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パピチャ 未来へのランウェイ

c782031dfd52874a(C)2019 HIGH SEA PRODUCTION – THE INK CONNECTION – TAYDA FILM – SCOPE PICTURES – TRIBUS P FILMS – JOUR2FETE – CREAMINAL – CALESON – CADC

アルジェリア

パピチャ 未来へのランウェイ

 

Papicha

監督:ムニア・メドゥール
出演:リナ・クードリ、シリン・ブティラほか
日本公開:2020年

2021.9.22

アルジェリア「暗黒の10年」の渦中で、輝きを求めたファッション学生たち

90年代、アルジェリアの首都・アルジェ。内戦によるイスラム原理主義の台頭により、町中には女性のヒジャブ着用を強要するポスターがいたるところに貼りだされている。

ファッションデザイナーを夢みる大学生のネジュマは、ナイトクラブのトイレで自作のドレスを販売して自分の表現を追求している。現実に抗うネジュマは、ある悲劇的な出来事をきっかけに、自分たちの自由と未来をつかみ取るため、命がけともいえるファッションショーを、大学構内で開催することを決意する・・・

おそらく、日本の多くの観客にとって、本作は「初めて観たアルジェリア映画」となるのではないかと思います。最近デジタル・リマスターがなされた『アルジェの戦い』という1966年のイタリア映画があるにはあるのですが、アルジェリア人(ムニア・メドゥール監督は女性です)が監督した作品というのは、私は初めて観ました。文学でもフランツ・カフカの作品ぐらいでしか、「アルジェリア」という国名に遭遇したことはないかと思います。

1990年代アルジェリアの世界を旅できる本作ですが、先日ご紹介した隣国・モロッコの『モロッコ、彼女たちの朝』にそっくりな点があります。それは、カメラに映される場所がとても限られているという点です。主要なロケ地は、主人公たちの学校の構内・学生寮・ナイトクラブ、主人公の実家、車内、何箇所かの路上、ボーイフレンドの家ぐらいでしょうか。

もちろん、広い画角で撮ってしまうと1990年代らしからぬ物が映ってしまうという都合もあったかと思います。ですが、『モロッコ、彼女たちの朝』と同じく、女性の自由・権利が抑圧されている強さに合わせて、物語の中でカメラが行ける範囲も強く制限するという制作者の狙いを感じました。そして、物語の終盤に突如訪れる「ある事件」は、実際にあった出来事をモチーフにしています。その展開は正直なところ悲しいですが、本作の主題は「パピチャ」(アルジェリアのスラングで「愉快で魅力的で常識にとらわれない自由な女性」の意味)です。

権力を回避しやすい車の中で「アルジェリアに住み続けたい人なんていない」「アルジェリアという国は巨大な待合所のようで、皆が何かを待っている」など、若者たちは不満を噴出させます。しかし、主人公のネジュマだけは「アルジェリアに住み続けて、夢を追いたい」とまっすぐな瞳で語ります。

2020年代に「暗黒の10年」「テロルの10年」とも呼ばれるアルジェリアの過去を、なぜ振り返る必要があるのか? 現在、アフガニスタンでもこの作品で描かれているような混乱が巻き起こっていますが、1990年代を描きながらも、とても現代的・普遍的なメッセージを持った作品に仕上がっています。アルジェリアの歴史・文化を何も知らないでも観れるように配慮がされているので、ぜひ身構えずご覧になってみてください。

アルジェリア探訪

ティムガッドも訪問 望郷のアルジェに計3泊と世界遺産ムザブの谷。

くじらびと

8963294def009790(C)Bon Ishikawa

インドネシア

くじらびと

 

Lamafa

監督:石川梵
出演:ラマレラ村の人々
日本公開:2021年

2021.9.15

「村の命運は 鯨が決める」―自然優位な流れの中で生きるインドネシアの漁村民たち

インドネシアの小さな島にある人口1500人のラマレラ村。住民たちは互いの和を何よりも大切にし、自然の恵みに感謝の祈りを捧げ、言い伝えを守りながら生きている。

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その中で、「ラマファ」と呼ばれるクジラの銛打ち漁師たちは最も尊敬される存在だ。彼らは手造りの小さな舟と銛1本で、命を懸けて巨大なマッコウクジラやマンタに挑む。

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「クジラが10頭獲れれば 1年過ごすだけの稼ぎとなる」というサイクルの中で暮らすラマレラ村の人々の生き方は、利便性・経済発展を軸に生きる人々とは全く異なる、非論理と畏怖心を基盤にしている。それゆえに、村でどんなに悲しい出来事起きようとも、伝承の力を借りて一丸となって対処していく・・・

