突然ですが、「ウルグアイ」は世界のどこにあるかご存知でしょうか?
サッカーファンの方ならば詳しいかもしれません。または、2016年にホセ・ムヒカ前大統領が来日しましたが、「世界で一番貧しい大統領」の言葉を覚えていらっしゃる方も、少なくないと思います。
ウルグアイは南米アルゼンチンの東にあり、面積は日本の四国ほど。 人口は、日本が1億2700万人、ウルグアイは345万人(2018年,世界銀行)。 観光の見どころとしては、どうしてもアルゼンチンやチリ、ブラジルなどと 比べて小規模であり、見逃されがちな国です。「ウルグアイ・パラグアイ 知られざるラプラタ諸国を訪ねる旅 」の ツアーでは、首都モンテビデオに1泊、世界遺産コロニア・デル・サクラメントに 1泊します。短い時間でしたがウルグアイで垣間見えた景色・文化などをご紹介します。
首都・モンテビデオ
ツアーはアメリカ経由で首都のモンテビデオから入国しました。空港から市内に向かう際、最初はずっと”海岸線”を西へと進みました。 ”海岸”と書きましたが、実はこれはラ・プラタ河。海のように広いですが、 河なのです。地形的にはエスチュアリー(三角江)という、 河川の河口部が沈降して 生じたラッパ型の入り江です。風が強い日には海底の砂が巻き上げられ、水が真っ茶色になります。 ツアーで訪れた日も、やはり茶色でした。海岸線”から少し離れて、エスタディオ・センテナリオも寄ってみました。 こちらは、サッカーファンにとっては聖地ともいえるでしょう。 1930年、最初のFIFAワールドカップが開催された場所です。 帰国後、ある旅番組で知りましたが、こちらのスタジアムはサッカー などの競技場としてだけではなく、観客席の下のスペースを使った学校も併設しているようです。
最初のワールドカップ開催場所 エスタディオ・センテナリオ
また、近くの広場では何やら容器を売っている男性がいました。聞いてみると、「マテ茶用の壺だよ」とのことでした。
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マテ茶専用の壺 ボンビージャというストローを使って飲む
日本でも飲むサラダとして一時期ブームになったマテ茶。日本茶や紅茶などに使われている茶葉とは木の種類自体が違います。 飲み方は、この壺にマテ茶葉を入れ、お湯を注ぎ、 ボンビージャと呼ばれる特殊なストロー(先端には小さな 穴が多数あり濾し器の役割をする)でちびちびと飲みます。南米の一般家庭にも広く普及し、職場でもこれを使ってマテ茶を飲むのだそうです。立ち寄り観光や車窓観光をしているうちに、モンテビデオ市内 にある昼食場所の「Mercado del Puerto(港市場)」に到着しました。
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炭火焼肉の屋台が連なる メルカド・デ・プエルト
もとは1868年にいわゆる野菜や肉類を売る市場としてOPENしましたが その後いったん閉鎖され、その後アサード(炭火焼肉)を提供する店が連なるパリージャ街として復活しました。パリージャとは「金網」という 意味で、転じて「炭火焼肉屋」を表します。
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陽気な店員 食べたいお肉の部位・焼き方を指定できる
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ウルグアイビーフ 赤身が多く噛み応えがあり、お肉本来の味が楽しめる
昼食後は、すぐ裏から始まる旧市街の散策へ。旧市街はかつての城塞内部で、城壁に囲まれていた地区です。 モンテビデオが発展し始めたのは、18世紀に入ってから。 ポルトガルのブラジル支配に対抗してスペイン帝国がモンテビデオ を建設し、18世紀半ばから港湾都市へと発展しました。ヨーロッパからの移民の到来で、主にスペイン、ポルトガル、イタリア、 フランス、イギリス人の影響を受けた街並みが展開していきました。現在は城門以外は残っていませんが、1800~1900年代初めに建てられた ビルが並び、カフェやレストランなどとして利用されています。
旧市街の様子
独立広場まで歩くと、メインストリートの7月18日通りが まっすぐ伸び、横にはサルボ宮殿が見えます。
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メインストリートとサルボ宮殿(右)
