秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡り。シリーズ最終回では、潜伏の終わりから、その後の日本におけるキリシタン信仰について紹介していきます。

 

潜伏の終わり

時代は幕末、日本とフランスの間で日仏修好通商条約が結ばれると、長崎にはフランス人が居住するようになりました。彼らが祈りの場所を求めた為に1864年に建てられたのが、世界遺産にも登録されている大浦天主堂です。正式名称を日本二十六聖殉教者聖堂と言い、1596年に十字架にかけられた二十六聖人の殉教地・西坂の丘に向かって建てられています。フランス人のためにつくられた教会なので、当時は「フランス寺」と呼ばれていました。

大浦天主堂の献堂式から一ヶ月後、歴史的な瞬間が訪れます。浦上の潜伏キリシタン15人が天主堂を訪れ、堂内にいたプティジャン神父に「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と囁き、信仰を告白したのです。厳しい禁教令と宣教師がいないという状況が250年間も続いたにもかかわらず、信仰が受け継がれているということが、このとき初めて外国人に対して明らかになりました。

この劇的な事件は「信徒発見」と呼ばれ、弾圧によって日本に信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与え、また五島や外海の潜伏キリシタンにも口伝えで広まりました。

大浦天主堂

浦上四番崩れと高札の撤廃

「信徒発見」後、精神的支柱を得た浦上のキリシタンは、葬式を仏式でなくキリスト教によって執り行ないました。これをきっかけに、信徒とみなされた68人が捕らえられ、拷問によって21人が棄教するという事件が起きました。その後も自葬による入牢者が続いたことから再び拷問が行われるようになり、明治政府は浦上キリシタンを西日本各地に分散し3,000人以上を流罪にします。これが信徒発見後に起きた悲劇、「浦上四番崩れ」です。

 

また、久賀島での迫害を始めとし、明治元年には五島列島で「五島崩れ」が始まりました。久賀島の牢屋の窄では静かな湾に面したわずか6坪の牢屋に約200人のキリシタンが収容され、43名が命をおとしています。多くは幼い子どもや老人たちで、みなキリシタンの教えに従い、抵抗することなく死を受け入れたと言われています。現在は、「牢屋の窄殉教記念聖堂」と隣接して、43名の墓碑が残されています。

牢屋の窄殉教記念聖堂

 

そのころ、明治政府は使節団を欧米諸国に派遣していましたが、キリシタン弾圧のニュースはすでに欧米に知られていました。使節団は訪問先で予想以上の厳しい抗議を受け、軽蔑されたといいます。キリシタン弾圧が平等な条約を結ぶための障害になっていることに気づいた政府は、ようやくキリスト教禁制の高札を撤去することにしました。これが1873年2月24日、江戸時代に入って以来、二百数十年続けられてきたキリスト教禁教政策に終止符が打たれました。

 

 

禁令解除後のキリシタン信仰

信教の自由が認められると、潜伏していた多くのキリシタン信徒たちは改めて宣教師から洗礼を受けてカトリックに復帰しました。一方で、カトリックに復帰せずに先祖代々の信仰形式を守った人たちもいます。彼らは「かくれキリシタン」と呼ばれ、「禁教が解かれたあともカトリックに戻らず独自の信仰を続けている人々」を指します。仏教や神道の宗教への改宗や、信仰の希薄化などで信徒の数は減っていますが、世界遺産の構成資産が集中する、平戸島・生月島・外海地区・五島列島などで伝承が継続されてきました。外海地区のように、同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいてもカトリックに復帰した者とかくれキリシタン信仰を堅持した者が混在している例もあります。

また、「潜伏キリシタン」は、約250年の禁教期間の潜伏教徒を指す言葉で、「かくれキリシタン」とは区別されています。

 

 

かくれキリシタン信仰

元々はヨーロッパからの伝来したキリスト教を起源としている「かくれキリシタン信仰」ですが、カムフラージュであったはずの仏教や神道の信仰が強くなって、キリスト教の信仰からは変容していると言われています。生月島の博物館・島の館のホームページでは、下記のように解説がされています。