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本作の舞台となるラマレラ村は、以前「旅と映画」でご紹介した『世界でいちばん美しい村』(2015年ネパール大震災震源地の村のドキュメンタリー)を監督された石川梵さんが、ライフワークとして約30年前から通い続けてきた場所です。

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メインの撮影はコロナ前の2017年から2019年までですが、30年前のフッテージが不自然さゼロで引用されるシーンもあり、監督が長い時間をかけて被写体と築いてきた信頼関係が映画全編に浸透しています。

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話がそれるようですが、私はここ数年で(子どもを2人育てるようになってから)、食事の際の食器の並べ方・食べ物の食べ方に異様にこだわるようになりました。以前はあまりそういうことは気にしませんでしたし、むしろ小さい頃から高校ぐらいまで両親から食事マナーに関して怒られっぱなしでした。今は、5歳になっておしゃべりになってきた娘から聞かれる「何でそんなふうに食べなければいけないの?」「何でそう置かなきゃいけないの?」というような質問に答えを返す立場となりましたが、「食べ物は“物”じゃなくて“命”なんだから それを感じるためだよ」とか「肘つくな」「足組むな」「いただきます/ごちそうさま言った?」と、毎日のように言っています。

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幼稚園児には難しいかもしれないのですが、分からなくてもいいので、呪文のように言い聞かせています(いつかその意味を分かってくれるときが来るといいのですが。。。)

『くじらびと』に話を戻しますが、劇中で村人たちが語る「漁の最中きたない言葉は使ってはいけない」とか「漁の前日は喧嘩してはいけない」とか「銛を刺すときは狙う箇所だけ見て 決してクジラの目は見るな」という、都会人からすれば非論理的で因果関係も特定できなさそうな伝承のひとつひとつが、前述のように娘の教育に試行錯誤している私にとっては、とても響きました。

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思うに、「こうすれば こうなる」というような「確実さの担保」が、世の中の価値判断において重視されすぎているのです。私は「どうなるか皆目見当がつかない物事」に極力熱を注ぎたいと日々思っているのですが、映画の企画にしても、他分野の話を聞くにつけても、そういったスタンスというのは世の中であまりウェルカムではないようです。

「確実さ」のサイドにいたほうが楽なので、当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、私はどうしてもその流れの中に居続けることができません(おそらく秘境旅行・冒険旅行を好まれる西遊旅行のお客さまにはこの考えを理解して頂きやすいと、勝手ながら予想しています)。そういう意味で、ラマレラ村の人々が言い伝えを拠り所にして不確実さの中を力強く突き進んでいく様子を本作で観て、生活環境は全く違いますが、ある種の親近感を私は感じました。

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私は生まれ変わりでもしない限り、ラマレラ村の人々のような暮らし方をすることは無いと思います。しかし彼らのように、ギュッと身が詰まっている瑞々しい果実のような、規律・思想・言葉・作法を持った人物 になりたいという憧れがあります。これから折にふれて私の頭の中には、ラマレラ村の人々の表情や言葉の響きがフラッシュバックすることと思います。

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リーダーシップ論あり、教育・精神・家族論ありの『くじらびと』は、9/3(金)より新宿ピカデリー他にて全国公開中。詳細は公式ホームページをご確認ください。

コロンバス

f463c62b9b66b0bd(C)2016 BY JIN AND CASEY LLC ALL RIGHTS RESERVED

アメリカ

コロンバス

 

Columbus

監督:コゴナダ
出演:ジョン・チョウ、ヘイリー・ルー・リチャードソンほか
日本公開:2020年

2021.9.1

人の心身に寄り添う建築がある アメリカの地方都市・コロンバスでの邂逅

講演ツアー中に倒れた高名な建築学者の父を見舞うため、モダニズム建築の街として知られるアメリカ・インディアナ州のコロンバスを訪れたジンは、父親との確執から建築に対しても複雑な思いを抱いており、コロンバスに留まることに乗り気ではない。一方、地元の図書館で働く建築好きのケイシーは、薬物依存症である母親の看病のためコロンバスに留まり続けている。ふとしたことから出会った2人が建築をめぐって語り合う中で、次第にひかれあっていく。

建築は映画ととても親和性があります。私は福岡で建築ファウンデーションというNPOに入っているのですが、実際、映画監督や脚本家になろうと思っていたという建築家の方や、映画好きの建築家の方は多いです。

