m)、ウルタル(7,388m)

 

アランドゥからベースキャンプへ

首都イスラマバードから飛行機で1時間。K2をはじめとするカラコルム登山の玄関口、スカルドゥ(2,341m)から旅は始まります。ここで装備や食料の買い出しと最終確認をして、いざ最奥の村アランドゥ(2,924m)へ。ガタガタ道をジープで走ること約5時間、人口1200人程度のアランドゥ村は、晴れ渡る青い空と周囲を取り囲む雪山、黄色や緑色に輝く田畑の色彩が美しいのどかな場所です。村にひとつしかない学校では子どもたちが健やかに育ち、人々はヤギや羊、牛やゾッキョ、ヤクなどを飼って暮らしています。

  • 始まりの儀式
    フウロソウ科
  • 大タンカご開帳
    キク科
  • 僧院の壁に掲げられた大タンカ
    ベンケイソウ科
  • リンポチェの入場
    ムラサキ科
  • リンポチェ
    スミレ科
  • 十三黒帽の舞キンポウゲ科

マンピ・クーラ(ManpiKhura:3,335m)とボロチョ(Bolocho:3,800m)の2ヶ所のキャンプにテントを張り、スパンティークのベースキャンプ(B.C.:4,385m)を目指します。アランドゥ村を出発するとすぐにチョゴルンマ氷河がお目見え。その左岸のアブレーションバレーを詰め上がります。日中の気温が上がるにつれて、感じられる氷河の胎動。やがて、モレーンが成す灰色の世界から白氷の世界へといざなわれます。 最初のキャンプ地であるマンピ・クーラへ到着する直前、初めて前方にスパンティークが顔を出しました。高ぶる興奮を感じながら、これからの登山への覚悟を固めていきます。そんな緊張を、道中に咲き誇る高山植物の香りが癒してくれます。2番目のキャンプ地ボロチョからは、スパンティーク、マルビティン(7,458m)、ライラ・ピーク(6,985m)などの名峰群を眺めながら氷河上を歩きます。大きく口を開けたクレバス(氷河の割れ目)に注意しながらB.C.へ。時にはジャンプを強いられることもあります。

  • 会場で見かけたペラク(ラダック伝統の晴れ着)を纏った女性
    チョゴルンマ氷河の先にスパンティークを望む
  • 僧侶達によるチャム(マスク・ダンス)
    C1から拝むチョゴルンマ氷河の美しさ

ベースキャンプからC3へ

B.C.から先はタクティクス(戦術)がとても重要になってきます。ただでさえ天候が崩れやすく、かつ読みにくい山の天気。高度順応や荷上げ、積雪の締まり具合や体調など、様々な要素を考慮しながら慎重に進まなければなりません。C1(5,050m)へは稜線に抜けるための急登を約4時間で登ります。軽量化に努めてはいたものの、大量の荷上げや悪天候による後退により、4回もここを登る羽目になってしまいました。 C1からはいよいよ雪のついている南東稜線上を登っていきます。特にC1からC2(5,445m)の区間は日中であればゆうに腰まで埋まってしまうので、雪の締まる深夜から明け方までに行動しなくてはなりません。 核心部はC2からC3(6,155m)までの急登です。表からは見えないヒドゥンクレバスが多いため、フィックスロープを張り、ユマーリング(固定したロープにかけて使う登攀用具を用いてロープに沿って登ること)します。道中、ルプガール・サール(7、200m)、モムヒル・サール(7,343m)、トリボール(7,733m)、ディスタギル・サール(7,885m)といったヒスパー山群や、遠くK2(8,611m)、ラトック山群を拝むことができました。

  • 会場で見かけたペラク(ラダック伝統の晴れ着)を纏った女性
    前方にスパンティークを望みながらC2へ
  • 僧侶達によるチャム(マスク・ダンス)
    C3へ向かう核心部の急登

