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ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズ第3弾では、第2弾に引き続き「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている構成資産についてご紹介いたします。

 

歴史の流れに沿って分けられている4段階のうち、3・4段階を解説していきます。

 

1:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ

2:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み

3:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

4:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

 

第3段階:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

 

18世紀の終わりになると、外海地域の人口が増加し、五島列島などへ開拓移住が行われました。移住するにあたり、外海地域出身の潜伏キリシタンは自分たちの共同体を維持するために、移住先の社会や宗教と折り合いをつけることを考慮して移住地の選択を行いました。藩の牧場の跡地利用のため再開発の必要があった黒島へと入植したのをはじめ、神道の聖地であった野崎島、病人の療養地として使われていた頭ヶ島、藩の政策に従って未開発地だった久賀島にも移住し、それぞれ集落を形成しました。潜伏キリシタンたちは、移住先の社会や宗教と関わり、折り合いをつけながら自分たちの共同体のもとで信仰を続けることができました。

 

▮黒島の集落

九十九島で一番大きな黒島は、現在も島民の約8割がカトリック信者の「祈りの島」と言われています。

もとは、軍馬の飼育を主とする島でしたが、外海などから移住した潜伏キリシタンが開墾を進め、人が住める島へと発展しました。この島の潜伏キリシタンは、表向きに所属していた仏教寺院から信仰を黙認されつつ、組織的に信仰を継続させました。現在の黒島には、2年の歳月をかけて建設した黒島天主堂があります。国内でも大型の煉瓦造りの教会堂で、1897年に来島したフランス人のマルマン神父の設計で1902年に完成しました。

 

マルマン神父の墓

 

▮野崎島の集落跡

外海地域から海を渡った潜伏キリシタンは、五島列島一円から崇敬を集めていた沖ノ神嶋神社の神官と氏子の居住地のほかは未開拓地となっていた野崎島に移住し、氏子となることにより在来の神道への信仰を装いながら自らの信仰を続けました。外海から移住してきた潜伏キリシタンは、島中央部の野首と南端の舟森で集落を営みました。険しい斜面に開拓された集落跡には、屋敷跡、耕作地跡、墓地、里道などが残されています。

野首集落跡

野首には、わずか17世帯で建設費用を工面して1908年に完成させた野首教会堂が残されています。1960年代初め、島に野崎、野首、舟森と三つの集落があり、約760人が住んでいましたが、現在は島内の宿泊施設の管理人が籍をおくだけでほぼ無人島となっています。

 

野首教会堂

 

▮頭ヶ島の集落

病人の療養地として使われていた島でしたが、19世紀半ば仏教徒の開拓指導者のもとに外海地域の潜伏キリシタンが移住してきました。表向きは中通島に所在する仏教寺院に属して仏教徒を装う一方、無人島で閉ざされた環境の中でひそかに潜伏キリシタンとしての信仰を継承しました。キリシタン弾圧「五島崩れ」の際には、頭ヶ島でも信者が拷問を受け、島民全員が島を一時脱出したと言われています。

頭ヶ島集落の遠望

その後、鉄川与助の設計施工で、近くの島から切り出した石を信者らが船で運び組み立てて建てた石造りの「頭ヶ島天主堂」が1919年に完成します。白浜と呼ばれる遠浅の海水浴場には、キリシタン墓がずらりと並んでいます。

頭ヶ島集落のキリシタン墓地

 

▮久賀島の集落

福江島の北に位置する久賀島では、禁教令で一度キリシタンは途絶えましたが、外海からの移住によって1797年以降に再びキリシタン集落ができました。信徒発見後の「五島崩れ」のきっかけとなった島で、信仰を表明した200人余が6坪ほどの牢屋に8ヵ月間閉じ込められ、子どもを含む42人が死亡しました。この迫害で命を落とした43人の名前は、墓碑に記されて残されています。

牢屋の窄殉教地の墓碑

禁教が解かれると、各地に教会が建てられました。1881年建立の旧浜脇教会が1931年に建替えられることになった際、五輪地区に移築された「旧五輪教会堂」は、初期の木造教会建築の代表例として保護されることになりました。1999年には、国の重要文化財に指定されています。

旧五輪教会堂

 

第4段階:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

▮奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

外海からの農民移住が開始し、奈留島にも移住者が渡り始めると、江上地区にも禁教期の潜伏キリシタンが住み着きました。海に近い狭い谷間に居を構え、わずかな農地や漁業で生計を営み、自らの信仰を組織的に続けたと言われています。1918年には、潜伏キリシタンがキビナゴ漁によって蓄えた資金を元手とし、谷間に開けたわずかな平地を利用して江上天主堂が建てられました。長崎・天草に建てられた数々の木造教会堂の中でも、工法に基づく潜伏キリシタン集落としての風土的特徴と、カトリック教会堂としての西洋的特徴との融合がもたらした教会堂の代表例となっています。信徒がカトリック教会堂として求めた西洋的特徴が、潜伏が終わりを迎えたことを最も端的にあらわす教会堂として、世界遺産に登録されました。

 

ひっそりと佇む江上天主堂

 

▮大浦天主堂

大浦天主堂は、開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設されたゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会で、天主堂の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。

1864年の完成直後、浦上村の潜伏キリシタン10数人が訪れ、信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。この歴史的な出来事はただちに各地の潜伏キリシタンへと伝わり、各地の潜伏キリシタン集落に新たな信仰の局面をもたらしました。宣教師の指導下に入ることを選んだ人々は、公然と信仰を表明するようになったため、「潜伏」が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所として登録されています。

 

大浦天主堂

潜伏キリシタンの里巡りシリーズ2回の記事に渡り、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12資産を紹介いたしました。
次回はシリーズ第4弾、「信徒発見」によって潜伏が終わってから、日本のキリスト教が真に解放されるまでの歴史をたどります。

 

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