潜伏キリシタンの里巡り①
日本のキリスト教の始まり~禁教
- 日本
2021.04.16 update
西遊旅行の「潜伏キリシタン」の世界遺産を巡るツアーは、これまでに2019年に3ツアー、2020年と2021年にそれぞれ1ツアー、催行しています。ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズでは、日本ではあまり知られていない日本のキリスト教伝来から今なお続く隠れキリシタンの信仰についてまとめました。
禁教期、表向きは仏教徒を装いながら、ひそかにキリスト教を信仰し続けたカトリックの信徒のことを潜伏キリシタンと呼びます。バテレン追放令で宣教師が不在のなか、2世紀以上にわたる禁教政策の下で弾圧にも屈せず密かに信仰を子孫へとつないできた事は世界史上に例がありません。潜伏キリシタンが信仰を継続する中で育んだ独特の宗教的伝統を物語る証拠として、12の資産がUNESCOの世界遺産に登録されています。この宗教的伝統は、現在も「カクレキリシタン信仰」として受け継がれています。
第1弾では、日本のキリスト教の歴史を辿りながら、キリスト教の禁教、そしてキリシタンが潜伏するに至った経緯をまとめました。
キリスト教伝来以前の日本の宗教 / 日本人の宗教観
キリスト教が伝わる前の日本では、紀元前に起源をもつ神道と6世紀に伝播した仏教、さらにそれらが自然崇拝と結びついた山岳信仰などの在来宗教が存在していました。日本人の多くは仏教徒であると同時に、地域の神社の氏子を勤めたり、聖地とされた山岳を拝むこともあり、単一の宗教を信仰するよりも、複数の宗教を信仰することが一般的でした。
キリスト教伝来
日本にキリスト教が伝わったのは、1549年のことでした。イエズス会の宣教師であったザビエルは、1549年に鹿児島に上陸し、キリスト教を広めていきます。上陸した鹿児島から京までの道中の長崎県で多くの信徒を獲得し、平戸・長崎・有馬を中心としてキリスト教は全国的に広まりました。ザビエルが日本に伝えたキリスト教およびその信者のことを、同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼びました。
日本人は、東洋とは異なる西洋文化に興味を抱き、教理を学ぶうちに次第にキリスト教への信仰に理解を深めていったといわれています。九州地方の大名の中には、貿易の利益を求めて宣教師を受け入れ、キリスト教に改宗した人たちもいました。「キリシタン大名」と呼ばれた彼らの領地では、領主にならって多くの領民が改宗しています。このような理由から、長崎地方には多くの教会堂が誕生し、浦上や天草にもヨーロッパ文化が広まっていきました。
キリスト教禁教の始まり
1587年長崎が貿易の中心地として栄える中、バテレン追放令が発令されます。もともとはキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉ですが、キリシタンの結束力を驚異と感じるようになったのが理由ではないかと言われています。1612年には、徳川秀忠が幕府の直轄地と直属の家臣に対してキリスト教の信仰を禁じ、翌年に全国へ広めました。バテレン追放令に続く江戸幕府の禁教令により、すべての教会堂は破壊され、宣教師は国外へ追放されました。
1597年、日本最初の殉教事件である「日本二十六聖人の殉教」が起こります。外国人宣教師・修道士、日本人修道士と信者の合計24名が秀吉のキリシタン禁止令によって捕縛され、長崎での処刑という命令を受けて一行は大阪から長崎まで歩いて向かいました。途中、イエズス会の世話役ペトロ助四郎と、フランシスコ会の世話役伊勢の大工フランシスコ2名も捕縛され殉教の列に加わります。到着後、すぐに十字架に掛けられ、26名は長崎の西坂の丘で殉教しました。
この事件は世界中に知られることなり、26名は1627年にカトリック教会より列福を受け、さらに1862年には列聖を受けて日本人関係で初の聖人と認められました。列聖して100年目後の1962年には、二十六聖人等身大の記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができてきます。
潜伏のきっかけとなった島原・天草一揆
1637年、領主の苛政と飢饉などをきっかけに「島原・天草一揆」が勃発します。
2万数千人の百姓などが、長崎県島原半島南部の海に突き出た丘陵を利用した城跡に立てこもりました。幕府軍は約12万人の兵力を動員して一揆軍を攻撃。4ヵ月におよぶ戦いで一揆勢がほぼ全滅したと言われています。