 

禁教時代の信者は須く(並存の形で)カトリックの枠組みから外れる事によってキリシタン信仰を守ったと、ありのままに捉えた方が良いと思います。しかし「(潜伏も含めた)かくれ信者はキリスト教徒か」という問いに対しては、広義の捉え方に立つと否定は出来ないのではないかと思います。

 

カトリックに復帰せずにかくれキリシタン信仰を続けたかくれキリシタンたちは、本来のキリスト教からは変化していても、先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を絶やすことなく継承していくことが務めと考えていると言われています。

 

日本と西洋が融合した多様な教会堂

宣教師たちは潜伏キリシタンの指導者である水方たちを再教育し、彼らの住まいを教会堂の代わりに祈りの場とすると同時に、各地の集落で信徒の協力のもと、教会堂を次々と建設しました。

 

初期の教会堂は、ヨーロッパ人宣教師の指導のもと日本の大工たちによって建設されましたが、やがて自らによって日本と西洋の技術や材料を組み合わせた素朴ながらも優れた教会堂がつくられるようになります。外観はヨーロッパの形式やデザインを基本とし、内部は日本の伝統的な民家建築の特色を活かして日本的な習慣に合うように設計されており、人々は入口で靴を脱ぎ、床や畳に座って祈りを捧げたのです。

 

1873年にキリシタン禁制の高札が撤去された後につくられた、現存する代表的な教会を紹介します。

 

 

▮ 旧五輪教会(久賀島)

1881年、久賀島で最初の教会堂として建立したのが浜脇教会でした。1931年の建替えのとき、島内の仏教徒の助言によって価値が再確認され、潜伏キリシタンの集落であった五輪集落に寄贈されました。この地区は久賀島の中でいまだに直接車で行くことができない陸の孤島とも言われています。現存する木造教会堂としては最古の部類もので、国の重要文化財にも指定されています。

 

旧五輪教会

旧五輪教会内部・コウモリ天井

▮ 江袋教会(中通島)

1882年、ブレル神父の指導の下に建設された、木造瓦葺き平屋建ての教会です。天井はコウモリ天井、窓は洋式のアーチ型で、外に鎧戸、内にフランス製の色ガラスをはめた扉がありました。実際にミサ等に使用されている最古の木造教会でしたが、2007年に火災のため全焼しています。2010年3月に修復を完了し、同年9月10日に長崎県指定文化財に指定されました。

木造の江袋教会

▮ 出津教会(外海地区)

1879年にド・ロ神父が出津に赴任し、信者と力をあわせ1882年に出津教会を完成させました。強い海風に耐えられるように屋根を低くした木造平屋で、漆喰の白い外壁で清楚なたたずまいが美しい教会堂です。外国人神父の設計による初期の教会として、2011年に国の重要文化財に指定されました。

出津教会

▮ 大野教会(外海地区)

出津教会の巡回教会として1893年にド・ロ神父の設計施工により建立され、一見民家のような佇まいです。近隣で採れる玄武岩で作られた印象的な壁は「ド・ロ壁」と呼ばれています。こうした石壁造りの教会は珍しく、国の重要文化財に指定されました。創設当時は26世帯あった信徒数も過疎化により1980年代には15世帯に減少し、現在は年に一度ミサがあげられるのみとなっています。

大野教会とマリア像

▮ 堂崎教会(福江島)

フレノー、マルマン両神父が五島を訪れ布教にあたり、1879年にマルマン神父によって、禁教令解禁後の五島における初めての天主堂として建てられました。その後着任した、ペルー神父によって1908年に、現在の赤レンガのゴシック様式の教会堂に改築され、建築の際には資材の一部がイタリアから運ばれたと言います。内部は木造で色ガラス窓、コウモリ天井などの教会堂建築となっています。1974年に、県の有形文化財に指定されました。

レンガ造りの堂崎教会

▮ 黒島教会(黒島)

