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探検家が目指した黄金郷・トンブクトゥ(マリ共和国)

  • マリ

2020.11.30 update

今日は前回に続いてマリのトンブクトゥをご紹介したいと思います。

トンブクトゥはもともとトゥアレグ族の宿営地として始まったと言われています。1240年から栄えたマリ帝国の時代、サハラ交易が東に移り、トンブクトゥは北からのラクダの輸送、南から舟で運ばれてくる商品のそれぞれの終着点となり、交易上のとても重要な町となってゆきました。ジェンネと同様に塩と金の交易によってマリ帝国は大きな繁栄を見ることとなったのです。

トンブクトゥへの道中であった塩を運ぶ人々

 

15世紀から16世紀末までマリ帝国に替わってソンガイ帝国が栄えると、トンブクトゥの町はさらに繁栄を極め、交易都市としてだけでなく、宗教都市としても有名になっていったのです。他のイスラム都市から宗教的指導者が招かれ、多くの神学校やモスクが建設されました。

ジンガリベリ・モスク

 

現在、その栄華を今につたえるモスクが残っています。ジンガリベリ・モスクとサンコーレ・モスクです。ジンガリベリ・モスクは14世紀初めに造られたトンブクトゥに残る最古のモスクです。昔は観光客でも中に入ることができましたが、現在はイスラム教徒のみとなっています。

サンコーレ・モスク

 

サンコーレ・モスクはかつてイスラム教の大学の機能を持ち、16世紀までイスラム世界でアラビア語を学ぶ最大規模の大学として有名な場所でした。25,000人以上の生徒が学んでいたと言われています。そんなトンブクトゥの栄華は当時ヨーロッパ各地まで伝わってゆきました。「トンブクトゥの富める王は金でできた杯を数多く持ち、その重量は1300ポンドにもなる、多くの医者や裁判官、司祭、学者がおり、王の財力によって手厚く養われている」というような噂が伝わり、多くの探検家の憧れの場所となってゆくのです。

Tンブクトゥ 探検家ルネ・カイエの家1588年から1853年にかけて少なくとも43人の探検家がトンブクトゥをめざし、4人のみが無事辿りつき、そして3人だけが無事に母国まで帰国したのです。当時、ヨーロッパ人がそのままトンブクトゥに入ることは非常に難しく、見つかると殺害されてしまう可能性が高いため、フランス人探検家ルネ・カイエは出発前に1年間イスラム教とアラビア語を学び、イスラム教徒になりすましてトンブクトゥに入りました。しかし、ルネ・カイエがトンブクトゥに到着した時、既に全盛期を過ぎた町は荒廃が始まり、黄金郷と呼ばれたかつての繁栄はなかったといいます。ルネ・カイエはトンブクトゥに辿りつき、なお無事に帰国した初めての探険家でした。彼がフランスへ戻った後発表した、トンブクトゥについての報告は誰にも信じてもらえず、偽りであると告発されたといいます。


探検家ルネ・カイエの家

 

トンブクトゥに辿りついた探険家が滞在した家々は今でも保存されています。現在は個人の家となっているため、内部は残念ながら見学できませんが、当時彼らが描いた夢の冒険に思いを馳せるのも良いでしょう。

サハラ砂漠の南縁・サヘルに位置するトンブクトゥですが砂漠の波が押し寄せつつあり、当時の栄華は姿を消してしまいました。しかし、かつてヨーロッパまでその名を轟かし、探検家達に夢を与えた町は、これからも訪れる観光客にかつての黄金郷として夢を与えつづけてゆくことでしょう。

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エリトリア人の信仰心にふれる 聖マリア教会

  • エリトリア

2020.11.19 update

今回は、エリトリアの首都アスマラにある聖マリア教会をご紹介します。

エリトリアでは古くからエリトリア正教が信仰されています。エチオピア正教の流れをくみ、1993年のエリトリア独立後、一部がエリトリア正教会として分離しました。現在はカトリック、プロテスタントそれからイスラム教も共存し、様々な宗教を信仰する人々が平和に暮らしています。

聖マリア教会の日曜礼拝

 

この聖マリア正教会のあった場所には7世紀頃から小さな教会がありましたが、現在の建物は1917年~1920年に建てられたもので、正面に描かれる宗教画は1950年代にイタリア人の画家によって描かれました。

