秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

パキスタン・カラコルム山脈の7,000m峰に挑む
スパンティーク登頂

  • パキスタン

2013.08.01 update

パキスタン北部、四方をカラコルムの名峰・秀峰に抱かれた桃源郷フンザ。フンザを見下ろす山々の中でも、ひときわ目立つ7,000m峰がスパンティーク(別名ゴールデンピーク:7,027m)です。1902年、アメリカのワークマン夫妻に試登されて以来、日本はもちろん世界各国の登山家から愛され続けたスパンティーク。その南東稜は、数ある7,000m峰の中でも比較的登りやすいことで有名です。山容の美しさもさることながら、カラコルムの氷河の中でも最も美しいとされるチョゴルンマ氷河を渡ってのアプローチや、周囲に聳える名峰群(マルビティン、ライラ・ピーク、クプルタン・クン)の圧巻の景色が多くの登山家を魅了し、毎年各国から公募隊がこぞって訪れています。 カラコルムの隠れた名峰、憧れの7,000m峰に来夏は踏み込んでみませんか?

シムシャール・パミール SIMSHAL PAMIR ~カラコルム“地図の空白地帯” にヤクとともに生きる~スパンティークの頂上から望むラカポシ(7,788m)、ディラン(7,257m)、ウルタル(7,388m)

 

アランドゥからベースキャンプへ

首都イスラマバードから飛行機で1時間。K2をはじめとするカラコルム登山の玄関口、スカルドゥ(2,341m)から旅は始まります。ここで装備や食料の買い出しと最終確認をして、いざ最奥の村アランドゥ(2,924m)へ。ガタガタ道をジープで走ること約5時間、人口1200人程度のアランドゥ村は、晴れ渡る青い空と周囲を取り囲む雪山、黄色や緑色に輝く田畑の色彩が美しいのどかな場所です。村にひとつしかない学校では子どもたちが健やかに育ち、人々はヤギや羊、牛やゾッキョ、ヤクなどを飼って暮らしています。

  • 始まりの儀式
    フウロソウ科
  • 大タンカご開帳
    キク科
  • 僧院の壁に掲げられた大タンカ
    ベンケイソウ科
  • リンポチェの入場
    ムラサキ科
  • リンポチェ
    スミレ科
  • 十三黒帽の舞キンポウゲ科

マンピ・クーラ(ManpiKhura:3,335m)とボロチョ(Bolocho:3,800m)の2ヶ所のキャンプにテントを張り、スパンティークのベースキャンプ(B.C.:4,385m)を目指します。アランドゥ村を出発するとすぐにチョゴルンマ氷河がお目見え。その左岸のアブレーションバレーを詰め上がります。日中の気温が上がるにつれて、感じられる氷河の胎動。やがて、モレーンが成す灰色の世界から白氷の世界へといざなわれます。 最初のキャンプ地であるマンピ・クーラへ到着する直前、初めて前方にスパンティークが顔を出しました。高ぶる興奮を感じながら、これからの登山への覚悟を固めていきます。そんな緊張を、道中に咲き誇る高山植物の香りが癒してくれます。2番目のキャンプ地ボロチョからは、スパンティーク、マルビティン(7,458m)、ライラ・ピーク(6,985m)などの名峰群を眺めながら氷河上を歩きます。大きく口を開けたクレバス(氷河の割れ目)に注意しながらB.C.へ。時にはジャンプを強いられることもあります。

  • 会場で見かけたペラク(ラダック伝統の晴れ着)を纏った女性
    チョゴルンマ氷河の先にスパンティークを望む
  • 僧侶達によるチャム(マスク・ダンス)
    C1から拝むチョゴルンマ氷河の美しさ

ベースキャンプからC3へ

B.C.から先はタクティクス(戦術)がとても重要になってきます。ただでさえ天候が崩れやすく、かつ読みにくい山の天気。高度順応や荷上げ、積雪の締まり具合や体調など、様々な要素を考慮しながら慎重に進まなければなりません。C1(5,050m)へは稜線に抜けるための急登を約4時間で登ります。軽量化に努めてはいたものの、大量の荷上げや悪天候による後退により、4回もここを登る羽目になってしまいました。 C1からはいよいよ雪のついている南東稜線上を登っていきます。特にC1からC2(5,445m)の区間は日中であればゆうに腰まで埋まってしまうので、雪の締まる深夜から明け方までに行動しなくてはなりません。 核心部はC2からC3(6,155m)までの急登です。表からは見えないヒドゥンクレバスが多いため、フィックスロープを張り、ユマーリング(固定したロープにかけて使う登攀用具を用いてロープに沿って登ること)します。道中、ルプガール・サール(7、200m)、モムヒル・サール(7,343m)、トリボール(7,733m)、ディスタギル・サール(7,885m)といったヒスパー山群や、遠くK2(8,611m)、ラトック山群を拝むことができました。

