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広川町の南側に、耳納(みのう)山地から伸びる狭長の丘陵があり、八女丘陵と呼ばれています。八女丘陵には30弱の古墳が点在し、八女古墳群と呼ばれています。これらの古墳の多くは、古墳時代にこの一帯を治めた筑紫国造の一族の墓と言われています。八女郡広川町には、八女古墳群を代表する二つの古墳が残っています。

石人山古墳

全長約120メートルの前方後円墳。前方部と後円部のくびれのところに、被葬者が眠る石棺を背にして守る、ガードマンの役割の武装石人が立っています。石人は、熊本県の有明海一帯で採掘される阿蘇溶結凝灰岩製です。石人の身長は約2メートルで「短甲(よろい)」と「かぶと」を身につけ、背には矢を入れた矢筒の「靫(ゆぎ)」を背負っています。

【石人が祀られている現代の祠】
 
石人は主に江戸時代に、自分の体の悪い部分をさすると癒されるという俗信により、体中をさすられてしまったので、現在顔はのっぺらぼうになり、上半身の模様は不鮮明になっていますが、江戸時代に描かれた石人の模写図には、目・鼻・口の他、短甲の文様までが描かれ、往時をしのぶことができます。

【体中をさすられてしまった石人】

 

石棺もまた阿蘇溶結凝灰岩製で、長さは約2.8メートルの「妻入り横口式家形石棺」という形状です。この石棺の棺蓋には、二重丸の文様の「重圏文」と、直線と帯状の弧線が組み合わされた「直弧文」が彫られており、かつては石棺全体が赤色に塗られていたと言われています。

【阿蘇溶結凝灰岩製の石棺】

 

【広川町古墳公園資料館に展示されている石棺のレプリカ】
 

被葬者は特定されていませんが、八女古墳群は西から東に向かって古墳築造の年代が新しくなっていく傾向があり、石人山古墳は八女丘陵の西の端にある一番古い前方後円墳であることから、初代の筑紫国造の墓とも比定されています。

 

弘化谷古墳

石人山古墳とは谷をはさんで同じ八女丘陵の上に築かれている、直径約39メートル、高さ約7メートルの大形円墳。現在は、外提を含めて、直径55メートルにもなる当時の姿を復元しています。

【弘化谷古墳】
 

石室正面奥に造られた石屋形の内壁には、壁画が描かれていました。

【石室入り口。年2回内部の一般公開が行われていますが、現在は中止しています】

 

石屋形奥壁には、薄く赤を地塗りした上に濃い赤や石材の緑色で三角文・円文・双脚輪状文が描かれ、靫(ゆぎ)は輪郭が線刻されています。双脚輪状文は、福岡県の王塚古墳、熊本県の鎌尾・横山の二つの古墳と合わせて日本で4例しかない珍しい文様です。

【双脚輪状文と靫が描かれた壁画のレプリカ 広川町古墳公園資料館蔵】
 

【王塚古墳の双脚輪状文と靫の壁画のレプリカ】
 

また、石室内の遺体を安置する石屋型は、肥後(熊本県)で盛行したもので、福岡県では弘化谷古墳の他4例しかありません。

弘化谷古墳は前方後円墳ではなく円墳ですが、筑紫君一族が眠る八女古墳群の中でも最大の円墳で、筑紫君磐井が眠る岩戸山古墳のそばにあることから、筑紫君磐井を支えた有力者の墓と考えられます。

次回は、熊本県山鹿市のチブサン古墳とオブサン古墳をご紹介します。

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五郎山古墳は、直径約35メートルの装飾壁画を持つ6世紀後半の円墳です。昭和22(1947)年に発見され、のちに国史跡に指定されました。

 

【五郎山古墳の空撮】

全長約11mの横穴式の石室を持ち、石室はほぼ完全な形で残っています。石室内の羨道(せんどう)(遺体を安置した部屋への通路)は長さ3.6m、幅1m程で、羨道の中ほどから入り口部分に向かって天井が低くなっています。羨道を抜けると、幅2m、奥行き1.6m程の前室があり、その奥に玄室があります。

写真は、五郎山古墳の模型で矢印が玄室です。

【内部がわかる五郎山古墳の模型】

前室と玄室には、赤、緑、黒の3色を用いた壁画が描かれていますが、玄室奥壁に最も多くの絵が描かれています。壁画は、人物、動物、船、家など多くの具象画で構成されています。写真はすべて、五郎山古墳館に展示されてる壁画のレプリカです。

【玄室奥壁の装飾壁画】

 

下の腰石(石室の壁に使われている石のうち一番下にあるもの)には、右端に鞆や靱、弓などの武具が描かれています。中央部には、上から緑色の鳥、同心円文、靱、舟が描かれ、右端と中央の絵の間には、冠を被った人物や矢が刺さった動物、スカート状の着物を着た人物などが見られます。この冠の形状は、下の写真の熊本県にあるチブサン古墳の壁画と同じ三本の角がある冠で、朝鮮半島南部の冠と同じ形です。

