秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

チャチャポヤス 知られざるアンデスの古代文明

  • ペルー

2014.03.01 update

アマゾン近く、アンデス山中に栄えた知られざるチャチャポヤス文明
インカ帝国が栄える遥か以前、ペルー北部に点在した古代文明を訪ねる旅へ

断崖に張り付くカラヒアの石棺
断崖に張り付くカラヒアの石棺

 

神秘に満ちた断崖絶壁の石棺 カラヒアの石棺遺跡

チャチャポヤスの町から山の谷間を48キロほど走ると、カラヒアの石棺を訪問する拠点となる村クルスパタに到着します。村には、「事務所」と呼ばれるチケット売り場があり、ここで入場券を購入。のどかな畑の合間の山道、最後は急な谷間への下りを歩くこと45分、カラヒアの石棺を見上げるポイントへ到着しました。石棺は、私たちの立っている道から25m真上の崖の中腹にあり、どうやって設置したのか、とても不思議な場所にあります。

現在、石棺は6体。そのうちの2体には頭部に頭蓋骨が置かれています。以前は7~8体あったといわれていますが、崩れて無くなっています。これらの石棺は紀元後800~1470年頃まで続いたチャチャポヤス文化の中の1000~1300年頃に作られたとされ、一部の研究でデータでは1150年という具体的な年代もでているようです。

カラヒアの石棺遺跡
装飾の細部を見るには望遠レンズか双眼鏡が便利。頭の上には頭蓋骨が載っているものもあります。チャチャポヤスの石棺にはいくつかの種類がありますが、カラヒアのものは軽くて丈夫なマゲイ(リュウゼツラン)の花茎で骨組みを作り、草と粘土を混ぜ合わせた土で表面を塗り固めたもの。高さは2〜2.5mで、表面には彩色が施されています。石棺は死者を模したものと言われていますが、その身体の模様は鳥の羽をイメージしているのではないかとも言われています。
カラヒアの石棺遺跡
初期の調査時には保存状態は今より良かったそうです。現在は風化・崩落の危機に。
頭部と空洞の胴部からなる石棺も作られましたす。死後、一度遺体を土に埋めて骨化した後に集め、布や動物の皮などで包み、これを石棺の胴部において、副葬品とともに泥土で固め埋葬されていたそうです。

雲上の人々が暮らしたチャチャポヤス都 ケラップ遺跡(Kuelap)

標高3,000mの山奥、稜線の上に築かれたチャチャポヤス最大の遺跡がケラップ。スペイン語の表現からすると「ケラップ要塞」と訳されますが、実際にはこの建物は戦いで使われたわけではなく、多くの住居群、神殿が見つかっている都市遺跡です。チャチャポヤス文化はプレ・インカ文明の一つであり、まだ謎に包まれた部分が多く存在しますが、チャチャポヤスとはケチュア語で「雲霧の森に住む人々」という意味だと言われています。9世紀頃から栄え、1470年頃にはインカ帝国の支配と文化的な影響を受け、その後すぐにスペインの支配下に入り消滅しました。

遺跡は南北585m、東西110m、城壁の高さ17m。入り口は東側に2カ所、西側に1カ所あり、非常に狭い通路を通って中に入ります。城壁内にはチャチャポヤスの特徴となる円形の住居跡が420ケ所も確認されています。中には。ひし形などのデザインがある住居も6カ所ほど残っています。

遺跡内部は一年中雲に覆われることから、プロメリアやシダ、ランが木に着生し独特の植物相に覆われた遺跡の姿を見ることができます。チャチャポヤス文化の中で、政治、宗教の中心であったと考えられるケラップ遺跡。遺跡と雲霧林の自然美しい魅力的な都市遺跡です。

北門の入口
北門の入口
長い山道を走り、ケラップ遺跡を目指します。遺跡は精巧な石積みがされた城壁に囲まれており、内部に入るのにまずこのような門をくぐります。
テンプロ・マヨール
テンプロ・マヨール
南端にあるテンプロ・マヨール(主神殿)は高さ5m、直径13.5mの円錐形建物で、その中心には深い穴があり人や動物の骨、植物の種子、祭礼用の陶器などが。発見されています。
美しい石積みが残るケラップ遺跡の城壁
美しい石積みが残るケラップ遺跡の城壁
各所に残る円形の住居跡
各所に残る円形の住居跡
美しいひし形のデザインが 施された住居
美しいひし形のデザインが施された住居
蹄の跡
蹄の跡
ケラップ遺跡の往時にはリャマを運搬用に使っており、遺跡の通路となる階段にはリャマの蹄ですりへった石の跡も残されています。ケラップの城塞内には水場が無く、リャマが水や食料など運んでいたそうです