教会正面に描かれた宗教画

 

エリトリア正教会では白い服装が正装とされ、人々は白い衣装に身を包み教会に集います。毎週日曜日の朝には礼拝に多くの人々が集い、その敬虔な姿に心を打たれます。

 

祈りを捧げる人々

 

建物は四角形をしており、エリトリア正教の教会内部は3つのセクションに分かれます。観光客も靴を脱いで内部のカディスト(礼拝場所)へと入ることができます。人々の信仰の深さに驚かされるばかりです。

①キナ・マフレット:シンギングプレイスと言われ、ミサの際に歌が歌われる場所です。
②カディスト:人々が礼拝をする場所で、男女別に分かれています。この教会では女性は右側、男性は左側にこのセクションが設けられています。
③カディスタ・カドゥスタン:最奥部に位置する聖室。司祭しか入ることができない、教会でもっとも大切な場所です。

朝、7時過ぎに教会を訪れると、既に司祭による説教が始まっており、多くの人々が集まっていました。

説教する司祭

教会内部にて

 

聖マリア教会を訪れる際には、日曜礼拝の時間に訪れると、建築物としての教会だけでなく、エリトリアの人々の信仰心にも触れることができます。

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クロワ・デ・アガデス Croix d’Agadez

  • ニジェール

2020.11.12 update

クロワ・デ・アガデス – アガデス十字と呼ばれるトゥアレグ族の銀細工ジュエリー。ニジェール、特にアガデスを訪れると土産物屋として見かけるアクセサリーです。

 

クロワ・デ・アガデスの「クロワ」=「十字」という呼び名は後に西洋人が、キリスト教の「十字架」のモティーフに似ていることからつけた名前。実際には十字ではなく、トゥアレグの部族やエリアを象徴するものであり、アガデスやティミアなど各地域を表すモデルが存在しています。

 

アガデスの鍛冶屋工房にあった「トゥアレグ十字」の表には、トゥアレグの有力な部族・地域を表し21種類記されていました。有名なのは、アガデス、ティミア、イフェロアン、インガルのものでペンダントやピアスなどのアクセサリーにアレンジされています。

 

その起源については諸説あり、かつてのエジプトのファラオの紋章を取り入れた説、イスラム化する以前にキリスト教に触れたトゥアレグ族が「十字架」のモティーフを取り入れたという説など様々。私の最もお気に入りはアガデスで聞いた「恋」にまつわる説。 “ある少女に恋したアガデスのスルタンの息子。その恋を告白するのにどうすればいいか、スルタンお抱えの鍛冶屋に相談しました。トゥアレグの社会において、家事を支える食器や、戦いの武器、そして装飾品の銀細工を作り出す鍛冶屋は大切な存在。鍛冶屋はスルタンの息子の相談を受け、考えました。そこでできあがったのがこの「クロワ・デ・アガデス」。トゥアレグの書き言葉タマシェク語で「愛」を意味する言葉「タルハ」を表すと ○+・。これをタテに書いて並べるとこのアガデス十字のデザインになるのです。果たして鍛冶屋は銀細工で美しくこの「タルハ」を「クロワ・デ・アガデス」の形に仕上げ、スルタンの息子はこの銀細工による「愛の告白」で恋人を手に入れました”、という話です。事実ではなかったとしても、なんとも夢のある話です。

 

トゥアレグの銀細工はカースト(階級)の存在するトゥアレグ社会でにおいて鍛冶屋階級が担当して作っています。まず、ろうでクロワ・デ・アガデスの形を作り、それに粘土をつけてかたどりします。その粘土を火にかけて焼き、ろうがとけたところに銀貨などを溶かした銀を流し込み、冷まし、型をわってでてきた銀を整形・磨いて作ります。現在もアガデスやティミア、イフェロアンには銀細工の鍛冶屋工房があります。中には成功してフランスの有名アクセサリー店に出品している工房も。それでも2007年以降の観光客の減少で、鍛冶屋産の収入も少なくなってしまい、観光客を探して売りに歩いている職人達もたくさんいます。


