ダルマラージカー (タキシラ)

紀元前3世紀、マウリヤ朝のアショーカ王がガンダーラ地方で作ったストゥーパ(仏塔)が2基あります。1基はスワートにあるブトカラ遺跡にあるストゥーパ、もう1基がタキシラにダルマラージカー・ストゥーパです。

今日、全体の形が残っている最古のストゥーパはインドのサーンチーのものですが、ガンダーラ地方にも同型の、円形基壇に作られた巨大な仏塔があります。ただ、サーンチーの仏塔のように欄楯やトラナはなく、周りに祠堂や小ストゥーパ群が並んでいます。

 

基壇は径46m、その上に高さ14mの半球形の覆鉢がのるメインストゥーパ。

紀元前500年ごろ、クシナガラでお釈迦様が涅槃に入りました。7日後に荼毘にふされ、その遺骨(舎利)が8カ所の墳墓に舎利容器に入れて墳墓の中心部の底に納められました。これが最初のストゥーパ(仏塔)で、この舎利と舎利容器は崇拝の対象となりました。

紀元前3世紀になり、マウリヤ朝のアショーカ王が八舎利のうち七舎利を再発掘して8万4000塔に分納したそのうちの1つ、このダルマラージカー仏塔がそれにあたると言われています。

 

メインストゥーパをめぐる繞道があり、その周囲には紀元前1世紀から紀元後4世紀、ガンダーラを担ったクシャーナ朝時代に建てられた祠堂・小ストゥーパ(奉献塔)群があります。

小ストゥーパ群の方形基壇の壁面はコリント式の柱壁で仕切られたパネルや壁龕が施されたガンダーラ様式の建築が見られます。

 

小ストゥーパの基壇に施された装飾。象や人物像が基壇を支えています。この人物像、ギリシャの神アトラスなのです。

 

アトラスはギリシャ神話で世界の西の果てで天空を支える神。ガンダーラにおいては仏像の台座やストゥーパの基壇を支える役割として登場します。東西文化の融合の結果生まれた、ギリシャの神が支える仏教世界・・・なんともロマンチックです。

 

祠堂の中にはスタッコの仏像がありましたが残念ながら破壊されています。ストゥッコ(Stucco、化粧漆喰)像は粘土で作られた塑像で、ガンダーラでは紀元後3~4世紀に流行して作られました。

 

タキシラの観光では、タキシラ博物館・シルカップの都市遺跡・ジョウリアンの僧院というのが3点セットですが、ぜひダルマラージカーも訪問してみてください。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

Visit : Feb 2020 Dharmarajika Stupa, Taxila, Punjab (写真はドローン撮影を含みます。)

参考図書:パキスタンのガンダーラ遺跡と博物館を訪問する方にお勧めの一冊!「ガンダーラ美術の見方」監修:奈良康明監修、著:山田樹人著、写真:高倉一太(里文出版)、「ガンダーラの美神と仏たち、その源流と本質」著:樋口隆康(NHKブックス)

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シルカップ (タキシラ)

イスラマバードから北西約30キロ、かつてガンダーラ美術が花開いた地域の東の端に位置するのがタキシラ遺跡です。タキシラは都市遺跡、仏塔、僧院などが広範囲に広がる遺跡群ですが、その中でもシルカップ都市遺跡は観光客が必ず訪問する重要な遺跡です。

 

紀元前2世紀、北部アフガニスタンで栄えたバクトリアのギリシア人が最初に建築した都市をもとに発展しました。現在残っている町の遺跡はメインストリートを配置し碁盤の目状に広がっており、商店や仏教寺院、仏塔の跡が残されてます。

 

ガンダーラは東からインド文化の影響を受け、西からはギリシャやペルシャ(イラン)の影響を受けた文明の交差点。シルカップにはそれを象徴する建物が残されています。

シルカップに残る「双頭の鷲の寺院」です。方形基壇の正面の階段の両側の壁にアカンサスの柱頭をつけたコリント式壁柱によってわけられた3つのパネルがあります。

 

