カイバル峠を越えて Over the Khyber Pass

ペシャワールからアフガニスタンとの国境の間にある「カイバル峠」。古くから中央アジア文化圏とインド文化圏を結ぶ交易路にある重要な峠でした。峠がある山はパシュトゥー語でスピンガーと呼ばれ、紀元前4世紀にアレキサンダー大王の軍隊が、7世紀に玄奘三蔵が越えた場所でもあります。ムガール朝時代にはインドのアグラからアフガニスタンのカブールへの幹線道路=グランド・トランク・ロードの一部として発達し、近代ではイギリス植民地時代のアフガン戦争において戦場となった場所でもあります。 独立後はトライバル・エリア=連邦直轄部族地域(FATA)呼ばれるパシュトゥーン族の自治区となりましたが、2018年にその制度は廃止されました。外国人の訪問には事前許可と警備の同行が必要となっています。観光客が「カイバル峠」へ行く、という場合、一般的にはカイバル・ゲートからミチニ・チェックポストまでの区間の訪問を指します。

 

カイバル・ゲートとジャムルード砦  Bab-e-Khyber and Jamrud Fort

ペシャワール中心部から18Km。カイバル・ゲートと呼ばれる記念碑の門で1963年に建てられました。記念門の横には小さな公園がありカイバル石板にカイバル峠の歴史が刻まれています。カイバル・ゲートはパキスタンのお札、10ルピー札にも登場します。

カイバル・ゲートを越えてすぐ右手にはジャムルード・フォートがあります。もともとあった古い要塞の上に1823年、シク教徒によって建てられた砦です。シク教徒の英雄だった将軍ハリ・シン・ナルワ Hari Singh Nalwaはアフガン勢力と戦いジャムルード・フォートで殺され埋葬されています。現在はパキスタン軍が駐屯し、内部に入ることはできません。

 

カイバル・ゲートを歩いて越える、パンジャブ地方から来たラクダのミルク売り
2007年までカイバル・ゲートの近くに大きなアフガン難民キャンプ(カチャガリKacha Garhi refugee camp)がありました。1979年のソ連侵攻後からアフガニスタン戦争の終結までの間、この門を通じ多くの難民が行き来しました。
パキスタンの10ルピー札に描かれているカイバルゲート

 

カイバル峠ビューポイント Khyber Pass Viewpoint

ガイドブックに紹介されている「カイバル峠の写真」は、国境へ向かう途中の道から振り返ってペシャワール方面を見た景色です。今は新しく拡張された道路になり、国境を行き来する輸送トラックが列をなして走る道ですが、かつてはアフガニスタンから来たキャラバンの目の前に「ガンダーラ平野」が広がる、ドラマチックな光景だったことでしょう。

 

カイバル峠ビューポイントより、ペシャワール方面を望む

 

シャーガイ・フォート Shagai Fort

1920年代にイギリスがカイバル峠ルートを監視するために作った要塞。現在はパキスタン軍が駐屯し監視しています。砦の反対側にはモニュメントと展望台があります。

 

シャーガイ・フォート遠景
シャーガイ・フォートの入り口

 

アリー・マスジッド Ali Masjid

カイバル峠の道で両サイドを山に挟まれた一番狭い場所。もともと荷物を積んだラクダ2頭がギリギリすれ違えるくらい細かった場所でしただったそうです。戦略上重要な位置だったため、過去の戦争の際には激戦地となりました。道は徐々に拡張されていますが、現在もこの場所は車線が別れ、ペシャワール方面へ向かう車線は崖の上に作られています。

道路沿いに小さなアリー・マスジッド(モスク)、マドラサがあり、丘の上にはパキスタン軍が駐屯するアリー・マスジッド・フォートがあります。

 

道路沿いのアリー・マスジッドモスク。より大きなモスクを建設中です
狭い道を監視するアリー・マスジッド・フォート

 

アユーブ・アフリディの豪邸  Palatial Residence (Fort) of Ayub Afridi

麻薬王であり部族政治家としても有名な人物で、アメリカとの接触についてのエピソードなどの話題で知られる人物です。道路沿いには100部屋以上あるという豪邸の壁が続きます。

 

スフォラ・ストゥーパ Sphola Stupa

2~3世紀頃のシャン朝時代のストゥーパ。3層の基壇の上にストゥーパが乗っており、20世紀初めの発掘では仏像も出土しています。2024年現在、基壇部の修復がされています。カイバル峠エリアにある唯一のガンダーラ仏教遺跡です。