  • 会場で見かけたペラク(ラダック伝統の晴れ着)を纏った女性
    前方にスパンティークを望みながらC2へ
  • 僧侶達によるチャム(マスク・ダンス)
    C3へ向かう核心部の急登

登頂

僧侶達によるチャム(マスク・ダンス)
頂上から拝むライラ・ピーク、ハラモシュ、奥にはナンガパルバット

深夜12時30分、C3を出発し遂に頂上を目指します。最初のアタックは悪天候により失敗し、一旦B.C.に引き返してからの2度目のアタックです。麓に広がる大きな雪田は、積雪の締まり具合によっては大変なラッセル(深い雪をはらいのけ道を開きつつ進むこと)を強いられます。高所では、一歩一歩にどれだけ体力を削がれないかが重要、極力楽な方法で歩くように努めます。 早朝5時26分、朝日に導かれるように頂上に立ちました。ハラモシュ(7,409m)や世界第9位の高峰ナンガパルバット(8,126m)、フンザの名峰ラカポシ(7,788m)やディラン(7,257m)もはっきりと眼前に聳えています。360度広がる展望とともに、達成感に満たされて過ごした頂上での約40分間。凍える指を駆使して写真撮影をし、興奮した声でもって衛星電話による日本への登頂報告。なんと隣ではパートナーが携帯電話を使っていました。ここまで標高も上がり展望が開ければ、電波も繋がります。 下山後、イスラマバードにあるACP(AlpineClubofPakistan)のオフィスに赴き登頂証明書を発行してもらい、大切にファイルに入れ持ち帰りました。 この登山は、今後の飛躍に繋がる貴重な経験となりました。苦労が多ければ多いほどに思い出深くなり、達成感は増し、頂上からの景色も格別なものに変化します。何より変わったのは自分自身かもしれません。
そんな皆様の人生を変える一山に、スパンティークをぜひ加えてみませんか?

王の道が貫く砂漠の国 ヨルダン

  • ヨルダン

2013.08.01 update

中東三大遺跡のひとつを有し、死海の先にイスラエルを望む国・ヨルダン。
近年、遺跡の調査や修復が進み新たな魅力を見せています。今回はヨルダンの魅力を再発見する見どころをご紹介します。

無数の蝋燭で照らされる夜のエル・ハズネで幻想的な時間を過ごす“ペトラ・バイ・ナイト”無数の蝋燭で照らされる夜のエル・ハズネで幻想的な時間を過ごす“ペトラ・バイ・ナイト”

ヨルダン最北・ゴラン高原を望む  デカポリス遺跡「ウンム・カイス」へ

首都アンマンから140キロ、ヤルムーク渓谷(ヨルダン渓谷)の奥にゴラン高原(イスラエル、シリア)、ゴリラヤ湖(イスラエル)を望む2世紀にデカポリスのリーダーとして最盛期を迎えた都市遺跡で、石灰岩と玄武岩の都市遺跡が周囲の景色の中で美しい光景を見せてくれます。新約聖書の「ガダラの豚の奇跡」の舞台であるガダラ(現ウンム・カイス)は古来から文化の中心として栄え、ローマの修辞学校の創設者であるテオドロスをはじめ、何人もの古典詩人や哲学者を輩出しました。「ガダラ」の町はプトレマイオス朝、セレウコス朝時代を経て、紀元前63年ローマ支配下に入り、デカポリスのひとつとして繁栄しました。しかし7世紀頃には衰退しイスラム勢力の支配下へと入っていきました。そしてオスマン帝国時代に遺跡の石を用いた村が作られ1987年まで実際に人々が暮らしていました。
ゴラン高原を望む玄武岩の柱廊が残る教会跡
ゴラン高原を望む玄武岩の柱廊が残る教会跡
西の劇場
玄武岩で作られた劇場として珍しく(シリアのボスラ遺跡にあります)、この劇場は約3000人の観客を収容しました。ウンム・カイスには2つの劇場がありますが、北の劇場は玄武岩のブロックがその後のオスマン帝国の村の住居の材料として持ち出され、破壊されています。西の劇場