登頂

僧侶達によるチャム(マスク・ダンス)
頂上から拝むライラ・ピーク、ハラモシュ、奥にはナンガパルバット

深夜12時30分、C3を出発し遂に頂上を目指します。最初のアタックは悪天候により失敗し、一旦B.C.に引き返してからの2度目のアタックです。麓に広がる大きな雪田は、積雪の締まり具合によっては大変なラッセル(深い雪をはらいのけ道を開きつつ進むこと)を強いられます。高所では、一歩一歩にどれだけ体力を削がれないかが重要、極力楽な方法で歩くように努めます。 早朝5時26分、朝日に導かれるように頂上に立ちました。ハラモシュ(7,409m)や世界第9位の高峰ナンガパルバット(8,126m)、フンザの名峰ラカポシ(7,788m)やディラン(7,257m)もはっきりと眼前に聳えています。360度広がる展望とともに、達成感に満たされて過ごした頂上での約40分間。凍える指を駆使して写真撮影をし、興奮した声でもって衛星電話による日本への登頂報告。なんと隣ではパートナーが携帯電話を使っていました。ここまで標高も上がり展望が開ければ、電波も繋がります。 下山後、イスラマバードにあるACP(AlpineClubofPakistan)のオフィスに赴き登頂証明書を発行してもらい、大切にファイルに入れ持ち帰りました。 この登山は、今後の飛躍に繋がる貴重な経験となりました。苦労が多ければ多いほどに思い出深くなり、達成感は増し、頂上からの景色も格別なものに変化します。何より変わったのは自分自身かもしれません。
そんな皆様の人生を変える一山に、スパンティークをぜひ加えてみませんか?

王の道が貫く砂漠の国 ヨルダン

  • ヨルダン

2013.08.01 update

中東三大遺跡のひとつを有し、死海の先にイスラエルを望む国・ヨルダン。
近年、遺跡の調査や修復が進み新たな魅力を見せています。今回はヨルダンの魅力を再発見する見どころをご紹介します。

無数の蝋燭で照らされる夜のエル・ハズネで幻想的な時間を過ごす“ペトラ・バイ・ナイト”無数の蝋燭で照らされる夜のエル・ハズネで幻想的な時間を過ごす“ペトラ・バイ・ナイト”

ヨルダン最北・ゴラン高原を望む  デカポリス遺跡「ウンム・カイス」へ

首都アンマンから140キロ、ヤルムーク渓谷(ヨルダン渓谷)の奥にゴラン高原(イスラエル、シリア)、ゴリラヤ湖(イスラエル)を望む2世紀にデカポリスのリーダーとして最盛期を迎えた都市遺跡で、石灰岩と玄武岩の都市遺跡が周囲の景色の中で美しい光景を見せてくれます。新約聖書の「ガダラの豚の奇跡」の舞台であるガダラ(現ウンム・カイス)は古来から文化の中心として栄え、ローマの修辞学校の創設者であるテオドロスをはじめ、何人もの古典詩人や哲学者を輩出しました。「ガダラ」の町はプトレマイオス朝、セレウコス朝時代を経て、紀元前63年ローマ支配下に入り、デカポリスのひとつとして繁栄しました。しかし7世紀頃には衰退しイスラム勢力の支配下へと入っていきました。そしてオスマン帝国時代に遺跡の石を用いた村が作られ1987年まで実際に人々が暮らしていました。
ゴラン高原を望む玄武岩の柱廊が残る教会跡
ゴラン高原を望む玄武岩の柱廊が残る教会跡
西の劇場
玄武岩で作られた劇場として珍しく(シリアのボスラ遺跡にあります)、この劇場は約3000人の観客を収容しました。ウンム・カイスには2つの劇場がありますが、北の劇場は玄武岩のブロックがその後のオスマン帝国の村の住居の材料として持ち出され、破壊されています。西の劇場

ローマン・ロード(デクマヌス)
ローマの古代都市は南北を貫くメインロード「カルド・マクシムス-CaldoMaximus」と東西を貫くメインロード「デクマヌス・マクシムス-Decumanus Maximus」で構成されました。石畳が斜めに配置され、馬車の通行をスムーズにし、ノイズを下げたといいます。
ローマン・ロード(デクマヌス)