建築というのは、ただ地面に建って居住や利便性のために使われるのではなく、人の記憶や土地の風土と密接に関わってストーリーを紡ぐ生き物のような存在です。本作では、登場人物たちがコロンバスの町のあちらこちらを訪れる中で、建築が人に寄り添うようなシーンが物語の随所にあらわれます。「建築が人の体に効いている」というのが私は一番適切な表現だと思うのですが、建築が醸し出す空間が、人の感情作用に強く影響しているということです。

数万年前、人類は洞穴で暮らしていました。そこには、「洞穴絵画」(または「洞窟壁画」)と呼ばれる、旧石器時代の人の営みや動物を描いた天然のフレスコ画がいつしか描かれるようになりました。私はこの洞穴絵画が描かれた洞穴が「最初の建築」だと常々思っています(「最初のアート」は洞穴絵画のもっと前に記録に残らない形であったはずです)。

もちろん、もうすこし後になれば、ストーンヘンジやピラミッドなど今でも観覧可能なシンボリックでダイナミックな建築があります。しかしもっと前の太古の人類は、特に寒さや飢えをしのげるわけでもないのに、なぜ洞穴に絵を描いたのでしょうか? おそらく、狩猟等のサバイバルや自然との対峙の日々で疲れた心身に、絵を描いたり見たりすることは良く効いたのでしょう。そうした絵をいまだに私たちは、遺跡の一部として自分自身の目で確認でき、絵は彼らの記憶を現代人の心に甦らせてくれます。

本作の舞台となっているコロンバスのモダン建築は、旧石器時代の洞穴絵画のように主人公2人の喪失・不安を受け止め、内省のための時間や再生に向かわせるパワーを与えています。建築が「3人目の主人公」ともいえる珍しい作品で、空間・時間の見え方を変えてみてはいかがでしょうか。

緑の牢獄

5ad11c5d133af43d(C)2021 Moolin Films, Ltd. & Moolin Production, Co., Ltd.

日本(西表島)

緑の牢獄

 

Green Jail

監督:黄インイク
日本公開:2021年

2021.8.25

沖縄・西表島、熱帯林の奥深くに門を構える「記憶の牢獄」

沖縄県西表島に暮らす、90歳の橋間良子。彼女は植民地時代の台湾から養父とともにこの島に来て、人生の大半を島で過ごした。

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良子の養父は労働者の斡旋や管理をしていた炭鉱の親方で、彼女は今も炭鉱に後ろめたさを感じていた。

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炭鉱の暗い過去、島を出て音信不通となった子どもたち・・・
忘れることのできない数々の記憶が彼女の脳裏をよぎる。

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彼女はなぜ一人で島に残り続けるのか? 記録映像や歴史アーカイブ、再現ドラマなどが盛り込まれ、台湾から西表島に渡った一人の人間の過去と現在が描かれていく・・・

「西表島」と聞いて一般的に思い浮かべられるのは、おそらく自然・熱帯・イリオモテヤマネコといったようなイメージでしょう。私は八重山諸島(石垣島・竹富島・小浜島・黒島・新城島・西表島・由布島・鳩間島)には行ったことがないので、「一般」にかなり近いイメージを持っているのではないかと思います。

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西表島に住む人々が現在どのような暮らしをしているのについては、なかなか知る機会がありませんし、ましてや近代における台湾との関わりや炭鉱労働の歴史については、何かしらの巡り合わせがうまく働かないと、知るまでに至らないでしょう。

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本作を観ると、「自分の記憶」というのは自分の頭の中だけ存在するようなのですが、他者がいて初めて成立する(存在し得る)のだとわかります。

カメラがひたすら追う良子さんの頭の中にある記憶は、深く、暗い闇の底に沈んでいます。底の見えない井戸を何度も覗き込むように、物語は進んでいきます。

良子さんの言葉・過去の経験をインタビューや再現ドラマで引き出せば引き出すほど、良子さんの記憶と自分の距離が遠のき、「届かなさ」が増していくような心地がしました。これは、各シーンや再現ドラマの内容が伝わりにくいということではなく、良子さんの記憶が、あまりにも遠く奥底にあることが段々と浮き彫りになってくるということです。

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それに対して、良子さんから部屋を間借りをしているルイスさんという自分探し中のアメリカ人青年の言葉からは、彼がどんな人生を送ってきて、今何を考えているのかを、いくらかつかみ取ることができます。彼の記憶はまだ「届かない」というほどには奥底に沈んでいないからです。ルイスさんの存在によって、良子さんの記憶の「届かなさ」が、なおさら際立ちます。

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タイトルにある「牢獄」という言葉は、3つの意味があると私は思います。1つめは、炭鉱労働が盛んだった文明開化以降から第二次世界大戦にかけて、本当に牢獄(島から出られず 過酷な労働の日々を送る)のようだったという意味。

