謎の美女壁画が残るスリランカの世界遺産
シギリヤ・ロック
- スリランカ
2020.07.09 update
シギリヤ・ロックについて
スリランカの数ある世界遺産の中で最も人気のあるシギリヤ・ロック。シギリヤ・ロックは火道内のマグマが硬化して出来た岩頸で、形状は楕円柱、標高約370m、岩頸そのものの高さは約195m、全方位が切り立った崖になっています。また、この岩山と共に有名なのが“シギリヤ・レディ”と呼ばれるフレスコ画。鮮やかな色彩で描かれた美女たちが岩山を登ると出迎えてくれます。今回はそんな人気のあるシギリヤ・ロックをご紹介します。
シギリヤ・ロックの歴史
シギリヤ・ロックは5世紀後半、シンハラ王朝の王、カッサパ1世が築いた都城です。カッサパはダートゥセナ王の長男として生まれましたが、カッサパには王族の血筋を持つ母から生まれた弟モッガラーナがおりカッサパの母は平民の血筋であった為、カッサパは弟モッガラーナに王位継承を奪われるのを恐れ、父王に不満をもつ将軍と共謀して父王を投獄しました。
そして王位継承を持つ弟をインドへ追放し、477年カッサパはカッサパ1世として即位したのです。その後、カッサパは父ダートゥセナに、隠し財産をすべて出すように迫りますが「貯水池が全財産だ」という父に怒り狂い、将軍に命じて父を殺害してしまいます。父を殺すという仏教徒として最大の罪を犯した彼は、罪を償うべく寺院や施療院を立て善政に励みます。そして弟からの復讐に怯える日々を送りながら、カッサパは、亡き父が夢見ていた岩山の頂上に宮殿を立てる計画を実行します。父を供養するため、弟の攻撃から身を守るために建てられたともされるシギリヤ・ロックは即位から7年後に完成しました。
11年後、インドから戦いを挑んできた弟モッガラーナにあっけなく敗れ、カッサパ1世は自ら命を絶ちました。王位に就いたモッガラーナはシギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移し、シギリヤは13世紀から14世紀頃まで修道院として存続するも、徐々に衰退。建設から1400年後、イギリス統治下の1875年に、岩山に描かれたフレスコ画であるシギリヤ・レディがイギリス人によって発見され、今では多くの人がこのシギリヤ・ロックへと訪れます。
シギリヤ・ロックに登るその前に
まずお伝えしたいのは、シギリヤ・ロックへ登るのに油断をすると危険です。というのも想像以上に階段が多く特に日差しの強い日はキツイ。歩きやすいスニーカーで日差し除け対策と水分補給の準備は絶対です!私たちはこの日、ニゴンボからシギリヤへと移動してきました。まずは敷地内にある日本の援助で建てられたシギリヤ博物館へと足を運びます。シギリヤ・レディのフレスコ画のレプリカが展示されている場所へ。現物は写真撮影が禁止されているのでレプリカではありますが、現物に期待を寄せながらまずはここで記念に美女を写真に収めました。また、観光客が多いとシギリヤ・ロックに登るには時間がかかります。博物館かチケット売り場入口にしかお手洗いが無いため注意が必要です。
いよいよ、シギリヤ・ロックへ!