この日の観光はここまで。翌日にはいよいよ、ウルグアイ唯一の 世界遺産を訪問します。
モンテビデオ→コロニア 道中の景色から見えてくる特徴
モンテビデオからコロニア・デル・サクラメントは西へ約180km、 車で2時間強。サン・ホセ県、そしてコロニア県へと移動していきます。この移動の間に見える景色には、ウルグアイの特徴が表れていました。まず、山が無いこと。見渡す限り、平坦な地形です。 ウルグアイは年間の平均気温が15~16℃と温暖で、年間降水量は 1000mm程と雨もよく降ります。おかげで肥沃な土が育ち、 農業に最適。ウルグアイの主要産業は農牧業です。
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バスの車窓から 山らしきものは全く見えない
次に、牛が多いこと。モンテビデオ~コロニア間で頻繁に見えたのは乳牛でしたが、 南米のカウボーイ「ガウチョ」の国と言えばウルグアイ。 平坦な地形を生かした牧畜業が発達したウルグアイは、バターや チーズもそうですが、おいしい牛肉を生み出しています。ウルグアイ人の牛肉消費量は、日本人の10倍と言われています。ちなみに、ウルグアイビーフは2000年の口蹄疫の影響で日本は 輸入を一時ストップしていましたが、2019年2月より、19年ぶりに 輸入を再開したそうです。値段も米国・濠産より安いとか? 私は未だスーパー等で出会ったことはありませんが、そのうち 日本国内でも出回り量が増えてくるかもしれません。
コロニア・デル・サクラメント歴史地区 Colonia del Sacramento
ついに、世界遺産コロニアの町に到着しました。コロニアの町は半島にあり、東が新市街、西が旧市街となっています。 旧市街はかつては厚さ1.5mの城壁に囲まれ、4つの砲台が置かれて いたそうです。
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コロニア・デル・サクラメント 城壁を越えると旧市街の中へ
コロニア・デル・サクラメントは、1680年、ポルトガル領ブラジルから南下したリオデジャネイロの領主マヌエル・デ・ローボが建設した町。ラ・プラタ河を挟んでコロニアの対岸のブエノスアイレスはスペイン領 だったため、コロニアは領土争いのために約100年間翻弄される歴史をたどることとなりましたスペイン・ポルトガル間に結ばれる条約の度に、わずか12ヘクタールのコロニアの町は所属国が頻繁に入れ替わったのです。そのため、コロニアの町の家々はポストガル様式・スペイン様式が混在しています。 その景観的珍しさから世界遺産に登録されました。
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ポルトガル様式とスペイン様式の建物が混在する小径
「ため息が出るほど美しい」という意味で命名された
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ポルトガル支配を象徴する青タイル
1762年当時のコロニアの街の地図をタイルで描いている
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旧市街を一望できる灯台とイエズス会修道院跡
旧市街観光の最後には、大聖堂を訪れました。 大聖堂は1680年築と言われ、ウルグアイ最古のもの。 弾薬庫として使われていた時代もあったそうです。ここまででぐるりと旧市街を散策しました。コロニアの町は、ラ・プラタ河を挟んで向かい側は アルゼンチンの首都ブエノスアイレスです。 フェリーで1時間程の距離のため、ブエノスアイレス観光がてら 訪れることも可能です。実際にそのような観光客も多くいます。
日本から見て地球の反対側にあることもあって、 なかなかウルグアイ単体で訪れる機会はないと思います。 が、まずは、サッカー、マテ茶、牛肉、ガウチョ、 はたまた南米大陸におけるスペインとポルトガルの攻防の歴史など、 色々な側面からウルグアイという国にご興味を持っていただけたら幸いです。
<おまけ>
冒頭でご紹介した「世界一貧しい大統領」とは、2010年~2015年まで ウルグアイ大統領を務めたホセ・ムヒカ氏のことです。 政治家としては珍しく広い心と愛情があり、今でも国民に愛されています。 2016年には来日して大学生に向けたスピーチを行いましたが、 実は「日本」と関わりの深い人物でもあります。 ホセ・ムヒカ前大統領について知りたい方には下記映画がお薦めです!
