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今回は「壱岐と対馬~実りの島と国境島を巡る~」について壱岐編と対馬編の2回に分けてご紹介します。

まずは最初に訪れる壱岐島からご紹介します。

壱岐の島

博多港から高速船で約1時間で到着する壱岐島。長崎県に属する離島で、九州と対馬の間に位置します。古事記の国生み神話の中で、5番目に生まれ「伊伎島」として記された壱岐島。島内には150社以上も由緒ある神社が点在しており、神々の島とも呼ばれています。また、中国の三国志時代に書かれた「魏志倭人伝」にも「一支国」として登場しています。長崎県にある約450基の古墳のうち約6割にあたる280基が壱岐にある事からも古くから交易の拠点としても栄えていたことがうかがい知れます。

車で2時間もあれば回ることができる島ですが、歴史や自然、多くの魅力がある島です。

猿岩

黒崎半島の先端にある壱岐のシンボル猿岩。自然によって造られた高さ45m奇岩は「そっぽを向いたサル」にそっくりです。

辰の島遊覧

辰の島

蛇が谷

壱岐島最北端「勝本港」の沖に浮かぶ無人島辰ノ島。約45分のクルーズですが、エメラルドグリーンに輝く海と、玄界灘の荒波が造った奇岩・断崖・絶壁を堪能することができます。

壱岐市立一支国博物館

黒川紀章設計 卑弥呼か?

壱岐島は、弥生時代に「一支国(いきこく)」と呼ばれ、中国の歴史書『魏志』倭人伝にも登場する重要なクニでした。拠点として栄えたのが、一支国博物館から一望することができる 原の辻(はるのつじ)遺跡です。常設展示室では、この原の辻遺跡をはじめ、島内に点在する遺跡や古墳から出土した貴重な実物資料を約2000点展示し、一部の資料は持ち上げて重さを体感することができます。弥生時代の交易の様子を紹介したビューシアターや表情豊かな160体のフィギュア(すべて実際の壱岐市民の顔です)が弥生時代の原の辻の暮らしを伝える巨大ジオラマなどをつうじて、壱岐の歴史を学ぶことができます。

原の辻遺跡

鳥居の原型

中国の歴史書『魏志』倭人伝に記された「一支国」の拠点として栄えたのが国指定特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡です。現在は、弥生の原風景を残す公園として整備され、17棟の復元建物を間近に見学することができます。紀元前2~3世紀から紀元3~4世紀(弥生時代~古墳時代初め)にかけて形成された大規模な多重環濠集落で、東西、南北ともに約1km四方に広がっています。登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)と同じく“史跡の国宝“といわれる国の特別史跡に指定されています。写真2枚目は柱の上にトリに見える飾りがあり、鳥居の原型とも言われています。

小島神社

普段は海に浮かぶ島にある小島神社。干潮時の前後、2時間だけ海から参道が現れて歩いて参拝することができるため、「壱岐のモンサンミッシェル」とも呼ばれています。

はらほげ地蔵

名前にある「はらほげ」とは方言で「お腹が丸くえぐられている」ということです。写真からはわかりにくいですが、6体あるお地蔵さんにはいずれも穴が開いており、ここからはらほげ地蔵という名前がつけられています。

壱岐の食事

うに丼 鯛のかぶと煮

壱岐には玄界灘にもまれた身の引き締まったイカやブリやウニ、日本一にも輝く壱岐牛など様々な特産品があります。中でも有名なウニは採れる時期が決まっています。

ぜひこの機会にご賞味ください。

 

②の対馬編に続きます!

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熊本県を流れる菊池川は、阿蘇の外輪山を源とし有明海に注ぐ一級河川です。菊池市、山鹿市、玉名郡和泉町、玉名市を流れるこの川の流域には、九州内でも多くの装飾古墳が残る地域です。有明海や八代海の沿岸部に伝わった古墳築造や装飾の技術、文化は、この菊池川を遡って時間とともに九州内陸部へと伝播しました。

【遠くに阿蘇をのぞむ菊池川の空撮】

菊池川流域の山鹿市に残るチブサン古墳は、古墳時代後期の6世紀に造られた古墳で熊本はもとより日本の装飾古墳を代表する古墳の一つとされています。チブサン古墳は全長約45mの前方後円墳で、後円部径約23m、高さ約7m、前方部幅約16m、高さ約6mの大きさです。墳丘からは葺石・埴輪のほか武装した石人1体が見つかっています。

【前方部、後円部とも丘になったチブサン古墳】

 