ローマン・ロード(デクマヌス)
ローマの古代都市は南北を貫くメインロード「カルド・マクシムス-CaldoMaximus」と東西を貫くメインロード「デクマヌス・マクシムス-Decumanus Maximus」で構成されました。石畳が斜めに配置され、馬車の通行をスムーズにし、ノイズを下げたといいます。
ローマン・ロード(デクマヌス)

世界で唯一のナバタイ芸術を今に伝える フレスコ画が残る「リトル・ペトラ」

ペトラの北5キロにあるナバタイの遺跡群。350mのシク、神殿、墳墓、貯水池まであることから「リトル・ペトラ」と呼ばれています。実際にペトラの郊外のキャラバンの宿営地として使用されたと考えられています。遺跡の入り口にはペトラと同じスタイルの神殿が築かれ、内部には墳墓と住居と思われる洞窟が残っています。
この遺跡で特徴的なのは洞窟住居内に残されているフレスコ画。ナバタイの壁画で現存する唯一のもので、かつてはベドウィンの人々の炊いた火の煙で黒ずんでいたんでいましたが、イギリスの専門家により修復され、当時のナバタイの人々のギリシャ風の壁画とその芸術性をうかがい知ることができます。壁画は紀元後1世紀頃のものと推定され、ぶどう、鳥、そしてフルートを吹く天使のような少年の姿が確認できます。
天使のフレスコ画
3種の葡萄が描かれいずれも古代ギリシャのワインの神ディオニュソスと関連しています。フルートを吹く天使のような少年像。実在する植物や鳥をモチーフにギリシャの影響を受けた絵風で、ナバタイの芸術を今に伝える、世界でたったひとつの記録です。
天使のフレスコ画

初期イスラムの芸術と建築を今に伝える 「砂漠の城」蘇るウマイヤ朝の栄華

  首都アンマンの東、イラク国境へと走ること100キロほどの砂漠の中に初期イスラムの芸術と建築を今に伝える「砂漠の城」が残されています。「城」と呼ばれてはいるものの実際にはキャラバンの宿営地や交易の拠点、辺境への前哨基地であったなどと考えられています。そのうちでも必ず訪れるべき城がこのアムラ城。素晴らしいウマイヤ朝時代のフレスコ画が残され、再現された「砂漠の城」としてユネスコの世界遺産に指定されています。この「城」は8世紀に建てられた隊商宿跡、浴場跡、狩猟小屋跡とされていますが、フレスコ画に描かれたイスラム初期のこの地域の王族の暮らしについては様々な分析がなされています。アムラ城が建設されフレスコが描かれた711年頃、ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世が帝国内に壮大なイスラム建築を築いていました。ダマスカスのウマイヤ・モスクやエルサレムの岩のドームもこの時代のものです。この時代のイスラムに対する厳粛な信仰とは裏腹に、このアムラ城には裸婦の入浴姿が描かれました。そのため、この城は当時の王族たちが辺境の地で人目を逃れ快楽を享受するための離宮であったのではないかと考えられています。辺境の地であったため、それらのフレスコ画は後のイスラム教徒の破壊を逃れ、当時の王族の暮らしとユーモアを私たちに伝えています。

入口ホールの壁
当時のウマイヤ朝のカリフのライバルであった6人の偉大な支配者たちが描かれています。そのうちの4人は特定され、ビサンツ皇帝のカエサル、西ゴート王国のロドリーゴ、ササン朝ペルシャ皇帝ホスロー、アビシニア皇帝ネグスだと言われています。
入口ホールの壁
謁見のホールに描かれた壁面と天井を覆うフレスコ画
敬虔なイスラムのウマイヤ朝時代にも関わらず,胸を露わにした女性や働く大工,ラクダの姿などがパネルに描かれています。謁見のホールに描かれた壁面と天井を覆うフレスコ画
浴室のドームに描かれた北半球の天体・星座図
この建物に残されたドームとヴォールト天井のハマムはイスラム以降の建築としては最古のものの一つとされています。
浴室のドームに描かれた北半球の天体・星座図