キーワード
謎の美女壁画が残るスリランカの世界遺産
シギリヤ・ロック
2020.07.09 update
シギリヤ・ロックについて
スリランカの数ある世界遺産の中で最も人気のあるシギリヤ・ロック。シギリヤ・ロックは火道内のマグマが硬化して出来た岩頸で、形状は楕円柱、標高約370m、岩頸そのものの高さは約195m、全方位が切り立った崖になっています。また、この岩山と共に有名なのが“シギリヤ・レディ”と呼ばれるフレスコ画。鮮やかな色彩で描かれた美女たちが岩山を登ると出迎えてくれます。今回はそんな人気のあるシギリヤ・ロックをご紹介します。
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シギリヤ・ロック
シギリヤ・ロックの歴史
シギリヤ・ロックは5世紀後半、シンハラ王朝の王、カッサパ1世が築いた都城です。カッサパはダートゥセナ王の長男として生まれましたが、カッサパには王族の血筋を持つ母から生まれた弟モッガラーナがおりカッサパの母は平民の血筋であった為、カッサパは弟モッガラーナに王位継承を奪われるのを恐れ、父王に不満をもつ将軍と共謀して父王を投獄しました。
そして王位継承を持つ弟をインドへ追放し、477年カッサパはカッサパ1世として即位したのです。その後、カッサパは父ダートゥセナに、隠し財産をすべて出すように迫りますが「貯水池が全財産だ」という父に怒り狂い、将軍に命じて父を殺害してしまいます。父を殺すという仏教徒として最大の罪を犯した彼は、罪を償うべく寺院や施療院を立て善政に励みます。そして弟からの復讐に怯える日々を送りながら、カッサパは、亡き父が夢見ていた岩山の頂上に宮殿を立てる計画を実行します。父を供養するため、弟の攻撃から身を守るために建てられたともされるシギリヤ・ロックは即位から7年後に完成しました。
11年後、インドから戦いを挑んできた弟モッガラーナにあっけなく敗れ、カッサパ1世は自ら命を絶ちました。王位に就いたモッガラーナはシギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移し、シギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続するも、徐々に衰退。建設から1400年後、イギリス統治下の1875年に、岩山に描かれたフレスコ画であるシギリヤ・レディがイギリス人によって発見され、今では多くの人がこのシギリヤ・ロックへと訪れます。
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壮大なシギリヤ・ロック
シギリヤ・ロックに登るその前に
まずお伝えしたいのは、シギリヤ・ロックへ登るのに油断をすると危険です。というのも想像以上に階段が多く特に日差しの強い日はキツイ。歩きやすいスニーカーで日差し除け対策と水分補給の準備は絶対です!私たちはこの日、ニゴンボからシギリヤへと移動してきました。まずは敷地内にある日本の援助で建てられたシギリヤ博物館へと足を運びます。シギリヤ・レディのフレスコ画のレプリカが展示されている場所へ。現物は写真撮影が禁止されているのでレプリカではありますが、現物に期待を寄せながらまずはここで記念に美女を写真に収めました。また、観光客が多いとシギリヤ・ロックに登るには時間がかかります。博物館かチケット売り場入口にしかお手洗いが無いため注意が必要です。
いよいよ、シギリヤ・ロックへ!