 

スフォラ・ストゥーパとカイバル鉄道の線路

 

軍隊のエンブレム Emblem of the Military Corps

この地を通過した様々な時代の軍隊が、その記念として自分たちの軍隊の紋章を岩肌に刻んでいきました。

 

軍隊のエンブレム

 

カイバル鉄道 Khyber Railway

ペシャワールとランディ・コタールを往復する観光客向けの蒸気機関車が月に1回程度運行していた時代がありました。この鉄道の歴史は古く、イギリス統治下の1926年に軍事物資運搬の目的で開通しました。ペシャワールからランディ・コタールまで約40キロ・高低差600メートルの道のりを34のトンネルと92の鉄橋を渡っていきます。

2006年の大雨と洪水により壊滅的な被害を受け、復旧のめどは全く立たない状態です。現在は傷んだ線路、トンネル、鉄橋、駅の跡が見られるだけです。

 

洪水で破壊された線路
トンネル
鉄橋
保存されている蒸気機関車(ペシャワール)

 

ランディ・コタル Landi Kotal

パキスタン側の最後の町がランディ・コタル。町の表通りのさらに一段低い場所にも商店が広がっています。かつては武器や麻薬を扱う「密輸品バザール」で知られていました。現在も活気のある市場があります。

 

ランディ・コタルのカバブ店
町で人気のチャッパル・カバブの店
明るくツーリストに話しかけてくるランディ・コタルの人々
学校から帰宅途中の子供たち

 

ミチニ・チェックポスト Michini Check Post

アフガニスタンの査証なしに訪問できるパキスタン側の最後の地点が国境トルハムを展望するミチニ・チェックポストです。ここから5Km下ると国境の町・トルハムです。 また、国境をはさむ岩山には1,2,3の番号が刻まれ、その線をつないだところが両国の国境線となります。

 

ミチニ・チェックポストから国境トルハムを望む

ミチニ・チェックポストには観光客が入れるビューポイントがあります。そのビューポイントからタイモール・フォート Taimoor Fortまたはタメルラン・フォートTamerlane Fortと呼ばれる古い建物があり、ティムールのインド攻略の際に牢獄として使ったものだという伝承があります。

 

タイモール・フォート Taimoor Fort
国境のトルハムを望む展望台

 

トルハム国境  Torkham Border

国境に近づくとドライポート、そして出入国管理の建物があります。建物の前にはアフガニスタンへ向かう人々、荷物を運ぶポーターや両替商がおり国境情緒に溢れます。2024年現在、トルハムの国境はパキスタンとアフガニスタンの間で唯一開いている国境です。

 

荷物を運ぶポーター、両替商が待機する国境
パキスタンとアフガニスタンの間をつなぐ通路

アフガニスタンとの国境の間は長い通路でつながれており、国境を越えるとそこからカブールまで230Km、車で6時間ほどで到着です。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

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カテゴリ:ペシャワール / カイバル峠 > ■カイバル・パクトゥンクワ州
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DISCOVER AFGHANISTAN:バーミヤン渓谷 Bamiyan Valley

「バーミヤン?もう大仏はないんでしょ?」と思う人が多いことでしょう。55m、38mの高さがあった2体の巨大な摩崖仏は2001年3月、当時のタリバンにより無残にも破壊されてしまいました。タリバンと当時のアフガニスタンの状態が世界に知れ渡った驚くニュースでした。

大仏は失われ、多くの石窟が破壊されてしまいましたが、バーミヤンの谷はそれだけではない魅力がたくさんあります。今ではバザールは拡張し、ホテルも増え、外国人観光客に加え週末ともなるとカブールなどの都市部からの国内観光客がやってくるようになったバーミヤン。昔のバーミヤンをご存じの方はその変化に驚くことでしょう。

 

首都カブールからバーミヤンへ向かう道は2つあります。ひとつがいわゆる「北回り・シバール峠越えルート」でもう一つが「南回り・ハジガック峠越えルート」です。いずれの道もバーミヤンの入り口となる検問所の前にそびえる「シャーレ・ゾハーク」を望むことになります。

 

バーミヤン渓谷の入り口に位置するシャーレ・ゾハーク

 

シャーレ・ゾハーク Shahr-i-Zohak

バーミヤンの町の東17キロのバーミヤン川とカル川の合流地点にある要塞跡です。現在の砦の跡は12世紀のシャンサバニ王朝時代(チンギス・ハン侵攻時)のものとされていますが、実際には「天然の要塞」として6世紀ごろから利用されていました。仏教時代の遺跡も残されていると言います。近代の内戦でも利用され戦後は地雷が残っていました。夕日を浴びたシャーレ・ゾハークは赤く輝き、レッド・シティー「赤い町」の別名を持ちます。砦の頂上からはカル川沿いに延びる美しい渓谷が展望できます。

