ガンダーラに見る東西文明の融合(ペシャワール博物館)

ギリシャ、西アジア、ペルシャ(イラン)、インドなど様々な文明・美術の影響を受け、それを取り入れたガンダーラ美術。ガンダーラ地方に最初にギリシャ文明をもたらしたのは紀元前4世紀のアレキサンダー大王の東方遠征で、ここにギリシャ文明とオリエント文明が融合した「ヘレニズム文明」が生まれます。

 

ガンダーラ美術が最盛期を迎えるのはそのもっと後の時代、紀元後1~5世紀のクシャン朝の時代です。西洋からの文明とインドで生まれた仏教が出会い、仏像が生まれ、その中で西洋の神々や意匠がガンダーラ仏教美術の中に取り込まれました。

 

この片岩の彫像は、ガンダーラ美術に現れたギリシャの神アトラスです。

 

アトラス神はギリシャ神話で世界の西のはてで天空を支える神です。ガンダーラにおいてはストゥーパや仏像の台座を支えています。ギリシャの神が仏教の世界観を支えている・・・なんともロマンチックな話です。

 

こちらはケンタウロス、ギリシャ神話に現れる半人半馬の怪獣です。上半身は人間、下半身は馬の前足、後ろはトリトン(ポセイドンの子で半人半魚の神)のように魚の尾びれが渦巻き状に表されています。

ケンタウロスやトリトンのモティーフは建物の角を飾ったと思われる直角三角形のパネルによく表れます。

 

こちらは手に金剛杵(ヴァジュラ)を握る執金剛(ヴァジュラ・パーニ)。その起源はギリシャ神話の英雄ヘラクレス。困っている王たちをその怪力で助けたヘラクレスは、ガンダーラ世界では常に釈迦の脇にいる守護神として描かれてます。

ガンダーラのヘラクレスが金剛杵(ヴァジュラ)を持っているの対し、ギリシャのヘラクレスは棍棒を持っているものが多く見られます。

 

これは花綱模様。波状に展開する花綱を若い青年がかかえているモティーフで、ギリシャ・ローマを起源としますがガンダーラでも大いに流行りました。

花綱の上がったところをキューピッドが背負い、下がった所には葡萄の房やリボンが装飾されています。

 

ハーリーティーとパーンチカです。ハーリーティーとは鬼子母神のこと。

人の子をさらう人食い鬼だったハーリーティー。釈迦により子供を奪われて苦しむ親の気持ちを知り、我が子も他人の子も愛すようになり「子供の守護神」となりました。また、ハーリーティーは500人とも1,000人とも言う多産だったため「安産の守護神」ともされ、「多産」のシンボルでもある柘榴(ざくろ)の花を髪につけています。

このハーリーティー、ギリシャの女神のようですよね、ギリシャの運命の女神テュケーです。

 

ガンダーラに現れる柱のスタイルは、アカンサスの葉の柱頭をしたギリシャのコリント様式のものが一般的です。が、この写真のものはガンダーラで見られる別のスタイルのもの。

 

2頭のこぶ牛を背中合せに配置し、その真ん中に獅子(と思われる)の頭があるデザインです。これは古代ペルシャ(イラン)の柱頭のスタイルでペルセポリスの遺跡などで見ることができるスタイルです。

 

そしてこの動物は獅子、ライオンです。ライオンというとアフリカの動物と思われるかもしれませんが、当時のパキスタンには「アジアライオン」が生息していました。

 

メソポタミアの遺跡に描かれた「ライオン狩り」のレリーフ、イランのペルセポリスの遺跡に描かれたライオンが有名ですが、これはガンダーラ美術で表現されたライオン。

 

このアジアライオン、イラク、イラン、パキスタンでは絶滅してしまいましたが今もインドのグジャラート州、ササンギルの森に暮らしています。その数、500頭!

 

Photo & text : Mariko SAWADA

(Photos are from a trip in Feb 2020)

Location :  Peshawar Museum, Peshawar, Khyber Pakhtunkhwa

参考図書:パキスタンのガンダーラ遺跡と博物館を訪問する方にお勧めの一冊!「ガンダーラ美術の見方」監修:奈良康明監修、著:山田樹人著、写真:高倉一太(里文出版)、「ガンダーラの美神と仏たち、その源流と本質」著:樋口隆康(NHKブックス)

アジアライオン(インドライオン)に関する記事はこちら

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モヘンジョダロの”神官王像”(カラチ・パキスタン国立博物館蔵)

モヘンジョダロの大発掘が進められたのは1922年から1931年のこと。1947年のパキスタン独立前の発掘品の多くは英国やインドの博物館に収蔵されていますが、パキスタン国内にもいくつか貴重な発掘品が保存されています。

そんなパキスタンに残る、“マスターピース”がこのモヘンジョダロの”神官王像 (Priest -King)”です。

 

 

モヘンジョダロはパキスタンの中部にある紀元前2500年から1800年頃に繁栄したインダス文明最大の都市遺跡です。インダス文明は、インダス川流域を中心にインド亜大陸西北部に展開した南アジア最古の文明です。インダス文明については、世界中の考古学者たちの努力により少しづつその実態が明らかになってきていますが、未だに多くの謎が残されています。

 

エジプト文明、メソポタミア文明、中国文明といった、ほかの3つの古代文明の文字が何らかの形で解読されているのにも関わらず、インダス文明の文字は未だに解読されていません。彼らの起源や信仰についても謎が残りますが、その衰退の経緯についても最も大きな謎として残っています。

 

カラチのパキスタン国立博物館に収蔵されているこの神官王像は、その姿形からメソポタミアとの関係を疑われるなど、インダス文明の謎を紐解くピースのひとつになるのではないかと言われています。

 

 

モヘンジョダロの神官王像 ”Priest King” – Mohenjodaro

 

白色の凍石(ソープストーン、Steatite) で作られ、1,000度以上の高熱で焼いて固くされています。大きさは高さ17.5cm、幅11cmと小さなものです。1927年の発掘調査中、DK地区の貴族の家と思われる大きな建物跡(DK-B)から出土しました。

 

 

特徴的なマントには三つ葉模様、一重丸、二重丸の模様が描かれ、赤色の着色があった痕跡があります。ヘッドバンドに三つ葉の模様をあしらったマントとその風格から「神官王」と名付けられました。

 

イギリス植民地(イギリス領インド帝国)時代、発掘品はラホールの博物館に送ら得てましたが、その後インド帝国の新首都になるデリーへ移送されていました。そして1947年の分離独立後に、モヘンジョダロからの収蔵品の多くがインドにある状態となりました。1972年、当時のパキスタン大統領だったズルフィカル・アリー・ブットーとインド首相インディラ・ガンジーを代表として”シムラー協定”が締結され、インドにあった発掘品12,000点の半分がパキスタンへと戻されました。

その際、「最も有名な2つの彫像」をめぐり、パキスタン当局は「神官王像 Priest – king」と「踊る少女 Dancing Girl」の返還を求めましたが、ガンジーはそれを拒み「神官王像」のみが返却され、「踊る少女」は現在もデリーの国立博物館で展示されています。

 

モヘンジョダロ博物館に展示されている「踊る少女 Dancing Girl」のレプリカ。

 

モヘンジョダロ遺跡の入り口にある、大きな神官王像のレプリカ。

 

モヘンジョダロ博物館入り口の売店に並ぶ「神官王像」のレプリカ。人気者です!

 

Photo & text : Mariko SAWADA

※博物館内の撮影は原則禁止されています。大きなかばんの持ち込みが制限されています。

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