すり鉢とクイの囲い
すり鉢とクイの囲い
住居の中には生活を感じさせるすり鉢や石が残されていました。

そして、この石の通路なんと「クイ」(テンジクネズミ)を飼っていたというのです。チャチャポヤスの人もクイが好物だったようです。

北部ペルーに残るチャチャポヤス文明の遺産たち
レバッシュの空中墳墓(Revash)&コンドル湖のミイラが眠る(Leymebamba)

チャチャポヤス文化の遺 跡の中でもアクセスが難しいことから訪れる人も少な いレバッシュの墳墓。レバ ッシュは石灰岩の断崖に作 られた埋葬用の建物です。 この遺跡自体は19世紀にはその存在が知られていましたが、1940年代に入って正式に調査 され、カーボン分析の結果、紀元後1250年ごろのものとされています。また、レイメバンバの博物館には、近郊のコンドル湖の湖畔から見つかった200体以上ものミイラが収めらています。どのミイラも一様に、膝を抱え、肘を曲げており、手首や肘のあたりを縄で縛られた形で発見されました。これらの多くはチャチャポヤスより以降、インカ時代のものであり、その文化の融合が興味深い珍しい遺跡と言えます。チャチャポヤス期のミイラも発見されており、独自の特殊な処理が施された姿もこの博物館で見学することができます。

レイメバンバ博物館のミイラ
レイメバンバ博物館のミイラ

断崖に作られたレバッシュの空中墳墓
断崖に作られたレバッシュの空中墳墓

 

関連ツアーのご紹介

チャチャポヤスと北部ペルーの黄金文明

アンデス山中に栄えた知られざるチャチャポヤス文明、海岸部に発達したモチェ文化やシカン文化などの黄金文明。インカ帝国が栄える遥か以前、ペルー北部に点在した古代文明を訪ねる旅。

チャチャポヤスとシカン・シパンの黄金文明

北部ペルー紀行・雲上の人々が暮らした都へ。乾季に限定した特別企画コース。11日間の行程でチャチャポヤスとシカン、シパンの遺跡をめぐります。

インド洋交易によって栄えた海洋文明
スワヒリ文化が息づくザンジバルとキルワの史跡群を訪ねて

  • タンザニア

2014.03.01 update

東アフリカ、インド洋に面した都市に残る知られざる遺跡を求めて2012年よりはじまったタンザニア島嶼部を訪ねるツアー。
中世以降、インド洋交易を舞台に興った都市文明を辿り、スワヒリ地方の魅力に迫ります。

ベリーズ・ATM(アクトゥン・チュニチル・ムクナル)洞窟大冒険
ザンジバルの港を航行するダウ船

 

東アフリカ島嶼部・外来文化と土着文化の融合「スワヒリ文化」


ザンジバル島の市場にて

スワヒリとはアラビア語で「海岸」を意味するサーヒルに由来します。ソマリア南部からモザンビーク北部に 至るベルト状の海岸地域で、約2000kmの範囲を指します。ここでは古くからインド洋を舞台にアラビアや ペルシャ、インドとの交易が、行われてきました。規則的に風向きを変えるモンスーンと海流を利用し、冬季 の11月から2月には北東モンスーンに合わせて西アジア地域から香辛料や乳香が、夏季の4月から9月には 南西モンスーンに合わせてスワヒリ地域から象牙や奴隷、金が帆船(ダウ船)によって運ばれてきました。 人種的にはコイサン系狩猟民とエチオピアから南下したクシ系牧畜民が生活していたところへ、5世紀頃大陸 内部からバントゥー系農耕民が入り、さらに彼らとアラブ人、ペルシャ人商人との通婚で混血化が進み、現在 のスワヒリ人が生まれたと考えられています。このような現地社会と外来の商人との関わりの中でスワヒリ語 に代表される独自の文化が育まれ、12世紀以降スワヒリ文化として開花しました。その後、西欧や東イスラ ム圏、中国における象牙や金の需要の高騰によってスワヒリ地域の交易も刺激を受け、スワヒリ人自身も商業 のために海へ乗り出すようになりました。