 

シャーレ・ゾハーク遺跡から見るバーミヤンの谷

シャーレ・ゾハークを過ぎ、バーミヤンを目指します。左手に古いキャラバン・サライの跡があり、そしてハザラの人々の村が続きます。そして間もなく前方に石窟群が見えていきます。バーミヤン石窟です。

 

 

バーミヤン石窟 Bamiyan Caves

バーミヤン石窟はバーミヤン谷の北側の絶壁に長さ1,300mにわたって約750の石窟が造営された石窟群で、その東西に2001年、タリバンによって破壊された西大仏(高さ55m)、東大仏(高さ38m)があります。2003年には「バーミヤン渓谷の文化的景観と考古学遺跡群」としてユネスコの世界遺産に登録されました。以前はユネスコや各国の考古学研究者により遺跡の修復・保存作業が進められていましたが、新タリバン政権に移行してからは保存作業などが中断していました。

 

バーミヤン西大仏

2024年現在、バーミヤン西大仏から東大仏までの石窟群のふもとを歩き、東大仏は階段を上り内部へ上がることができます。壁画の残っている石窟は訪問客による損傷が発生したため一部は鍵がかけられています。

 

バーミヤン東大仏
2001年3月に爆破され崩落した仏陀像の一部
バーミヤン東大仏石窟のテラスに残る壁画

バーミヤン石窟東大仏の内部を上がっていくと、テラスのある石窟や大仏の頭があった付近のテラスからバーミヤンの谷を望むことができます。バーミヤン石窟からバザールまでの間は「景観地区」として開発せずに保存されてきましたが、新タリバン政権後はそれが守られずに新しいガソリンスタンドや商店が建てられ始めています。

 

東大仏の壁龕のテラスから見るバーミヤンの谷

町のはずれにある大きな丘がシャーレ・ゴルゴラです。

 

シャーレ・ゴルゴラ

 

 

シャーレ・ゴルゴラ Shahr-i-Gholghola

「亡霊の叫ぶ町」と呼ばれる砦の廃墟跡です。12世紀のバーミヤンは、ゴール朝を継ぐシャンサバニ王朝が栄えていましたが、1221年のチンギス・ハン軍の襲来により「死の町」と化しました。そのときの虐殺される叫び声が、この砦の名前の由来です。国際支援により遺跡の一部が改修され新しくなりましたが、きれいになりすぎて以前の方が情緒があった、という声も聞きます。砦の上からはバーミヤンの谷が一望できるパノラマビューポイントです。

 

シャーレ・ゴルゴラから望むバーミヤンの谷

バーミヤンには有名なバーミヤン石窟以外に2か所の石窟群、フォラディ石窟とカクラク石窟があります。いずれも川のそばにある石窟で少し歩いてアクセスすることになります。ソ連侵攻前にバーミヤンを訪れた観光客は、夕方のカクラク石窟を訪問し、夕日が当たる仏陀立像を「サンセットブッダ」と呼んでいたと聞きました。

 

 

フォラディ石窟 Foladi Caves

バーミヤン盆地の西側を流れるフォラディ川に沿って造営された約50の石窟群です。村の人々が石窟を家畜小屋や住居として利用し続けているため損傷していますが、ラテルネンデッケなどの天井装飾を見ることができます。村の暮らしを垣間見ることができる、のどかな場所です。

 

フォラディ石窟のそばに暮らす人々
人々は石窟を家畜小屋や住居として利用してきました
ラテルネンデッケ天井装飾

 

カクラク石窟 Kakrak Caves

バーミヤン谷の東側を流れるカクラク川に沿って造営された石窟群です。フランスのギメ東洋美術館やカブール博物館に保管されている赤を基調とした有名な壁画が出土した石窟です。高さ6.4mの仏陀立像がありましたが、2001年、2体の大仏とともに旧政権タリバンによって破壊されました。石窟群の上にはイスラム時代の望楼跡も見られます。何も残っていないのですが、農作地を歩きながらバーミヤンらしい景色を楽しめます。

 

カクラク石窟遠景
仏陀立像があった壁龕。2001年にタリバンにより2体の大仏とともに破壊されました

 