2つめは、日も入らないような地中深くにある独房のように、良子さんの心の奥底に記憶が沈んでしまっているという意味。

3つめは、「カギを開ける人」を暗示する意味合いです。撮影チームは、ありとあらゆるカギを使って、良子さんの「記憶の独房」の扉を開こうと試みています。しかし、どう頑張っても、扉は完全には開きません(ときどき思いもよらぬ瞬間に 半分ぐらい開くときもあります)。

データや情報にあふれた現代社会では、誰でも「記憶の牢獄」に閉じ込められてしまう可能性はあります。本作の雰囲気は若干重いのですが、私の心には観ているうちに「自分の記憶というのは大事に扱ってより良い形で残さなければいけないな」という前向きな気持ちが芽生えました(念のために補足しておきますと、本作は「西表島は牢獄のような島だ」というツラい内容の映画ではありませんので ご安心ください)。

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『緑の牢獄』は2021年4月より全国順次上映中。詳細は公式ホームページをご確認ください。

8島巡る!自然と民俗の八重山諸島大周遊 8日間

石垣島から黒島、新城島、波照間島、西表島、小浜島、竹富島、そして与那国島へ。8日間で八重山諸島8島を周遊し、離島に残る沖縄の原風景とともに、亜熱帯の自然と歴史・文化にふれます。。

テーラー 人生の仕立て屋

74c1661df18b217d(C)2020 Argonauts S.A. Elemag Pictures Made in Germany Iota Production ERT S.A.

ギリシャ

テーラー 人生の仕立て屋

 

Tailor

監督: ソニア・リザ・ケンターマン
出演:ディミトリ・イメロス、タミラ・クリエヴァほか
日本公開:2021年

2021.8.4

アテネの仕立て屋が真逆の人生見出す、「ニュー・ノーマル」発見の旅

中年のスーツ職人・ニコスは、アテネで36年間高級スーツの仕立て屋を父と営んできた。しかし、ギリシャを覆う不況はニコスの店にも影響し、店は銀行に差し押さえられ、ショックでニコスの父は倒れてしまう。

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途方に暮れたニコスは、手作り屋台で、移動式の仕立て屋を始める。しかし、ストリートマーケットでは高級スーツや仕立ての技術はまったくお金にならない。

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そんなある日、道端を歩くニコスを、「ウェディングドレスの注文がある」という女性が呼び止める。紳士服一筋だったニコスは躊躇しつつも、オーダーを受けて人生の新たな一歩を踏み出す。

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私は2008年にギリシャに一度訪れたことがあります。ほぼ何も下調べずにアテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス空港というギリシャ皇帝のような名前(20世紀初頭の政治家だそうです)の空港に降り立ち、古代ギリシャ帝国の繁栄のイメージから豪華絢爛な都市を勝手に想像しつつホテルに向かう道すがら、落書きだらけの地下鉄(本作劇中にも映っています)に乗りながら、脳内のアテネのイメージがものすごい速度で書き換えられていったことが強く記憶に残っています。

当然、ソクラテス・プラトン・アリストテレスらが生きた「黄金時代」は2000年以上前ですし、神話の世界が息づいているのはどちらかというとクレタ・サントリーニ・ミコノスなどの島なので、アテネとしても「そんな栄華や神話のイメージを持たれても困る」と思ったかもしれません。

いわゆる「ギリシャ危機」は2009年に起きましたが、私が訪れた2008年にも、ツーリストが感知できるぐらいはっきりとした兆候が既にありました。なんとなく「状況が悪い」という雰囲気が都市に蔓延していて、「失業者が増加していてこのままではマズい」ということを地元の人が話していました。

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『テーラー 人生の仕立て屋』の話に戻りますが、本作は「ギリシャ危機」が過去に起こったことが大前提にあります。おそらく、「経済危機の嵐が吹きに吹き荒れて、分厚い雨雲からようやく陽光が差し始めた頃」という設定なのだと思います。

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主人公のニコスは、ある種の「ニュー・ノーマル」(コロナ以前に制作された映画ですが、多くの映画と同様に本作もコロナ後に意図せざる意味合いを持つことになった作品の一つだと思います)を強いられます。それは、彼が生業にしてきた「高級スーツの仕立て」という仕事の価値が、経済危機によって根こそぎ吹き飛ばされてしまったためです。

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それでもなんとか生きようと奔走するニコスは、自分の業務領域外である「ウェディングドレスの仕立て」のオーダーを受けます。最初は「そんなのは自分の仕事ではない」と思いつつも、背に腹は代えられないと思い直し、ニコスは仕事を受けます。