到着するや否や、一本道の先には大きな岩山が聳え立ちます。緑の中に突如現れたかのような岩山はまさに圧巻。この岩山を目指して訪れた人々は、お猿さんを横目に一本道をぞろぞろと歩き進みます。
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シギリヤ・ロックに居る猿達
まずはチケットチェックがあり、丁度その位置から周りを囲むのがこのシギリヤ・ロックの城壁で、その周りをハスの花が咲くという水路が取り囲んでいます。
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城壁を取り囲む水路
敷地内の入口を入ると最初に待ち受けているのは、第一難関である岩の階段。そして岩山を望む整備された庭園の小道を通ると、まず出てくるのは王の沐浴場と呼ばれる遺構。熱帯モンスーン地域とはいえ、乾季は水が不足するため貯水施設も兼ねていたと言われています。更に進むと5つの穴が開いた円形の石板があります。高所から地下のパイプを通り水を引く仕組みになっており、円形の石板に水が通る際に穴から水が噴き出す噴水の役割をしていたようです。これらの設備は5世紀頃のものというから驚きです。その後、その昔に石窟寺院とされていた洞窟などを通りやっと岩山の入口に到着です。
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噴水の役割をしていた石板
岩の階段が終わり、第二難関の鉄製の螺旋階段へと変わります。手すりなどはありますが、正直言って足場はかなり悪いので気を付けて登っていきます。スリランカ国内からも多くの方が訪れる場所で、多いときはその列がなかなか進みません。ただ、ゆっくりと後を気にせず登れるのでそれも良いかもしれません。階段の周りは鉄の網目の柵で覆われていますが、周りの景色も十分楽しみながら登れるので、スリルも景色も満点です。やっとの思いでシギリヤ・レディの壁画のある中腹に到着。
美女のフレスコ画シギリヤ・レディ
予想以上にハードな階段を登り到着した先には、壁面にシギリヤ・レディが現れます。これは岩肌に描かれた美女のフレスコ画で、現在は18人の妖艶な女性の姿を見る事が出来ます。この美女たちには諸説あり、微笑みを浮かべた妖精アップサラを王の侍女たちが世話している情景ではないか、または裸の女性が上流階級、服を着ている女性が侍女、はたまたこの美女たちが天国に住むアップサラで、妖精たちに守られ王は岩山の頂上に住んでいたとも推測されます。美女たちが誰なのかはいまだ謎のままです。
またフレスコとは新鮮(生乾き)という意味で、フレスコ画とは壁に塗った漆喰が乾く前に、つまりフレスコの状態でその上に顔料で画を描いたもの。やり直しが効かないため高度な技術力が必要で、一旦乾くと水に浸けても滲まず長期保存に適した方法だったそうです。これが5世紀という遠い昔に、壁に描かれた美女たちが今なおその美しさを保つ美の秘訣だったようですが、それでも雨風の浸食や裸の絵に反対する人々により剥がされてしまったようで、かつては500人ほど描かれていたようです。
博物館で写真に収めたレプリカと本物の美女は驚くほど違いました。実際のシギリヤ・レディの写真撮影は禁止されていますので、どれほどまでに違うのかその目で確かめて頂きたいです。
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博物館内のレプリカのシギリヤ・レディ
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博物館内のレプリカのフレスコ画
美女達を後に更に頂上を目指します!
