潜伏キリシタンの里巡り②
禁教期の潜伏キリシタン
~潜伏のきっかけと信仰を実践するための試み~
- 日本
2021.04.23 update
ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズ第2弾では、2018年にユネスコ世界遺産に登録された 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」についてご案内いたします。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリシタンが潜伏するきっかけ、宣教師が不在のなかどのように信仰を継続したか、そして潜伏の終焉を物語る証拠、それらを物語る12の資産が登録されています。
資産は、下記の通り歴史の流れに沿って大きく4段階に分けられていますが、今回はそのうち1・2段階を解説していきます。
1:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ
2:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み
3:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み
4:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり
第1段階:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ
▮原城跡
キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原・天草一揆」の主戦場跡が原城跡です。前回の記事・潜伏キリシタンの里巡り①「潜伏のきっかけとなった島原・天草一揆」にて詳しく書いておりますので、そちらをご覧ください。
「島原・天草一揆」以降キリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を実践し、移住先を選択するという試みを行っていくことになりました。潜伏の始まりから、明治6年にキリスト教が解禁となるまでひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンは、学術的に「潜伏キリシタン」と呼ばれています。
第2段階:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み
日本各地の潜伏キリシタン集落は途絶えていくなか、キリスト教の伝来期に最も集中的に宣教が行われた長崎と天草地方においては、ひそかに伝統が引き継がれていきました。16世紀以来、潜伏キリシタンは集落ごとに根付いた共同体で「組」を維持し、信仰維持のために共同体内の仕組みを変えていきました。宣教師に代わって洗礼を授ける「水方」や、教会暦をつかさどる「帳方」などの役職を担当する指導者をつくり、キリスト教由来の儀礼・行事などをとり行ったのです。
日本の伝統的宗教のようにみえるように、儀礼・行事や日々の祈りを実践する方法を模索するなかで、次第に独自の形態が育まれていくことになります。土着の宗教や一般社会と関わりながら信仰を継続した証として、4の集落が登録されました。
▮春日集落と安満岳(平戸の聖地と集落)
春日集落と安満岳は、禁教期にキリシタン信仰を継続した集落と、その信仰の対象となった山のことです。集落は平戸島の西岸にある人口70人ほどの小さな集落で、16世紀から禁教期を経て、現在にいたるまで集落の景観はほぼ変わらずに維持されていると考えられています。古くからの神仏や山、川などの自然崇拝と並列してキリシタン信仰形態を育みました。解禁後もカトリックには復帰せずにかくれキリシタン信仰を継続しましたが、現在では信仰は途絶えたと言われています。なお、春日集落の棚田は大変美しく、2010年に「平戸島の文化的景観」として国の重要文化的景観にも選定されています。
安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰です。かつてはキリシタンと対立していた安満岳の神社仏閣ですが、禁教期になると、在来の神道、仏教に基づく宗教観と潜伏キリシタンの信仰とが重なり、3つの信仰が並存する聖なる山となりました。頂上には、寺跡、神社、キリシタンの石碑が存在し、禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っています。
▮天草の﨑津集落
下天草地方のキリシタンは情報が少なかったことも幸いして「島原・天草一揆」は加担せず、難を逃れました。﨑津集落には、当時は海路でしか行くことができなかったため、キリシタンたちはこの地を潜伏の場所に選び、仏教徒を装って信仰を実践しました。漁業を生業とする集落のため、豊漁の神様デウスとして崇拝したり、アワビの貝殻の模様を聖母マリアに見立てるなど、生業である漁業と密接に結び付けて信仰を守りました。
表面上は神仏を敬っていたため、﨑津諏訪神社へお参りをしていましたが、その際には指をクロスにしたり、ひそかにオラショを唱えたなどと言われています。﨑津集落の水方の子孫の住居には、現在もメダイや海にかかわる信心具が保管・展示されています。
▮外海の出津集落
出津集落では、聖画や教義書、教会暦などを密かに伝承することで、教徒たち自身で信仰を続けた集落です。集落内には、16世紀にヨーロッパから伝わったとされる聖母マリアをかたどった青銅製の大型メダル「無原罪のプラケット」をはじめとし、1603年に編さんされた「こんちりさんのりゃく」(罪を報いて赦しを求める祈り)の写しなどの日本語の教理書も伝承されていました。集落の潜伏キリシタンは、祈りの言葉であるオラショを口承で伝えており、日常的に各自が無音か小声で唱えていました。
出津集落ではキリスト教の解禁直後、カトリックに復帰したのは約3,000人だったのに対し、引き続き禁教期の信仰を実践し続けたかくれキリシタンは約5, 000人でした。現在では、多くが仏教徒またはカトリック信徒へと移行していますが、今もかくれキリシタン信仰を続ける方がいます。
▮外海の大野集落
大野集落では、表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となり、在来宗教と信仰の場を共有することで信仰を実践しました。もともとキリシタンも含む様々な神がまつられていた門神社や、古来の自然信仰に基づく山の神をまつった辻神社に、自分たちの信仰の対象をひそかに祭神としてまつり、祈りの場として利用していました。開国後は約30戸がカトリックに復帰していますが、当時の潜伏キリシタンは200名を超えていたとも言われています。18世紀末からの五島への開拓移住の際には、この地域から多くの潜伏キリシタンが離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へと広がることになりました。
解禁後、潜伏キリシタンは「外海の出津集落」にある出津教会堂に通っていました。しかし、出津教会までお祈りに来ることができない信徒もいました。出津教会完成の11年後、ド・ロ神父が大野集落にいた26世帯のために信徒と協力して建築したのが巡回教会として建てられたのが大野教会堂です。この地ならではの風合いのある地元の石を積み上げ、外壁は神父考案の「ド・ロ壁」と言われる技法で、その後もこの地区の建築に活かされました。
▮中江ノ島(平戸の聖地と集落)
春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島があります。生月島と平戸島の間にある無人島で、1622年と1624年に多くの信者の血が流されました。殉教者たちは白波立つ岩の上で首を切られたり、袋に詰められ海に突き落とされたといわれています。潜伏キリシタンたちは禁教期、この殉教地を最高の聖地として崇拝してきました。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている12の資産のうち、6つご紹介しました。人里離れた場所で、厳しい禁教下でも信仰を守り、繋ごうとしてきた人々の努力と知恵は、今なお各地域に残されています。
次回は、残りの構成資産について解説します。