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このシーンから、昨年有田焼の職人さんを取材して「頼まれ仕事」に関して話してもらったことを、私は思い出しました。そのとき聞いたのは「自分が本当にやりたかったものをつくってみると、首をかしげられる。しかし、思いもよらぬ頼まれ仕事を受けて模索しながらつくったとき、想像以上の好評を得る。自分というのは自分が一番知らなく、他者のなかにこそ自分という存在はあるのかもしれない」ということだったのですが、これはまさにニコスの「進化」を解説するのにピッタリの言葉だと思いながら、本作を鑑賞していました(ポスターのキャッチコピーにもある「人生は測れないから面白い」というのとほぼ同義だと思います)

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仕立て屋・ニコスの「再生の旅」を描いた『テーラー 人生の仕立て屋』は9/3(金)より新宿ピカデリー、角川シネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開。その他詳細は公式ホームページよりご確認ください。

ギリシャ古代遺跡探訪
ギリシャの9つの世界遺産を巡る

歴史遺産と複合遺産を合わせて、ギリシャに登録された9つの世界遺産を巡ります。古代ギリシャ、マケドニア王国などの栄華を物語る遺跡群のほか、天に近づくために切り立った奇岩上に建てられたメテオラの修道院群など、ギリシャに残る歴史遺産の数々を訪問します。

明日に向かって笑え!

『明日に向かって笑え!』ポスタービジュアル(c)2019 CAPITAL INTELECTUAL S.A./KENYA FILMS/MOD Pictures S.L.

アルゼンチン

明日に向かって笑え!

 

La Odisea de los Giles

監督:セバスティアン・ボレンステイン
出演: リカルド・ダリン、ルイス・ブランドーニほか
日本公開:2021年

2021.7.28

2000年代初頭・アルゼンチン金融危機のほろ苦くも忘れがたい記憶

2001年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス近郊の田舎町。元サッカー選手のフェルミンら住民たちは放置されていた農業施設を復活させるために、資金集めに奔走する。

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銀行の融資を取り付けるために手持ちの米ドルを全て預けた翌日、金融危機で預金が凍結されてしまう。さらに、状況を悪用した銀行と弁護士に預金を騙し取られて一文無しになったフェルミンたちは、奪われた夢と財産を取り戻すべく、破天荒な作戦を練りはじめる・・・

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私は2007年から2008年にかけてイギリスに留学していたのですが、生まれてはじめて南米出身の人と何人か知り合うことになりました。あるとき、コロンビア人の友人が「日本や欧米はとても安全だよ、なぜなら銀行に騙されることがないから」とサラッと言うので「銀行に騙されるなんていうことがあるのか」と驚きました。本作を観ながら最初に思い出したのは、その言葉です。

もちろんコロンビアと本作の舞台・アルゼンチンは、南米大陸の北端と南端でものすごく距離が離れていることは承知しています。正直、地球の裏側にある南米大陸の国々は、サッカー・コーヒー・ワイン・映画・文学など何かしら切り口がないと混同せざるをえません。逆に、南米大陸の人々には日本と韓国・中国あたりの文化・風習が混同して見えているでしょう。

それだけ距離が離れている国で起きている金融危機をテーマにした映画が、日本人に向けて上映されて成立する秘訣は、本作の持つコメディ要素です。

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作品を通して笑いを生むには、種々様々な前提を観客と共有しておく必要があります。本作で最も入念に表現されている前提は、アルゼンチンの大統領に2度選出されたファン・ペロン元大統領の存在であると思いました。軍人を経て1946年から1955年に大統領に就任したペロン(1970年代の2度目の就任期間は短命に終わりました)は、労働組合の保護や労働者の賃上げに力を入れました。

もちろん、ペロンは「独裁者」と呼ばれることもあり賛否両論で、本作は彼の功績を称賛する内容ではありません。しかし、それでもペロンが重要なモチーフであると感じる理由は、本作で描かれている2001年からの苦しい数年間というのは、1946〜1955年のペロン体制下のアルゼンチンを直接経験しなかった人々にとって、「復古」とでも言えるような不思議なエナジーが肌で感じられるひとときだったのではないかと思ったからです。

『明日に向かって笑え!』メイン

主演を務めるアルゼンチンの国民的俳優リカルド・ダリンは1957年生まれで本作のプロデューサーとしても名を連ねています(実際の息子さんが息子役を演じています)。監督・脚本を務めるセバスティアン・ボレンステインは1964年生まれです。おそらく1950年代後半から1960年代前半生まれの「アフター・ペロン」とでも言える世代にとって、自分が生まれる前の歴史が地中からシューッと蒸気のように湧き出てきたのが2000年代初頭だったのでしょう。私は、物語の本筋であるコメディの根底に、そういった強い憧憬の温度を感じました。

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旅先で偶然知り合った人から「あの頃は・・・」と懐かしい記憶を思いがけず聞いたような心地になる『明日に向かって笑え!』は、8/6(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ他全国順次公開。その他詳細は公式ホームページをご確認ください。

大地と白い雲

c22748c9a7c94242(C)2019 Authrule (Shanghai) Digital Media Co.,Ltd, Youth Film Studio All Rights Reserved.