黄金の港湾都市・盛衰の歴史「キルワ・キシワニ」

タンザニアの最大都市ダルエスサラームから南へ300kmの洋上にキルワ・キシワニ島はあります。伝説では750年に現在のイラン・シラーズ出身のハッサンという王が兄弟7人でアフリカ東海岸へ七艘のダウ船でやってきて、それぞれキスマユ(ソマリア南部)、モンバサ、ラム(ともにケニア)、マフィア、ザンジバル、キルワ(いずれもタンザニア)、ソファラ(モザンビーク)の海岸に流れ着き、このスワヒリの各都市で強大な王国を築きました。キルワは6番目の王子によってその基礎が築かれたと言われています。12世紀末に現在のジンバブエに繁栄していたモノモタパ王国の産金地帯とソファラを結ぶ交易路を支配し重要な交易都市として発展しました。14世紀には東アフリカ最大の都市として全盛期を迎え、アラブ人の大旅行家イブンバットゥータも1331年に訪れ、「世界で一番美しい整然とした町の一つ。町全体のつくりが上品である」とその旅行記の中で伝えています。 しかし、1500年に来航したポルトガルによってキルワの状況は一変します。ポルトガルの朝貢国となることを拒否したため、ソファラとの金交易の道を遮断されたあと略奪、破壊を受け、徐々に衰退して行きました。1569年に訪れたイエズス会の神父によると「かつては町に人々があふれ繁栄していたが今は貧しく権力も失われてしまった。王というよりは族長と呼ぶ方が似合っている」とその変わり様を伝えています。その後、住民も本土へと移り住み、キルワ・キシワニは荒廃していきました。現在は、木々に埋もれるようにして当時の栄華を伝える遺跡が島に残っています。

  • キルワ・キシワニの金曜モスク跡
  • ソンゴ・ムナラに残る遺跡
  • ポルトガル要塞

アラブの伝統を色濃く残す旧市街ストーンタウンが残る
ザンジバルとマスカットオマーン

ポルトガルの後にスワヒリ地域にやってきたのはマスカットオマーンです。インド洋仏領諸島でサトウキビプランテーション経営が始まり、また西アフリカで奴隷交易の取り締まりが厳しくなるなかで、喜望峰を越えて東アフリカまで来るようになった奴隷交易の拡大・需要を受け、18世紀のスルタン、サイイド・ザイードは1840年にその拠点を本国からザンジバル島に移します。奴隷交易が廃止された後もオマーン人商人によってクローブ(丁子)が導入され、現在まで続く重要な外貨獲得源となりました。ザイードが珊瑚石の壁で建設したストーンタウンの街並みは現在ユネスコの世界遺産として登録され、オマーン人による支配時代の宮殿跡やイギリス統治時代の教会などが残ります。


  • オマーンの影響が残る扉

  • ザンジバルの旧市街

【キルワでの滞在】マングローブ林に眠る宮殿跡

キルワの滞在中は、キルワ・キシワニ島とソンゴ・ムナラ島の二つをボートで巡ります。なかでも、キルワ・キシワニ島には、ポルトガル要塞からさらにマングローブ林の狭い水路を進むと、外洋まで見渡せる位置に宮殿跡が残っています。フスニクブワ(大きな城の意)宮殿跡は14世紀のスルタン・スレイマンによって建てられたもので、当時訪れたイブン・バットゥータもここでスルタンに謁見したといわれます。宮殿中庭のプールはマムルーク朝エジプトで流行していたもの、円錐形のドームはイランやアナトリア地方、テント型のドームはセルジューク朝時代の北イラクやトルコ、ペルシャの影響がみられるもので、インド洋交易がもたらしたキルワの栄華を見てとることができます。 ソンゴ・ムナラ島の遺跡にはスルタンの暮らした宮殿とモスク跡が残っています。現在は押し寄せる波やマングローブの気根、バオバブの密林に侵食されほとんどが廃墟と化してしまっていますが、モスクにはメッカの方角を示す精緻なミフラブ(聖龕)があり、スワヒリに定着したイスラム教徒の敬虔な信仰を今に伝えています。修復活動、研究が続けられていますが未だに多くに謎に包まれています。