階段の右側、保存状態が良い方のパネルです。

 

一番左のパネルは三角形破風のギリシア神殿式の建物が見られます。

中央のパネルはインドのチャイティヤ堂の入り口のような形をしたアーチ形の建物があり、その先端に双頭の鷲のような鳥がとまっています。双頭の鷲はヒッタイトやバビロニアなど西アジアで見られる意匠です。

右のパネルにはインドのトラナ(インドのサンチー仏塔で見られる)のような建物がありその上にも鳥のようなものがとまっています。

 

タキシラの「双頭の鷲の寺院」は仏塔(ストゥーパ)の基壇に、インド、ギリシャ、西アジアの建築美術が見られる、なんともロマンある建物なのです。

 

ドローン空撮によるシルカップの写真ですが、メインストリートの左側に大きな前方後円形の建築物跡があります。チャイティヤ堂跡と考えられインドの石窟で見られるチャイティヤ堂と同じ構造だったと推測されます。

 

今回、久しぶりにシルカップを訪れたのですが、パキスタンの学生さんやピクニックにきた家族連れの姿が見られました。ガンダーラ遺跡は僧院など山の上にある遺跡が多いのですが、ここは平坦でラクチン、家族で楽しめるスポットです。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

Visit : Feb 2020, Sirkap, Taxila, Punjab(写真はドローン撮影を含みます)

参考資料:「ガンダーラの女神と仏たち – その源流と本質」樋口隆康著(NHKブックス)

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(お客様から届いたvlog) Safe? Discovering the heart of Pakistan!

今年の2月パキスタンを訪問したスイス&メキシコ人カップルのルーカスとパトリシア。グランドトランクロードに沿って旅したラホールからペシャワール、そしてイギリス領インド帝国時代に作られた鉄道の旅を紹介。スペイン語ナレーション・英語字幕ですが、ツーリストから見たパキスタンの旅、ご覧ください。

 

Safe? Discovering the heart of Pakistan!

 

ペシャワールからインダス河畔の町ローリまでの車窓風景、駅の様子は貴重な情報です。
ムガール時代、イギリス領インド帝国時代、そして現代までの「パキスタンの歴史とホスピタリティー」にふれるVlogです。

 

Text : Mariko SAWADA

Special Thanks to SUMMERMATTER DIAZ ENRIQUETA PATRICIA.
Please visit her web site : https://elpadiro.ch/

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Shimshal Pamir シムシャール・パミール ある夏のクッチ

パキスタン北部、中国との国境近くシムシャール村の女性と家畜が”パミール”へ大移動する「クッチ」。2011年6月20日に行なわれた「クッチ」の記録です。

2010年はカラコルムハイウェイ上にアッタバード湖が誕生し、この交通規制を受けて参加できなかったクッチ。2011年は西遊旅行の「シムシャール・パミール」のツアーのお客様、手配旅行のお客様・現地スタッフが参加。シムシャール村始まって以来最大級の“ヤク・サファリ”グループで最大の難関ショポディン峠 5,346mは 52頭のヤクと61人が峠越えをするという、私達のグループ自体がまさに「大移動、クッチ」そのものでした。

2011年のクッチ当日の様子です。2018年、2019年と村の女性の参加者数が激減し、もう過去の伝統となってしまったのではないか心配です。

 

クッチの朝、5月20日~6月20日までを過ごしたシュイジェラブの夏村の家を戸締りして出発の準備。年配の女性が手を回して尊敬の念で皆を見送ってくれます。

 

シュイジェラブの羊とヤギの囲いが開けられ、大きな群が最初の峠を登ってきます。村の女性は手にランタンとまだ歩けない生まれたてのヤギの赤ちゃんを抱いています。

 

シュイジェラブの丘をあがったところで村人の記念撮影。家族、仲良い村人が協力し合って行う伝統的なクッチ。

 