中国(内モンゴル)

大地と白い雲

 

Chaogtu with Sarula

監督:ワン・ルイ
出演:ジリムトゥ、タナ、ゲリルナスン ほか
日本公開:2021年

2021.7.7

モンゴルの果てしない大地と空―その「果て」が見えてしまった若い夫婦の選択

内モンゴルの草原に、ある若い夫婦が暮らしている。夫のチョクトは馬ではなく車を乗り回すような都会での生活に憧れているが、妻のサロールは昔ながらの暮らしに満足している。

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しかし、そんな2人の気持ちは、大小さまざまな出来事が要因で段々とすれ違うようになっていく・・・

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本作は大きく分けて2つの場、草原(雪に覆われているときもあるので、タイトルにある通り「大地」が妥当かもしれません)と都会で物語が展開されます。

近代化・グローバル資本主義の潮流の中で、伝統と革新の両方を知っている若い夫婦がどのような未来を選択をしていくかというのが物語の大枠ですが、序盤の草原のシーンを観ながら、私は森のことを考えていました。

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映画の中に森は一切出てこないのですが、タイを代表する映画監督 アピチャッポン・ウィーラセタクン(作品の多くを森の中で撮っている監督)に関する評論を思い出していたからです。誰がどこに書いた評論かは忘れてしまったのですが、それはだいたいこのような内容でした。

森というのは、どっちの方向を向いても森だ。方角・方向の表現は限られ、画としてはやや単調になってしまう。しかし、森のカットが積み重なっていくと「森が森である」という事実は薄らいでくる。そして、唯一無二の「場」ができあがる。アピチャッポン・ウィーラセタクンの映画は、そのようなキャンバス上に描かれている。

なぜこの評論を思い出していたかというと、物語のある時点で、雄大なはずのモンゴルの空が窮屈に思えてきたからです。評論の言葉を借りると、草原・空のカットが積み重なるにつれて「草原が草原で、空が空である」という事実が薄らいでくる感覚を味わったということです。

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これは、都会に憧れているチョクトの感覚に近いのではと思います。実際、物語がどちらかというとサロール側に傾いているときは、大地や空は広く感じました。

ちょうどその「狭さ」の感覚がピークに達しようかという頃に、チョクトとサロールは都会へと繰り出します。チョクトとサロールは別行動になり、チョクトは男友達とつるんでカラオケに行くのですが、そこで選曲されるのは大草原の雄大さがテーマの定番曲らしきナンバーで、大合唱となります。

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カラオケという閉鎖的・都会的空間と行為の団体性を以って、大草原(大地)と都会のどちらにも自身の所在を見出せないという葛藤は、チョクトだけではなく彼の世代全体のものなのだということが映像的に表現されているのですが、物語の本筋とは別に、このような社会的背景がしっかりと設定されている点が本作の見所のひとつだと思います。

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秘境を旅するにあたって、その旅先の人々が「伝統と革新」や「ローカルとグローバル」の狭間に立たされていることは、もはや前提条件といってもよいでしょう。

まるでVR作品かのように、秘境・モンゴルの若者たちが立っている「現在地」を体験させてくれる『大地と白い雲』は、8/21(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー。詳細は公式サイトからご確認ください。

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名もなき生涯

9086a7d0352e25a3(C)2019 Twentieth Century Fox

オーストリア

名もなき生涯

 

A Hidden Life

監督: テレンス・マリック
出演:アウグスト・ディール、バレリー・パフナーほか
日本公開:2020年

2021.6.16

大自然の中で育った頑固者フランツ・イェーガーシュテッターの「良心的兵役拒否」

第2次世界大戦時のオーストリアで、ヒトラーへの忠誠を拒んで信念を貫く「良心的兵役拒否」をしたことで知られているフランツ・イェーガーシュテッターの人生に基づいた作品。
ドイツの国境と接しているザンクト・ラーデグントという美しい山村で、フランツは妻・フランチスカと3人の娘と暮らしていた。やがて、フランツは激化する戦争へと狩り出されるが、ヒトラーへの忠誠を頑なに拒んだことで収監されてしまう。裁判を待つフランツをフランチスカは手紙で励ますが、彼女自身もまた、裏切り者の妻として村人たちから酷い仕打ちを受ける・・・