竜の谷 Dragon Valley

バーミヤンの南西9Kmにある谷です。伝説では、村の乙女が竜の生贄になろうというころを、勇者(ハズラット・アリ)が竜に立ち向かい、これを二つに切り裂きました。竜は後悔し涙を流ました。その竜の裂けた背がこの岩の裂け目で、”涙”は鉱泉として今も流れています。内戦後、何もなかったこの谷は新興住宅街として成長しています。

 

「竜の背」にあたる場所
下の方には「竜の涙」、鉱泉が湧き出ています

簡単にバーミヤン渓谷のご紹介しましたが、アフガニスタンといえば内戦の跡はまだ残っているのか気になることでしょう。バーミヤンとその周辺では地雷除去は早い段階で進みました。内戦後からしばらくは、カブールからバーミヤンへの道中や谷のあちこちに戦車が見られましたが、もうだいぶなくなりました。

 

バーミヤンの丘に残る戦車
バーミヤンの丘の戦車

これは驚きますよね。イランの女性アーティストが塗った作品です。カブールのダルラマン宮殿のように近代の内戦を象徴した建物なども様変わりしました。

 

シバール峠の自走式対空砲

バーミヤン周辺で一番保存状態よく残っているのはシバール峠の上にあるものかもしれません。

そしてバーミヤンのバザール、日常の風景です。

 

バーミヤンのメインバザール

バーミヤンはじゃがいもの栽培で有名です。村を歩くと出会いがいっぱい。

 

カクラクのじゃがいも畑で出会った親子
カクラクのじゃがいも畑にて
フォラディで出会った少女

 

バーミヤンの谷は、ヒンドゥークシュの山に囲まれたその風景とハザラの人々の四季の暮らしだけでも十分にフォトジェニックで感動的な場所です。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

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DISCOVER AFGHANISTAN : バンデアミール Band-e Amir

バーミヤンより西へ75km、標高約3,000m大地に忽然と現われる湖沼群がバンデアミール Band-e Amirです。 バンデアミールは「砂漠の真珠」とも例えられるほど美しい湖で、絶景の多いアフガニスタンでも随一のものです。

バーミヤンからバンデアミールへの道は、美しいシャヒダーンの渓谷と峠を越えて行きます。夏には、緑の草原に映える美しい高山植物や放牧の景色も見られます。今は湖の手前まで舗装され、ずいぶん簡単にアクセスできるようになりました。

 

ゴール朝時代の望楼

バーミヤンを出発し、アクラバト峠(Kotal Aqrabat)への検問所を過ぎてまもなく、正面にイスラム時代以降に作られた望楼が表れます。おそらくは12世紀のゴール朝時代に遡り、バーミヤン周辺の街道沿いに残されています。

 

シャヒダーン峠付近

シャヒダーンの峠を上がるとヒンドゥークシュの雪を抱いた山と滑らかな緑の草地、そこに放牧されている家畜たちの景色が表れます。

 

シャヒダーン峠付近

豊かな水、草に恵まれた健康的なヤギ・羊たち!

 

中世の建物跡 カラ・イ・シャヒダーン

シャヒダーンの村にある中世の城(要塞)の跡。昔から「シルクロード」の一部として人が行きかったしるしです。小さなバザールもあります。

 

学校へ駆け込む少女たち

学校もあり、ハザラの少女たちがちょうど授業に向かっていました。

 

燃料となる草を運ぶ少年

シャヒダーンより、景色の美しい道を走りシベルトゥ、カルガナトゥを経ていよいよバンデアミールへの道に入ります。最近、大きなゲートまで作られました。ここからは未舗装です。

 

バンデ・ズルフィカール

未舗装の道をゆっくり走っていくと正面に美しい湖面が表れます。これが最初に見るバンデアミールの景色です。これはバンデ・ズルフィカールの一部。荒涼とした風景の中に現れる「青」の美しさに驚きます。

この先にチケット売り場があり、さらに道を進めると中心となるバンデ・ハイバットの湖のビューポイントが表れます。

 

バンデ・ハイバット

このバンデ・ハイバットには第1駐車場、第2駐車場(週末は第3駐車場も・・・)があり、宿泊施設、食堂、そして遊園地的なものまで登場しました。新タリバン政権以降、これまでこの地域に来ることがなかった都市部からの観光客(特にパシュトゥーンの人々)が増え、訪問日が選べるなら「週末は避けた方がいい」くらいの賑わいを見せています。

 