【三本の角の冠を被った人物】

【チブサン古墳の冠を被った人物の壁画のレプリカ】

壁画に描かれた緑色の線状の形は、この棺を乗せた舟を黄泉の世界へ導く「鳥」を表現していると言われています。鳥の左には動物が描かれ、この動物を狙うように右下に矢を構えた人物がいます。その下には鎧兜を身につけ、太刀を持った騎馬人物、その左上に動物が上下に描かれています。祈るようなポーズの人物、さらにその左下には両手両足を広げた人物が描かれています。これらの最下段には、はしご状の旗か盾を持った騎馬人物が見られます。左端には、切妻造りの屋根を持つ家、動物が上下に描かれています。

【上:古墳館にある弓を射る人の模型  下:実際の壁画】

 

 

【上:古墳館にある祈る人の模型  下:実際の壁画】

 

腰石の上に置かれた方形の石には同心円文、その右側に左手を腰にあて、右手を上げたポーズをとる力士と思われる人物、その下には動物と人物が描かれています。右側には旗をなびかせ、矢をつがえた騎馬人物があり、その右上の石には円文が描かれています。

【腰石の上の石に描かれた壁画】

【上:古墳館に展示されている旗をなびかせた騎馬上の人の模型  下:実際の壁画】

 

玄室側壁では西側奥の腰石に、船と16個の小さな丸、東側奥の腰石とその上の石にそれぞれ船が描かれています。舟の中央にある四角い物体は、遺体を安置した棺を表現しており、16個の小さな丸は、星を表現していると言われています。この中央に棺を置いた舟の形は、エジプトの太陽の舟と同じ形なのが興味深いです。

【中央に棺を置いた舟と16個の星】

【エジプト・カイロに展示されている太陽の舟】

 

五郎山古墳が造られた時期は、古墳や石室の形体や出土物から6世紀後半と考えられ、当時のこの地域の豪族の墓と言われていますが、被葬者は特定されていません。ただ、五郎山古墳の近くには古代の文献にも登場する筑紫神社があり、この神社がヤマト王権に反抗し「磐井の乱」を起こした古代九州最大の豪族・筑紫野君磐井と関係を持つことが想定されており、五郎山古墳に葬られた人物は、筑紫君と関わりがある人物とも言われています。筑紫野君磐井の墓は、福岡県八女市にある岩戸山古墳で、八女丘陵には磐井一族の古墳が多数残っています。

【巨大な岩戸山古墳内に残る神社】

【岩戸山古墳で発掘された人や動物の石像】

 

筑紫野君磐井は、筑紫と国交のあった新羅に出兵しようとしたヤマト王権に立ち向かいました。写真は、八女丘陵の古墳から出土した耳飾りで、朝鮮半島南部のものと同じ形をしており、磐井と新羅との交流があったことが伺えます。

【新羅と同じ形の金製垂飾付耳飾 岩戸山歴史文化交流館蔵】

また、短甲も出土しており、どちらも岩戸山歴史文化交流館に展示されています。墳長135メートルの巨大古墳に葬られた筑紫君磐井は、今でもこの地の英雄として慕われています。

【短甲 岩戸山歴史文化交流館蔵】

次回は、八女古墳群の石人山古墳と弘化谷古墳をご紹介します。

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『王塚古墳』は六世紀前半に造られたと考えられ、全長約86m、後円部径約56m、前方部幅約60m、後円部高約9.5mにおよぶ、遠賀川流域では最大の前方後方墳です。方形の部分が小さい「帆立貝型」と言われる前方後円墳で、昭和9年に発見されました。

太平洋戦争後、古墳保護よりも石炭採掘を優先させる風潮の中、多くの人々によって王塚古墳は守られ、昭和27年に国の特別史跡に指定された九州の装飾古墳を代表する古墳となっています。

【帆立貝の王塚古墳】

古墳内の石室は2室に分かれており、巨石を使用した腰石や石棚の他、阿蘇泥溶岩で造られた二体分の石屋形(棺床)や燈明台石・石枕が配置されています。

この石室内は、赤・黄・白・黒・緑・灰の6色という、日本で最多の色を使用した文様が所狭しと描かれています。

古墳に隣接する王塚装飾古墳館内には、石室のサイズはおろか使用されている石の大きさ、形まで全く同じく再現し、描かれている装飾壁画も全く同じレプリカが展示されています。石室内に描かれた文様は、大きな馬や武具をはじめとする絵画的な文様の他、円文・三角文などの抽象的なものなど多くの文様が描かれています。

【石室そのもののレプリカがある王塚装飾古墳館】

 

