秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズ第3弾では、第2弾に引き続き「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている構成資産についてご紹介いたします。

 

歴史の流れに沿って分けられている4段階のうち、3・4段階を解説していきます。

 

1:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ

2:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み

3:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

4:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

 

第3段階:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

 

18世紀の終わりになると、外海地域の人口が増加し、五島列島などへ開拓移住が行われました。移住するにあたり、外海地域出身の潜伏キリシタンは自分たちの共同体を維持するために、移住先の社会や宗教と折り合いをつけることを考慮して移住地の選択を行いました。藩の牧場の跡地利用のため再開発の必要があった黒島へと入植したのをはじめ、神道の聖地であった野崎島、病人の療養地として使われていた頭ヶ島、藩の政策に従って未開発地だった久賀島にも移住し、それぞれ集落を形成しました。潜伏キリシタンたちは、移住先の社会や宗教と関わり、折り合いをつけながら自分たちの共同体のもとで信仰を続けることができました。

 

▮黒島の集落

九十九島で一番大きな黒島は、現在も島民の約8割がカトリック信者の「祈りの島」と言われています。

もとは、軍馬の飼育を主とする島でしたが、外海などから移住した潜伏キリシタンが開墾を進め、人が住める島へと発展しました。この島の潜伏キリシタンは、表向きに所属していた仏教寺院から信仰を黙認されつつ、組織的に信仰を継続させました。現在の黒島には、2年の歳月をかけて建設した黒島天主堂があります。国内でも大型の煉瓦造りの教会堂で、1897年に来島したフランス人のマルマン神父の設計で1902年に完成しました。

 

マルマン神父の墓

 

▮野崎島の集落跡

外海地域から海を渡った潜伏キリシタンは、五島列島一円から崇敬を集めていた沖ノ神嶋神社の神官と氏子の居住地のほかは未開拓地となっていた野崎島に移住し、氏子となることにより在来の神道への信仰を装いながら自らの信仰を続けました。外海から移住してきた潜伏キリシタンは、島中央部の野首と南端の舟森で集落を営みました。険しい斜面に開拓された集落跡には、屋敷跡、耕作地跡、墓地、里道などが残されています。

野首集落跡

野首には、わずか17世帯で建設費用を工面して1908年に完成させた野首教会堂が残されています。1960年代初め、島に野崎、野首、舟森と三つの集落があり、約760人が住んでいましたが、現在は島内の宿泊施設の管理人が籍をおくだけでほぼ無人島となっています。

 

野首教会堂

 

▮頭ヶ島の集落

病人の療養地として使われていた島でしたが、19世紀半ば仏教徒の開拓指導者のもとに外海地域の潜伏キリシタンが移住してきました。表向きは中通島に所在する仏教寺院に属して仏教徒を装う一方、無人島で閉ざされた環境の中でひそかに潜伏キリシタンとしての信仰を継承しました。キリシタン弾圧「五島崩れ」の際には、頭ヶ島でも信者が拷問を受け、島民全員が島を一時脱出したと言われています。

頭ヶ島集落の遠望

その後、鉄川与助の設計施工で、近くの島から切り出した石を信者らが船で運び組み立てて建てた石造りの「頭ヶ島天主堂」が1919年に完成します。白浜と呼ばれる遠浅の海水浴場には、キリシタン墓がずらりと並んでいます。

頭ヶ島集落のキリシタン墓地

 

▮久賀島の集落

福江島の北に位置する久賀島では、禁教令で一度キリシタンは途絶えましたが、外海からの移住によって1797年以降に再びキリシタン集落ができました。信徒発見後の「五島崩れ」のきっかけとなった島で、信仰を表明した200人余が6坪ほどの牢屋に8ヵ月間閉じ込められ、子どもを含む42人が死亡しました。この迫害で命を落とした43人の名前は、墓碑に記されて残されています。

