DISCOVER AFGHANISTAN:バーミヤン渓谷 Bamiyan Valley

「バーミヤン?もう大仏はないんでしょ?」と思う人が多いことでしょう。55m、38mの高さがあった2体の巨大な摩崖仏は2001年3月、当時のタリバンにより無残にも破壊されてしまいました。タリバンと当時のアフガニスタンの状態が世界に知れ渡った驚くニュースでした。

大仏は失われ、多くの石窟が破壊されてしまいましたが、バーミヤンの谷はそれだけではない魅力がたくさんあります。今ではバザールは拡張し、ホテルも増え、外国人観光客に加え週末ともなるとカブールなどの都市部からの国内観光客がやってくるようになったバーミヤン。昔のバーミヤンをご存じの方はその変化に驚くことでしょう。

 

首都カブールからバーミヤンへ向かう道は2つあります。ひとつがいわゆる「北回り・シバール峠越えルート」でもう一つが「南回り・ハジガック峠越えルート」です。いずれの道もバーミヤンの入り口となる検問所の前にそびえる「シャーレ・ゾハーク」を望むことになります。

 

バーミヤン渓谷の入り口に位置するシャーレ・ゾハーク

 

シャーレ・ゾハーク Shahr-i-Zohak

バーミヤンの町の東17キロのバーミヤン川とカル川の合流地点にある要塞跡です。現在の砦の跡は12世紀のシャンサバニ王朝時代(チンギス・ハン侵攻時)のものとされていますが、実際には「天然の要塞」として6世紀ごろから利用されていました。仏教時代の遺跡も残されていると言います。近代の内戦でも利用され戦後は地雷が残っていました。夕日を浴びたシャーレ・ゾハークは赤く輝き、レッド・シティー「赤い町」の別名を持ちます。砦の頂上からはカル川沿いに延びる美しい渓谷が展望できます。

 

シャーレ・ゾハーク遺跡から見るバーミヤンの谷

シャーレ・ゾハークを過ぎ、バーミヤンを目指します。左手に古いキャラバン・サライの跡があり、そしてハザラの人々の村が続きます。そして間もなく前方に石窟群が見えていきます。バーミヤン石窟です。

 

 

バーミヤン石窟 Bamiyan Caves

バーミヤン石窟はバーミヤン谷の北側の絶壁に長さ1,300mにわたって約750の石窟が造営された石窟群で、その東西に2001年、タリバンによって破壊された西大仏(高さ55m)、東大仏(高さ38m)があります。2003年には「バーミヤン渓谷の文化的景観と考古学遺跡群」としてユネスコの世界遺産に登録されました。以前はユネスコや各国の考古学研究者により遺跡の修復・保存作業が進められていましたが、新タリバン政権に移行してからは保存作業などが中断していました。

 

バーミヤン西大仏

2024年現在、バーミヤン西大仏から東大仏までの石窟群のふもとを歩き、東大仏は階段を上り内部へ上がることができます。壁画の残っている石窟は訪問客による損傷が発生したため一部は鍵がかけられています。

 

バーミヤン東大仏
2001年3月に爆破され崩落した仏陀像の一部
バーミヤン東大仏石窟のテラスに残る壁画

バーミヤン石窟東大仏の内部を上がっていくと、テラスのある石窟や大仏の頭があった付近のテラスからバーミヤンの谷を望むことができます。バーミヤン石窟からバザールまでの間は「景観地区」として開発せずに保存されてきましたが、新タリバン政権後はそれが守られずに新しいガソリンスタンドや商店が建てられ始めています。

 

東大仏の壁龕のテラスから見るバーミヤンの谷

町のはずれにある大きな丘がシャーレ・ゴルゴラです。

 

シャーレ・ゴルゴラ

 

 

シャーレ・ゴルゴラ Shahr-i-Gholghola

「亡霊の叫ぶ町」と呼ばれる砦の廃墟跡です。12世紀のバーミヤンは、ゴール朝を継ぐシャンサバニ王朝が栄えていましたが、1221年のチンギス・ハン軍の襲来により「死の町」と化しました。そのときの虐殺される叫び声が、この砦の名前の由来です。国際支援により遺跡の一部が改修され新しくなりましたが、きれいになりすぎて以前の方が情緒があった、という声も聞きます。砦の上からはバーミヤンの谷が一望できるパノラマビューポイントです。

 

シャーレ・ゴルゴラから望むバーミヤンの谷

バーミヤンには有名なバーミヤン石窟以外に2か所の石窟群、フォラディ石窟とカクラク石窟があります。いずれも川のそばにある石窟で少し歩いてアクセスすることになります。ソ連侵攻前にバーミヤンを訪れた観光客は、夕方のカクラク石窟を訪問し、夕日が当たる仏陀立像を「サンセットブッダ」と呼んでいたと聞きました。

 

 

フォラディ石窟 Foladi Caves

バーミヤン盆地の西側を流れるフォラディ川に沿って造営された約50の石窟群です。村の人々が石窟を家畜小屋や住居として利用し続けているため損傷していますが、ラテルネンデッケなどの天井装飾を見ることができます。村の暮らしを垣間見ることができる、のどかな場所です。