子供と子ヤギを抱いて歩くシムシャールの女性たち。ヤギ・羊は歩くのが遅いので別動隊として女性が面倒を見ていました。

 

ヤクのメスと子供の群とともにヤクに乗って進む私たちのグループ。クッチの日のヤクは、後ろから追われているためさらにスピードを出して歩きます。標高4,500mを越える高地をこのスピードで歩くシムシャールの女性達の強さに驚かされます。

 

振り返ると、後ろから家畜の群れが押し寄せてきます。シムシャール峠(4,735m)からはメスと子供のヤクの群、村人と共に歩いて目的地“シュウェルト”を目指しました。標高の高さを忘れてしまうほどの興奮のひと時です。

 

シムシャールの女性が6月20日から3ヶ月を暮らすシュウェルト(4,670m)の夏村。シムシャールの人々の言う“パミール”とは豊かな牧草地、人と家畜が一緒に暮らせる場所のことです。その“パミール”に無事に到着した神への感謝の儀式に参加させてもらい、村人とともにシムシャールのチーズをいただきました。

数え切れない、ヤギ、羊、ヤクの群。メーメー(羊、ヤギの鳴き声)、ブーブー(ヤクの子供の泣き声)の喧騒の中、一緒に“パミール”を目指して歩く臨場感。一生の宝物です。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

Visit : Jun 2011, Shimshal Pamir, Shimshal, Gilgit-Baltistan

※この記事は2011年7月にアップしたブログ「サラームパキスタン」の記事を加筆・訂正したものです。シムシャールのクッチの伝統は急速になくなりつつあります。2018年、2019年と村の女性の参加する姿はほとんど見られなくなったと聞いています。

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Shimshal Pamir シムシャール・パミール 52頭のヤクと61人のショポディン峠(5,346m)越え

2011年6月のシムシャール・パミールの旅の様子です。この旅では徹底的に「ヤクの道」にこだわりました。1993年にできたヤクの通れない“タング・ルート“は歩かず、伝統的にシムシャールの人々がヤクを連れて歩いてきた牧草地と峠と村をつなぐ”ヤクの道“を歩く旅。そのルートのひとつ、難関でありハイライトでもあるのがショポディン峠(5,346 m)越えです。

今回はシムシャールの歴史にも残る、52匹のヤクと61人(11人の日本人、3人の西遊パキスタン現地スタッフ(パキスタン人)、47人のシムシャールの村人)による峠越えとなりました。

 

ショポディン峠の登り。6月末、5,000m過ぎから雪が残りそこから雪解け水が流れ出してぬかるみや滝を作っていました。150mほどの岩場を登り、そこから峠の頂上まで一気にヤクに乗って進みました。

 

もうすぐ峠の頂上へ。シムシャール村のヤク・マスターともいえるカズィさん。若い頃は登頂ポーターとして8,000m峰を登った彼も、今日は自分のヤクに乗って峠へ。

 

峠への到着直前、感謝の祈りを捧げていました。

 

ショポディン峠の頂上で。天候にも恵まれ、ヤクと村人と供にたどり着いた峠の景色は格別です。ショポディン峠5,346mの絶壁からは、はるか上部フンザ・パスーのシスパーレからヒスパー・ムスターグ山群のディスタギルサール、アドベルサールなどの7,000m峰を望むパノラマが広がりました。

そしてショポディン峠の頂上でお祝いの踊り。うれしいと踊る・・・これは町のパキスタン人も山のパキスタン人も同じこと。シムシャールの山旅の要所で長老による歌、「パミール」=「人と家畜が一緒に暮らせる豊かな牧草地」を愛でる歌を何度も聞きました。自然の中での暮らしに感謝する歌、その美しさに感動したものです。

 

ショポディン峠の難しさは登りではなく下りです。雪の斜面と相対する乾燥した35度角の下り斜面がこの峠の厳しさ。一部は雪解け水でぬかるみ、一部は岩盤むき出しで滑りやすい。

 