極上の「死海リゾート」を体験
Dead Sea Expeerience

地球上で最も低い海抜マイナス420mの死海。アンマンやケラック方面から死海へ向かうと、車はぐんぐんと高度を下げていきます。東アフリカから紅海、そしてアカバ、この死海とヨルダン渓谷を貫く「大地溝帯」の深部へ下って行くことを実感せずにはいられません。ヨルダンでは2000年以降、死海沿いのリゾートが発達し、隣のイスラエルにも負けない設備のリゾートホテルができています。そのうちのひとつ「モーベンピック・デッド・シー・リゾート・アンド・スパ」をご紹介します。ツアーではこのホテルに滞在し、死海での優雅な滞在をお楽しみいただきます。金曜日を含む週末にはアンマンや近隣のアラブ諸国からの観光客で賑わう人気の高級リゾートホテルです。
死海での浮遊体験をお楽しみください。
死海での浮遊体験をお楽しみください。
ひよこ豆のペースト・ホンムスなど、ヨルダン渓谷で育ったオリーブをたっぷりかけたヨルダン・アラブ料理の前菜“メッセ” をお楽しみください。ヨルダン産ワインも。
ひよこ豆のペースト・ホンムスなど、ヨルダン渓谷で育ったオリーブをたっぷりかけたヨルダン・アラブ料理の前菜“メッセ” をお楽しみください。ヨルダン産ワインも。
死海を望むプール。ホテル内には中東一と謳われる美しいスパ・ZARA spaもご利用になれます(有料)。
死海を望むプール。ホテル内には中東一と謳われる美しいスパ・ZARA spaもご利用になれます(有料)。

関連ツアーのご紹介

王の道が貫く砂漠の国 ヨルダン

ワディ・ラム、砂漠の城、死海、薔薇色のペトラ、そしてゴラン高原を望むデカポリスのひとつウンム・カイスまで。ヨルダンの魅力を再発見する旅。

オマーン -海のシルクロードを渡った乳香-

  • オマーン

2013.08.01 update

古くは古代エジプトのファラオの時代から利用され、現在も宗教儀式や香水の原料として利用されている乳香。古の昔から人類に使われていた記録がある乳香の産地オマーンを訪ね、今も人々の心を捉える乳香の魅力と、海のシルクロードを通って各地に運ばれた乳香の歴史を辿りました

古都ニズワのスーク内を仕切る城門の扉。写真奥に見えている赤い扉は開かれている状態。これが閉じると城とスークが仕切られる。城塞都市ニズワには堅固な城が残る。

古都ニズワのスーク内を仕切る城門の扉。写真奥に見えている赤い扉は開かれている状態。これが閉じると城とスークが仕切られる。城塞都市ニズワには堅固な城が残る。

 

乳香の記録

  新約聖書には、キリスト生誕の際、東方からの三人の博士が乳香、没薬、黄金を貢物として持参したと記述されています。占星術により新しく生まれた王の場所を見つけ、ベツレヘムまでやって来た彼らの貢物の中に、黄金と並ぶ最大級の品・乳香がありました。また8世紀の中国の史書には、アラビアからの乳香が中国に運ばれたという記録が残っています。そして10世紀には、日本にも伝来した記録が残されています。
東方の三博士は、陸のシルクロードを通り、キリストのもとへ乳香を運びました。一方、日本まで伝わった乳香は、海のシルクロードを通り、中国を経由して渡ってきたのです。 では、古くから貴重な交易品として扱われた乳香とは、どういったものなのでしょうか。

ムトラ・スークの乳香屋。オマーン各地のスークでは乳香の専門店が軒を連ねる。どの店も店頭で乳香を実際に燻しており、その一角には甘い乳香の香が漂う。
ムトラ・スークの乳香屋。オマーン各地のスークでは乳香の専門店が軒を連ねる。どの店も店頭で乳香を実際に燻しており、その一角には甘い乳香の香が漂う。
乳香は測り売りが基本。品質により3種類に分けられた乳香は大量に袋に入ったものが並び、人々は自分の気に入った香の乳香を買い求める。
乳香は測り売りが基本。品質により3種類に分けられた乳香は大量に袋に入ったものが並び、人々は自分の気に入った香の乳香を買い求める。
昔ながらのアラブの雰囲気を残すニズワのスーク。日用品のほか、乳香はもちろんスパイスや工芸品などが売られている。このような伝統的な趣きのある路地は、現在はスークの一角に過ぎないが、たくさんの店で賑わう活気溢れる往時のスークに思いを馳せることができる。オマーンの男性は、大人から子供までディスターシャという国民服を着ている。
昔ながらのアラブの雰囲気を残すニズワのスーク。日用品のほか、乳香はもちろんスパイスや工芸品などが売られている。このような伝統的な趣きのある路地は、現在はスークの一角に過ぎないが、たくさんの店で賑わう活気溢れる往時のスークに思いを馳せることができる。オマーンの男性は、大人から子供までディスターシャという国民服を着ている。