牢屋の窄殉教地の墓碑

禁教が解かれると、各地に教会が建てられました。1881年建立の旧浜脇教会が1931年に建替えられることになった際、五輪地区に移築された「旧五輪教会堂」は、初期の木造教会建築の代表例として保護されることになりました。1999年には、国の重要文化財に指定されています。

旧五輪教会堂

 

第4段階:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

▮奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

外海からの農民移住が開始し、奈留島にも移住者が渡り始めると、江上地区にも禁教期の潜伏キリシタンが住み着きました。海に近い狭い谷間に居を構え、わずかな農地や漁業で生計を営み、自らの信仰を組織的に続けたと言われています。1918年には、潜伏キリシタンがキビナゴ漁によって蓄えた資金を元手とし、谷間に開けたわずかな平地を利用して江上天主堂が建てられました。長崎・天草に建てられた数々の木造教会堂の中でも、工法に基づく潜伏キリシタン集落としての風土的特徴と、カトリック教会堂としての西洋的特徴との融合がもたらした教会堂の代表例となっています。信徒がカトリック教会堂として求めた西洋的特徴が、潜伏が終わりを迎えたことを最も端的にあらわす教会堂として、世界遺産に登録されました。

 

ひっそりと佇む江上天主堂

 

▮大浦天主堂

大浦天主堂は、開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設されたゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会で、天主堂の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。

1864年の完成直後、浦上村の潜伏キリシタン10数人が訪れ、信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。この歴史的な出来事はただちに各地の潜伏キリシタンへと伝わり、各地の潜伏キリシタン集落に新たな信仰の局面をもたらしました。宣教師の指導下に入ることを選んだ人々は、公然と信仰を表明するようになったため、「潜伏」が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所として登録されています。

 

大浦天主堂

潜伏キリシタンの里巡りシリーズ2回の記事に渡り、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12資産を紹介いたしました。
次回はシリーズ第4弾、「信徒発見」によって潜伏が終わってから、日本のキリスト教が真に解放されるまでの歴史をたどります。

 

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2020年10月下旬~11月上旬「プライベートロッジに泊まる紅葉の信州」ツアーにて、紅葉のベストシーズンに訪れた現地の様子をお伝えします。ツアーでは主に、秋深まる6つの湖沼を中心に訪れました。今回はその6つの湖沼をご紹介いたします。

 

1.御射鹿池

2020年10月31日 9:00頃撮影(晴れ)

標高1,500mの山の中にある風光明媚な池。静かな水面には背景の山々の風景が逆さに映り込み、幻想的な光景を創り出します。その姿は多くの人のインスピレーションを呼び覚まし、日本を代表する画家、東山魁夷氏の有名な作品《緑響く》のモチーフにもなったことでも知られています。

訪れたときの時間帯や天気、季節によって全く異なる姿を見ることができるため、何度でも訪れたい場所の一つです。

2020年11月2日 9:00頃撮影(曇り)

2020年9月12日 17:00頃撮影(晴れ・視察時)

御射鹿池から10分ほど歩いて脇道を下っていくと「おしどり隠しの滝」があります。横谷渓谷・渋川の最上流に位置する滝で、渓流瀑ならではの長い距離、色々な角度から違った表情が楽しめる滝でもあります。

おしどり隠しの滝

 

2.白駒池

標高2,115mにある神秘的な湖で、標高2,000m以上の湖としては日本最大の天然湖です。湖までの歩道の回りは樹齢数百年の時を刻んだコメツガ、トウヒ、シラビソの原生林が広がっています。485種類のもの苔が生息しており、これは日本国内で見られる4分の1程度にあたります。

ひっそりとした「苔の森」の中を片道20分程度歩いていき、池の畔に佇む「白駒荘」にて昼食をとりました。

原生林を20分程歩いていく

485種類もの苔が生息している

白駒荘の食堂

白駒荘の野菜カレー

 

3.松原湖

 

標高1,123m、長野県南佐久郡小海町に位置する湖。猪名湖(いなこ)、長湖(ちょうこ)、大月湖(おおつきこ)の3湖の総称が松原湖ですが、一般的に最大の猪名湖単体を松原湖と呼んでいます。