世界で唯一のナバタイ芸術を今に伝える フレスコ画が残る「リトル・ペトラ」

ペトラの北5キロにあるナバタイの遺跡群。350mのシク、神殿、墳墓、貯水池まであることから「リトル・ペトラ」と呼ばれています。実際にペトラの郊外のキャラバンの宿営地として使用されたと考えられています。遺跡の入り口にはペトラと同じスタイルの神殿が築かれ、内部には墳墓と住居と思われる洞窟が残っています。
この遺跡で特徴的なのは洞窟住居内に残されているフレスコ画。ナバタイの壁画で現存する唯一のもので、かつてはベドウィンの人々の炊いた火の煙で黒ずんでいたんでいましたが、イギリスの専門家により修復され、当時のナバタイの人々のギリシャ風の壁画とその芸術性をうかがい知ることができます。壁画は紀元後1世紀頃のものと推定され、ぶどう、鳥、そしてフルートを吹く天使のような少年の姿が確認できます。
天使のフレスコ画
3種の葡萄が描かれいずれも古代ギリシャのワインの神ディオニュソスと関連しています。フルートを吹く天使のような少年像。実在する植物や鳥をモチーフにギリシャの影響を受けた絵風で、ナバタイの芸術を今に伝える、世界でたったひとつの記録です。
天使のフレスコ画

初期イスラムの芸術と建築を今に伝える 「砂漠の城」蘇るウマイヤ朝の栄華

  首都アンマンの東、イラク国境へと走ること100キロほどの砂漠の中に初期イスラムの芸術と建築を今に伝える「砂漠の城」が残されています。「城」と呼ばれてはいるものの実際にはキャラバンの宿営地や交易の拠点、辺境への前哨基地であったなどと考えられています。そのうちでも必ず訪れるべき城がこのアムラ城。素晴らしいウマイヤ朝時代のフレスコ画が残され、再現された「砂漠の城」としてユネスコの世界遺産に指定されています。この「城」は8世紀に建てられた隊商宿跡、浴場跡、狩猟小屋跡とされていますが、フレスコ画に描かれたイスラム初期のこの地域の王族の暮らしについては様々な分析がなされています。アムラ城が建設されフレスコが描かれた711年頃、ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世が帝国内に壮大なイスラム建築を築いていました。ダマスカスのウマイヤ・モスクやエルサレムの岩のドームもこの時代のものです。この時代のイスラムに対する厳粛な信仰とは裏腹に、このアムラ城には裸婦の入浴姿が描かれました。そのため、この城は当時の王族たちが辺境の地で人目を逃れ快楽を享受するための離宮であったのではないかと考えられています。辺境の地であったため、それらのフレスコ画は後のイスラム教徒の破壊を逃れ、当時の王族の暮らしとユーモアを私たちに伝えています。

入口ホールの壁
当時のウマイヤ朝のカリフのライバルであった6人の偉大な支配者たちが描かれています。そのうちの4人は特定され、ビサンツ皇帝のカエサル、西ゴート王国のロドリーゴ、ササン朝ペルシャ皇帝ホスロー、アビシニア皇帝ネグスだと言われています。
入口ホールの壁
謁見のホールに描かれた壁面と天井を覆うフレスコ画
敬虔なイスラムのウマイヤ朝時代にも関わらず,胸を露わにした女性や働く大工,ラクダの姿などがパネルに描かれています。謁見のホールに描かれた壁面と天井を覆うフレスコ画
浴室のドームに描かれた北半球の天体・星座図
この建物に残されたドームとヴォールト天井のハマムはイスラム以降の建築としては最古のものの一つとされています。
浴室のドームに描かれた北半球の天体・星座図

極上の「死海リゾート」を体験
Dead Sea Expeerience

地球上で最も低い海抜マイナス420mの死海。アンマンやケラック方面から死海へ向かうと、車はぐんぐんと高度を下げていきます。東アフリカから紅海、そしてアカバ、この死海とヨルダン渓谷を貫く「大地溝帯」の深部へ下って行くことを実感せずにはいられません。ヨルダンでは2000年以降、死海沿いのリゾートが発達し、隣のイスラエルにも負けない設備のリゾートホテルができています。そのうちのひとつ「モーベンピック・デッド・シー・リゾート・アンド・スパ」をご紹介します。ツアーではこのホテルに滞在し、死海での優雅な滞在をお楽しみいただきます。金曜日を含む週末にはアンマンや近隣のアラブ諸国からの観光客で賑わう人気の高級リゾートホテルです。
死海での浮遊体験をお楽しみください。
死海での浮遊体験をお楽しみください。
ひよこ豆のペースト・ホンムスなど、ヨルダン渓谷で育ったオリーブをたっぷりかけたヨルダン・アラブ料理の前菜“メッセ” をお楽しみください。ヨルダン産ワインも。
ひよこ豆のペースト・ホンムスなど、ヨルダン渓谷で育ったオリーブをたっぷりかけたヨルダン・アラブ料理の前菜“メッセ” をお楽しみください。ヨルダン産ワインも。
死海を望むプール。ホテル内には中東一と謳われる美しいスパ・ZARA spaもご利用になれます(有料)。
死海を望むプール。ホテル内には中東一と謳われる美しいスパ・ZARA spaもご利用になれます(有料)。