シギリヤ・レディを後に再びこの階段を降り、元のルートに戻り進むとミラーウォールと呼ばれる回廊があります。これは鏡のように磨かれた壁で、かつては下階よりも上階が張り出した設計により、岩壁に描かれた美女たちのフレスコ画がこの回廊鏡面に映る仕掛けだったようです。またこの壁には、壁画の美女や岩山の雄大さを讃える詩が彫られており、学者たちの間ではこれらの詩がシンハラ語と文字の発展の推移を知る重要な手掛かりにもなっているようです。更に少し進むと、ライオン広場に辿り着きます。
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ライオン広場
以前は頭部があり、ライオンが大きく口を開け座った形になっていて、階段を登るとライオンの喉に飲み込まれるような感じになっていたと言われています。というのも「ライオンの喉」というのはこの地の由来にもなっており、シンハラ語でライオンは「シンハ」、喉は「ギリヤ」でライオンの喉は「シンハギリヤ」となり、これが「シギリヤ」に変化したとも言われています。現在は前足の一部しか残っていませんが、その大きさからも往時の迫力が想像できます。この、ライオン広場から頂上まで続く長い階段。こちらがシギリヤ・ロック最後の階段であり、最も厳しい階段です。途中までは急な階段が続きますが、そこを過ぎればなだらかな階段になります。
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上から見たライオン広場
こちらの階段は中央で区切られており、一方は登り、一方は下りとなっています。更に頂上までの階段は幅が狭く、実際、私たちが訪れた際は多くの人がこの場所に訪れていたので、入場制限をしながら降りる人と登る人を調整していたためゆっくり休みながら登ることが出来ました。ただ通常途中で休むことは難しいので、ライオン広場でしっかり休憩をとってから登ることをおすすめします。ライオン広場からの長い階段を登りきれば、ようやく頂上です。庭園の入口からここまでの所要時間は約2時間。頂上では、360度見渡す限りジャングルの絶景と遺跡を楽しむことができます。風が心地よく暑さと疲れが一気に吹き飛びましたが、帽子まで吹き飛ばされないように注意が必要です!頂上は面積1.6㏊で王宮、兵舎、住居、ダンスステージ跡が見られ、少し下ると贅沢な王のプールがあります。この王宮でカーシャパは弟の復讐に怯えながら孤独な暮らしをしていたのだろうかと思いを巡らせます。
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シギリヤ・ロックの頂上から見る景色
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王のプール
頂上を満喫した後は、先ほど登ってきた階段をまた下って戻らなければなりません。頂上から下りは早く約45分程で降りてきました。スリランカに行ったならば是非訪れたい場所「シギリヤ・ロック」。想像より体力が必要な場所ではありますが、訪れる価値のある場所です。是非、絶世の美女たちに会いに行ってはいかがでしょうか。
関連ツアーのご紹介
スリランカ5つの世界遺産と高原列車で行く中央高地
ヌワラエリヤで高原列車に乗ってアジア屈指の車窓風景を満喫!スリランカが誇る4つの歴史遺産と雲霧林広がるホートンプレインズ国立公園を訪問。シギリヤ・ロックを望むホテルに宿泊。
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スリランカ5つの世界遺産と高原列車で行く中央高地<後編>
2020.07.02 update
前編に続き、後編では、ツアーで訪れる4つの世界文化遺産をご紹介します。
■シギリヤロック
スリランカで最も有名な観光スポット、世界遺産シギリヤロック。ジャングルのなかに忽然と姿を現すシギリヤロックは、地上200メートルの高さを誇る巨大な一枚岩です。この岩山の上にあるのがかつての王宮跡で、築いたのはシンハラ王国の王子であったカッサパ。カッサパは477年にクーデターを起こし、王だった実父を殺害し王権を奪取しました。しかし、平民出身の母親を持つカッサパ王は、王族出身の母を持つ弟モッガラーナに王位を奪還されることを恐れ、首都であったアヌラーダプラを離れ、より安全なシギリヤへと遷都しました。弟による報復を恐れた彼は、逃げるようにして巨岩の上に宮殿を築いたのです。シギリヤロックの頂上には、現在も貯水池などの宮殿の遺構が残っています。360度を見渡せる巨岩の上から眺める密林の風景は壮観。天空の城にいるような気分が味わえます。途中の岩壁に残る神秘的な美女のフレスコ画、「シギリヤレディ」も見逃せません。
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古代都市シギリヤ。頂上までは約40分です
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謎の多い美人壁画