ここでは「もみじ回廊」があり、黄、橙、赤の色鮮やかなもみじの絨毯を見ることができました。

もみじ回廊

色鮮やかなもみじの絨毯

 

4.蓼科湖

水面に映る紅葉

グラデーションが美しいもみじ

標高1,250m、1952年に農業用温水ため池として誕生した人造湖。シラカバ、カラマツ林に囲まれ、赤いもみじが湖面に映る美しい景色に出会えました。

 

5.女神湖

 

標高1,540m、赤沼平の湿原をせき止めた人造湖。明治から昭和初期にかけて、蓼科周辺には多くの文化人が集まりました。ほとりに佇む女神像の台座には、詩人、伊藤左千夫の詩が刻まれています。

黄色いカラマツの紅葉と立ち込める霧が織り成す神秘的な光景が見れました。

 

6.白樺湖

 

標高1,460m、白樺の木に囲まれた周囲4kmの人造湖。農業用水を確保するために建設された温水ため池で、周辺には美術館やレジャー施設などが数多くあります。西側からは、蓼科山が見えます。

 

上記6つの湖沼のほか、ツアーでは周辺のダイナミックな紅葉や大自然を体感できるスポットも訪れました。

 

富士見パノラマリゾート

紅葉広がる斜面をゴンドラで上がる

ゴンドラ山頂駅・八ヶ岳展望台での朝焼け

秋の時期、週末や祝日限定で早朝から運行される「プレミアム雲海ゴンドラ」に乗り、標高1,780mへ上がり、雲海を狙い待機しました。

雲海は見れなかったものの、大変天気が良く富士山やご来光をはっきりと拝むことができました。雲海は来シーズンに期待です。

 

ビーナスライン

ビーナスライン上の展望ポイントより

霧ヶ峰富士見台より

長野県の国道152号、県道40号・194号の一部区間の通称。蓼科高原、白樺湖、車山高原、霧ヶ峰、美ヶ原高原など、日本有数の景観を誇る地を結びます。霧ヶ峰周辺では、春から秋にかけての早朝、雲海となることがあります。

白樺湖からツアー解散地の茅野駅へ向かう際、ビーナスラインを経由し途中の霧ヶ峰富士見台から富士山を眺めてから向かいました。

 

横谷観音展望台

横谷観音展望台から渓谷を望む

駐車場につながる道路

渋川上流に広がる横谷渓谷はダイナミックな紅葉が見れるスポットで、美しい渓流や滝をつなぐ遊歩道が整備されています。駐車場から徒歩5分程度にある横谷観音展望台からは、渓谷の斜面に広がる色鮮やかな紅葉を一望できました。また、駐車場につながる道路の左右も鮮やかな紅葉が広がり、ここも隠れた見どころの一つです。

 

乙女滝

 

横谷渓谷の入り口にある滝で、横谷観音展望台やおしどり隠しの滝と遊歩道でつながっています。江戸時代に造られた農業用水路、大河原堰(おおかわらせぎ)の一部で、その落差は15m。写真で見るよりも迫力があります。こちらも駐車場から徒歩5分程度と簡単にアクセスできます。

 

* * *

 

10月下旬から11月初旬にかけて、八ヶ岳周辺はご紹介した湖沼だけでなく、どこも黄色いカラマツの美しい紅葉が続き、どの道を走っても秋の素晴らしさを体感できます。

ツアーではそれぞれの見どころを効率良く巡ることができますので、ぜひご参加をご検討ください。

 

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ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズ第2弾では、2018年にユネスコ世界遺産に登録された 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」についてご案内いたします。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリシタンが潜伏するきっかけ、宣教師が不在のなかどのように信仰を継続したか、そして潜伏の終焉を物語る証拠、それらを物語る12の資産が登録されています。

資産は、下記の通り歴史の流れに沿って大きく4段階に分けられていますが、今回はそのうち1・2段階を解説していきます。

 

1:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ

2:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み

3:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

4:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

 

第1段階:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ

 

▮原城跡

キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原天草一揆」の主戦場跡が原城跡です。前回の記事・潜伏キリシタンの里巡り①「潜伏のきっかけとなった島原・天草一揆」にて詳しく書いておりますので、そちらをご覧ください。

原城跡入り口

島原天草一揆」以降キリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を実践し、移住先を選択するという試みを行っていくことになりました。潜伏の始まりから、明治6年にキリスト教が解禁となるまでひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンは、学術的に「潜伏キリシタン」と呼ばれています。

 

 

第2段階:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み

日本各地の潜伏キリシタン集落は途絶えていくなか、キリスト教の伝来期に最も集中的に宣教が行われた長崎と天草地方においては、ひそかに伝統が引き継がれていきました。16世紀以来、潜伏キリシタンは集落ごとに根付いた共同体で「組」を維持し、信仰維持のために共同体内の仕組みを変えていきました。宣教師に代わって洗礼を授ける「水方」や、教会暦をつかさどる「帳方」などの役職を担当する指導者をつくり、キリスト教由来の儀礼・行事などをとり行ったのです。

日本の伝統的宗教のようにみえるように、儀礼・行事や日々の祈りを実践する方法を模索するなかで、次第に独自の形態が育まれていくことになります。土着の宗教や一般社会と関わりながら信仰を継続した証として、4の集落が登録されました。

 

▮春日集落と安満岳(平戸の聖地と集落)

春日集落と安満岳は、禁教期にキリシタン信仰を継続した集落と、その信仰の対象となった山のことです。集落は平戸島の西岸にある人口70人ほどの小さな集落で、16世紀から禁教期を経て、現在にいたるまで集落の景観はほぼ変わらずに維持されていると考えられています。古くからの神仏や山、川などの自然崇拝と並列してキリシタン信仰形態を育みました。解禁後もカトリックには復帰せずにかくれキリシタン信仰を継続しましたが、現在では信仰は途絶えたと言われています。なお、春日集落の棚田は大変美しく、2010年に「平戸島の文化的景観」として国の重要文化的景観にも選定されています。

平戸島の文化的景観・春日の棚田

安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰です。かつてはキリシタンと対立していた安満岳の神社仏閣ですが、禁教期になると、在来の神道、仏教に基づく宗教観と潜伏キリシタンの信仰とが重なり、3つの信仰が並存する聖なる山となりました。頂上には、寺跡、神社、キリシタンの石碑が存在し、禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っています。

 

山腹にある一の鳥居

 

▮天草の﨑津集落

下天草地方のキリシタンは情報が少なかったことも幸いして「島原・天草一揆」は加担せず、難を逃れました。﨑津集落には、当時は海路でしか行くことができなかったため、キリシタンたちはこの地を潜伏の場所に選び、仏教徒を装って信仰を実践しました。漁業を生業とする集落のため、豊漁の神様デウスとして崇拝したり、アワビの貝殻の模様を聖母マリアに見立てるなど、生業である漁業と密接に結び付けて信仰を守りました。

アワビ貝の信心具

表面上は神仏を敬っていたため、﨑津諏訪神社へお参りをしていましたが、その際には指をクロスにしたり、ひそかにオラショを唱えたなどと言われています。﨑津集落の水方の子孫の住居には、現在もメダイや海にかかわる信心具が保管・展示されています。

崎津集落の全景

 

▮外海の出津集落

出津集落では、聖画や教義書、教会暦などを密かに伝承することで、教徒たち自身で信仰を続けた集落です。集落内には、16世紀にヨーロッパから伝わったとされる聖母マリアをかたどった青銅製の大型メダル「無原罪のプラケット」をはじめとし、1603年に編さんされた「こんちりさんのりゃく」(罪を報いて赦しを求める祈り)の写しなどの日本語の教理書も伝承されていました。集落の潜伏キリシタンは、祈りの言葉であるオラショを口承で伝えており、日常的に各自が無音か小声で唱えていました。