【騎馬像】
石室内には、黒馬と赤馬の合計五頭の馬が描かれています。人間と比べると体格が大きく描かれているのが特徴です。馬の体には手綱や鞍など様々な馬具も見られるほか、手綱に飾金具が描かれるなど細かいところまで表現されています。また、馬具そのものも古墳から出土しており、国の重要文化財に指定されています。

 

【鞍や手綱まで描かれた馬の壁画】

 

【同心円文】
前室と灯明台石に描かれていますが、約10センチ程度の小型のものです。

【三角文】

石室内に一番多く描かれている文様です。特に石屋形の周辺には集中して描かれています。

【左右に石屋形(棺床)と燈明台石・石枕が置かれた石棚。ここの回りには、同心円文、三角文が集中しています】

 

【双脚輪状文】
意味については様々な説があります。貴人にかざす巨大な団扇のような「さしば」という説の他、魔除けの役割を果たす南海産のスイジガイとも言われています。事実、今でも沖縄や鹿児島の離島の家の軒先には、魔除けのためにスイジガイが吊るされています。

【緑、白、黒を使って描かれた双脚輪状文】

 

【下甑島のスイジ貝】

 

 

【与論島のスイジガイ】

 

【こちらは八女古墳群の一つ弘化谷古墳の双脚輪状文のレプリカ】

 

【わらび手文】

一種のまじないの図文と考えられます。わらび手文をもつ古墳は「王塚古墳」ほか、計7基のみしかありません。

 

【まじないの一種のわらび手文】

【靫(ゆぎ)】
矢を入れて背負う「矢筒」で、上部には弓が描かれています。一番下の写真は、テヘラン考古博物館に展示されているアケメネス朝の不死隊の兵士の像で、古今東西、兵士は矢を背負っていたことがわかります。石室内には靫の他、太刀、盾などの武具も描かれています。武具もまた、悪いものから守る魔除けの意味として多くの装飾古墳内に描かれています。

【重々しい姿で描かれた靫】

 

【こちらは茨城県の虎塚古墳内の靫や太刀などの武具の壁画】

 

【こちらは五郎山古墳の靫や弓の壁画】

 

【靫を背負ったアケメネス朝の不死隊の兵士】

次回は五郎山古墳をご紹介します。

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竹原古墳は、福岡県宮若市の犬鳴川の支流である黒丸川と山口川にはさまれた丘陵上に位置しており、宮若市に管理、保護されている古墳です。

古墳は昭和31年、諏訪神社内の相撲場の拡張工事の際に偶然発見されました。内部に複室の横穴式石室がある直径約18m、高さ約6mの円墳です。

石室内には赤と黒の2色で描かれた壁画が発見されました。

【竹原古墳外観】

【竹原古墳入り口】

壁画は馬や波、人物など形象的な図文が約10種類描かれており、写真の古墳館の内部でガラス越しに見ることができます。

【壁画を見ることができる古墳館】

下が、竹原古墳の壁画です。歴史的にも美術史的にも非常に貴重な壁画です。

壁画のデザインの意味は色々な特徴を持っており、様々な説があります。


  1. 1.四神信仰

中央上に描かれている赤い目と大きな尻尾を持つ獣は、「神獣」と表現されますが、この獣は古代中国の「四神信仰」(東西南北を司る神獣を配置することによって守護を得ることを願う信仰)の四神のうちの「青龍」と考えられています。事実、竹原古墳石室の入り口の下部には、正面壁画の神獣向かって左に「玄武」、右に「朱雀」が描かれていた痕跡が残っています。「白虎」は石室内が盗掘された際に破壊されたと考えられます。

【左が玄武、右が朱雀】

下の写真は、奈良県明日香村にあるキトラ古墳内の四神の壁画のレプリカですが、キトラ古墳よりも100年以上前に築造された竹原古墳内にも同じ四神信仰が描かれていることは、古墳築造の文化と共に四神信仰もかなり前から大陸から伝わったと考えられます。

【キトラ古墳壁画・朱雀のレプリカ】

【キトラ古墳壁画・玄武のレプリカ】


  1. 2.龍媒信仰

古代中国では、龍と牝馬を川のほとりで交配させると、駿馬が生まれるという「龍媒信仰」があり、竹原古墳の壁画はこの「龍媒信仰」を表現していると言われています。事実、壁画の下部には水の波を表す図文があり、川のほとりを表現しているように思います。この波の形は、下の写真の中央アジア・キルギスのフェルトに描かれた伝統文様の形と同じであるのが興味深いです。

【壁画下部に描かれた波の文様】

【キルギスのフェルトに描かれた伝統文様】


3.馬と翳(さしば)