シギリヤロックに描かれた女性たちは天女アプサラではないかと言われていますが、未だ正体はわかっていません。現在残っているのは18名だけですが、かつては500人もの女性が描かれていたといわれています。
※写真は博物館で 撮影したレプリカです。 現在 シギリヤレディは写真撮影が禁止されています。
■ダンブラ石窟寺院
スリランカの仏教遺跡の中には、屋外ではなく洞窟を利用して造られたものがあります。その一つが世界遺産・ダンブラの石窟寺院。スリランカで最も大きい石窟寺院で、全部で80以上の石窟があるのですが、解放されているのは第1~5窟のみ。5つの窟では、大小の仏像と無数の壁画が見られます。紀元前3世紀ころより僧院として機能していましたが、紀元前1世紀、タミル人の侵攻によりアヌラーダプラから逃れてきた王がここに隠れていました。15年後に首都奪還したのちに、王はその感謝を忘れず寺院を保護するようになり、多くの寺院が建設されました。第1窟から順番に見学します。
第1窟:デーワ・ラージャ・ヴィハーラ
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紀元前1 世紀に最初に造られたのがこの石窟 。「神々の王の寺院」といわれる デーワ・ラージャ・ヴィハーラには寺院最大の仏像があります。その大きさは全長15mの涅槃像です。全身を黄金色に染められているのに足の裏だけが真っ赤なのが特徴です。
第2窟:マハー・ラージャ・ヴィハーラ
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こちらは石窟寺院のメイン、 マハー・ラージャ・ヴィハーラです。 「偉大な王の寺」を意味し、 ここでいう偉大な王とはワラガム・バーフ王のことを指します。洞内には彼の像の他、56 体もの仏像が安置されています。その他、壁や天井一面に描かれた壁画も見ものです。洞内奥の中央部には壺が置かれており、天井から湧き出る水が滴り落ちています。この聖水は高僧によって宗教行事に使われます。
第3窟:マハー・アルト・ヴィハーラ
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マハー・アルト・ヴィハーラ「大きな新しい寺院」と言われており、18 世紀にキャンディ朝の キルティ・スリ・ラジャシンハラ王によって造られ、 全長9mの寝仏をはじめとする合計57m体の仏像で埋め尽くされています。
第4窟:パッツィーマ・ヴィハーラ
パッツィーマ・ヴィハーラは「西の寺院」と言われ、 規模は小さいですが入ると目の前に座禅を組んだ仏像が鎮座し、天井は色鮮やかな仏画で埋め尽くされています。
第5窟:デワナ・アルト・ヴィハーラ
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こちらは、いったい誰が作ったのか今もはっきりしていません。 1915年に修復されており壁画はかなりきれいです。
■仏歯寺
キャンディ中心地に位置する、スリランカを代表する仏教寺院です。4世紀にスリランカに入ってきた仏歯が、当時の王都アヌラーダプラの礼拝堂に祀られていました。その後、12世紀に王都がポロンナルワに移り、それとあわせて仏歯も移されます。この頃には、仏歯の神秘的な力によって恵みの雨がもたらされ発展する、という信仰と、仏歯を持つ者がシンハラ王国の王位継承者であるという考えが広まります。そのため仏歯は王都が動くたびに移動し、159年、最後にキャンディの仏歯寺へとわたっていきました。
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八角形のシンハラ建築「八角堂」
入り口でセキュリティチェックを受けて敷地内へ入ると、仏歯寺の紹介としてよくガイドブックなどで見かける「八角堂」が見えます。真っ白な八角形をしたシンハラ建築の建物で、もともとは王の休憩所として建てられました。イギリスに支配されていた時期には留置所にされてしまいましたが、今では図書室となっています。
本堂の脇で靴と帽子を脱ぎ中へ入ると、アーチ型をした天井に壁画が描かれた通路に出ます。天井には「ペラヘラ祭」の様子が描かれていました。ペラヘラ祭とは、仏舎利を乗せた象が街の中を練り歩く祭事で、よく「象の祭り」と紹介されることがありますが、本来は「行列の祭り」という意味です。
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壁画の通路から先へ行くと、象が通り抜けられるだけの高さがある色鮮やかな回廊があり、その向こうに、仏歯寺の中で一番古いお堂があります。お堂は二階建てになっていて、一階に象牙が飾られた祭壇があり、二階に仏歯が祀られています。お堂の壁や梁には素晴らしい彫刻や絵があります。仏歯が祀られている二階への階段を上がっていくと、途中の踊り場に、仏塔や仏舎利を入れる入れ物、インドから仏歯が持ってこられたときの様子を描いた彫刻などが展示されていました。二階へ上がると一際立派な祭壇があり、たくさんの人が参拝をしています。ここに仏歯がおさめられていて、一日3回のプージャ(お祈り)の時に扉が開かれ、仏歯が入った金色の入れ物を見ることができます。