全国的に禁教政策が進む中の一揆は江戸幕府に大きな衝撃を与え、宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船の来航を禁止し、鎖国を確立しました。これによってもたらされた、国内宣教師の不在という状況によって、キリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を続けざるを得なくなったのです。
発掘調査では、本丸の虎口や櫓台の石垣などの遺構が確認されており、多量の人骨や十字架、メダイなどの信心具が出土しています。
一揆勢の総大将に担ぎ出されたのが、わずか16歳であった天草四郎です。総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは、父甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われています。
益田甚兵衛の長男として生まれた天草四郎は、長崎に渡り学問をしたことなどが知られています。ママコス神父が、「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、5国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言を残して去ったという話があり、不安を募らせる人々の中で四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まりました。一揆の際には、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で、洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。
原城跡には、長崎平和祈念像で有名な北村西望氏の「天草四郎像」が建てられています。
原城跡は、「キリシタンが潜伏し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる島原・天草一揆の主戦場跡」として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産に登録されました。ツアーでは、原城跡や島原・天草一揆を詳しく紹介する「有馬キリシタン遺産記念館」と併せて訪問しています。原城跡は目の前を有明海、背後に雲仙岳を望む小高い丘からなる風光明美なスポットで、晴れた日には見学をしながら景色を楽しむこともできます。
次回は、潜伏期のキリシタンについて解説いたします。
キトラ古墳と箸墓古墳【桜井編】
- 日本
2021.04.08 update
「キトラ古墳と箸墓古墳」のツアーは、桜井市で1泊します。桜井市立埋蔵文化財センターを見学し、翌日は桜井市に残る史跡を見学します。桜井市内には、西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として知られる纒向遺跡と、卑弥呼の墓と比定される箸墓古墳が残りますが、ツアーではもう一つ日本史の中で重要な場所を訪ねました。
桜井市にあったは「石柘榴市(つばいち)」は、難波津(現在の大阪市中央区高麗橋)から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使者が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。日本書紀に「欽明天皇十三年冬十月」に、仏教を伝来させた百済の聖明王の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされており、この地が仏教が始めて日本に送られた記念すべき地と考えられています。また、遣隋使として有名な小野妹子が、隋の使者・裴世清としもべ12人を伴って帰国した時、朝廷はこの地で飾り馬75頭を仕立てて、盛大に迎えたそうです。ここには、「仏教伝来の碑」と「飾り馬の像」がありました。