本作の撮影は、フランツ・イェーガーシュテッターが暮らしたオーストリアのザンクト・ラーデグントや、係争地の歴史を持つイタリア・南チロルで行われています。
監督はテレンス・マリック。マジックアワー時間帯の撮影ににこだわりぬいた『天国の日々』、太平洋戦争のガダルカナル戦を描いた『シン・レッド・ライン』、白人入植者とネイティブ・アメリカンの戦いを描いた『ニュー・ワールド』、1900年代後半のアメリカ暮らす家族の一世代分をまるごと描いた『ツリー・オブ・ライフ』、宇宙と生命の神秘を描いた『ボヤージュ・オブ・タイム』など、いままでの多様な作品群で得た叡智と洞察が結集したような作品です。

本作の大きな見所のひとつは、ザンクト・ラーデグントや南チロルの自然や景観です。景観というよりも、景観のなかに流れる「瞬間」や「時」と言うべきかもしれません。光は原則的に自然光しか使われておらず、計算して準備を整えたうえで、その場でキャッチした光と一緒に各シーンが展開されています。そのため、1940年代の話ではあるのですが、まるで目の前で出来事が起こっているかのような錯覚に陥ります。風や草のそよぎも、扇風機やCGは使われていないかと思うのですが、ストーリー本筋よりもその場その場の臨場感が映画の流れを掴んでいます(テレンス・マリックの他作品も同様の独特なリズムの作品が多いです)。

そうした美しさがゆえに、ロケ地の係争地としての苦難の歴史が際立ちます。特に南チロル(イタリア)は、世界史において様々な争いの舞台になってきました。調べたところ、南チロルを巡る議論はシリア紛争後に再浮上してきて、オーストリア・イタリアの国境・ブレンナー峠の閉鎖が主張されたり、ドイツ語圏のオーストリアへの返還も検討されているそうです。

暗めの話が多くなりましたが、教会の神父さえも神への忠誠心を脇に置かざるを得なかった状況下で、頑なに自分の信念を貫いた農夫フランツ・イェーガーシュテッターの信念がオーストリア・イタリアの山々によって育まれたことは、環境・開発・人権など依然多くの倫理的問題を抱えた現代人への示唆を多く含んでいると思います。また、もしこの地に旅することができたならば、のびのびした大自然の中で、燻し銀のように自分の心を熟成させることができるに違いないと憧れさせてくれます。

オーストリア・チロルを歩く
花咲くインスブルック・イタリア国境トレイルを行く

オーストリア・チロルの中でも旅行者に知られていないインスブルック南部のトレイルに特化した企画。他のトレッカーにほとんど出会わない静かなアルプスの田舎の山歩きを満喫できます。

わたしはダフネ

190c7237c229bf3d(C)2019, Vivo film – tutti i diritti riservati

イタリア

わたしはダフネ

 

Dafne

監督:フェデリコ・ボンディ
出演: カロリーナ・ラスパンティ、アントニオ・ピオヴァネッリほか
日本公開:2021年

2021.6.2

母亡き後も人生は続く ― イタリア人父娘の、切なくも万事快調な巡礼の旅

いつも明るくまわりの人々に慕われているなダウン症のイタリア人女性・ダフネは、都市部にあるスーパーで働きながら両親と平穏に暮らしていた。しかし、母・マリアが亡くなったことで生活が一変。年老いた父ルイジは自分が死んだら娘がひとり残されてしまうという不安にかられ、ふさぎ込んでしまう。そんな父にダフネは、一緒にトスカーナ地方にある母の故郷を訪ねてみようと提案する。その旅は、母であり妻であった愛する人の死を乗り越え、父と娘が互いを理解しあうための、かけがえのない時間になっていく・・・

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コロナ以前に制作された映画に意図せずしてコロナ以降の意味合いが生まれた例をいくつか知っていますが、本作で描かれている「”なんてことなさ”の尊さ」はその最たる例だと思います。

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ダウン症という設定の主人公・ダフネを演じるカロリーナは、自身もダウン症で、監督は脚本を一切カロリーナに見せないまま撮影を進めたそうです。シナリオのあるフィクションでありつつも日常をありのままに記録したドキュメンタリーのようなタッチで、静かな湖面に吹くそよ風のようなストーリーが観客を包み込みます。