 

フォラディ石窟のそばに暮らす人々
人々は石窟を家畜小屋や住居として利用してきました
ラテルネンデッケ天井装飾

 

カクラク石窟 Kakrak Caves

バーミヤン谷の東側を流れるカクラク川に沿って造営された石窟群です。フランスのギメ東洋美術館やカブール博物館に保管されている赤を基調とした有名な壁画が出土した石窟です。高さ6.4mの仏陀立像がありましたが、2001年、2体の大仏とともに旧政権タリバンによって破壊されました。石窟群の上にはイスラム時代の望楼跡も見られます。何も残っていないのですが、農作地を歩きながらバーミヤンらしい景色を楽しめます。

 

カクラク石窟遠景
仏陀立像があった壁龕。2001年にタリバンにより2体の大仏とともに破壊されました

 

竜の谷 Dragon Valley

バーミヤンの南西9Kmにある谷です。伝説では、村の乙女が竜の生贄になろうというころを、勇者(ハズラット・アリ)が竜に立ち向かい、これを二つに切り裂きました。竜は後悔し涙を流ました。その竜の裂けた背がこの岩の裂け目で、”涙”は鉱泉として今も流れています。内戦後、何もなかったこの谷は新興住宅街として成長しています。

 

「竜の背」にあたる場所
下の方には「竜の涙」、鉱泉が湧き出ています

簡単にバーミヤン渓谷のご紹介しましたが、アフガニスタンといえば内戦の跡はまだ残っているのか気になることでしょう。バーミヤンとその周辺では地雷除去は早い段階で進みました。内戦後からしばらくは、カブールからバーミヤンへの道中や谷のあちこちに戦車が見られましたが、もうだいぶなくなりました。

 

バーミヤンの丘に残る戦車
バーミヤンの丘の戦車

これは驚きますよね。イランの女性アーティストが塗った作品です。カブールのダルラマン宮殿のように近代の内戦を象徴した建物なども様変わりしました。

 

シバール峠の自走式対空砲

バーミヤン周辺で一番保存状態よく残っているのはシバール峠の上にあるものかもしれません。

そしてバーミヤンのバザール、日常の風景です。

 

バーミヤンのメインバザール

バーミヤンはじゃがいもの栽培で有名です。村を歩くと出会いがいっぱい。

 

カクラクのじゃがいも畑で出会った親子
カクラクのじゃがいも畑にて
フォラディで出会った少女

 

バーミヤンの谷は、ヒンドゥークシュの山に囲まれたその風景とハザラの人々の四季の暮らしだけでも十分にフォトジェニックで感動的な場所です。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

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DISCOVER AFGHANISTAN:ジャムのミナレット The Minaret of Jam

アフガニスタンにある2つの世界遺産のうちのひとつが「ジャムのミナレットと考古遺跡群 Minaret and Archaeological Remains of Jam」。ゴール州の山の中にあり、バーミヤンからもヘラートからもアクセスが容易でなく、悪路を延々と走らないと行けない場所にあります。

 

「ミナレットと考古遺跡群」と呼ばれていますが、実際にミナレットかどうかははっきりしていません。そこにはモスクはなく(もしかしたらオープンタイプのモスクがあったのかもしれません)、イスラム以前の異教の聖地の上に建てられた戦勝記念塔ではないか、など諸説があります。素敵な説のひとつに、「幻のフィローズコー(フィールーズクーフ)」説があります。ゴール朝には3つの主な都がありました。ガズニGhazni 、バーミヤン Bamiyan、フィローズコーFirozkohです。このうちフィローズコーのみ所在が明らかになっておらず、ミナレットのそばの遺跡群がその都跡なのではないかと推測されています。そういえば、ゴール州のチャグチャランChaghcharanは町の名を最近フィローズコーFirozkohに変え、バーミヤン側からジャムのミナレットを訪れる旅行者の玄関の町になっています。

 

ミナレットのそばの岩山に残る建築物の跡。見張り塔がはっきりとわかります。

ジャムのミナレットはアフガニスタン中央部の山岳地帯から興ったゴール朝がアフガンから北西インドまで支配した時代に作られました。1150年~1215年に栄えた王朝で12世紀の王、ギヤスウッディーンGhiyath al-Din Muhammad(1162年~1203年)とその弟ムイッズィディーンMu’izz ad-Din Muhammad (1203年~1206年)の時代が最盛期でした。王朝はこの兄弟の死後分裂し、1221年にはチンギスハーンの軍隊によりその都も滅ぼされました。その後、山奥に位置するため人目に触れることはありませんでしたが、1943年ヘラートの知事によりこの遺跡のことが公表され、1957年にアフガン歴史協会(Afghan Historical Society)とフランス考古学代表団(French Archaeological Delegation in Afghanistan)が訪問し、この貴重な遺跡が「発見」されました。

 