さて、纏向遺跡は日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも考えられています。それは発掘調査により、ここが広大な面積を有する事、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からである事、箸墓古墳を代表として、纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳、南飛塚古墳、前方後方墳であるメクリ1号墳などの発生期古墳が日本で最初に築かれている事、農耕具が殆ど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多い事等の理由です。ただ、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の2%にも足りず、未だ不明な部分も多く残されています。ツアーでは、箸墓古墳の他6つの小さな古墳と、辻地区において発掘調査がなされた「大型建物跡」という建物群を見学しました。
墳丘全長120mの前方後円墳。纏向遺跡では箸墓古墳に次ぐ墳丘規模を持っています。埋葬施設の内容は不明ですが、古墳築造前後の遺構が確認されており、箸墓古墳とほぼ同時期である3世紀後半頃に築造されたと考えられています。纏向遺跡では、ホケノ山古墳とともに、築造時期が限定できる数少ない古墳の一つです。
全長約93mの前方後円型の墳丘を持つ大型墳墓。発掘調査により、後円部は南北約56m、東西約64mとやや東西に長い形態であることが判明しました。周濠状遺構より出土した土器などから、定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀中頃の築造と考えられています。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の一例であり、石塚古墳とともに、前方後円墳の出現を考える上で重要な墳墓と言えます。
3世紀に築造されたと考えられる大型墳墓で、前方後円型の墳丘は全長115mを測ります。石塚古墳と同様に、定型化した前方後円墳が出現する以前に築造された可能性が考えられます。埋葬施設の内容は不明ですが、墳丘の周囲をめぐる周濠状の遺構からは、土器や木製品が多数出土しており、なかには建築部材やU字型木製品など特異なものも含まれていました。これらの遺物は、古墳出現期における墳墓祭祀を知る上で重要な資料となっています。
全長約96mの前方後円型の墳丘を持つ大型墳墓。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の典型的な例とされています。箸墓古墳などの定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀前半~中頃の築造と考えられ、後の大型古墳に見られるような葺石や埴輪は存在しません。このため古墳時代初頭の「古墳」とする考え方がある一方で、弥生時代終末期の「墳丘墓」とする意見もあり、古墳時代の始まりを議論する上で注目される資料となっています。第二次大戦中は、高射砲を陣地の設営を目的として、墳丘の上部が大きく削平されてしまっています。
辻地区において検出された、掘立柱建物と柱列からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。建物群は庄内式期の前半頃(3世紀前半)に建てられたとみられますが、庄内3式期(3世紀中頃)を含めてそれ以前には柱材の抜き取りが行われ、廃絶したと考えられています。このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇ります。近年実施された纒向遺跡第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されています。また、建物D横の土坑からは2700個以上の桃の種が出土しました。
陵墓「大市墓」。奈良盆地の東南部、箸中微高地上に築造された全長約276mの前方後円墳。墳丘の詳細な調査は行なわれてませんが、後円部径約156m・高さ約26m、前方部幅約130m・高さ約17m、後円部5段・前方部4段築成と考えられています。墳丘周辺部では桜井市教育委員会や奈良県立橿原考古学研究所などによる発掘調査が行われており、周濠や外堤、墳丘と外堤を結ぶ渡り堤が確認されています。採集された埴輪や周濠部で出土した土器などから、前方後円墳としては最古級にあたる3世紀中頃~後半の築造と推定されています。孝霊天皇の娘・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が埋葬された陵墓として宮内庁が管理していますが、邪馬台国の女王・卑弥呼又はその後継者・台与が埋葬されていると考える研究者も多くいます。