古墳内部には割り石を積み上げて作られた石室が造られています。その石室の奥に石屋型の石棺が配置されています。石屋型の内壁には赤、白、黒の三色で、丸や三角、菱形などの装飾文が描かれていています。

【石屋型の壁画のレプリカ 熊本県立装飾古墳館蔵】

「チブサン」という名前は、正面の二つ並んだ円が女性の乳房に見えることからこの名がついたと言われています。現在も「乳の神様」として地域の人たちに信仰されており、江戸時代には母乳の出がよくなるよう、この古墳に甘酒をお供えしたそうです。

【チブサン古墳近くにある壁画のレプリカ】

内壁の下段には、三本角の冠をつけ両手、両足を広げた人物像が描かれています。三本角の冠は、古墳時代に朝鮮半島南部で使われていた冠と同じ形で、この地との交流があったことがうかがえます。

【朝鮮半島南部と同じ三本の角の冠を被った人】

チブサン古墳の近くには、直径約22m・高さ約5mの円墳・オブサン古墳が残っています。

【オブサン古墳石室入り口】

埋葬施設は南に開口する横穴式石室で全長約8.5m、玄室・前室・羨道からなる複室構造で、現在でも内部に入ることができます。ここからは、玉類や金環、武具、馬具、須恵器などが出土しました。

【石室内部】

オブサンは、産(うぶ)さんが訛ったもので、古くから安産の神様として古くから地域の人たちに信仰されています。この名前は、石室入り口を中心として両足を開いた女性の出産の姿に見えることから「産さん」になったとのことです。

【妊婦が足を広げたように見えるオブサン古墳】

次回は、玉名市の石貫ナギノ横穴古墳と石貫穴観音古墳をご紹介します。

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広川町の南側に、耳納(みのう)山地から伸びる狭長の丘陵があり、八女丘陵と呼ばれています。八女丘陵には30弱の古墳が点在し、八女古墳群と呼ばれています。これらの古墳の多くは、古墳時代にこの一帯を治めた筑紫国造の一族の墓と言われています。八女郡広川町には、八女古墳群を代表する二つの古墳が残っています。

石人山古墳

全長約120メートルの前方後円墳。前方部と後円部のくびれのところに、被葬者が眠る石棺を背にして守る、ガードマンの役割の武装石人が立っています。石人は、熊本県の有明海一帯で採掘される阿蘇溶結凝灰岩製です。石人の身長は約2メートルで「短甲(よろい)」と「かぶと」を身につけ、背には矢を入れた矢筒の「靫(ゆぎ)」を背負っています。

【石人が祀られている現代の祠】
 
石人は主に江戸時代に、自分の体の悪い部分をさすると癒されるという俗信により、体中をさすられてしまったので、現在顔はのっぺらぼうになり、上半身の模様は不鮮明になっていますが、江戸時代に描かれた石人の模写図には、目・鼻・口の他、短甲の文様までが描かれ、往時をしのぶことができます。

【体中をさすられてしまった石人】

 

石棺もまた阿蘇溶結凝灰岩製で、長さは約2.8メートルの「妻入り横口式家形石棺」という形状です。この石棺の棺蓋には、二重丸の文様の「重圏文」と、直線と帯状の弧線が組み合わされた「直弧文」が彫られており、かつては石棺全体が赤色に塗られていたと言われています。

【阿蘇溶結凝灰岩製の石棺】

 

【広川町古墳公園資料館に展示されている石棺のレプリカ】
 

被葬者は特定されていませんが、八女古墳群は西から東に向かって古墳築造の年代が新しくなっていく傾向があり、石人山古墳は八女丘陵の西の端にある一番古い前方後円墳であることから、初代の筑紫国造の墓とも比定されています。

 

弘化谷古墳

石人山古墳とは谷をはさんで同じ八女丘陵の上に築かれている、直径約39メートル、高さ約7メートルの大形円墳。現在は、外提を含めて、直径55メートルにもなる当時の姿を復元しています。

【弘化谷古墳】
 

石室正面奥に造られた石屋形の内壁には、壁画が描かれていました。

【石室入り口。年2回内部の一般公開が行われていますが、現在は中止しています】

 

石屋形奥壁には、薄く赤を地塗りした上に濃い赤や石材の緑色で三角文・円文・双脚輪状文が描かれ、靫(ゆぎ)は輪郭が線刻されています。双脚輪状文は、福岡県の王塚古墳、熊本県の鎌尾・横山の二つの古墳と合わせて日本で4例しかない珍しい文様です。