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献花台の向こうに聖なる仏歯が祀られています
仏歯安置のお堂の奥の部屋には、仏歯がスリランカにもたらされた歴史を描いた絵画や各国から寄贈された仏像が安置されていました。
■ゴール旧市街
古くから港町として栄え、ペルシア、アラブ、ギリシア、ローマやマレー、中国など多くの地域から商人が訪れていました。1505 年にポルトガル人が築いた最初の砦を、後に支配したオランダ人が拡張して街を形成。1796年、イギリス植民地となり支配拠点として城塞都市へと発展していきました。周囲を取り囲む城塞はアジア最長で、時計台、白いモスク、石畳の小道、コロニアル調の邸宅など、旧市街地に今も植民地時代の異国情緒が残り、450 年間の植民地統治時代を今に伝える貴重な街として、世界遺産に登録されています。ツアーの最後にスリランカの植民地の歴史を今に語り継ぐ城砦都市ゴールを訪れました。
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美しいインド洋に臨む白亜の灯台
新旧の街を結ぶ門は二つしかなく、交通量も多く行き交う人々を眺めると、かつての城砦都市が今もなお生き続けていることを実感します。
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城砦の旧門にはオランダ東インド会社の紋章「VOC」がきれいに残っています。
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ダッカ教会。もともとは墓場でしたが1775年に教会となりました。
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インド洋からの風が気持ちいい遊歩道
手つかずの美しい自然が残されているスリランカ、そこには自然と人々がありのままに共存しています。人も穏やかで、気候も人を優しくさせるような湿度と気温。本当に人の気持ちを癒す島だと思います。他にもサファリやホエールウォッチング、アーユルヴェーダや天然石などスリランカが誇る魅力はいっぱいです。
ぜひ一度スリランカへご旅行ください。
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スリランカ5つの世界遺産と高原列車で行く中央高地
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スリランカ5つの世界遺産と高原列車で行く中央高地<前編>
2020.06.25 update
「光り輝く島」という意味を持つスリランカ。インド洋に浮かぶ自然豊かな島国です。国土は北海道の約8割程度と小さな国ではありますが、熱帯雨林から乾燥した平原地帯、セイロン紅茶で名高い広大な茶畑が広がる高地、砂浜のビーチに至るまで多種多様な自然と、8つの世界遺産を有する“光り輝く島”として多くの観光客を魅了しています。2009年に26年に亘った内戦が終結、その後経済が急成長し、観光のニーズが増えているスリランカ。世界的に有名なガイドブック「ロンリープラネット」が選ぶ「2019年行くべき国」の第1位にも輝いた世界も注目する観光国です。
スリランカは、二つのモンスーン(季節風)の影響によりエリアによって雨季の時期は異なりますが、年間を通して低地は暑く、高地は涼しく比較的どの時期でも旅行がしやすい国と言えます。今回は、西遊旅行が年間通して設定している「スリランカ5つの世界遺産と高原列車で行く中央高地」のコースの見どころをお届けします。
まずはツアーのタイトルにも入っている人気の高原列車からご紹介します。
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■「紅茶列車」に乗って緑あふれるスリランカの中央高原を走る
スリランカの鉄道は、イギリス人により植民地時代の1858年に導入されました。セイロン紅茶の栽培を始めた際に、その集荷用に路線を引いたのがはじまりです。当時は紅茶・農産物を輸送するためにレールが敷かれましたが、現在では人々の移動手段として利用されています。
キャンディ近くのランブッカナ(Rambukkana)駅からヌワラエリヤのナヌオヤ(Nanu Oya)駅の区間は茶畑の中を進み、車では味わうことのできないスリランカ独特の茶畑の風景を満喫できる人気の路線です。この路線は、近年「紅茶列車」とも呼ばれ、スリランカの人々からも人気です。右に左に揺られながら高原を駆け上がっていく列車では、アジア随一とも言われる絶景を楽しむことができます。ランブッカナ駅からヌワラエリヤのナヌオヤ駅までは約4時間の列車旅です。
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ランブッカナ駅から乗車。列車は定刻通りに到着しました。いざ、出発です!