出津集落ではキリスト教の解禁直後、カトリックに復帰したのは約3,000人だったのに対し、引き続き禁教期の信仰を実践し続けたかくれキリシタンは約5, 000人でした。現在では、多くが仏教徒またはカトリック信徒へと移行していますが、今もかくれキリシタン信仰を続ける方がいます。

ド・ロ神父の旧出津救助院

 

▮外海の大野集落

大野集落では、表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となり、在来宗教と信仰の場を共有することで信仰を実践しました。もともとキリシタンも含む様々な神がまつられていた門神社や、古来の自然信仰に基づく山の神をまつった辻神社に、自分たちの信仰の対象をひそかに祭神としてまつり、祈りの場として利用していました。開国後は約30戸がカトリックに復帰していますが、当時の潜伏キリシタンは200名を超えていたとも言われています。18世紀末からの五島への開拓移住の際には、この地域から多くの潜伏キリシタンが離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へと広がることになりました。

陰で信徒がオラショ(祈りの言葉)を唱えた「祈りの岩」

解禁後、潜伏キリシタンは「外海の出津集落」にある出津教会堂に通っていました。しかし、出津教会までお祈りに来ることができない信徒もいました。出津教会完成の11年後、ド・ロ神父が大野集落にいた26世帯のために信徒と協力して建築したのが巡回教会として建てられたのが大野教会堂です。この地ならではの風合いのある地元の石を積み上げ、外壁は神父考案の「ド・ロ壁」と言われる技法で、その後もこの地区の建築に活かされました。

出津教会堂

 

▮中江ノ島(平戸の聖地と集落)

春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島があります。生月島と平戸島の間にある無人島で、1622年と1624年に多くの信者の血が流されました。殉教者たちは白波立つ岩の上で首を切られたり、袋に詰められ海に突き落とされたといわれています。潜伏キリシタンたちは禁教期、この殉教地を最高の聖地として崇拝してきました。

中江ノ島の遠望

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている12の資産のうち、6つご紹介しました。人里離れた場所で、厳しい禁教下でも信仰を守り、繋ごうとしてきた人々の努力と知恵は、今なお各地域に残されています。

 

次回は、残りの構成資産について解説します。

 

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西遊旅行の「潜伏キリシタン」の世界遺産を巡るツアーは、これまでに2019年に3ツアー、2020年と2021年にそれぞれ1ツアー、催行しています。ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズでは、日本ではあまり知られていない日本のキリスト教伝来から今なお続く隠れキリシタンの信仰についてまとめました。

 

禁教期、表向きは仏教徒を装いながら、ひそかにキリスト教を信仰し続けたカトリックの信徒のことを潜伏キリシタンと呼びます。バテレン追放令で宣教師が不在のなか、2世紀以上にわたる禁教政策の下で弾圧にも屈せず密かに信仰を子孫へとつないできた事は世界史上に例がありません。潜伏キリシタンが信仰を継続する中で育んだ独特の宗教的伝統を物語る証拠として、12の資産がUNESCOの世界遺産に登録されています。この宗教的伝統は、現在も「カクレキリシタン信仰」として受け継がれています。

 

第1弾では、日本のキリスト教の歴史を辿りながら、キリスト教の禁教、そしてキリシタンが潜伏するに至った経緯をまとめました。

 

 

キリスト教伝来以前の日本の宗教 / 日本人の宗教観

キリスト教が伝わる前の日本では、紀元前に起源をもつ神道と6世紀に伝播した仏教、さらにそれらが自然崇拝と結びついた山岳信仰などの在来宗教が存在していました。日本人の多くは仏教徒であると同時に、地域の神社の氏子を勤めたり、聖地とされた山岳を拝むこともあり、単一の宗教を信仰するよりも、複数の宗教を信仰することが一般的でした。

 

 