  • マングローブ林をボートで進む
  • ソンゴ・ムナラのモスク跡
  • キルワ・キシワニの宮殿跡

【ザンジバルでの滞在】旧市街の散策や美しい海辺の魅力

滞在中は旧市街のストーンタウンに連泊。史跡以外にもこの地に生まれたイギリスのロックヴォーカリスト・フレディマーキュリーの家や、元奴隷市場があった広場に建つカテドラル、奴隷が幽閉されていた場所、またザンビアのタンガニーカ湖畔で息を引き取った著名な探検家リビングストンゆかりの十字架など、ザンジバルの歴史を彩る数々の名所をじっくりと見学します。このほか、ザンジバル名産のスパイスや新鮮な魚介類を売る活気ある市場の散策をお楽しみいただきます。ザンジバル島東海岸のパジェのビーチにも連泊し、新鮮なシーフード料理やインド洋を望む快適なホテルでのゆったりとした時間をお楽しみください。ご希望の方はスパイス農園やドルフィンスイムにもオプションでご案内することができます。


  • 美しいインド洋

  • ザンジバルの旧市街

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キルワの史跡群とザンジバルの休日

東アフリカ地域で名を馳せた黄金の港湾都市・キルワ島、石造りの街並みのストーンタウンと美しいビーチを誇るザンジバル島。3都市で連泊、ザンジバルでは世界遺産ストーンタウン内のホテルに宿泊。

花の桃源郷フンザを歩く

  • パキスタン

2014.03.01 update

カラコルムの懐深くにある「最後の秘境」、「桃源郷」と謳われるフンザ。
雪山に抱かれた早春の桃源郷には、杏やアーモンドや桃の花が咲きほこり長い冬が終わると、春には畑仕事が始まり人々の喜びに満ちた季節が始まります。そんな年に一度、桃色に染まるフンザの里山を毎日歩き、カラコルムの峰々の展望とフンザの人々とのふれあい、他にも、フンザの郷土料理やフンザの伝統舞踊などを通じてフンザの奥深さを感じていただきました。

桃色に染まるフンザの里山桃色に染まるフンザの里山

春のフンザ

フンザは「桃源郷」と謳われ、「長寿の里」として知られています。いつ訪れても素晴らしいフンザですが、春の杏、アーモンドの花や秋の紅・黄葉は有名で、四季折々の美しさがあります。その中でも春のフンザはまさに花の桃源郷という言葉がぴったりのシーズンです。

花咲く桃源郷フンザを歩く

フンザの名峰群と杏の花々
フンザの名峰群と杏の花々

カラコルムハイウェイを北上し、フンザに近づいてくると、白とピンクの世界が広がってきます。今回は、贅沢にも中心地カリマバードに4泊、山の展望が美しいドゥイカル村で1泊しカリマバードや近くの村々をのんびり散策します。カリマバードからは、お花だけではなく、ラカポシ(7,788m)をはじめ、ウルタルⅠ、Ⅱ(7,388m)、ディラン(7,257m)、シスパーレ(7,611m)、フンザピーク、レディーフィンガーなどといった高峰群が聳え、ピンクの花と白い山のコントラストがとても美しいです。
カリマバードの村や郊外をハイキングし、花や山のベストポイントで写真撮影を楽しんだりしているとフンザの人々と自然に会話が始まり、気づいたらいつも素敵な笑顔に囲まれていました。他にも、カリマバードから約2時間行ったところにあるホーパル氷河で、皆さん初めての氷河ハイキングに挑戦されていました。日中歩くため、アイゼンやピッケルも必要なく、氷河の冷たい風から身を守るため、しっかりとした防寒と、トレッキングシューズのみで楽しめます。また、好展望地のドゥイカルへのハイキングでは、違った角度からフンザの村や、山の展望を望みます。もちろん、ドゥイカルでは山の展望が自慢のホテルに宿泊し、そこからは、夕日、朝日に輝く高峰群を心ゆくまでご堪能できる贅沢なロケーションでした。

  • ホーパル氷河ハイキング
    ホーパル氷河ハイキング
  • ドゥイカルへの道から眺めるバルチット城
    ドゥイカルへの道から眺めるバルチット城

長寿の里フンザ

今回の滞在では、お花見、観光、ハイキングのみでなく、お食事も大変充実していました。実は、フンザは、エクアドルのビルカバンバ、ロシアのコーカサス地方と並び、「世界三大長寿の里」と言われていて地元で取れる、果実、小麦、乳製品を使った素朴なフンザの郷土料理は私たち日本人でも美味しく安心して食べられる味でした。また、天気の良い日のお昼には、アンズの木の下で絨毯を敷き、ピクニックランチを楽しみ至福のひと時を過ごしました。