スタート地点のランブッカナらナヌオヤまでは標高差があるため、列車はゆっくり進みます。出発して1時間程は田舎町の景色が中心です。列車内はエアコンはありませんが、窓から入ってくる風が心地よく、むしろ開放的です。特急列車ではないため、途中いくつもの駅で停まります。停車駅では売り子のおじさんたちがドリンクや軽食を販売。標高が少しずつあがり、いよいよ紅茶畑が見えてきました。
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高原列車の車窓に広がる美しい茶畑
紅茶畑の中を列車が走る風景はとてもフォトジェニックでぜひ一度体感していただきたいです。
■スリランカの動植物、世界自然遺産も満喫
ツアーでは遺跡を訪問するだけでなく、スリランカが誇る自然も体感していただきます。ヌワラエリアでは世界自然遺産「ホートンプレインズ国立公園」、ピンナウェラでは「像の孤児園」を訪問します。
ホートンプレインズ国立公園
2010年に世界遺産に登録されたスリランカ中央高地の一部をなす国立公園です。3,159ヘクタールの敷地を有し、1969年に自然保護区に指定され、1988年には固有種や自然の美しさを保持する目的のため、動植物保護法のもと国立公園に指定されました。標高2,000ⅿの草地が広がる高原地帯で、手つかずの大自然が残されています。公園の西側の丘にはスリランカ最大の雲霧林が広がります。
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公園入口に現れたサンバー
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固有種ススイロヒタキ
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公園内のルート。整備されており難しいハイキングではありません。
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高さ約1,000ⅿの絶壁「ワールズエンド」からの眺め
標高差約150ⅿ、片道4㎞、約3時間のハイキングとなりました。
ピンナウェラ像の孤児園
ピンナウェラ象の孤児園は、もとは母親とはぐれたり死別した子ゾウを保護する目的でスリランカ政府によって1975年に設立された施設です。現在は約100キロ平方メートルの敷地内に80頭前後の象が暮らしています。親象とはぐれてしまった子ども象や、怪我をしてしまった象が保護されています。孤児園でのイベントは2つ。9:15からのミルクやりと、10:00からの水浴びです。ミルクやりを見学した後は、水浴び場へ向かう象さんを待ち伏せします。園内で飼われている象のほとんどがこの時間に大移動します。その光景は圧巻でした。また、嬉しそうに川で水浴びをする象さんはとても可愛かったです。
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像のミルクやり、一瞬で乳ビンを飲み干します
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水浴び場へ向かうため、道路を横断する像
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園近くのマハオヤ川で水浴びする象さん。1日2回(10:00 と14:00)水浴びをします。
この孤児園の運営にはとてもお金がかかるので、私たちが見学することで少しでも象さんのためになっていたらと思いました。
スリランカゾウ
植民地支配が始まる前には4万頭以上の野生のゾウが生息していました。植民地下で激減し1970 年当時には2,000 頭にまで減ってしまいました。特にイギリス時代のハンティングはひどいもので、あるイギリス人将校は一人で1500 頭のゾウを撃ったことで知られています。記録によると1829年から1855 年のわずか26 年の間に6000 頭のゾウが射殺されました。1986 年、スリランカゾウは絶滅危惧種に指定され保護されるようになりました。人とゾウとの住み分けのために電子柵が設けられたり、孤児を救い自然に戻す試みも行なわれています。現在では6,000 頭ほどにまで回復しましたが、いまだに密猟などにより年間100 頭が犠牲になっているといわれています。
後編では、ツアーで訪れる4つの世界文化遺産をご紹介します。
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