バンデ・ハイバット

ボートライドが大人気。アフガン国内の観光客にとってバンデアミールのボートライドは Must to do アクテビティです。

 

バンデ・ハイバット

バンデ・ハイバットの高さ12mの天然のダム。バンデアミールの湖を隔てる壁(天然のダム)はトラバーチンという炭酸カルシウムで構成されています。岩だらけの地形にある断層や亀裂から染み出したミネラル豊富な水が長い時間を経て固まったトラバーチンの層を堆積させ、このような天然のダムを作り上げました。

 

バンデ・ハイバットの魚

バンデ・ハイバットの魚、種類はわかりません。バンデ・ハイバットは6つの湖の中で一番深く、ニュージーランドの潜水チームによる調査に深さ150mほどあるそうです。

 

バンデ・ハイバットからあふれ出る水

バンデアミールには全部で6つの湖があります。そのうち、バンデ・カムバールはほとんど干上がっています。

 

Band-e Zulfiqar  バンデ・ズルフィカール(アリーの剣の湖)

Band-e Haibat バンデ・ハイバット(おそれの湖)

Band-e Gholaman バンデ・グラマーン(奴隷たちの湖)

Band-e Qambar バンデ・カムバール(アリーの馬丁の湖)

Band-e Panir バンデ・パニール(チーズの湖)

Band-e Pudina バンデ・プディナ(はっかの湖)

 

バンデ・ハイバットのほとりにはハズラット・アリが一夜を過ごした場所として聖地になっている祠があり、昔から湖へ巡礼に訪れる人々がいました。巡礼地から一大観光地へ様変わりしました。

 

バンデ・ハイバットとバンデ・パニールの間の天然のダム

バンデ・ハイバット(左)とバンデ・パニール(右)、バンデ・プディナ(右中央上)の間にある天然のダム(トラバーチンの堆積物)。

 

バンデ・パニール、バンデ・プディナ

この写真は10年ほど前のバンデ・パニール、バンデ・プディナの写真です。今は地形が変わったように思われます。そして観光客用の施設も作られました。

 

湖の間の遊歩道

バンデ・パニール、バンデ・プディナの間にできた遊歩道。バンデ・ズルフィカールまで続きます。

 

バンデ・パニール

バンデ・パニール の周りに建てられたピクニック用の小屋。国内観光客にとってバンデアミールのピクニックは憧れです。

本当に美しいバンデアミール、週末ともなると大変にぎわう大観光地になりました。ただ、国内観光客の残すゴミや食べ物の残りを洗ったりする水質汚染が大変心配されます。

ところで、バンデアミールへの道では地元のハザラの人々が移動する様子など大変美しい光景に出会うことがあります。

 

ロバに乗って移動するハザラの家族。荒涼とした風景の中に赤色が映えます

 

燃料となる草を運ぶ

 

絶景バンデアミール、そこに生きるハザラの人々。アフガニスタンは常に大きな変化の中にありますが、アフガニスタンに暮らす全ての民族が平和に暮らせることを願います。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

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DISCOVER AFGHANISTAN:キルギス族のブズカシ、ワハーン回廊 -Buzkashi in Wakhan Corridor

夏のワハーン回廊、チャクマクティン湖(Chaqmaqtin Lake)の湖畔で行われたブズカシです。ワハーン回廊のキルギス族の間では、イスラムのイード(犠牲祭)の時のほか、結婚式でも行われています。

 

>ワハーン回廊、アフガンパミールのキルギス族

 

ブズカシはアフガニスタンの国技で、2組の騎馬グループがヤギを奪い合います。ペルシャ語で「ヤギ=Buzを引っ張る、引きずる=kashi」と、そのままの意味です。ブズカシを見たのは、チャクマクティン湖畔のキルギス族のキャンプに3日滞在した最後の日、それまでキャンプで見てきた男性たちが馬に乗ったとたん、急にカッコよく見えた日です。正直、それまでは女性は朝から乳しぼりやクルト作りで働いているのに、男性は・・・と感じていました。

 

↑↑ ワハーン回廊の絶景の中で行われたキルギスのブズカシ

 

前タリバン(現在のタリバン政権ではありません)が支配していた1996年から2001年は多くの娯楽が「不道徳」なものとして禁止され、ブズカシも禁止されていました。その後、ブズカシは復活し、いまでは各州ごとのトーナメントが行われ国を挙げての一大行事になっています。大都市のブズカシはスポンサーのロゴをつけた衣装でスタジアムで行われたりしますが、地方のブズカシは純粋に人々が楽しむ伝統行事です。