ホケノ山古墳は、後の定型化した前方後円墳の成立につながるいくつかの要素を内包した初期的な古墳で、纏向遺跡に所在するそれら「纏向型前方後円墳」と呼ばれる古墳の中では唯一その全体像が発掘調査により判明していることから、古墳の出現過程を考える上で貴重な例です。全長は約80m、前方部長径約25mで、埴輪は持たず、二段以上の段築と葺石も確認されています。後円部の中央からは、「石囲い木槨」と呼ばれる木材で作られた槨の周囲に、河原石を積み上げて石囲いを作るという二重構造を持った埋蔵施設が確認され、中には舟型木棺が置かれていたと推測されています。埋葬施設の構造やこれらの副葬品などから、古墳の築造の時期は3世紀中頃と考えられています。
茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部の三輪山麓に位置しています。後円部が現状で高さ9メートル前後を測り、その北側に高さ1~2メートルの低平な前方部が存在した、後円部に対して前方部の規模が著しく小さい「帆立貝式古墳」です。後円部の各段の平坦面では埴輪列が検出されました。このほか墳丘上において、埴輪を転用してつくられた埋葬施設である埴輪棺が計3基見つかっています。ここから出土した「盾持人埴輪」は、頭部から盾部上半にかけての高さ67.6センチメートル分と、径33.8センチメートルの円筒形の基部付近が残存していました。4世紀末頃の茅原大墓古墳で出土した盾持人埴輪は、現状で知られている盾持人埴輪の中で最も古く位置付けることができます。これにより6世紀後半まで続く盾持人埴輪が、4世紀末頃に登場していることが明らかとなりました。埴輪祭祀の変遷を考えるうえで貴重な資料であるということができるでしょう。
古代のヤマト政権発祥の地とされ、様々な史跡が残る桜井市を訪ねる「キトラ古墳と箸墓古墳」のツアー。是非古代史のロマンに触れてみてください。
キトラ古墳と箸墓古墳【飛鳥編】
- 日本
2021.04.05 update
毎年文化庁の主催で行われている「キトラ古墳」の国宝の内部壁画の一般公開に合わせ設定しているのが、「キトラ古墳と箸墓古墳」のツアーです。今まで第16回の「朱雀」と第17回の「白虎」の公開時にツアーが催行しました。キトラ古墳が保存されている明日香村と、ツアー後半で訪れる桜井市に残る古代の史跡の数々をご紹介いたします。
「飛鳥時代」という時代がある程、かつて日本の中心だった飛鳥地方。この地名は、一説に朝鮮語で「安住の宿」という意味の「アンシュク」という言葉が由来とい言われています。飛鳥には当時の渡来人の居住区跡もあり、大陸からの文化、風習、技術、宗教などが飛鳥に集結、そして日本人に伝播、伝授されていきました。写真は川原寺から出土した千仏画ですが、椅子に座った初期の仏陀の姿と、飛天が描かれた大陸風の仏画です。
ここには天皇のお墓である「陵」も残っています。写真は第29代天皇の欽明天皇陵。欽明天皇の治世中の538年に、百済より仏教が渡来しました。百済の聖明王が遣わした使節団の中に、日本に最初に足を踏み入れた僧侶もいました(彼らの軌跡は次回の桜井編でご紹介いたします。)
こちらの写真の陵は、天武天皇と持統天皇の合葬墳墓。天武天皇が古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継いだと言われています。持統天皇は、天皇として初めて火葬された人物としても知られています。
現在の明日香村には、飛鳥時代から残る木造建築はほとんどなく、替わりに石造物が沢山残っています。こちらは、欽明天皇陵近くにある吉備姫王の檜隅墓にある猿石。高さ1mほどの4体の石造があり、猿の顔に似ていることから猿石と呼ばれています。
また欽明天皇ゆかりの石造物として、写真の「鬼の雪隠」と「鬼の俎」があります。もともとは欽明天皇陵の石室の底石と蓋がひっくり返ったものと言われていますが、鬼が旅人を霧で迷わせ捕らえて爼で料理し、満腹になったあとに雪隠で用を足した場所というおどろおどろしい伝説があります。
こちらは、聖徳太子生誕の地と言われる「橘寺」の境内にある「二面石」です。一方はペルシャ人、もう一方は日本人を模したものと言われており、当時大陸からの渡来人にペルシャ系の人がいた証になります。
明日香の石造物は巨石も多く、こちらは長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8mの巨石の下端部に亀に似た顔があることから「亀石」と呼ばれています。