【双脚輪状文と靫が描かれた壁画のレプリカ 広川町古墳公園資料館蔵】
 

【王塚古墳の双脚輪状文と靫の壁画のレプリカ】
 

また、石室内の遺体を安置する石屋型は、肥後(熊本県)で盛行したもので、福岡県では弘化谷古墳の他4例しかありません。

弘化谷古墳は前方後円墳ではなく円墳ですが、筑紫君一族が眠る八女古墳群の中でも最大の円墳で、筑紫君磐井が眠る岩戸山古墳のそばにあることから、筑紫君磐井を支えた有力者の墓と考えられます。

次回は、熊本県山鹿市のチブサン古墳とオブサン古墳をご紹介します。

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五郎山古墳は、直径約35メートルの装飾壁画を持つ6世紀後半の円墳です。昭和22(1947)年に発見され、のちに国史跡に指定されました。

 

【五郎山古墳の空撮】

全長約11mの横穴式の石室を持ち、石室はほぼ完全な形で残っています。石室内の羨道(せんどう)(遺体を安置した部屋への通路)は長さ3.6m、幅1m程で、羨道の中ほどから入り口部分に向かって天井が低くなっています。羨道を抜けると、幅2m、奥行き1.6m程の前室があり、その奥に玄室があります。

写真は、五郎山古墳の模型で矢印が玄室です。

【内部がわかる五郎山古墳の模型】

前室と玄室には、赤、緑、黒の3色を用いた壁画が描かれていますが、玄室奥壁に最も多くの絵が描かれています。壁画は、人物、動物、船、家など多くの具象画で構成されています。写真はすべて、五郎山古墳館に展示されてる壁画のレプリカです。

【玄室奥壁の装飾壁画】

 

下の腰石(石室の壁に使われている石のうち一番下にあるもの)には、右端に鞆や靱、弓などの武具が描かれています。中央部には、上から緑色の鳥、同心円文、靱、舟が描かれ、右端と中央の絵の間には、冠を被った人物や矢が刺さった動物、スカート状の着物を着た人物などが見られます。この冠の形状は、下の写真の熊本県にあるチブサン古墳の壁画と同じ三本の角がある冠で、朝鮮半島南部の冠と同じ形です。

【三本の角の冠を被った人物】

【チブサン古墳の冠を被った人物の壁画のレプリカ】

壁画に描かれた緑色の線状の形は、この棺を乗せた舟を黄泉の世界へ導く「鳥」を表現していると言われています。鳥の左には動物が描かれ、この動物を狙うように右下に矢を構えた人物がいます。その下には鎧兜を身につけ、太刀を持った騎馬人物、その左上に動物が上下に描かれています。祈るようなポーズの人物、さらにその左下には両手両足を広げた人物が描かれています。これらの最下段には、はしご状の旗か盾を持った騎馬人物が見られます。左端には、切妻造りの屋根を持つ家、動物が上下に描かれています。

【上:古墳館にある弓を射る人の模型  下:実際の壁画】

 

 

【上:古墳館にある祈る人の模型  下:実際の壁画】

 

腰石の上に置かれた方形の石には同心円文、その右側に左手を腰にあて、右手を上げたポーズをとる力士と思われる人物、その下には動物と人物が描かれています。右側には旗をなびかせ、矢をつがえた騎馬人物があり、その右上の石には円文が描かれています。

【腰石の上の石に描かれた壁画】

【上:古墳館に展示されている旗をなびかせた騎馬上の人の模型  下:実際の壁画】

 

玄室側壁では西側奥の腰石に、船と16個の小さな丸、東側奥の腰石とその上の石にそれぞれ船が描かれています。舟の中央にある四角い物体は、遺体を安置した棺を表現しており、16個の小さな丸は、星を表現していると言われています。この中央に棺を置いた舟の形は、エジプトの太陽の舟と同じ形なのが興味深いです。

【中央に棺を置いた舟と16個の星】

【エジプト・カイロに展示されている太陽の舟】

 

五郎山古墳が造られた時期は、古墳や石室の形体や出土物から6世紀後半と考えられ、当時のこの地域の豪族の墓と言われていますが、被葬者は特定されていません。ただ、五郎山古墳の近くには古代の文献にも登場する筑紫神社があり、この神社がヤマト王権に反抗し「磐井の乱」を起こした古代九州最大の豪族・筑紫野君磐井と関係を持つことが想定されており、五郎山古墳に葬られた人物は、筑紫君と関わりがある人物とも言われています。筑紫野君磐井の墓は、福岡県八女市にある岩戸山古墳で、八女丘陵には磐井一族の古墳が多数残っています。