 

結婚式へ向かう人々。

 

結婚式の祝い料理のため、羊が解体されていました。

 

羊の肉を運ぶキルギスの少女達。

 

お祝いとブズカシのために駆けつけた男性。

 

ブズカシの前に、一同が祈りをささげ、供食。ミルクティーと揚げパンがふるまわれました。

 

ブズカシが始まるまで遊びに興じる子供たち。

 

ブズカシをやってみたいという、キルギスの少年。

 

祈りと供食が終わり、ようやくブズカシが始まります。

 

頭を落としたヤギ。使われたのはこの日に殺したヤギではなく、ブズカシ用に村で用意されている詰め物になっているヤギでした。

 

頭を落としたヤギが大地に投げ落とされ、争奪戦が始まります。

 

このヤギを地面から片手で引き上げて、持ちながら走る力と技が必要です。この間、鞭は口に銜えます。

 

ヤギの争奪戦。

 

お茶を飲みながら観戦する家族。

 

参加者も休憩、ミルクティーを。

 

休憩の後、再びブズカシへ。

 

ワハーン回廊の山並みの絶景の中繰り広げられる、キルギス族のブズカシです。

 

Image & Text : Mariko SAWADA

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DISCOVER AFGHANISTAN:ジャムのミナレット The Minaret of Jam

アフガニスタンにある2つの世界遺産のうちのひとつが「ジャムのミナレットと考古遺跡群 Minaret and Archaeological Remains of Jam」。ゴール州の山の中にあり、バーミヤンからもヘラートからもアクセスが容易でなく、悪路を延々と走らないと行けない場所にあります。

 

「ミナレットと考古遺跡群」と呼ばれていますが、実際にミナレットかどうかははっきりしていません。そこにはモスクはなく(もしかしたらオープンタイプのモスクがあったのかもしれません)、イスラム以前の異教の聖地の上に建てられた戦勝記念塔ではないか、など諸説があります。素敵な説のひとつに、「幻のフィローズコー(フィールーズクーフ)」説があります。ゴール朝には3つの主な都がありました。ガズニGhazni 、バーミヤン Bamiyan、フィローズコーFirozkohです。このうちフィローズコーのみ所在が明らかになっておらず、ミナレットのそばの遺跡群がその都跡なのではないかと推測されています。そういえば、ゴール州のチャグチャランChaghcharanは町の名を最近フィローズコーFirozkohに変え、バーミヤン側からジャムのミナレットを訪れる旅行者の玄関の町になっています。

 

ミナレットのそばの岩山に残る建築物の跡。見張り塔がはっきりとわかります。

ジャムのミナレットはアフガニスタン中央部の山岳地帯から興ったゴール朝がアフガンから北西インドまで支配した時代に作られました。1150年~1215年に栄えた王朝で12世紀の王、ギヤスウッディーンGhiyath al-Din Muhammad(1162年~1203年)とその弟ムイッズィディーンMu’izz ad-Din Muhammad (1203年~1206年)の時代が最盛期でした。王朝はこの兄弟の死後分裂し、1221年にはチンギスハーンの軍隊によりその都も滅ぼされました。その後、山奥に位置するため人目に触れることはありませんでしたが、1943年ヘラートの知事によりこの遺跡のことが公表され、1957年にアフガン歴史協会(Afghan Historical Society)とフランス考古学代表団(French Archaeological Delegation in Afghanistan)が訪問し、この貴重な遺跡が「発見」されました。

 

ジャムのミナレットは高さ65m、3層の構造になっている

この遺跡はハーリルード川とジャム川の合流地点にあることから土台が浸食され少し傾いています。ジャムのミナレットはゴール朝時代の残された唯一の建築物で中世のイスラム建築を知るために非常に重要であり、2002年に世界遺産に登録され「危機遺産」として遺跡の保護が叫ばれています。

ジャムのミナレットは3層構造になっていおり、各層は突き出たコーベルバルコニーで仕切られ最上部には6つのアーチの円形のアーケードがあります。

 

頂上部の6つのアーチのアーケード

37m付近までの第1層は型押しされた黄褐色のレンガのレリーフで精巧に装飾されています。

 

ミナレットの八角形の基礎部の直径は14.5mで高さは65m、先細りの塔で焼きレンガでできています。八角形の基壇に対応する8つの縦長のパネルは型押しのレンガで見事にされています。ブハラで発達したバラエティ豊かな幾何学模様、植物模様。素晴らしいのはアラビア語クーフィー体でコーラン第19章スーラ、マルヤム章の全文の碑文の帯が1つのパネルから別のパネルへと表現されているのです。