関連ツアーのご紹介

王の道が貫く砂漠の国 ヨルダン

ワディ・ラム、砂漠の城、死海、薔薇色のペトラ、そしてゴラン高原を望むデカポリスのひとつウンム・カイスまで。ヨルダンの魅力を再発見する旅。

オマーン -海のシルクロードを渡った乳香-

  • オマーン

2013.08.01 update

古くは古代エジプトのファラオの時代から利用され、現在も宗教儀式や香水の原料として利用されている乳香。古の昔から人類に使われていた記録がある乳香の産地オマーンを訪ね、今も人々の心を捉える乳香の魅力と、海のシルクロードを通って各地に運ばれた乳香の歴史を辿りました

古都ニズワのスーク内を仕切る城門の扉。写真奥に見えている赤い扉は開かれている状態。これが閉じると城とスークが仕切られる。城塞都市ニズワには堅固な城が残る。

古都ニズワのスーク内を仕切る城門の扉。写真奥に見えている赤い扉は開かれている状態。これが閉じると城とスークが仕切られる。城塞都市ニズワには堅固な城が残る。

 

乳香の記録

  新約聖書には、キリスト生誕の際、東方からの三人の博士が乳香、没薬、黄金を貢物として持参したと記述されています。占星術により新しく生まれた王の場所を見つけ、ベツレヘムまでやって来た彼らの貢物の中に、黄金と並ぶ最大級の品・乳香がありました。また8世紀の中国の史書には、アラビアからの乳香が中国に運ばれたという記録が残っています。そして10世紀には、日本にも伝来した記録が残されています。
東方の三博士は、陸のシルクロードを通り、キリストのもとへ乳香を運びました。一方、日本まで伝わった乳香は、海のシルクロードを通り、中国を経由して渡ってきたのです。 では、古くから貴重な交易品として扱われた乳香とは、どういったものなのでしょうか。

ムトラ・スークの乳香屋。オマーン各地のスークでは乳香の専門店が軒を連ねる。どの店も店頭で乳香を実際に燻しており、その一角には甘い乳香の香が漂う。
ムトラ・スークの乳香屋。オマーン各地のスークでは乳香の専門店が軒を連ねる。どの店も店頭で乳香を実際に燻しており、その一角には甘い乳香の香が漂う。
乳香は測り売りが基本。品質により3種類に分けられた乳香は大量に袋に入ったものが並び、人々は自分の気に入った香の乳香を買い求める。
乳香は測り売りが基本。品質により3種類に分けられた乳香は大量に袋に入ったものが並び、人々は自分の気に入った香の乳香を買い求める。
昔ながらのアラブの雰囲気を残すニズワのスーク。日用品のほか、乳香はもちろんスパイスや工芸品などが売られている。このような伝統的な趣きのある路地は、現在はスークの一角に過ぎないが、たくさんの店で賑わう活気溢れる往時のスークに思いを馳せることができる。オマーンの男性は、大人から子供までディスターシャという国民服を着ている。
昔ながらのアラブの雰囲気を残すニズワのスーク。日用品のほか、乳香はもちろんスパイスや工芸品などが売られている。このような伝統的な趣きのある路地は、現在はスークの一角に過ぎないが、たくさんの店で賑わう活気溢れる往時のスークに思いを馳せることができる。オマーンの男性は、大人から子供までディスターシャという国民服を着ている。

乳香の木

 乳香は、カンラン科の樹木、乳香の木から出る樹液を固めたものです。乳香の木の樹皮に傷を付け、滲み出した樹液が固まるのを待ちます。樹液が乾燥し、樹に固まったものを集めます。乳白色、もしくは薄い茶褐色をしており、固まった樹脂を炭の上で燻してその香を楽しみます。私の感想としては、その煙は甘く、そして心をリラックスさせるアロマテラピー作用があるような香りです。