  • フンザ風ミートパイ・チャプシュロ
    フンザ風ミートパイ・チャプシュロ
  • 手打ちうどん・ダウド
    手打ちうどん・ダウド

何度も訪れているフンザですが、5日間滞在することで普段の旅行とは違った一面が見えてきます。毎年3月下旬から4月中旬にアンズやアーモンドや桃の花が咲き、最も美しい季節を迎えます。次のお花見は少し気分を変えて、花の桃源郷フンザで楽んでみてはいかがでしょうか。

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花の桃源郷フンザを歩く

〈ハイキングコース〉杏の里に5泊滞在、雪山に抱かれた桃源郷を「歩いて」体感!!年に一度桃色に染まるフンザの谷のお花見とハイキングを楽しむ滞在型プラン。

エベレスト山群大展望
ゴーキョ・ピーク登頂とレンジョ・パス越え

  • ネパール

2014.03.01 update

生活道であるエベレスト街道を離れ、知る人とぞ知る隠れた大展望地ゴーキョ・ピーク(5,360m)滞在と
ネパール三大峠の一つであるレンジョ・パス(5,340m)を越える旅へ

ゴーキョピークから望む、エベレスト、ローツェ、マカルーゴーキョピークから望む、エベレスト、ローツェ、マカルー

エベレスト街道の玄関口、ルクラのエドモンド・ヒラリー空港に降り立ち、山岳民族シェルパの里ナムチェバザールを目指すところまではエベレスト街道沿いに行きますが、エベレスト街道最奥部カラパタール方面との分岐であるサナサを左折すると、今まで外国人トレッカーで賑わっていたエベレスト街道とは雰囲気もうって変わり、他のネパールトレッキングにはない独特の雰囲気に包まれます。
ゴーキョピークまでの道のりは決して楽ではないのですが、他の5,000m級のピークを目指すコースとは違い、ナムチェバザールに2泊後、半日行程で徐々に高度を上げていくので、高度順応をし易く、少しでもゴーキョ・ピーク登頂とレンジョ・パス越えをスムーズに達成できるよう配慮した日程になっております。

静寂に包まれたゴーキョピークへ

エベレスト街道との分岐を過ぎた後、モン・ラというアマダブラムとタウツェの好展望地へ向かいます。モン・ラに一泊した後、静かな樹林帯を歩みドーレ村へと向かい、ドーレ村から山腹のトラバース道をゆっくり登ると、樹林帯の中から突如として眼前にチョ・オユーが姿を現します。世界第6位の高峰チョー・オユー(8,201m)は、ネパールと中国(チベット自治区)の国境にあり、チベット語で「トルコ石の女神」をと呼ばれています。8,000m峰の中では比較的に登り易いとされ、近年ではエベレスト遠征の前に高度順応として登頂される事も多い山です。チョー・オユーを望みながら北へ進路を取り、この日は谷間に開けた牧草地のマッツェルモへ泊まります。
翌日はマッツェルモからゴジュンバ氷河末端モレーンを進んで行きます。ネパールとチベット国境のゴジュンバカン(7743m)から流れ出るこの氷河は、チョー・オユーの南麓を流れ、幅1km長さ16kmに達するネパール最大の氷河です。ゴジュンバ氷河末端モレーン越え、ゴーキョ・ピーク麓から流れる3つの湖を越えると、いよいよゴーキョに到着です。