また明日香観光の代名詞とも言える石舞台古墳は、もっと巨大です。6世紀の築造で、巨石30個を積み上げて造られた石室古墳です。周りの盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼ばれています。石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定2,300tあります。付近に蘇我馬子付近の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説が有力です。
飛鳥の石造物で、最もミステリアスなのがこちらの二つ。まず1999年に発見された「亀形石造物」。南の方向に顔を向けた全長2.4m、幅2mの亀の形をしています。この亀の前足は四本指で通常の亀の五本指とは異なるのですが、中国大陸で描かれるこの時期の亀は四本指なので共通しているそうです。
この石で、女性の天皇だった斉明天皇が儀式を執り行う前に禊ぎ(みそぎ)を行ったと言われていますが、女性の天皇ですから全身の禊ぎではなく、手足だけの禊ぎだったのか?と想像していました。
亀形石造物の南東の林の中に残っているのが、酒船石です。長さ5.3m、幅2.27m、厚さ1mの石の平坦な上面に、奇妙な形の溝が彫られています。その用途には様々な説があり、酒船石という名前の通り、かつて酒の醸造に使用されたという言い伝えの他、小魚を入れてどこの穴に入るを見て占いをしたとも言われています。また、飛鳥を舞台にしたミステリー小説「火の路」を執筆した松本清張は、ゾロアスター教風の儀式をした場所との説を唱えています。さらに、古代ゾロアスター教の神官が使った、覚醒作用のある液体「ハオマ」を造った施設という説もあります。
では石造物のご案内から、ツアーの本題の「キトラ古墳」のご案内に移ります。
キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。1983年11月7日に石室内の彩色壁画のひとつである玄武が発見され2000年には国指定史跡に指定され、続いて特別史跡に指定されました。
石室の天井には天文図があり、昨年9月に日本天文学会から「日本天文遺産」に認定されました。壁には四つの方位を守る神とされる四神、「朱雀」「白虎」「玄武」「青龍」の他、人間の姿をした十二支の絵が描かれています。
下の写真は、飛鳥資料館に展示されている壁画のレプリカです。写真では、それぞれの絵は大きな絵と見えるかもしれませんが、実際は本当に小さな絵です。表情や体の細部まで描くには、相当な絵の技術と、繊細な絵を描く道具がないとできないことがわかります。
壁画の展示室の見学は一回につき12人、10分までと決まっており、受付での検温などの健康チェックを受けてからの見学となります。
これらの壁画公開に合わせて企画された「キトラ古墳と箸墓古墳」のツアーを是非ご検討ください。
次回は、ツアー後半の桜井市に残る史跡の数々をご紹介します。
関連ツアー
キトラ古墳と箸墓古墳
国宝キトラ古墳壁画の公開予定に合わせた設定。国宝・高松塚古墳壁画修理作業室を訪問。飛鳥京から山辺へ、卑弥呼の墓と比定される箸墓古墳も訪れ日本国家の形成初期に迫る。
中山道の宿場町を訪ねて 後編
- 日本
2021.04.01 update
「中山道の宿場町を訪ねて」 後編のツアーレポートです。
妻籠宿、寺下の古い町並み
妻籠宿(つまごじゅく)
福島関所跡のある福島宿から、西に五つの宿場町を進むと、妻籠宿に到着します。江戸時代の妻籠宿は、奈良井宿などの宿場町と並び、多くの旅人たちで賑わいました。その後、明治以後の交通改革により、妻籠宿は宿場町としての機能を失い、戦後は高度経済成長の波を受け、若者たちの外部流出によって過疎化し、衰退の一途にあったそうです。地元案内人の説明では、同じ頃、妻籠宿のお隣りの馬籠宿が、島崎藤村を押して観光客を誘致し始めており、観光客の足を妻籠宿でも止めたいと、昭和43年より県の助成金などを利用して、妻籠宿の古い町並み保存を開始。これは日本全国に先駆けての古い町並み保存運動のスタートだったそうです。
保存前の妻籠宿の町並み(南木曽博物館(歴史資料館)蔵)
町並み保存後、現在の妻籠宿の様子
経済成長に伴い日本全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、妻籠宿はいち早く地域を挙げて古い町並み保存運動に取り組んだことが評価され、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地のひとつに選ばれました。
妻籠宿は昭和の名作映画「座頭市」の撮影場所にもなりました。現在でも変わらない古い町並みに、地元の方々のたゆまぬ努力を感じました。