乳香とオマーン

  この乳香の一大産地であるオマーンでは、一般家庭で香として使われており、殺虫作用もあると言われています。オマーン各地のスークでは、乳香専門の店が軒を連ね、店頭で乳香を燻す香が漂っており、多くの人が乳香を買い求める様子を垣間見ることができます。
オマーンは、東アフリカ、インドなどとともに乳香の産地として有名な地ですが、古代から乳香の産地として名を馳せた地でした。オマーン南部、アラビア海に面したサラーラ近郊に残る、紀元前1世紀に遡るホール・リーリ等の都市遺跡から、季節風を利用し、海のシルクロードを伝った海洋交易によって乳香が運び出されたと考えられています。

海のシルクロード

  アケメネス朝の時代にすでに、アラビア海からインドへの探検が行われていたほか、ローマ帝国は海のシルクロードを使ってインドと交易を行っていました。インドで産出された宝石はローマに渡り、インドでは今もローマ時代の貨幣が見つかっています。7世紀になると、ダウ船を利用したアラビアやペルシャのイスラム商人が海洋交易を広げ、中国にも拠点を持つようになります。この頃、乳香は中国へと伝わり、反対に中国からは絹や陶器が西へと運ばれました。特に、重量があり壊れやすい陶器は、海のシルクロードを船で運ばれて行ったのです。その後日本へは、東南アジアからの白檀などの香木に加え、香として使われた乳香が伝わるようになります。
現在のオマーンでは、今でも乳香の木の栽培が行われ、オマーン国内のみならず、海外へと輸出されています。乳香は、世界各地で様々な宗教儀式の際に香として利用されているほか、香水の原料としても利用されています。
オマーンを訪ね、この地が乳香の海のシルクロードへの出発地であり、また長い歴史の中で日本まで伝わったことに思いを馳せることができました。スークに漂う乳香の香りの中、アラビア海を渡って同じ香りが日本にも漂ったことを思うと、感慨深いものがあります。
皆さまもぜひ、オマーンで乳香と海のシルクロードの歴史にふれてみてください。

 樹皮に傷をつけた所から樹液がしみ出す。空気にふれると固まり、乳白色〜橙色の涙滴状の塊となる。この様子が乳香という名の由来である。
樹皮に傷をつけた所から樹液がしみ出す。空気にふれると固まり、乳白色〜橙色の涙滴状の塊となる。この様子が乳香という名の由来である。
多くは炭で焚いて香として用いる。薬としても用いられ、鎮痛、止血などの効能があるとされる。また、唾液分泌の促進やリラクゼーションのために乳香樹脂をガムのように噛む地域もある。
多くは炭で焚いて香として用いる。薬としても用いられ、鎮痛、止血などの効能があるとされる。また、唾液分泌の促進やリラクゼーションのために乳香樹脂をガムのように噛む地域もある。
アラブらしい工芸品が並ぶオマーンのスーク。装飾の美しいアラビック・ポッドは日用品としてオマーンの人々に使われている。
アラブらしい工芸品が並ぶオマーンのスーク。装飾の美しいアラビック・ポッドは日用品としてオマーンの人々に使われている。

ムザンダム半島 −ホルムズの絶景−

オマーンは、アラビア半島南部に突き出たムサンダム半島を飛び地にしています。対岸のイランを挟むホルムズ海峡に面し、雄大なフィヨルド地形が広がっています。ペルシャ湾の出口を押さえる海の要綱として、大航海時代には、ポルトガルやペルシャなどに占領された歴史を持ちますが、現在は美しい海岸線やダイビングの名所として知られています。峻険な岩山が複雑に入り組んだリアス式海岸となっており、紺碧の海と褐色の大地の入り組んだ地形の絶景をご覧いただけます。ツアーでは、ハッサブに連泊し、かつて海のシルクロードでの海洋交易に利用された昔ながらの「ダウ船」に乗船。クルーズで海上からの眺めもお楽しみいただくことができます。アラビアのフィヨルドで、絶景とともに往時の交易に思いを馳せてみませんか。

フィヨルド地形の残るムサンダム半島
フィヨルド地形の残るムサンダム半島
褐色の大地が作る海岸線
褐色の大地が作る海岸線
ダウ船に乗船
ダウ船に乗船

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オマーン 乳香の道とホルムズの絶景ムサンダム半島

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オマーンからアラブ首長国連邦へ。古の乳香の産地、オマーン。海のシルクロードへと積み出された乳香の歴史を訪ね、 陸路、フィヨルドの残るムサンダム半島へ抜ける9日間の旅。

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