キリスト教伝来

日本にキリスト教が伝わったのは、1549年のことでした。イエズス会の宣教師であったザビエルは、1549年に鹿児島に上陸し、キリスト教を広めていきます。上陸した鹿児島から京までの道中の長崎県で多くの信徒を獲得し、平戸・長崎・有馬を中心としてキリスト教は全国的に広まりました。ザビエルが日本に伝えたキリスト教およびその信者のことを、同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼びました。

 

日本二十六聖人記念館内「永遠の巡礼者ザビエル」像

日本人は、東洋とは異なる西洋文化に興味を抱き、教理を学ぶうちに次第にキリスト教への信仰に理解を深めていったといわれています。九州地方の大名の中には、貿易の利益を求めて宣教師を受け入れ、キリスト教に改宗した人たちもいました。「キリシタン大名」と呼ばれた彼らの領地では、領主にならって多くの領民が改宗しています。このような理由から、長崎地方には多くの教会堂が誕生し、浦上や天草にもヨーロッパ文化が広まっていきました。

 

 

キリスト教禁教の始まり

1587年長崎が貿易の中心地として栄える中、バテレン追放令が発令されます。もともとはキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉ですが、キリシタンの結束力を驚異と感じるようになったのが理由ではないかと言われています。1612年には、徳川秀忠が幕府の直轄地と直属の家臣に対してキリスト教の信仰を禁じ、翌年に全国へ広めました。バテレン追放令に続く江戸幕府の禁教令により、すべての教会堂は破壊され、宣教師は国外へ追放されました。

 

1597年、日本最初の殉教事件である「日本二十六聖人の殉教」が起こります。外国人宣教師・修道士、日本人修道士と信者の合計24名が秀吉のキリシタン禁止令によって捕縛され、長崎での処刑という命令を受けて一行は大阪から長崎まで歩いて向かいました。途中、イエズス会の世話役ペトロ助四郎と、フランシスコ会の世話役伊勢の大工フランシスコ2名も捕縛され殉教の列に加わります。到着後、すぐに十字架に掛けられ、26名は長崎の西坂の丘で殉教しました。

 

日本二十六聖人記念碑

この事件は世界中に知られることなり、26名は1627年にカトリック教会より列福を受け、さらに1862年には列聖を受けて日本人関係で初の聖人と認められました。列聖して100年目後の1962年には、二十六聖人等身大の記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができてきます。

 

殉教直前に群衆に説教をしたという日本二十六聖人の一人 聖パウロ三木の像

 

潜伏のきっかけとなった島原・天草一揆

1637年、領主の苛政と飢饉などをきっかけに「島原・天草一揆」が勃発します。

2万数千人の百姓などが、長崎県島原半島南部の海に突き出た丘陵を利用した城跡に立てこもりました。幕府軍は約12万人の兵力を動員して一揆軍を攻撃。4ヵ月におよぶ戦いで一揆勢がほぼ全滅したと言われています。

 

原城跡の入り口

全国的に禁教政策が進む中の一揆は江戸幕府に大きな衝撃を与え、宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船の来航を禁止し、鎖国を確立しました。これによってもたらされた、国内宣教師の不在という状況によって、キリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を続けざるを得なくなったのです。

 

発掘調査では、本丸の虎口や櫓台の石垣などの遺構が確認されており、多量の人骨や十字架、メダイなどの信心具が出土しています。

 

ホネカミ地蔵:1766 年に地域の住職等が原城跡の遺骨を敵味方の区別なく拾い集め供養した地蔵塔。

埋門跡:原城本丸二番目の門。一揆後幕府軍により破壊され犠牲者と共に埋められた。

一揆勢の総大将に担ぎ出されたのが、わずか16歳であった天草四郎です。総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは、父甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われています。

益田甚兵衛の長男として生まれた天草四郎は、長崎に渡り学問をしたことなどが知られています。ママコス神父が、「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、5国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言を残して去ったという話があり、不安を募らせる人々の中で四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まりました。一揆の際には、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で、洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。