8000m峰4座の大展望地 ゴーキョ・ピーク登頂

ロッジ手前のドゥードゥ・ポカリの湖畔を少し回りこんだ後、一歩一歩ピークに向けて進んでいきます。標高が上がるにつれ、息が苦しくなっていくので山腹で何度も休憩を取ります。標高はすでに5,000m近く。眼下に見下ろすゴーキョのロッジはどんどん遠ざかり、碧き水をたたえる氷河湖の全景を望めます。 タルチョはためくピークに到着すると、ゴーキョ・ピークの北には、世界第6位峰チョー・オユーや北東に聳える世界最高峰のエベレスト、その東隣には世界第4位の峰ローツェ(8,516m) が聳えています。より東に目を移すと左右均衡の取れたピラミダルな山容の世界第5位の秀峰マカルー(8,462m)の展望が広がります。他のネパールトレッキングでは見ることができない360度の大展望にアクセントを加える名峰たちも素晴らしく、そして眼下に見下ろすゴーキョの象徴、氷河湖ドゥードゥ・ポカリの碧き湖面は神々の頂の白味をさらに引き立てます 眼前に臨む荒々しいゴジュンバ氷河は、まるで我々がいる世界と神々が棲む世界との唯一無二最後の境界線のようです。

ネパール三大峠の一つ、レンジョ・パスを越える

ネパールに存在する、三つ峠(チョラ・ラ、コンマ・ラ、レンジョ・ラ)の中でも、特に景色が美しいと謳われるレンジョパスを越える日、当ツアーにおいての最大の見所であり関門でもあります。ゴーキョのロッジを出発し、ゴーキョピーク山麓のドゥードポカリを時計回りに巻くように緩やかな登りを進むと、レンジョ・パスの急登の取り付きへと到着します。その後はザレ場、ガレ場の急登を登り、そしてレンジョパスの頂上からはゴーキョ・ピークに勝る圧巻の絶景が広がります。まさに神々から与えられた試練を乗り越えた者のみが展望を許される絶景です。

  • レンジョ・パスへの急登の取り付き
  • レンジョラからの景色

ネパール・トレッキングのベストシーズンは10月~12月、2月~4月までの秋期~春期までと言われています。 10月~12月はネパールの秋晴れが続き、晴天率が高く高峰群の展望をするには最も良い時期です。また2月~4月は秋に比べると晴天率は高くないものの、高峰群に映える残雪が幻想的に見える季節となっています。 是非、ベストシーズンに訪れてみてはいかがでしょうか。

関連ツアーのご紹介

エベレスト山群大展望 ゴーキョ・ピーク登頂とレンジョ・パス越え

エベレスト、ローツェ、マカルー、チョー・オユー、8,000m峰四座展望。レンジョ・パスを越えロールワリン山群までを一望。氷河湖の美しいゴーキョに3連泊。

スパンティーク遠征隊 7,027mの頂に立つ

  • パキスタン

2014.03.01 update

2014年7月23日深夜1時、満天の星空の下アタック開始。
黎明の寒気に耐えて歩を進め、9時5分に女性のお客様とワジッド氏、次いで9時43分に男性のお客様と楠が登頂を果たしました

スパンティーク
僧侶達によるチャム(マスク・ダンス)
チョゴルンマ氷河を望む絶景が広がるスパンティークB C にて

第一高度順応

2014年7月、私たちは昨年の視察を経て、二人のお客様と共にスパンティークの登頂に挑みました。起点となるアランドゥ村から3日かけて氷河を遡り、ベースキャンプ(以下BC)に辿り着いたのが10日のこと。クレバスの多い氷河行にはジャンプや迂回を強いられましたが、無事到着し人心地がつきました。BCは、カラコルム山域中でも最美とされるチョゴルンマ氷河を望む好展望地。周囲には名立たる名峰が聳え立ち、氷河崩落や雪崩の轟音の響きと高山植物の香りに包まれ、五感が研ぎ澄まされていきました。
12日、ガレ場や雪面の急登を経て、南東稜上のキャンプ1(以下C1)を設営。スパンティークを正面に望み、士気が高まります。この先は高所テント泊。雪から水を作り、飲食に用います。行動体力、防衛力や精神力をを含めたいわゆる”山の力”が求められる世界です。

第二高度順応

標高の上げ下げを繰り返しながら体を順応させていきます。14日、一旦降りたBCから再び同ルートでC1へ。翌15日、南東稜線上をC2へ向かいます。両端が切れ落ちた箇所ではロープで互いを確保しながら登ります。写真撮影や僅かな休憩、用を足す時でさえも全員で立ち止まらねばなりません。スパンティークとの距離は更に縮まり、迫力を増すその山容に畏怖の念さえ覚えました。16日、先のルートに固定ロープを張りに行く高所ポーター達を見送り、我々はBCへと戻ります。この環境では特に高所ポーターの力は重要です。視察時と同じメンバーが揃ったため、息の合ったチームワークが見事でした。