映画「座頭市」、妻籠宿での撮影時の様子
現在の様子。妻籠宿の松代屋は江戸時代1804年創業といわれる200年以上前の旅館です
引き続き、現地案内人の説明を聞きながら、ゆっくり歩いて妻籠宿を見学しました。
妻籠宿本陣は大名や公家が宿泊した宿泊施設です。街道の喧騒を避けるために、少し奥まった位置に建てられました。往時の設計図をもとに、平成7年に復元された建物だそうです。代々、島崎氏が本陣と庄屋を勤め、最後の当主は島崎藤村の実兄でした。
大名・公家が宿泊した妻籠宿本陣
一方、こちらは庶民が宿泊した木賃宿、上嵯峨屋です。江戸時代の庶民たちは、自分で米を蒸して乾燥させた糒(ほしいい)または干し飯という、現代でいうアルファ米のようなインスタント食品を持参して、宿で湯を沸かして戻して食べていました。その薪代が宿代になったので、木賃宿と呼ぶそうです。上嵯峨屋の入口には、薪が積まれていました。
庶民が宿泊した木賃宿、上嵯峨屋
江戸時代の中山道は、参勤交代や大名や皇族のお輿入れにも盛んに利用され、将軍家に嫁ぐ姫宮たちの大通行に使われたため、「姫街道」とも呼ばれました。14代将軍・徳川家茂に嫁いだ皇女和宮の大行列も中山道を通行し、妻籠宿の歴史博物館には、和宮から拝領した車付長持(くるまつきながもち)も展示されています。
和宮から拝領した車付長持(南木曽博物館(歴史資料館)蔵)
往時の町並みが今に残る妻籠宿。昔の旅人たちに思いを馳せながら、宿場町の散策を楽しみました。
妻籠宿の散策を楽しみました
馬籠宿(まごめじゅく)
妻籠宿から馬籠峠を越えると馬籠宿に到着します。馬籠宿はかつては長野県木曽郡山口村でしたが、2005年の越県合併により、岐阜県中津川市に編入されました。ほかの宿場町と同様、江戸時代から多くの旅人たちで賑わいました。私たちは馬籠宿の水車から見学をスタートしました。
馬籠宿の水車
馬籠宿のちょうど真ん中には、藤村記念館があります。1882年、明治の文豪・島崎藤村は馬籠宿本陣の家に生まれました。かつての馬籠宿本陣跡、彼の生家は、現在は島崎藤村の記念館として一般公開されています。
馬籠宿本陣跡である藤村記念館
馬籠宿本陣の母屋は明治時代の大火で焼失してしまいましたが、隠居所だけは焼け残りました。島崎藤村の幼少時の勉強部屋として使われた建物だそうです。
藤村記念館の隠居所。江戸時代の建物で、島崎藤村の勉強部屋でした
島崎藤村の代表作「夜明け前」は、生まれ故郷の馬籠宿を舞台に、藤村の父親をモデルにした小説で、「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで始まります。馬籠宿の展望台まで行くと、木曽山脈の恵那山(標高2,191m)の展望が広がります。馬籠宿が木曽の山の中にある宿場町であることがわかります。
馬籠宿を散策。奥には山々が見えます
馬籠宿の展望台より、木曽山脈の恵那山(標高2,191m)を望む
馬籠宿の酒屋。木曽路の雰囲気が溢れています
草津宿(くさつじゅく)
旅の最後は、滋賀県草津市、かつての草津宿を訪れました。草津宿は中山道と東海道が合流・分岐する宿場町で、昔から交通の要衝として栄えました。草津市在住の地元案内人の話では、滋賀県草津市は京都や大阪へも電車一本で通勤できるため、現在では関西圏で働く人のベッドタウンになっているそうです。
これまでの奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿などの宿場町では見かけなかったマンションなどの高層ビルも目立ちます。かつての中山道、東海道の旧街道も、地元案内人に紹介してもらいましたが、看板や石碑などはあるものの、すっかり現代の町並みに変わっていました。
草津市・草津宿、旧中山道の様子
中山道と東海道の分岐点を示すマンホール。奥には石碑も建てられています
草津宿の最大の見所は、大名や公家などが休泊した草津宿本陣です。これまで訪れた宿場町の本陣は復元されたものか焼失しましたが、草津宿の本陣は江戸時代の姿を保ったまま残っています。現在、日本全国に残る本陣の中でも最大規模のものだそうで、国の史跡に指定されており、見応えがありました。草津宿本陣に休泊した、忠臣蔵の浅野内匠頭や吉良上野介、天璋院篤姫、皇女和宮、新撰組の土方歳三、最後の将軍・徳川慶喜、歴史に残る人物たちの展示もありました。
草津宿本陣の外観
草津宿本陣の内部。かなり広い本陣でした
草津宿の見学後、草津駅に戻り、解散。帰路につきました。