乳香の木

 乳香は、カンラン科の樹木、乳香の木から出る樹液を固めたものです。乳香の木の樹皮に傷を付け、滲み出した樹液が固まるのを待ちます。樹液が乾燥し、樹に固まったものを集めます。乳白色、もしくは薄い茶褐色をしており、固まった樹脂を炭の上で燻してその香を楽しみます。私の感想としては、その煙は甘く、そして心をリラックスさせるアロマテラピー作用があるような香りです。

乳香とオマーン

  この乳香の一大産地であるオマーンでは、一般家庭で香として使われており、殺虫作用もあると言われています。オマーン各地のスークでは、乳香専門の店が軒を連ね、店頭で乳香を燻す香が漂っており、多くの人が乳香を買い求める様子を垣間見ることができます。
オマーンは、東アフリカ、インドなどとともに乳香の産地として有名な地ですが、古代から乳香の産地として名を馳せた地でした。オマーン南部、アラビア海に面したサラーラ近郊に残る、紀元前1世紀に遡るホール・リーリ等の都市遺跡から、季節風を利用し、海のシルクロードを伝った海洋交易によって乳香が運び出されたと考えられています。

海のシルクロード

  アケメネス朝の時代にすでに、アラビア海からインドへの探検が行われていたほか、ローマ帝国は海のシルクロードを使ってインドと交易を行っていました。インドで産出された宝石はローマに渡り、インドでは今もローマ時代の貨幣が見つかっています。7世紀になると、ダウ船を利用したアラビアやペルシャのイスラム商人が海洋交易を広げ、中国にも拠点を持つようになります。この頃、乳香は中国へと伝わり、反対に中国からは絹や陶器が西へと運ばれました。特に、重量があり壊れやすい陶器は、海のシルクロードを船で運ばれて行ったのです。その後日本へは、東南アジアからの白檀などの香木に加え、香として使われた乳香が伝わるようになります。
現在のオマーンでは、今でも乳香の木の栽培が行われ、オマーン国内のみならず、海外へと輸出されています。乳香は、世界各地で様々な宗教儀式の際に香として利用されているほか、香水の原料としても利用されています。
オマーンを訪ね、この地が乳香の海のシルクロードへの出発地であり、また長い歴史の中で日本まで伝わったことに思いを馳せることができました。スークに漂う乳香の香りの中、アラビア海を渡って同じ香りが日本にも漂ったことを思うと、感慨深いものがあります。
皆さまもぜひ、オマーンで乳香と海のシルクロードの歴史にふれてみてください。

 樹皮に傷をつけた所から樹液がしみ出す。空気にふれると固まり、乳白色〜橙色の涙滴状の塊となる。この様子が乳香という名の由来である。
樹皮に傷をつけた所から樹液がしみ出す。空気にふれると固まり、乳白色〜橙色の涙滴状の塊となる。この様子が乳香という名の由来である。
多くは炭で焚いて香として用いる。薬としても用いられ、鎮痛、止血などの効能があるとされる。また、唾液分泌の促進やリラクゼーションのために乳香樹脂をガムのように噛む地域もある。
多くは炭で焚いて香として用いる。薬としても用いられ、鎮痛、止血などの効能があるとされる。また、唾液分泌の促進やリラクゼーションのために乳香樹脂をガムのように噛む地域もある。
アラブらしい工芸品が並ぶオマーンのスーク。装飾の美しいアラビック・ポッドは日用品としてオマーンの人々に使われている。
アラブらしい工芸品が並ぶオマーンのスーク。装飾の美しいアラビック・ポッドは日用品としてオマーンの人々に使われている。

ムザンダム半島 −ホルムズの絶景−

オマーンは、アラビア半島南部に突き出たムサンダム半島を飛び地にしています。対岸のイランを挟むホルムズ海峡に面し、雄大なフィヨルド地形が広がっています。ペルシャ湾の出口を押さえる海の要綱として、大航海時代には、ポルトガルやペルシャなどに占領された歴史を持ちますが、現在は美しい海岸線やダイビングの名所として知られています。峻険な岩山が複雑に入り組んだリアス式海岸となっており、紺碧の海と褐色の大地の入り組んだ地形の絶景をご覧いただけます。ツアーでは、ハッサブに連泊し、かつて海のシルクロードでの海洋交易に利用された昔ながらの「ダウ船」に乗船。クルーズで海上からの眺めもお楽しみいただくことができます。アラビアのフィヨルドで、絶景とともに往時の交易に思いを馳せてみませんか。