そんな下りを約2時間、麓のザルガルベン渓谷ショポディンのキャンプ地を目指しました。もちろん、ヤクたちはあっと言う間に斜面を駆け下り、草を食んでいます。

 

翌日にはシムシャール村に到着です。ヤクと村人と歩く最後の日。12日間をともにしたチームと一緒に過ごすのは残り数時間になっていました。

シムシャールの村人、ヤク使い、山ガイド、ポーター・・・ご参加の皆様とツアーを支えてくださったすべての人に感謝申し上げます。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

Visit : Jun 2011, Shopodin Pass, Shimshal, Gilgit-Baltistan

※この記事は2011年7月にアップしたブログ「サラームパキスタン」の記事を加筆・訂正したものです。

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バロチスタン Adventure exploring the impressive mud volcanoes in Balochistan (お客様から届いたvlog)

今年の2月、スイス人とメキシコ人のカップル、ルーカス&パトリシア、そして写真家・中西敏貴氏と訪れたバロチスタン。パトリシアから旅のレポートビデオが届きました。スペイン語ナレーションに、英語字幕ですが、ツーリストから見たバロチスタン、ご覧ください。

 

 

パトリシアは本来、野生動物フォトグラファー。パキスタンに来る前はスイスの友人達に「パキスタン?何の動物を撮りに行くの?その前に危ないんじゃないの?」と言われ続けたたそうです。そして旅が終わった今、「みんなにパキスタンの旅の素晴らしさを知ってほしい」と、ビデオを作ってくれました。

 

そしてコロナで#STAY HOME … 「今は時間もある!」とパトリシア。ありがとうございます!

 

Text : Mariko SAWADA

Special Thanks to  SUMMERMATTER DIAZ ENRIQUETA PATRICIA. Please visit her web site :  https://elpadiro.ch/

西遊旅行のパキスタンツアー一覧

※パキスタンでの旅行現地手配を承っております。お問い合わせ・ご相談は、西遊旅行/ Indus Caravan へ!

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”王の道” グランド・トランク・ロードの果て

首都イスラマバードからペシャワールへ向かうとき、「モーターウェイにする?GTロードにする?」と聞かれます。この“GTロード、グランド・トランク・ロード Grand Trunk Road”こそ、古のムガール帝国時代の大幹線、「王の道」。もちろん、いまや近代的な普通のアスファルト道ですが、実に深い歴史を持つ道です。

そもそも「王の道」=グランド・トランク・ロードは16世紀、一時的にムガル帝国に取って代わったアフガン系王朝のシェール・シャーが道を整備して作り始めた壮大な一大ネットワーク。スール朝の短い治世にはアグラから彼の出身地と言われるビハール(インド)までの道をまず完成させ、やがて東は現バングラデッシュに位置するソナルガオン、西はパキスタンのムルタンまで整備されました。その後、再びムガル帝国に引き継がれ、ムガール帝国全土、東は現バングラデッシュのチッタゴンの港から西はカイバル峠を越えてアフガニスタンのカブールまで拡張され広大な帝国を発展させました。
この「王の道」は英領インドの時代に再び整備されます。カルカッタからイギリスが三回の侵略占領で植民地化できなかったアフガニスタンの手前、ペシャワールまでの区間を含む、カルカッタ~ペシャワールの区間です。この時に“Grand Trunk Road グランド・トランク・ロード”と名づけられ、整備されていきました。

現在も“グランド・トランク・ロード”として栄えた時代の名残が各地に残されています。

 

ムガル帝国時代の石畳

イスラマバード郊外に残るムガル帝国時代の“王の道”の石畳。現代のGTロードの脇に保存されています。石畳にはここを行きかった馬車の車輪で磨り減った跡も。

 

ラホール城(世界遺産)

ムガル帝国の古都、ラホール。ムガル帝国時代にもともとあった城の上に多くの建物が建築されました。メインゲートとなるAlamgiri Gateの夜の写真です。シャー・ジャハーンの時代に作られた豪華絢爛なシャーシ・マハル<鏡の間>は当時のムガル帝国の繁栄が偲ばれます。