自宅に戻って改めて中山道の旅を振り返ると、現代から江戸時代に行ってまた現代に戻ってくる、タイムトリップは誇張表現ではなかったように思います。そんな不思議な感覚のあった旅行でした。
江戸時代の姿を色濃く残す、中山道の宿場町を訪ねる旅。中山道の山道も歩いてみたいという方は、「中山道・木曽路を歩く」もお勧めです。
関連ツアー
中山道の宿場町を訪ねて(長野・岐阜・滋賀)
江戸時代の情緒漂う木曽路をゆく。各地の宿場町に宿泊し、中山道・東海道の合流点、滋賀県の草津宿も訪問。昔の旅人に思いを馳せつつ、散策を楽しんでみませんか。
中山道・木曽路を歩く(滋賀・岐阜・長野)
中山道の宿場町ウォーキングから山道ハイキングまで、宿場町にも宿泊。江戸時代の姿を色濃く残す、中山道の宿場町を訪問。各地で地元案内人がご案内、4名様催行、少人数の旅。
中山道の宿場町を訪ねて 前編
- 日本
2021.03.29 update
昨秋、好評いただいたツアー「中山道の宿場町を訪ねて」。その様子をご紹介します。
江戸時代の情緒を今に残す、中山道の奈良井宿の町並み
中山道
中山道は江戸時代の五街道のひとつで、京都の三条大橋から江戸の日本橋を結んだ街道で、69カ所の宿場町が置かれました。中山道は長野県から岐阜県の山間部、木曽を通るので、木曽路(きそじ)とも呼ばれています。
江戸時代の五街道。青字が東海道、赤字が中山道(木曽街道・木曽路)です
太平洋沿いの東海道がすっかり現代の町並みに変わってしまったのに対して、山の中を通る中山道は江戸時代の面影を残す宿場町がよく保存されています。そのため、昔の日本を旅行した気分になれると、海外からの旅行者の間でも、関心が高まっています。
昔の日本!? 中山道の妻籠宿、木曽路の古い町並み
奈良井宿(ならいじゅく)
中山道でちょうど真ん中に位置するのが、奈良井宿。標高約940m、木曽路の中でも最も標高の高い宿場町です。江戸時代、多くの旅人たちで賑わい、「奈良井千軒」と謳われました。奈良井宿の古い町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、江戸時代の面影を色濃く残しています。そんな奈良井宿を地元案内人の説明を聞きながら、ゆっくり歩いて見学しました。
奈良井宿を散策
江戸時代、1837年頃に建てられた建物が今も残る中村邸
中村邸の内部。吹き抜けが特徴的です
奈良井宿は木曽漆器が有名です。木曽漆器は中山道を通る旅人の土産物として高い人気を集め、現代まで続く日本の伝統工芸のひとつです。奈良井宿には木曽漆器を取り扱うお店が数多くありました。
奈良井宿の木曽漆器のお店
一方でコンビニエンスストアなどのお店は無いので、まるで江戸時代にタイムトリップしたような感じになりました。
日没前の奈良井宿ものんびり散策。木曽の山の中にあることがわかります
奈良井宿では御宿伊勢屋に宿泊しました。御宿伊勢屋は文政元年(1818年)創業、江戸時代は下問屋を勤めていた旅籠です。現在も往時の建物をそのまま保っており、奈良井宿式建築の代表的なものだそうです。
奈良井宿、御宿伊勢屋の外観
奈良井宿、御宿伊勢屋の内観。江戸時代の建物だそうです
御宿伊勢屋の夕食。木曽の味を堪能させていただきました
夜の奈良井宿も雰囲気があってお勧めです。夕食後、少し散策してみてもいいかもしれませんね。
夜の奈良井宿を散策
夜の奈良井宿の様子。静かな宿場町の夜でした
福島関所跡
福島関所は東海道の箱根、新居、中山道の碓氷と並ぶ日本四大関所のひとつです。奈良井宿から西に三つ進んだ福島宿に設置され、中山道の要衝として「入鉄砲」「出女」を取り締まりました。往時を再現した福島関所跡を見学しました。
福島関所跡。中山道を歩いている人たちにも会いました
福島関所跡の内部。番所では、旅人やその荷物の取り調べが行われていました
福島関所跡に展示されている江戸時代の火縄銃
福島関所跡を見学した後は、妻籠宿に向かいました。
後編では妻籠宿、馬籠宿、草津宿をご紹介します。
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中山道の宿場町を訪ねて(長野・岐阜・滋賀)
江戸時代の情緒漂う木曽路をゆく。各地の宿場町に宿泊し、中山道・東海道の合流点、滋賀県の草津宿も訪問。昔の旅人に思いを馳せつつ、散策を楽しんでみませんか。
中山道・木曽路を歩く(滋賀・岐阜・長野)
中山道の宿場町ウォーキングから山道ハイキングまで、宿場町にも宿泊。江戸時代の姿を色濃く残す、中山道の宿場町を訪問。各地で地元案内人がご案内、4名様催行、少人数の旅。