フィヨルド地形の残るムサンダム半島
フィヨルド地形の残るムサンダム半島
褐色の大地が作る海岸線
褐色の大地が作る海岸線
ダウ船に乗船
ダウ船に乗船

関連ツアーのご紹介

オマーン 乳香の道とホルムズの絶景ムサンダム半島

オマーン 乳香の道とホルムズの絶景ムサンダム半島

オマーンからアラブ首長国連邦へ。古の乳香の産地、オマーン。海のシルクロードへと積み出された乳香の歴史を訪ね、 陸路、フィヨルドの残るムサンダム半島へ抜ける9日間の旅。

ベリーズ・ATM(アクトゥン・チュニチル・ムクナル)洞窟大冒険

  • ベリーズ

2013.08.01 update

ベリーズ・ATM(アクトゥン・チュニチル・ムクナル)洞窟大冒険



世界有数のカルスト地形を誇る中米ユカタン半島。この半島には、多くの鍾乳洞やセノーテが数多く点在しています。かつて、この地域に住んでいたマヤの人々にとって、それらは冥界への入口であり、信仰の対象であり、そして、儀式を執り行う舞台でした。熱帯雨林が色濃く残るカリブの小国ベリーズには、当時のマヤの人々の痕跡が残る手つかずの鍾乳洞がいまだに数多く遺されています。

ATM洞窟とは

 石灰岩質の大地広がるユカタン半島。その付け根にあるベリーズには、今もなお熱帯雨林に隠された鍾乳洞が数多く遺されています。その中でも、探検家になったかのような大冒険を体験できる、とっておきの洞窟をご紹介いたします。
ベリーズ・シティから約2時間、ちょうどベリーズの中央部に位置する鍾乳洞『アクトゥン・チュニチル・ムクナル洞窟』。舌を噛みそうな名前のこの洞窟は、頭文字をとって通称『ATM洞窟』と呼ばれ、ベリーズを訪れる旅人たちにとって隠れた人気スポットとなりつつあります。
人気の秘密は、この洞窟にマヤ文明の生贄の儀式の遺構が残されているからだけではありません。真っ暗闇の鍾乳洞の中を、自分のヘッドライトの明かりだけを頼りに進んでいき、時には地下水脈の中を泳ぎ、時には自分の背丈以上の壁をよじ登って、さらに奥へ奥へと進んでいく。このこと自体が、かつてこの地を訪れたであろう探検家の追体験ともいうべき内容なのです。ここでしかできない大冒険を、ご紹介したいと思います。

洞窟の中のご紹介

まず洞窟にたどり着くまでがすでに冒険です。車を降りてからジャングルの中を歩くこと45分、途中3回川を歩いて越え(1)、ようやく鍾乳洞の入口にたどり着くのです。
中に入る前に、入口では皆様にヘルメットやヘッドランプを着用していただきます。ご希望の方は救命胴衣も着けていただき、いざ鍾乳洞の中へ。
鍾乳洞の入口は地下水脈の出口となっていて、一部足のつかないところもありますが、ここを泳いで渡ります(2)
中に入ってからも、一部足の着かないところを泳いだり、岩山をよじ登ったりしながら先へと進みます(3)
途中、ヘッドライトで暗闇に浮かび上がる鍾乳石は、まるで無数の宝石をちりばめたかのようにキラキラ光り、鍾乳石が上下から生える不思議な光景の中を進むと、まるで自分が探検家になったかのような気分です(4)
最後の梯子を上ると、その奥には生贄として捧げられた少年の骨が静かに永遠の眠りについています(5)。驚くことに、この骸骨は通常の人間の骨より太く見えますが、これは雨季に洞窟内に流れ込む雨水の石灰質が、長い年月の間に骨の周りにゆっくりと沈着していったからです。