 

ロータス・フォート(世界遺産)

シェール・シャーが“王の道”上に作った砦。シェール・シャーにとってはペシャワール~ラホールへ至る道を守る重要な要塞でした。

 

キャラバンサライ

ペシャワールのオールド・バザールの中には隊商が行きかった時代のキャラバンサライが残されています。かつてこの道を多くの商人が行き来し、広大なムガル帝国、その後の植民地時代を支えました。ペシャワールは中央アジア・インドからの商品にあふれ栄えていたことでしょう。

 

カイバルゲート

ペシャワールからカイバル峠に向かう途中にあるゲートであり記念碑です。道路脇にはジャムルードフォートという砦があり、もともとあった古い要塞の上に1823年に侵攻してきたシク教徒によって建てられた城です。中央アジアと南アジアを分けるカイバル峠の手前で、さまざまの民族の攻防の歴史を見てきた場所です。そしてカイバル峠を越えると、トルハムの国境がありアフガニスタンへと「グランド・トランク・ロード」は続きます。

 

バーブルの墓

ムガル帝国の第一皇帝はバーブル。中央アジア出身で、カブールに最初の拠点を置き、ここからパンジャーブ平野へ、そしてインドを征服し1526年、アグラでムガル帝国初代皇帝に即位しました。そのわずか4年後、バーブルはアグラで亡くなっています。彼は愛したカブールの地に墓標を持つことを願い、その後の戦乱で遅れたものの、家族によってカブールに墓が作られました。(写真はバーブル庭園修復中の時のもので、今はムガル帝国当時の墓を再現した美しいものになっています)

 

アフガンの戦後、訪れたバーブルの墓は荒れ果ててまさにムガル帝国の戦乱の歴史を思い起こさせる状態でした。アガハーン財団のプロジェクトにより“バーブル庭園”の中に美しく再建され、“王の道”の始まりであり、“グランド・トランク・ロード”の終着の地であった町、カブールを見守っています。

 

冬のカブール、バーブル帝の墓のあるバーブル庭園より

 

Photo & text : Mariko SAWADA

※カブールとカイバルゲートの写真は2006年の撮影であり現状が異なっていることがあります。その他の写真は2018年~2020年のものです。

※この記事は2011年6月にupしたブログ「サラームパキスタン」を加筆・訂正したものです。

カテゴリ:ペシャワール / カイバル峠 > ■カイバル・パクトゥンクワ州 > ラホール > ◇ パキスタンの遺跡・世界遺産 > ◇ 番外編 アフガニスタン
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Shimshal Pamir シムシャール・パミール あなたもクッチ?私もクッチ。

 

Shimshal Pamir 夏の”クッチ=移動”に参加
シムシャールの夏と言えば「パミール」の暮らし。そして「パミール」に家畜をつれて大移動をするのことが「クッチ」。5月末、シムシャール村から最初の夏村シュイジェラブへ、そして6月末「パミール」の夏村シュウェルトへと「クッチ」がおこなわれます。

 

あなたもクッチ?私もクッチ。
2009年の6月のある日。シムシャールの「ヤクの道」をシュイジェラブへと歩いていました。足の遅い私をどんどん追い抜くシムシャールの村人。みんな口々に「クッチ」。この大移動を手伝うために町に行った若者や村の男性が手伝いにシュイジェラブを目指していました。シュイジェラブにつくと既に集められた、あふれんばかりのヤギ・羊が。
「クッチ」の日まで待つ間も、朝・夕に私のテントの横を通っていく羊・ヤギたちを眺め、乳絞りに参加し、シムシャールの夏の暮らしを体験。

 

「パミール」を目指す
昨日の晩、「明日はクッチだ」と決定。朝から荷造りがはじまります。

 