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ダフネはまるで子どものように「あれは何?」「これは何?」「なんで?」と身の回りの物事に興味を持ち、父・ルイジに尋ねます。煩わしさを感じながら接していたルイジが、だんだんとダフネのペースにまきこまれていく様子は、コロナ禍以降の観客にとっては「身の回りのありふれた物事の素晴らしさに、もっと目を向けてみたら?」という投げかけにも思えることでしょう。

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「わたしはダフネ」sub2_s

私が好きなシーンは、ダフネが旅の途中で出会う若き森林警備員との別れのシーンです。彼らは爽やかに「チャオ、アリベデルチ、ボン・ビアッジョ」(「じゃ、さよなら、良い旅を」というような感じかと思います)という3つの言葉でダフネたちを見守ります。この瞬間は、ダフネの陽気さに魅入られて、挨拶の言葉を思わず3つも重ねてしまったかのような表情と声のトーンが記録されています。

「自分がした旅でもこんなふうに見送られたことがあったなぁ」と、一瞬の仕草とセリフでしたが懐かしい気持ちにさせられるとともに、自分が見送られるときは決して見ることができない、見送る側の表情をじっくりと見させてくれました。

人とは違うところに気が付き思いもよらぬ心の引き出しを開けるダフネから、幸福のパワーをもらえる『わたしはダフネ』は、7/3(土)より岩波ホールほか全国順次公開。その他詳細は公式ホームページをご確認ください。

ハニーランド 永遠の谷

0fb58262ff6fbfe6(C)2019, Trice Films & Apollo Media

北マケドニア

ハニーランド 永遠の谷

 

Honeyland

監督: リューボ・ステファノフ、タマラ・コテフスカ
日本公開:2020年

2021.5.26

北マケドニアの養蜂家の小さな小さな生活圏と、大きな大きなグローバル化の波

北マケドニアの首都・スコピエから20キロほど離れた、電気も水道もない谷で、目が不自由で寝たきりの老母と暮らす自然養蜂家の女性は、持続可能な生活と自然を守るため「半分は自分に、半分は蜂に」を信条に、養蜂を続けていた。3年の歳月をかけた撮影を通して、彼女が暮らす谷に突然やってきた見知らぬ家族や子どもたちとの交流、病気や自然破壊など、人間と自然の存在の美しさや希望が描き出されていく・・・

北マケドニアの映画はフィクション作品の『ペトルーニャに祝福を』を紹介したばかりですが、この『ハニーランド 永遠の谷』はドキュメンタリー作品です。

どこの国のどんな場所に主人公の女性が暮らしているかについての説明的なナレーションや図示は一切なく、彼女の行動を以って所在や都市との距離感が表現されていきます。

手間ひまと人生をかけて採取された(もちろん無添加の)ハチミツは、市場経済というフィルターを通すと、一瓶せいぜい数十ユーロの「商品」として扱われます。マーケットの気さくな商人たちは彼女の老いた母親を心配するなど、まだ市場経済に人情を吸い取られていないことも描かれます。彼女は「オシャレしたいときもある」と髪染めを買います。こうした行動や、やりとりの総体によって、彼女の存在の輪郭が描きされていきます。

映画自体は86分と、劇場公開映画としては短めな部類かと思います。撮影期間は3年、フッテージの累計時間は400時間(ずっと見続けても17日弱)だそうなので、86分の中にかなりな時間の流れが凝縮されています。そのため、タイムワープしているかのような錯覚を鑑賞中に感じます。おそらくかなりの時間を被写体と一緒に過ごしているため、カメラはさながら透明人間のように、女性の生活を見守ります。

女性はハチの巣からハチミツを採取しているわけですが、制作クルーもまた、彼女の巣からハチミツを採取するように、「感情の結晶」ともいえる瞬間を次々と映し出していきます。「知られざる北マケドニアの、知られざる人生」とストーリーを眺めることもできますが、彼女にとってのハチミツのような存在が誰にとってもあるのかもしれないという意味で、「この映画で描かれている人生は、自分の人生のことかもしれない」とハッとさせられる瞬間があります。国内であれ海外であれ、旅の途中に車や電車で通り過ぎる一軒一軒の家やすれ違う一人ひとりに、人生というドラマが流れていることを想起させてくれる一作です。

古代マケドニアと南バルカンの自然

マケドニア、ギリシャ、ブルガリアの3ヶ国を巡り、各地で数々の歴史遺産を見学。かつてアジアまでの東方遠征を行い歴史に燦然とその名を残したマケドニア王・アレキサンダー大王を輩出したペラ(ギリシャ)や、その父王で強国マケドニアの礎を築いたフィリッポス2世の墳墓が発見されたヴェルギナなど、古代マケドニアに残る史跡を訪ねます。