原城跡には、長崎平和祈念像で有名な北村西望氏の「天草四郎像」が建てられています。

 

原城跡の天草四郎像

原城跡は、「キリシタンが潜伏し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる島原・天草一揆の主戦場跡」として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産に登録されました。ツアーでは、原城跡や島原・天草一揆を詳しく紹介する「有馬キリシタン遺産記念館」と併せて訪問しています。原城跡は目の前を有明海、背後に雲仙岳を望む小高い丘からなる風光明美なスポットで、晴れた日には見学をしながら景色を楽しむこともできます。

 

原城跡から望む有明海

次回は、潜伏期のキリシタンについて解説いたします。

 

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「キトラ古墳と箸墓古墳」のツアーは、桜井市で1泊します。桜井市立埋蔵文化財センターを見学し、翌日は桜井市に残る史跡を見学します。桜井市内には、西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として知られる纒向遺跡と、卑弥呼の墓と比定される箸墓古墳が残りますが、ツアーではもう一つ日本史の中で重要な場所を訪ねました。

 

桜井市にあったは「石柘榴市(つばいち)」は、難波津(現在の大阪市中央区高麗橋)から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使者が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。日本書紀に「欽明天皇十三年冬十月」に、仏教を伝来させた百済の聖明王の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされており、この地が仏教が始めて日本に送られた記念すべき地と考えられています。また、遣隋使として有名な小野妹子が、隋の使者・裴世清としもべ12人を伴って帰国した時、朝廷はこの地で飾り馬75頭を仕立てて、盛大に迎えたそうです。ここには、「仏教伝来の碑」と「飾り馬の像」がありました。

仏教伝来の碑

仏教伝来の碑

飾り馬の像

飾り馬の像

現在の大和川

現在の大和川

さて、纏向遺跡は日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも考えられています。それは発掘調査により、ここが広大な面積を有する事、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からである事、箸墓古墳を代表として、纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳、南飛塚古墳、前方後方墳であるメクリ1号墳などの発生期古墳が日本で最初に築かれている事、農耕具が殆ど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多い事等の理由です。ただ、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の2%にも足りず、未だ不明な部分も多く残されています。ツアーでは、箸墓古墳の他6つの小さな古墳と、辻地区において発掘調査がなされた「大型建物跡」という建物群を見学しました。

東田大塚古墳

東田大塚古墳

墳丘全長120mの前方後円墳。纏向遺跡では箸墓古墳に次ぐ墳丘規模を持っています。埋葬施設の内容は不明ですが、古墳築造前後の遺構が確認されており、箸墓古墳とほぼ同時期である3世紀後半頃に築造されたと考えられています。纏向遺跡では、ホケノ山古墳とともに、築造時期が限定できる数少ない古墳の一つです。             

矢塚古墳

矢塚古墳

全長約93mの前方後円型の墳丘を持つ大型墳墓。発掘調査により、後円部は南北約56m、東西約64mとやや東西に長い形態であることが判明しました。周濠状遺構より出土した土器などから、定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀中頃の築造と考えられています。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の一例であり、石塚古墳とともに、前方後円墳の出現を考える上で重要な墳墓と言えます。

勝山古墳

勝山古墳

3世紀に築造されたと考えられる大型墳墓で、前方後円型の墳丘は全長115mを測ります。石塚古墳と同様に、定型化した前方後円墳が出現する以前に築造された可能性が考えられます。埋葬施設の内容は不明ですが、墳丘の周囲をめぐる周濠状の遺構からは、土器や木製品が多数出土しており、なかには建築部材やU字型木製品など特異なものも含まれていました。これらの遺物は、古墳出現期における墳墓祭祀を知る上で重要な資料となっています。