 

コーラン19章を現したクーフィー体のアラビア語がパネルを取り巻き延々と続きます。

最初のバルコニーのすぐ下に鮮やかなペルシャンブルーのクーフィー体の碑文、表面で唯一色のついた碑文があり、このミナレットの創建に関わった支配者の名が宣言されています。「サムの息子、ギャスウッディーン・モハマド、偉大なスルタン、王の中の王 Ghiyasuddin Mahammad ibn Sam, Sultan Magnificent! King of King!」この中に建築家の名前も「アリ、・・・の息子(・・・ Ali, son of ・・・)」と小さく刻まれています。

 

創健者ギヤスウッディーンの名を現す

インドのデリーにあるクトゥブ・ミナール Qutub Minarは1200年ごろデリー・スルタン朝時代に作られた、煉瓦で作られた世界一高いミナレット(72.5m)で、その建国者であるクトゥブッディーン・アイバクはゴール朝に仕えており、クトゥブ・ミナールはジャムのミナレットに影響され建設されたと言います。逆に、ガズナ朝時代のガズニに「ガズニのミナレット」があり、ジャムのミナレットはこれに影響されて建設されたようです。

 

ジャムのミナレットの影響を受けて建設されたというクトゥブミナ-ル(デリー)
ガズニのミナレットはジャムのミナレットの建築に影響を与えました

以前はミナレットの中のらせん状の階段を登ることができましたが、今はその出入り口は閉じられ入ることはできなくなっています。
長い悪路の旅の果てに見る「ジャムのミナレット」、その景色は圧巻で、遺跡ロマンたっぷりです。

 

Image & text : Mariko SAWADA

Reference :”An historical guide to Afghanistan ” Nancy Hatch Dupree

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DISCOVER AFGHANISTAN:ワハーン回廊、アフガンパミールのキルギス族

アフガニスタン、ワハーン回廊。秘境好きの旅人の間で“ラスト・フロンティア”と呼ばれてきたこの地も、チャクマクティン湖まで未舗装の自動車道が完成し、キルギス族の暮らすリトルパミールまで車で行けるようになりました。4日間のトレッキングが、4時間の4WDの旅になったのです。高原で暮らすキルギス族の暮らしにも変化が現れています。

ワハーン回廊

ワハーン回廊はアフガニスタンのバダフシャン州にあるタジキスタン、中国、パキスタンと接する細長い領土(回廊)。山岳高原地帯でアムダリヤの源流が発する場所であり、夏には豊かな水と草地が現れ「パミール」と飛ばれています。

この不思議な国境線は1873年にアフガニスタンとロシア帝国の間がパンジ川・パミール川沿いに国境がひかれ、1893年にアフガニスタンとイギリス領インド帝国(現在のパキスタン)の国境線(デュアランドライン)が引かれたことでできました。当時のロシアとイギリスの「グレートゲーム」の緩衝地帯となった場所です。

 

チャクマクティン湖 Chaqmaqtin Lake
キルギスの墓 Bozai Gumbaz アムダリヤ源流となるワフジール川とワハーン川の合流地点

ワハーン回廊のイシュカシムからサルハッドまではワヒ族が暮らし、そこから標高1,000mほど上がった「パミール」にはキルギス族が暮らしています。

チャクマクティン湖(Chaqmaqtin Lake)周辺は「リトルパミール」と呼ばれ、パミール川に沿ったタジキスタン国境からゾルクル湖にかけての高原は「ビッグパミール」と呼ばれています。いずれも標高4,000mを越える高原です。「リトルパミール」ではキルギス族は夏は湖の南で暮らし、冬は湖の北へと移動します。

 

チャクマクティン湖を背景に、キルギス族の家族

アフガンパミールのキルギス族

キルギス族はテュルク系の中央アジアに暮らす民族です。古くからアフガンパミールへ夏の放牧地を求めてやってくるキルギス族の小グループがいましたが、1917年のロシア革命時に多くのキルギス族がアフガンパミールへと移動してきました。そしてこの閉鎖的な地域で季節ごとの小移動を繰り返す生活を作り出しました。その後の1949年の中国の建国、1978年のアフガニスタンの共産主義政権の成立時に国境を越えた民族移動があり、現在は1,300~1,400人ほどのキルギス族がアフガンパミールに暮らしていると言われています。最近では2020年の新タリバン政権成立後にタリバンを恐れた人々が一時的にタジキスタン国境へと移動しましたが、自分たちの家畜・生活が守られると聞き戻ってきたそうです。