第三高度順応からアタック

4日に渡る悪天候のサイクルをBCに留まり凌ぎます。この停滞期に極力ストレスを感じぬよう過ごすことが大切です。天候が安定し、いよいよ頂を目指して出発。C1、C2までのルートは軽い足取りで進み、22日、核心部のC3へのルートに挑みます。スパンティークの前峰にあたる尖った雪峰に、他隊と協力して張った固定ロープ約550m。これを頼りに斜度およそ40度の雪面をユマーリング。背後に広がるカラコルム山脈の大展望の中に、ここまでの足跡を辿ることができます。世界第二位峰K2(8,611m)もはっきりと目にすることができました。
C3では軽い頭痛を感じ、水分補給と深呼吸を何度も何度も繰り返しました。呼吸が浅くならぬよう敢えて深く眠りにつかずに迎えた23日深夜1時、満を持して登頂アタックを開始。お客様の体調も良好。緊急用の酸素ボンベ、携帯加圧装置、衛星電話。万が一の態勢も整っています。危惧していた雪質も膝丈のラッセルを強いられた程度でした。
力強い高所ポーター達に導かれ天候さえも味方につけ、一歩一歩自分を信じて登ります。未明に風が強まり体を芯まで冷やしました。手足の末端部の感覚が失われそうになるのを叩いて必死に防ぎます。しかし、空が白み神秘的に輝き出す山群の姿に心を奪われると、寒さに動かぬはずの指先が何度もシャッターを切っていました。
待ちわびた太陽の光を全身で浴びることができたのは7時頃。一気に身体の隅々まで生気が染み渡っていくのが分かります。前方に目をやると、女性のお客様は遥か先を着々と登り頂上間近に。ワジッド氏がそれに続きます。男性のお客様も粘り強
く足を運んでいます。

そして、頂へ。遂に成し遂げた登頂。これまでの苦労が報われる瞬間。パーティーは団結して力を尽くしましたが、誰より頑張っていたのはお客様自身に違いありません。本当におめでとうございます。360度の大展望と薄い空気に身を委ね、自分自身にもささやかな拍手を送りました。頂から望む故郷のナガール地方に祈りを捧げ涙を流したワジッド氏の姿が今も心に残ります。今回改めて感じたのは、共に登頂を果たした人数に乗じて喜びは何倍にもなると言うことです。この気持ちをより多くの方々と分かち合いたい、そんな想いを胸に、これからも皆様の挑戦の一助となれることを願っています。

カラコルムの名峰スパンティーク / SPANTIK

その美しい山容から世界の登山家に愛され数多の名を持つスパンティーク。100 年を遡る氷河探査の時代より、ゴールデン・パリ(金色の妖精)、イェングツ・サール(北部の谷の名が由来)、ゲニッシュ・キッシュ(金色の山)、ピラミッド・ピークなどの異名を取り、現在は朝夕に 光り輝く姿を例えてゴールデン・ピーク、そして土着の名、スパンティークと呼ばれています。
この山の試登は、1902年にアメリカのワークマン夫妻により氷河源頭探査を経て行われました。そして1955年、カール・クラマー率いる西ドイツ隊が南東稜より初登頂を果たします。一方、北西面に立ちはだかる大岩壁ゴールデン・ピラー(標高差約2,000m、平均斜度約70 度)は、1987 年にイギリスのミック・ファウラーとビクター・ソンダースによって初登攀され、2000年にスロベニアのマルコ・プレゼリが第2登。そしてこの初登ラインの第3登は、2009年にGIRI GIRI BOYS(佐藤裕介氏、一村文隆氏、天野和明氏)が5日間26 ピッチを経て果たしています。

眼前に広がるカラコルム山脈の大展望
眼前に広がるカラコルム山脈の大展望

隊員プロフィール / PROFILE

藤倉 歌都代氏(71歳)
埼玉出身の自称・野生人。大怪我に見舞われてもなお登り続けるチャレンジャー。
川原 康司氏(53歳)
広島出身の勤人。4年前に弊社で登ったキリマンジャロで山に目覚める。
ワジッド氏
山岳料理人。日本料理は勿論、イタリア、メキシコ料理にも定評有。
※その他、愉快な高所ポーター、チェアマン・アリ氏、フィダ・アリ氏、アシュラフ氏

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