ジャムのミナレットは高さ65m、3層の構造になっている

この遺跡はハーリルード川とジャム川の合流地点にあることから土台が浸食され少し傾いています。ジャムのミナレットはゴール朝時代の残された唯一の建築物で中世のイスラム建築を知るために非常に重要であり、2002年に世界遺産に登録され「危機遺産」として遺跡の保護が叫ばれています。

ジャムのミナレットは3層構造になっていおり、各層は突き出たコーベルバルコニーで仕切られ最上部には6つのアーチの円形のアーケードがあります。

 

頂上部の6つのアーチのアーケード

37m付近までの第1層は型押しされた黄褐色のレンガのレリーフで精巧に装飾されています。

 

ミナレットの八角形の基礎部の直径は14.5mで高さは65m、先細りの塔で焼きレンガでできています。八角形の基壇に対応する8つの縦長のパネルは型押しのレンガで見事にされています。ブハラで発達したバラエティ豊かな幾何学模様、植物模様。素晴らしいのはアラビア語クーフィー体でコーラン第19章スーラ、マルヤム章の全文の碑文の帯が1つのパネルから別のパネルへと表現されているのです。

 

コーラン19章を現したクーフィー体のアラビア語がパネルを取り巻き延々と続きます。

最初のバルコニーのすぐ下に鮮やかなペルシャンブルーのクーフィー体の碑文、表面で唯一色のついた碑文があり、このミナレットの創建に関わった支配者の名が宣言されています。「サムの息子、ギャスウッディーン・モハマド、偉大なスルタン、王の中の王 Ghiyasuddin Mahammad ibn Sam, Sultan Magnificent! King of King!」この中に建築家の名前も「アリ、・・・の息子(・・・ Ali, son of ・・・)」と小さく刻まれています。

 

創健者ギヤスウッディーンの名を現す

インドのデリーにあるクトゥブ・ミナール Qutub Minarは1200年ごろデリー・スルタン朝時代に作られた、煉瓦で作られた世界一高いミナレット(72.5m)で、その建国者であるクトゥブッディーン・アイバクはゴール朝に仕えており、クトゥブ・ミナールはジャムのミナレットに影響され建設されたと言います。逆に、ガズナ朝時代のガズニに「ガズニのミナレット」があり、ジャムのミナレットはこれに影響されて建設されたようです。

 

ジャムのミナレットの影響を受けて建設されたというクトゥブミナ-ル(デリー)
ガズニのミナレットはジャムのミナレットの建築に影響を与えました

以前はミナレットの中のらせん状の階段を登ることができましたが、今はその出入り口は閉じられ入ることはできなくなっています。
長い悪路の旅の果てに見る「ジャムのミナレット」、その景色は圧巻で、遺跡ロマンたっぷりです。

 

Image & text : Mariko SAWADA

Reference :”An historical guide to Afghanistan ” Nancy Hatch Dupree

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ベラのケイヴシティ・ゴンドラニ石窟 Cave city of Gondrani

バロチスタンにある仏教遺跡・・・と信じられているのが「ベラのケイヴシティ Cave City of Bela」、「ゴンドラニのケイヴシティ Cave city of Gondrani」と呼ばれる石窟群です。ベラの町の郊外、4WDで行くか歩いて川を渡らなければならない場所にあります。

 

この遺跡が何だったのか、何の目的で作られたのか、時代など詳しいことはわかってませんが、この地域が仏教を信じる王国の領地であった8世紀ごろの仏教僧院の跡だろうと考えられています。

 

表の面がテラスになっていて、その奥にさらに部屋があります。

 

近くで見るとこんな感じです。これはアフガニスタンのバーミヤンの谷にある石窟を思い出させます。バーミヤンの谷の石窟遺跡との違いは、バーミヤンでは仏陀や菩薩を描いた壁画、天井装飾などが施された石窟があるのですが、ここでは一切装飾あとがありません。

 

水が流れて作り出した道を歩いていくとやがて石窟の規模が小さくなり、いびつな形になります。長い年月の風化でほとんど残っていない窟も。

 

アフガニスタンの石窟に触れましたが、これがバーミヤンの谷の石窟群、東大仏から西大仏にかけてのパノラマです。1,300mにわたり750以上の窟があります。これらは5世紀には造営が始まり、6~7世紀が最盛期、8~10世紀に終焉を迎えたと考えられています。右側の東大仏のテラスには現在も壁面装飾が残されています。

 

バーミヤンの石窟よりももっとゴンドラニ石窟に似ているのが、同じバーミヤンにあるフォラディ石窟です。

 

石窟付近には人が住み、戦時中には村人が石窟に暮らしたため、火をたいたすすで天井が黒くなっている石窟もありました。

 

それでもゴンドラニ石窟とは違い、フォラディ石窟ではこのようなラテルネンデッケの装飾などが残されています。

ゴンドラニ、ベラのケイヴシティの歴史調査が行われ、かつてパキスタンにあった仏教の歴史に光がさすことを願って。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

Visit : Feb 2019, Cave city of Bela / Gondrani , Balochistan

2003-2012, Bamiyan & Foladi Cave in Afghanistan

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