石塚古墳

石塚古墳

全長約96mの前方後円型の墳丘を持つ大型墳墓。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の典型的な例とされています。箸墓古墳などの定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀前半~中頃の築造と考えられ、後の大型古墳に見られるような葺石や埴輪は存在しません。このため古墳時代初頭の「古墳」とする考え方がある一方で、弥生時代終末期の「墳丘墓」とする意見もあり、古墳時代の始まりを議論する上で注目される資料となっています。第二次大戦中は、高射砲を陣地の設営を目的として、墳丘の上部が大きく削平されてしまっています。

大型建物跡

大型建物跡

建物D横の土坑から出た桃の種(桜井市立埋蔵文化財センター)

建物D横の土坑から出た桃の種(桜井市立埋蔵文化財センター)

辻地区において検出された、掘立柱建物と柱列からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。建物群は庄内式期の前半頃(3世紀前半)に建てられたとみられますが、庄内3式期(3世紀中頃)を含めてそれ以前には柱材の抜き取りが行われ、廃絶したと考えられています。このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇ります。近年実施された纒向遺跡第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されています。また、建物D横の土坑からは2700個以上の桃の種が出土しました。

箸墓古墳「大市墓」

箸墓古墳「大市墓」

箸墓古墳の拝所

箸墓古墳の拝所

陵墓「大市墓」。奈良盆地の東南部、箸中微高地上に築造された全長約276mの前方後円墳。墳丘の詳細な調査は行なわれてませんが、後円部径約156m・高さ約26m、前方部幅約130m・高さ約17m、後円部5段・前方部4段築成と考えられています。墳丘周辺部では桜井市教育委員会や奈良県立橿原考古学研究所などによる発掘調査が行われており、周濠や外堤、墳丘と外堤を結ぶ渡り堤が確認されています。採集された埴輪や周濠部で出土した土器などから、前方後円墳としては最古級にあたる3世紀中頃~後半の築造と推定されています。孝霊天皇の娘・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が埋葬された陵墓として宮内庁が管理していますが、邪馬台国の女王・卑弥呼又はその後継者・台与が埋葬されていると考える研究者も多くいます。

ホケノ山古墳

ホケノ山古墳

ホケノ山古墳は、後の定型化した前方後円墳の成立につながるいくつかの要素を内包した初期的な古墳で、纏向遺跡に所在するそれら「纏向型前方後円墳」と呼ばれる古墳の中では唯一その全体像が発掘調査により判明していることから、古墳の出現過程を考える上で貴重な例です。全長は約80m、前方部長径約25mで、埴輪は持たず、二段以上の段築と葺石も確認されています。後円部の中央からは、「石囲い木槨」と呼ばれる木材で作られた槨の周囲に、河原石を積み上げて石囲いを作るという二重構造を持った埋蔵施設が確認され、中には舟型木棺が置かれていたと推測されています。埋葬施設の構造やこれらの副葬品などから、古墳の築造の時期は3世紀中頃と考えられています。

茅原大墓古墳

茅原大墓古墳

盾持人埴輪

盾持人埴輪

茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部の三輪山麓に位置しています。後円部が現状で高さ9メートル前後を測り、その北側に高さ1~2メートルの低平な前方部が存在した、後円部に対して前方部の規模が著しく小さい「帆立貝式古墳」です。後円部の各段の平坦面では埴輪列が検出されました。このほか墳丘上において、埴輪を転用してつくられた埋葬施設である埴輪棺が計3基見つかっています。ここから出土した「盾持人埴輪」は、頭部から盾部上半にかけての高さ67.6センチメートル分と、径33.8センチメートルの円筒形の基部付近が残存していました。4世紀末頃の茅原大墓古墳で出土した盾持人埴輪は、現状で知られている盾持人埴輪の中で最も古く位置付けることができます。これにより6世紀後半まで続く盾持人埴輪が、4世紀末頃に登場していることが明らかとなりました。埴輪祭祀の変遷を考えるうえで貴重な資料であるということができるでしょう。

 

古代のヤマト政権発祥の地とされ、様々な史跡が残る桜井市を訪ねる「キトラ古墳と箸墓古墳」のツアー。是非古代史のロマンに触れてみてください。

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