オスのヤクに家財をつみ、家をかたづけ、そして9時、最初の荷ヤクの群が出発。続いてヤクの囲いが開けられいっせいにパミールへ歩き出しました。羊・ヤギは足が遅いので遅れてやってきます。高原に出ると6000m峰ミングリクサールの麓をとおり美しい湖ルップゾーイをすぎ、いよいよシムシャール峠へ。

 

シムシャールの6,000m峰ミングリクサールの麓を通過する荷を運ぶヤク。ヤクの背にあるのはブハリ(ストーブ)でその中に歩けないヤギが入って運ばれています。

 

ここから後方を振り返るとたくさんのヤクが押し寄せるパノラマが広がりました。標高4,900mの高所であることも忘れてヤクと一緒にパミールの村「シュウェルト」まで一気に歩く幸せ。

 

シムシャル峠を越えるメスのヤクと子供の群れ

 

クッチの無事終了と夏の暮らしを祈る儀式

 

シュウェルトの夏の始まり
シムシャールの女性たちが放牧と乳製品づくりをして3ヶ月を暮らす村がシュウェルト。クッチが終わるとすぐにこの夏の無事と収穫を祈る儀式が行なわれ、人々は家の準備、家畜の世話をします。そして夕方にはいつも通りの「乳搾り」の光景。


シュウェルトの家畜小屋。朝・夕の乳絞り。

お世話になった人々に別れを告げ、シュウェルトを出発するとき、この景色が惜しく、何度も振り返りました。

 

Photo & Text : Mairko SAWADA

Visit : Jun 2009, Shimshal Pamir, Shimshal, Gilgit-Baltistan

※この記事は2011年3月にアップしたブログ「サラームパキスタン」の記事を加筆・訂正したものです。シムシャールのクッチの伝統は急速になくなりつつあります。2018年、2019年と村の女性の参加する姿はほとんど見られなくなったと聞いています。

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Shimshal Pamir シムシャール・パミールってどこ?

2009年から通うこととなったシムシャール村のその奥、シムシャール・パミール。宿泊高度が4,700mを越える高所で簡単にける場所ではありませんが、山や大自然の景色だけではなく、ワヒ族の暮らしと伝統、人と家畜の大移動「クッチ」を体験することができる特別な場所です。

 

シムシャール村ってどこ?

シムシャール村は2003年に自動車道でつながった上部フンザの村。地図でいうとパキスタンと中国の国境付近、クンジェラブ峠の東側にあたります。カラコルム・ハイウェイを北上し、フンザの中心カリマバードを越え、アッタバード湖のトンネルを通り、パスーの村から未舗装の道を60キロほど走ったところにあります。2003年以前はパスーから歩かなくてはなりませんでしたが、四輪駆動車でアクセスできるようになりました。それでも道はかつての「トレッキングルート」。自動車道といえど、道中の険しい峡谷、村の手前に広がるムルングティ氷河など雄大な景色が続きます。

 

シムシャール村

標高3,000mの渓谷に広がるのがシムシャル村。1973年までフンザのミールの領土として乳製品や家畜を税として収めていました。1973年にフンザとともにパキスタン・イスラム共和国の一部になり、シムシャールの土地の一部は「クンジュラーブ国立公園」になりました。2003年には自動車道でつながるようになり、生活は便利になりましたが若者が都会へとでていくようになりました。村にはゲストハウスも数軒あり、不安定ながらも小さな水力発電の電気も通りました。この数年はトレッキングを含め村を訪問する観光客も増えてきました。

 

シムシャール・パミールへ

雪に閉ざされた長い冬が終わると、人々は5月末から放牧へとでかけます。シムシャールの暮らしで一番大切なのが「家畜」。ヤク、ヤギ・羊をつれて夏の放牧へ。特にシムシャールでは伝統的な「クッチ」と呼ばれる家畜をつれて夏の放牧地「パミール」を目指す「大移動」が行なわれます。

 

夏の家畜の世話と乳製品づくりは女性の仕事(残念ながらこの伝統は急速に失われています)。男性はより厳しい放牧にでかけたり、町に仕事に行ったり、山岳ポーターやガイドとして働いたりしてます。