【巨大な岩戸山古墳内に残る神社】

【岩戸山古墳で発掘された人や動物の石像】

 

筑紫野君磐井は、筑紫と国交のあった新羅に出兵しようとしたヤマト王権に立ち向かいました。写真は、八女丘陵の古墳から出土した耳飾りで、朝鮮半島南部のものと同じ形をしており、磐井と新羅との交流があったことが伺えます。

【新羅と同じ形の金製垂飾付耳飾 岩戸山歴史文化交流館蔵】

また、短甲も出土しており、どちらも岩戸山歴史文化交流館に展示されています。墳長135メートルの巨大古墳に葬られた筑紫君磐井は、今でもこの地の英雄として慕われています。

【短甲 岩戸山歴史文化交流館蔵】

次回は、八女古墳群の石人山古墳と弘化谷古墳をご紹介します。

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『王塚古墳』は六世紀前半に造られたと考えられ、全長約86m、後円部径約56m、前方部幅約60m、後円部高約9.5mにおよぶ、遠賀川流域では最大の前方後方墳です。方形の部分が小さい「帆立貝型」と言われる前方後円墳で、昭和9年に発見されました。

太平洋戦争後、古墳保護よりも石炭採掘を優先させる風潮の中、多くの人々によって王塚古墳は守られ、昭和27年に国の特別史跡に指定された九州の装飾古墳を代表する古墳となっています。

【帆立貝の王塚古墳】

古墳内の石室は2室に分かれており、巨石を使用した腰石や石棚の他、阿蘇泥溶岩で造られた二体分の石屋形(棺床)や燈明台石・石枕が配置されています。

この石室内は、赤・黄・白・黒・緑・灰の6色という、日本で最多の色を使用した文様が所狭しと描かれています。

古墳に隣接する王塚装飾古墳館内には、石室のサイズはおろか使用されている石の大きさ、形まで全く同じく再現し、描かれている装飾壁画も全く同じレプリカが展示されています。石室内に描かれた文様は、大きな馬や武具をはじめとする絵画的な文様の他、円文・三角文などの抽象的なものなど多くの文様が描かれています。

【石室そのもののレプリカがある王塚装飾古墳館】

 

【騎馬像】
石室内には、黒馬と赤馬の合計五頭の馬が描かれています。人間と比べると体格が大きく描かれているのが特徴です。馬の体には手綱や鞍など様々な馬具も見られるほか、手綱に飾金具が描かれるなど細かいところまで表現されています。また、馬具そのものも古墳から出土しており、国の重要文化財に指定されています。

 

【鞍や手綱まで描かれた馬の壁画】

 

【同心円文】
前室と灯明台石に描かれていますが、約10センチ程度の小型のものです。

【三角文】

石室内に一番多く描かれている文様です。特に石屋形の周辺には集中して描かれています。

【左右に石屋形(棺床)と燈明台石・石枕が置かれた石棚。ここの回りには、同心円文、三角文が集中しています】

 

【双脚輪状文】
意味については様々な説があります。貴人にかざす巨大な団扇のような「さしば」という説の他、魔除けの役割を果たす南海産のスイジガイとも言われています。事実、今でも沖縄や鹿児島の離島の家の軒先には、魔除けのためにスイジガイが吊るされています。

【緑、白、黒を使って描かれた双脚輪状文】

 

【下甑島のスイジ貝】

 

 

【与論島のスイジガイ】

 

【こちらは八女古墳群の一つ弘化谷古墳の双脚輪状文のレプリカ】

 

【わらび手文】

一種のまじないの図文と考えられます。わらび手文をもつ古墳は「王塚古墳」ほか、計7基のみしかありません。

 

【まじないの一種のわらび手文】

【靫(ゆぎ)】
矢を入れて背負う「矢筒」で、上部には弓が描かれています。一番下の写真は、テヘラン考古博物館に展示されているアケメネス朝の不死隊の兵士の像で、古今東西、兵士は矢を背負っていたことがわかります。石室内には靫の他、太刀、盾などの武具も描かれています。武具もまた、悪いものから守る魔除けの意味として多くの装飾古墳内に描かれています。

【重々しい姿で描かれた靫】

 

【こちらは茨城県の虎塚古墳内の靫や太刀などの武具の壁画】

 

【こちらは五郎山古墳の靫や弓の壁画】

 

【靫を背負ったアケメネス朝の不死隊の兵士】

次回は五郎山古墳をご紹介します。

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