黒島に最初に常駐したマルマン神父が1902年に完成させた荘厳な教会です。信徒と協力して島特産の御影石を積み、40万個のレンガを使い、祭壇の下には1,800枚の有田焼磁器タイルが敷き詰められています。明治期のレンガ造の教会としては規模が大きく、ロマネスク様式の簡素な構成と、リブ・ヴォールトの内部空間は、その後の周辺の教会建築に大きな与えた影響を与えたといわれています。1998年に国の重要文化財に指定されました。マルマン神父は1912年に没するまで黒島で過ごし、今も黒島のキリシタン墓地に眠っています。

黒島天主堂 外観 ※写真はSASEBO港町Dairyホームページより

黒島天主堂 内部 ※写真はSASEBO港町Dairyホームページより

 

その他、日本人大工による設計も始まります。上五島出身の鉄川与助は、小学校を出て大工修業中にフランス人神父から西洋技法を取得し、27歳で鉄川組の棟梁として自立。バラエティに富んだ建築を次々と生み出し、青砂ヶ浦教会の他、世界遺産の12の構成資産のうち、4教会を手掛けています。日本における「教会建築の父」として知られています。

 

▮ 青砂ヶ浦教会(中通島)

1910年建立の現教会は、信徒が総出でレンガを運びあげて建設した3代目の教会です。最初の教会は、1879年頃に建てられたと言われています。コウモリ天井の曲線や色彩豊かなステンドグラスが荘厳な雰囲気を醸し出しています。2001年に国の重要文化財に指定されました。

青砂ヶ浦教会

▮ 野首教会(野崎島)

1882年に木造の教会堂に続き、1908年にレンガづくりの野首教会が完成します。集落に住む17世帯が、本格的なレンガづくりの教会建築の費用を捻出するために共同生活を始め、生活を切り詰めて資金を蓄えました。教会は完成したものの、1966年、小値賀島は無人の地となってしまいます。その後、小値賀町が重要な文化財として1985年に改修し、1989年には長崎県指定有形文化財に指定されました。

斜面に佇む野首教会

▮ 江上教会(奈留島)

19世紀以降、長崎に建てられた木造教会堂の中で、最も整った形式と言われています。1918年、40~50戸あまりの信徒が共同し、キビナゴの地引網で得た資金で建てられました。湿気の多い立地に対応して床を高くするため、煉瓦ではなく、床組に日本式の床束が用いられており、内部では窓の位置が低く感じられます。クリーム色の外壁や水色の窓枠がアクセントで、コウモリ天井や、柱に描かれた手描きの木目の文様、花の絵の窓ガラスになど、信徒の苦労の結晶を見ることができる文化財としても価値の高い建築様式です。

江上教会

▮ 頭ヶ島天主堂(中通島)

1887年には木造教会が建てられ、1919年に鉄川与助の設計施工で現在の石造り教会が完成しました。近くの島から切り出した石を、信者らが船で運び組み立てました。内部は船底のような折上天井で、随所にツバキをモチーフにした花柄文様があしらわれ、「花の御堂」の愛称で親しまれています。珍しい石造で重厚な外観を持ち、華やいだ内部が特徴的な教会として、2001年に国の重要文化財に指定されました。

石造りの頭ヶ島天主堂

▮ 﨑津教会(天草市)

1934年、鉄川与助の設計施工で現教会堂が建てられました。禁教時代に潜伏キリシタンの取り締まりのため、「絵踏」が行われた﨑津村庄屋宅跡に立地しています。尖塔の上に十字架を掲げた重厚なゴシック様式ですが、屋根は瓦屋根で、堂内は国内でも数少ない畳敷きになっています。前方の外壁はコンクリートですが、途中で建設資金が不足し、後方は木造となっています。祭壇はかつて絵踏みが行われていた位置に当たります。

コンクリート造りの﨑津教会

 

これまで、日本にキリスト教が伝来してから、禁教期を経て信仰の自由を得るまでの歴史を辿ってきました。時代に翻弄されてきた日本のキリスト教の歴史はあまり知られていないかもしれませんが、天草・長崎には世界遺産に登録されている箇所をはじめ、信者たちが歩んできた道を物語る歴史的資産が多く残されています。

 

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