洞窟に入ってから出てくるまで約3~4時間。洞窟内で見ることができる骸骨や出土品もとても貴重なものですが、このATM洞窟の醍醐味は、やはり、かつてマヤの遺跡と財宝を探してこの地を冒険した探検家たちの気分を味わえる、という点に尽きます。いつまでこの洞窟が観光客に公開されているかはわかりません。考古学的にも大変興味深いこの洞窟探検に、ぜひご一緒してみませんか。

ATM1
ATM2
ATM3
ATM4
ATM5

ベリーズのみどころ
翠のカリブ海と新緑の熱帯雨林の出会う国

  • 美しい大自然を体感
    洞窟探検のほかにも、シュノーケリング、ダイビング、マナティの観察、野鳥の観察など、大自然を楽しむ体験型の旅を楽しめるのがベリーズです。 美しい海を体感(c)BPRPシュノーケリングで美しい海を体感(c)BPRP
  • 人気No.1のブルーホール
    ベリーズの代名詞ともいうべきブルーホール。カリブの海にぽっかりあいた大きな穴を、海からも空からもご覧いただくことができます。

    ブルーホール(c)BPRPブルーホール(c)BPRP

  • 古代マヤ文明の痕跡を辿る
    カラコル、ラマナイ、シュナントゥニッチ、カル・ペチなど、あまり知られてはいませんがベリーズにも重要なマヤの遺跡が数多く眠ります。

    ラマナイ遺跡ラマナイ遺跡

関連ツアーのご紹介

ベリーズ

翠のカリブ海と深緑の熱帯雨林の出逢う国。ベリーズ最大の見どころブルーホールは海と空からアプローチ。熱帯雨林ハイキングと洞窟スイムで辿りつくことが許されるATM洞窟も。

メソアメリカ4ヶ国周遊 マヤ世界を巡る旅

中米のマヤ遺跡を代表するチチェン・イツァ、ティカル、キリグア、コパンを始め9ヶ所のマヤ遺跡へ。ベリーズではオプショナルでブルーホール遊覧飛行もお楽しみいただけます。

中米7ヶ国 パン・アメリカン・ハイウェイ縦断の旅

移りゆく景色を眺めながら、6つの国境を陸路で越える。パナマ運河、古代マヤ遺跡、熱帯雨林のジャングルと動植物、コロニアル様式の街並み。パナマからベリーズまで縦断。

バングラデシュ ベンガルの大地を水と共に生きる

  • バングラデシュ

2013.08.01 update

バングラデシュ -ベンガルの大地を水と共に生きる-

 

バングラデシュ Bangladesh

 インド亜大陸の東端に位置するバングラデシュ。ガンジス川、ジャムナ川、メグナ川の3本の川と無数の支流が国全体を潤しながらベンガル湾にそそぎこみ、毎年起こる洪水では国土の約3分の1が水に浸かります。人々はその洪水を災害ではなく自然の恵みとして共存し暮らしてきました。バングラデシュは1971年に東インド(現パキスタン・イスラム共和国)から分離・独立した比較的新しい国です。一方、この地には紀元前から仏教、ヒンドゥー教、イスラム教の王朝が順に栄え、互いに影響しあいながら築き上げられた豊かな文化が息づいています。

  雨季になると国内だけでなくインド側からも大水が流れ込み、標高差が少ないデルタ地帯の大地は、しばしば洪水に見舞われます。およそ10年に一度おこる大洪水は「ボンナ」と呼ばれ恐れられていますが、それ以外の定期的な洪水は「ボンナ」と区別して「ボルシャ」と呼ばれ、肥沃な土や魚を運ぶ豊かな自然の恵みとされています。

バングラデシュの主な産業は農業。米などの穀物のほか、イギリス統治時代からの輸出品であるジュートやインド藍、紅茶も作られています。人口は世界7位、都市国家を除くと人口密度の高さは世界一となります。この国を旅していると、いたるところで働く人々の笑顔と出会うことができます。国民の83%はイスラム教徒ですが、他のイスラム教国と比べて外で働く女性の姿を多く見かけます。有名なグラミン銀行の支援で自立する農村女性も多く、村を訪れると女性たちに大歓迎されます。

日本では「貧しい国」と言ったイメージが付きまとうバングラデシュですが、詩人タゴールが「我が黄金のベンガルよ」と讃えた豊かな大地や美しい農村風景、人々の笑顔こそが一番の魅力なのではないでしょうか。

大地が隆起したあと、風と雨による浸食によって削られた大地が
モングラ付近の川沿いにて
モングラ付近の川沿いにて
乾燥させたジュートを運ぶ
乾燥させたジュートを運ぶ
バングラデシュの農村にて
バングラデシュの農村にて