壁画中央部には、先の尖った大陸風の被りものを被り、つま先が尖った靴を履いた人が馬を引く図があります。日本にはもともと馬はおらず、大陸から移入されたと考えられており、馬は当時大変貴重な動物でした。竹原古墳の石室からは装身具、武具などの副葬品の他に、馬具も多数出土しています。副葬品や馬の壁画から、被葬者は馬に強い関わりをもつ人物で、かつ貴重な馬を所有することができた人物であったことが考えられています。また、壁画の左右に描かれている円と線の巨大な物体は、翳(さしば)と言われる団扇と言われています。翳は高貴な人物の日よけとして使われたものですが、竹原古墳の壁画の翳は、翳より向こうが聖なる空間、翳の手前が通常の空間を表しており、葬送儀礼を描いたものである説も唱えられています。

次回は、王塚古墳をご紹介いたします。

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巨樹・巨木を2回に分けて紹介するシリーズ。2回目の今回は東北地方と山口県のツアーで訪れることができる巨樹のいくつかをご紹介します。

 

東根の大ケヤキ

山形県の東根小学校にある日本最大のケヤキで国指定特別天然記念物です。樹高26m、幹周り15.7m、樹齢1500年で、江戸時代にはすでに相当な大きさになっていたようです。その頃の絵図には22本のケヤキの並木が描かれ、当時の様子を想像するのが楽しくなってくる、そんな巨樹です。

 

羽黒山の爺スギ

出羽三山のひとつ、羽黒山の参道を進むと国指定特別天然記念物の老杉の並木が現れます。その中でも最大の杉がこの爺スギです。樹高42m、樹齢1000年。国宝の五重塔とともに訪れてみてください。

 

万正寺の大カヤ

福島県の桑折(こおり)町にあり、地名も大榧(おおかや)で、古くから伊達家ゆかりの木として知られていました。樹高16.5m、幹周り8.7mで日本最大のカヤです。

 

 

北金ヶ沢のイチョウ

日本海に沿って走る五能線沿い、青森県の深浦町にあり、幹回り18.8m、樹高33m、樹齢1000年。日本最大の巨樹と言っても差し支えないほどの大きさです。枝から無数に垂れ下がっている気根(乳柱)は幹に取り込まれたり地中に刺さって幹へと変化しているものなど様々です。

 

 

十二本ヤス

青森県の津軽半島にあり、樹高27m、幹周り6mで日本一のヒバ(ヒノキアスナロ)の巨樹です。地上3mくらいから枝分かれして大きく膨らんでいる特異な樹形をしています。その姿から魚をつく「ヤス」に見立てて名前が付きました。

 

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遊龍の松

京都の洛西・善峯寺の境内にあり樹齢600年の五葉松です。善峯寺は平安時代中期に建てられた後、応仁の乱で焼失しましたが、江戸時代に入り徳川5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院によって復旧されました。西国三十三所観音霊場の20番札所になっています。新日本名木100選にも選ばれ、名前の通り左右に伸びた枝が龍に見えることからこの名前が付きました。境内から眺める京都市街の景色もまた素晴らしいです。

 

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安下庄(あげのしょう)のシナナシ

山口県の瀬戸内海に浮かぶ屋代島(通称周防大島)にあり、みかんの段々畑を見ながら坂道を上がっていった先の、民家の庭に植えられています。日本に唯一の木で、原産国の日本でも珍しいです。4月上旬に白い花を咲かせ、果実は西洋梨の形に似ています。昭和56年に枯死しましたが、筑波の農水省果樹試験場に苗木が保存されており、現在は二世がすくすくと伸びています。

 

川棚クスの森

山口県の名湯・川棚温泉にあるクスノキの巨樹です。幹周りは11.4mとそれほど大きいわけではありませんが、このクスノキの最大の特徴は樹幹の外周が180mにもなるというその枝ぶりです。一本の木ですが森のように見えることからその名前が付きました。ここ数年で樹勢が急激に衰えたため地域の方々の努力によって保護活動が行われています。

 

 

恩徳寺の結びイブキ

山口県の西の海、響灘に面した豊北町の高台に、既に廃寺となった恩徳寺があります。この境内にある、なんとも異形の木がこの結びイブキです。分岐した幹と何本もの枝が複雑に絡み合い、ねじれながら成長しています。大内義隆の夫人が寺を建立した際(1529年)には既に生育していたといるされています。

 

▼関連ツアー② 安下庄のシナナシ、川棚クスの森、恩徳寺の結びイブキを訪ねるコースはこちら↓

国境の島・見島にも泊まる 山口大横断
日本海の孤島・見島に行く時期限定です!

 


これらのツアーでは、掲載した巨樹・巨木に加え、豊かな自然が生み出した景勝地・史跡の数々を訪ねます。

 

1回目の四国・九州・沖縄の巨樹・巨木を訪れるコースもぜひご参考ください。


 
 

日本の巨樹・名木を巡る①はこちら

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