到着するや否や、一本道の先には大きな岩山が聳え立ちます。緑の中に突如現れたかのような岩山はまさに圧巻。この岩山を目指して訪れた人々は、お猿さんを横目に一本道をぞろぞろと歩き進みます。
まずはチケットチェックがあり、丁度その位置から周りを囲むのがこのシギリヤ・ロックの城壁で、その周りをハスの花が咲くという水路が取り囲んでいます。
敷地内の入口を入ると最初に待ち受けているのは、第一難関である岩の階段。そして岩山を望む整備された庭園の小道を通ると、まず出てくるのは王の沐浴場と呼ばれる遺構。熱帯モンスーン地域とはいえ、乾季は水が不足するため貯水施設も兼ねていたと言われています。更に進むと5つの穴が開いた円形の石板があります。高所から地下のパイプを通り水を引く仕組みになっており、円形の石板に水が通る際に穴から水が噴き出す噴水の役割をしていたようです。これらの設備は5世紀頃のものというから驚きです。その後、その昔に石窟寺院とされていた洞窟などを通りやっと岩山の入口に到着です。
岩の階段が終わり、第二難関の鉄製の螺旋階段へと変わります。手すりなどはありますが、正直言って足場はかなり悪いので気を付けて登っていきます。スリランカ国内からも多くの方が訪れる場所で、多いときはその列がなかなか進みません。ただ、ゆっくりと後を気にせず登れるのでそれも良いかもしれません。階段の周りは鉄の網目の柵で覆われていますが、周りの景色も十分楽しみながら登れるので、スリルも景色も満点です。やっとの思いでシギリヤ・レディの壁画のある中腹に到着。
美女のフレスコ画シギリヤ・レディ
予想以上にハードな階段を登り到着した先には、壁面にシギリヤ・レディが現れます。これは岩肌に描かれた美女のフレスコ画で、現在は18人の妖艶な女性の姿を見る事が出来ます。この美女たちには諸説あり、微笑みを浮かべた妖精アップサラを王の侍女たちが世話している情景ではないか、または裸の女性が上流階級、服を着ている女性が侍女、はたまたこの美女たちが天国に住むアップサラで、妖精たちに守られ王は岩山の頂上に住んでいたとも推測されます。美女たちが誰なのかはいまだ謎のままです。
またフレスコとは新鮮(生乾き)という意味で、フレスコ画とは壁に塗った漆喰が乾く前に、つまりフレスコの状態でその上に顔料で画を描いたもの。やり直しが効かないため高度な技術力が必要で、一旦乾くと水に浸けても滲まず長期保存に適した方法だったそうです。これが5世紀という遠い昔に、壁に描かれた美女たちが今なおその美しさを保つ美の秘訣だったようですが、それでも雨風の浸食や裸の絵に反対する人々により剥がされてしまったようで、かつては500人ほど描かれていたようです。
博物館で写真に収めたレプリカと本物の美女は驚くほど違いました。実際のシギリヤ・レディの写真撮影は禁止されていますので、どれほどまでに違うのかその目で確かめて頂きたいです。
美女達を後に更に頂上を目指します!
シギリヤ・レディを後に再びこの階段を降り、元のルートに戻り進むとミラーウォールと呼ばれる回廊があります。これは鏡のように磨かれた壁で、かつては下階よりも上階が張り出した設計により、岩壁に描かれた美女たちのフレスコ画がこの回廊鏡面に映る仕掛けだったようです。またこの壁には、壁画の美女や岩山の雄大さを讃える詩が彫られており、学者たちの間ではこれらの詩がシンハラ語と文字の発展の推移を知る重要な手掛かりにもなっているようです。更に少し進むと、ライオン広場に辿り着きます。
以前は頭部があり、ライオンが大きく口を開け座った形になっていて、階段を登るとライオンの喉に飲み込まれるような感じになっていたと言われています。というのも「ライオンの喉」というのはこの地の由来にもなっており、シンハラ語でライオンは「シンハ」、喉は「ギリヤ」でライオンの喉は「シンハギリヤ」となり、これが「シギリヤ」に変化したとも言われています。現在は前足の一部しか残っていませんが、その大きさからも往時の迫力が想像できます。この、ライオン広場から頂上まで続く長い階段。こちらがシギリヤ・ロック最後の階段であり、最も厳しい階段です。途中までは急な階段が続きますが、そこを過ぎればなだらかな階段になります。
こちらの階段は中央で区切られており、一方は登り、一方は下りとなっています。更に頂上までの階段は幅が狭く、実際、私たちが訪れた際は多くの人がこの場所に訪れていたので、入場制限をしながら降りる人と登る人を調整していたためゆっくり休みながら登ることが出来ました。ただ通常途中で休むことは難しいので、ライオン広場でしっかり休憩をとってから登ることをおすすめします。ライオン広場からの長い階段を登りきれば、ようやく頂上です。庭園の入口からここまでの所要時間は約2時間。頂上では、360度見渡す限りジャングルの絶景と遺跡を楽しむことができます。風が心地よく暑さと疲れが一気に吹き飛びましたが、帽子まで吹き飛ばされないように注意が必要です!頂上は面積1.6㏊で王宮、兵舎、住居、ダンスステージ跡が見られ、少し下ると贅沢な王のプールがあります。この王宮でカーシャパは弟の復讐に怯えながら孤独な暮らしをしていたのだろうかと思いを巡らせます。
頂上を満喫した後は、先ほど登ってきた階段をまた下って戻らなければなりません。頂上から下りは早く約45分程で降りてきました。スリランカに行ったならば是非訪れたい場所「シギリヤ・ロック」。想像より体力が必要な場所ではありますが、訪れる価値のある場所です。是非、絶世の美女たちに会いに行ってはいかがでしょうか。
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