世界自然遺産 シュンドルボン国立公園
世界最大のマングローブ地帯

バングラデシュの南西部に広がる、世界自然遺産シュンドルボン国立公園。バングラデシュとインドの西ベンガル州にまたがる世界最大の広大なマングローブ地帯には、ベンガル・タイガーやガンジス・カワイルカなど希少な野生動物が暮らしています。
マングローブの森は人々にも豊かな恵みを与えています。毎年4月から5月は蜂蜜採りのシーズン。この時季はベンガル・タイガーが凶暴になる繁殖期にあたり、男たちは命がけで森に分け入り蜂蜜を採ります。その際、蜂の巣を全て採ってしまうことはせず、必ず3分の1を蜂のために残します。
シュンドルボンの伝統的な漁は「カワウソ漁」。訓練したカワウソが漁師のかけた網に魚を追います。シュンドルボンの森の間を巡る水路を船で行くと、伝統漁を生業にして暮らす人々の村や漁に出る小舟とすれ違います。

  • シュンドルの木
    シュンドルボンの名前の由来となったシュンドルの木(下)と呼吸根(左)。干潟ではシオマネキやムツゴロウなどが暮らしています。干潟に暮らすシオマネキ干潟に暮らすシオマネキ
    シュンドルの木シュンドルの木
  • カワウソ漁
    伝統的なカワウソ漁の様子。日本の鵜飼いと似ていますが、カワウソは魚を飲み込むのではなく網に追い込みます。 

    カワウソ漁の様子カワウソ漁の様子
    カワウソカワウソ

  • マングローブに生きる漁師と樵の村
    村の片隅には土着の女神「バンビビ」を祀る小さな社が造られています。漁師や樵は仕事の前にこの社を訪れ、女神に安全と仕事の成功を祈ります。
    「バンビビ」と祀る社「バンビビ」を祀る社
    マングローブに生きる樵マングローブに生きる樵

石のない大地で発展した砂が織り成す芸術
バングラデシュのテラコッタ彫刻園

大河のデルタ地帯にあるバングラデシュ。川が運ぶ豊かな土砂はレンガ作りに適しており、他の建築素材に比べて度重なる洪水にも強いことから、現在残る歴史的な建築物の多くはレンガで造られています。そのレンガの建築物を飾るのが「テラコッタパネル」。粘土が乾かないうちに素早く彫刻を施して焼くテラコッタパネルは、十分に時間をかけて作られる石や木の彫刻に比べて素朴で味わい深く、その赤茶色の肌が豊かなベンガルの大地に映えます。バングラデシュの文化は、仏教やヒンドゥー教、イスラム教の文化がおおらかに混ざりあって形成されたため、彫刻にもその影響が見てとれます。

仏教遺跡パハルプール
インド亜大陸最大の仏教遺跡パハルプール。僧院が造られた8〜9世紀、仏教がタントリズム期にあったため、その装飾にはヒンドゥーの神々も描かれています。

仏教遺跡パハルプール
仏教遺跡パハルプールのレリーフ
プティアのヒンドゥー寺院
19世紀に建造されたプティアのヒンドゥー寺院。イスラムのムガール帝国時代に造られたため、ヒンドゥーの寺院でありなが
らイスラムの影響を受けた彫刻が見られます。ここにはムガール帝国時代の狩猟の様子がいきいきと描かれています。

プティアのヒンドゥー寺院<
プティアのヒンドゥー寺院のレリーフ

関連ツアーのご紹介

黄金のベンガル バングラデシュ

黄金のベンガル バングラデシュ

豊かな北部と世界最大のマングローブ、美しい月夜のシュンドルボンの森へ。マングローブ、多様な遺跡群、喧噪の街並み… 豊かな農村風景とベンガルの大地に生きる人々に出会う。

バングラデシュを撮る

バングラデシュを撮る

美しくたくましいバングラデシュの姿をゆっくり撮影する季節限定の写真撮影特別企画。11月、12月は畑一面を黄色のカラシ菜の花が埋め尽くし、稲穂が輝く米の収穫の季節。

バングラデシュ テキスタイル紀行

バングラデシュ テキスタイル紀行

「黄金のベンガル」豊かな大地に息づく手仕事と出会い、体験する旅。計4回のワークショップでノクシカタや草木染めなどの手仕事を体験。

PAGE TOP