 
鍛冶屋工房では手作業で銀細工が作られています。ツアー中でもデザインの希望を伝えてオーダーすると砂漠から帰ってくるまでに作ってくれたりします。

アガデスのお店では銀製のクロワ・デ・アガデスのペンダントが大きさにより15~30ユーロ、トァアレグの伝統的な意匠を取り入れた「作品」になると100ユーロを越えるものもあります。もともとはそのトゥアレグ十字を見るだけでその人がどこの地域の出身者がわかり、父から息子へと引き継がれたもの。今ではおしゃれなアクセサリーとして外国人に人気のアイテムになっています。

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おいしいイラン

  • イラン

2020.11.05 update

今日はイランの食事についてご紹介いたします。

 

まず主食として食べられているのが「ベレンジ」というお米で、「チェロー」、「ポロー」とも呼ばれます。日本のもちもちしたお米とは異なり、パサパサしているので油を入れて炊いたりバターをかけて食べることもあります。サフランをかけて、色味を出すことも多いです。

 

もう一つの主食が「ナーン」。厚いものから薄いもの、ゴマが付いているものなど種類は様々です。

 

お米やナンと一緒に食べるのが、日本ではケバブと言われる「キャバーブ」というお肉料理。羊肉でできた「クービーデ」や鶏肉の「ジュージェ」など、こちらも種類が豊富です。イランではお肉料理が多いので、お口直しの為にライムやミント、生の玉ねぎなどがお皿に添えてあることもあります。

 

日本人の口に合うのがトマト煮込み。こちらは、ナスと牛肉の煮込み料理です。

 

また、シチューのような「ホレシュト」というお料理もご飯とナンとの相性は抜群です。

 

また、お魚料理やスパゲッティもイラン人の大好物です。お魚を生で食べることはありませんが、下の写真のようにこんがり焼いて、お米と一緒に食べます。

 

イランのスパゲッティは「マーカーローニー」と呼ばれます。多少薄味なので、ヨーグルトをかけて食べたり、サラダと混ぜたり、食べ方は人それぞれ。

 

メインディッシュの他に、サラダやスープもよく食卓に並びます。日本人に好まれるのが、ジョーという穀物が入ったスープ、「スーペ・ジョー」。さっぱりといただく為にライムを絞って食べるのがおすすめです。

 

果物も豊富です。桃やスイカ、メロン、ぶどう、いちご・・・日本で食べられる果物はもちろん。イランは物価が安いので、一番高級な果物と言われるスイカもまるまる一つで400円ほど。また、なんといってもザクロがおいしいのです。これからの時期は美しい赤色をしたザクロがたくさん出てきます。

 

皆様も是非「おいしいイラン」を体験ください。

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コスタリカのコーヒー

  • コスタリカ

2020.10.29 update

こんにちは、大阪支社の前川です。今回はコスタリカのコーヒーをご紹介します。
 
コスタリカのコーヒー?と思われる方も多いかもしれませんが、実は2008年にはコスタリカにおいてコーヒー生産200周年を迎えるほど古くよりコーヒー生産が行われてきました。中米コーヒーの魅力は、なんといっても『味と香りの豊かさ』だと思います。山岳地帯が多いゆえに『ミクロクリマ』(微気候)も違うことから、同じ国、同じ県産でも農園ごとにバラエティ豊かなコーヒーが生産されています。

 
そんなコーヒー農園の1つ、ドカ農園ではコーヒーの品質を維持するため、100年間豆を取れる木であっても25年しか使用しないそうです。また、コスタリカ政府がロブスタ種の栽培を禁止した為、100%アラビカ種を栽培しています。コーヒー栽培がされている地域は雲霧林帯という気候帯で、年間通して霧の発生しやすいため、寒暖の差もありコーヒー栽培には適した環境です。コスタリカは、世界では小さなコーヒー生産国ですが、ユニークかつ良質のコーヒーを生産する国のひとつです。


 
収穫の行程は、10月~2月の収穫期に赤くなった豆を手摘みをする。大きな水槽で水洗いし、発酵させる。乾燥、天日干しをし、平均5か月寝かせた後、最終工程の焙煎をします。



 
焙煎時間によって異なりコーヒーが生まれます。焙煎時間が長いほど酸味が少なくなり最も長いものがエスプレッソコーヒーとなるそうです。


 
1粒ずつ手摘みをし、水洗い、乾燥をして焙煎されたコスタリカの薫り高いコーヒー。現地で楽しめば味わいはまた格別です。

 

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