 

イスラマバードからカラコルム・ハイウェイを旅してくると、カリマバードやパスーでも十分に山奥。そのさらに山奥のシムシャール村へ、そして歩いてシムシャール・パミールへ・・・。二の足を踏むかもしれませんが、本物の山の暮らし、家畜とともに生きるシムシャールの暮らしに触れることができる場所です。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

※Photos were taken between 2009 and 2012 at Shimshal village & Shimshal Pamir

※この記事は2011年3月にアップしたブログ「サラームパキスタン」の記事を加筆・訂正したものです。

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モヘンジョダロの”神官王像”(カラチ・パキスタン国立博物館蔵)

モヘンジョダロの大発掘が進められたのは1922年から1931年のこと。1947年のパキスタン独立前の発掘品の多くは英国やインドの博物館に収蔵されていますが、パキスタン国内にもいくつか貴重な発掘品が保存されています。

そんなパキスタンに残る、“マスターピース”がこのモヘンジョダロの”神官王像 (Priest -King)”です。

 

 

モヘンジョダロはパキスタンの中部にある紀元前2500年から1800年頃に繁栄したインダス文明最大の都市遺跡です。インダス文明は、インダス川流域を中心にインド亜大陸西北部に展開した南アジア最古の文明です。インダス文明については、世界中の考古学者たちの努力により少しづつその実態が明らかになってきていますが、未だに多くの謎が残されています。

 

エジプト文明、メソポタミア文明、中国文明といった、ほかの3つの古代文明の文字が何らかの形で解読されているのにも関わらず、インダス文明の文字は未だに解読されていません。彼らの起源や信仰についても謎が残りますが、その衰退の経緯についても最も大きな謎として残っています。

 

カラチのパキスタン国立博物館に収蔵されているこの神官王像は、その姿形からメソポタミアとの関係を疑われるなど、インダス文明の謎を紐解くピースのひとつになるのではないかと言われています。

 

 

モヘンジョダロの神官王像 ”Priest King” – Mohenjodaro

 

白色の凍石(ソープストーン、Steatite) で作られ、1,000度以上の高熱で焼いて固くされています。大きさは高さ17.5cm、幅11cmと小さなものです。1927年の発掘調査中、DK地区の貴族の家と思われる大きな建物跡(DK-B)から出土しました。

 

 

特徴的なマントには三つ葉模様、一重丸、二重丸の模様が描かれ、赤色の着色があった痕跡があります。ヘッドバンドに三つ葉の模様をあしらったマントとその風格から「神官王」と名付けられました。

 

イギリス植民地(イギリス領インド帝国)時代、発掘品はラホールの博物館に送ら得てましたが、その後インド帝国の新首都になるデリーへ移送されていました。そして1947年の分離独立後に、モヘンジョダロからの収蔵品の多くがインドにある状態となりました。1972年、当時のパキスタン大統領だったズルフィカル・アリー・ブットーとインド首相インディラ・ガンジーを代表として”シムラー協定”が締結され、インドにあった発掘品12,000点の半分がパキスタンへと戻されました。

その際、「最も有名な2つの彫像」をめぐり、パキスタン当局は「神官王像 Priest – king」と「踊る少女 Dancing Girl」の返還を求めましたが、ガンジーはそれを拒み「神官王像」のみが返却され、「踊る少女」は現在もデリーの国立博物館で展示されています。

 

モヘンジョダロ博物館に展示されている「踊る少女 Dancing Girl」のレプリカ。

 

モヘンジョダロ遺跡の入り口にある、大きな神官王像のレプリカ。

 

モヘンジョダロ博物館入り口の売店に並ぶ「神官王像」のレプリカ。人気者です!

 

Photo & text : Mariko SAWADA

※博物館内の撮影は原則禁止されています。大きなかばんの持ち込みが制限されています。

西遊旅行のパキスタンツアー一覧

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