リトルパミールのアンダミン集落のシューラの責任者によると、2023年のリトルパミールには28の集落があり、従来はリトルパミールに500人、ビッグパミールに800人ほどが暮らしていたそうですが、3年ほど前からビッグパミールの方からリトルパミールに人が移動してきて、今はリトルパミールに1150人が暮らしているとのことでした。これは2020年の道路の完成が影響しているのかもしれません。

 

チャクマクティン湖周辺に暮らすキルギス族

厳しい高原での暮らし

イシュカシムからサルハッドへ移動の途中に、助けを求めるキルギスの男性に出会いました。男性によるとパミールで出産をした妻の体調が悪く、診療所でイシュカシムの病院へ行くように言われたとのことでした。「お金がない」、と。キルギス族の中にはパミールを訪れる商人と羊やヤギなどの家畜との交換で物を手に入れ、現金を持たない人もいます。「車に乗って病院へ行く」にはお金が必要なのです。この時はお金を渡し、この方の奥様の無事を祈ることしかできませんでした。

村でも子供を失った親、妻を失った男性にも出会いました。そして、老人の姿が少ないのです。厳しい環境に生きていることを実感しました。

 

キルギス族の少年

アフガンパミールのキルギス族は自給自足をしているわけではありません。家畜を育て乳製品を作り、パミールにやってくる商人<ワハーン回廊のワヒ族や南部から来るパシュトゥーン族>から必要なものを手に入れます。家畜や乳製品と交換したり、または売ることで生活に必要な商品や現金を手に入れています。羊との交換の場合は、今年の子羊を来年受け渡す約束で成立するケースも多々あります。

 

キルギス族の育てるヤギ・羊。羊はお尻に脂肪を蓄えたドンバ羊です
アフガンパミールのヤクは隣国パキスタンのヤクより大型です
乳製品<クルト>づくり

新タリバン政権(2020年)以前はパキスタンのチャプルソンと交易がありました。毎年500匹のヤク、夏の間に作った乳製品クルトが売られていきました。今は、カブールなどアフガニスタン南部から来る商人に羊・ヤギを売り、チャプルソンとの交易再開を心待ちにしていると言います。

キルギス族の女性の夏の暮らし

キルギス族は初夏に生まれた家畜の子の世話をし、乳を搾り乳製品を作り暮らしています。朝はそんなに早くなく、8~8時30分ごろに乳しぼりを開始します。その後は川で洗い物をしたりナンを焼いたり販売用の乳製品クルト作ったりします。ワハーン回廊や南部アフガニスタンから来る商人との交渉も楽しみの一つ。女性たちは競って派手な布を買い、行事の度に新しいものを身にまといます。商人たちも彼女たちの好みにあったものをしっかり把握しているようです。それに比べ、キルギスの男性は「古着」が中心で地味です。

 

ヤクの乳を搾る

美しすぎる、キルギス族の世界

リトルパミールへの旅ではキルギス族のある小グループの暮らす集落に4日滞在しました。私たちがユルトを訪問するだけでなく、キルギス族の子供や家族が我々のキャンプを訪問してくるようになりました。私たちの持っているものへの興味、食べているものへの興味。子供たちの中には好奇心旺盛で朝から晩まで私たちのキャンプにいる子もいれば、親と一緒にしか来れない子もいました。

朝のヤクの乳しぼり、洗濯、クルトづくり、ナン焼き、空いた時間に友人訪問。歩いて、そしてロバや馬に乗って一日が過ぎていきます。

 

クルト(乳製品)を作る傍らで髪を洗う女性。
髪を洗う女性
キルギス族の暮らすユルトの中
食器の片づけをする子供たち
キャンプ地を訪問する子供たち

パミールに20年以上やってきている商人は、「道路ができてから貧しくなった人たちがいる」「ヤクをたくさん売って車を買い、その車が故障して貧しくなった人がいた」と。車で来れるようになったことで以前より多くの商人が訪れるようになったのでしょう、現金でのやりとりが増え、貧しくなった人たちがいる一方、車も家畜も持つキルギスの家族は豊かになっているようにも見えました。

 

アフガンパミールのキルギス族は、想像していたよりずっと多くの経験をし、いろんな人と出会いながら暮らしていました。大変、魅力的で興味深いものでした。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

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カテゴリ:- ワハーン回廊 > ◇ 番外編 アフガニスタン
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