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柳川

日本(柳川)

柳川

 

漫⾧的告白

監督:チャン・リュル
出演:ニー・ニー、チャン・ルーイー、シン・バイチンほか
日本公開:2022年

2022.12.7

柳川の運河を行くような、思い出と記憶の旅

北京に住む中年男性・ドンは自分が不治の病に侵されていることを知り、長年疎遠になっていた兄・チュンを柳川への旅へと誘う。柳川は北京語で「リウチュアン」と読み、それは2人が青春時代に愛した女性「柳川(リウ・チュアン)」の名前と同じだった。

20年前、チュンの恋人だったチュアンは誰にも理由を告げぬまま突然姿を消し、現在は柳川で暮らしているという情報を頼りに、兄弟は柳川を訪れる。チュアンと再会を果たすと、過去・現在・未来が交錯したような不思議な時間が、緩やかに流れる柳川の運河の傍らで流れ始める・・・

「東洋のベニス」とよばれる地が国内外に何箇所かありますが、その一つが福岡県でも佐賀・熊本寄りにある柳川です。町中に運河が走っている場所がそのように呼ばれやすいようで、日本では他に倉敷、アジアではバングラデシュのダッカやインドのシュリーナガルなどが「東洋のベニス」の異名を持っています。柳川は運河の川下りや、雛飾り、うなぎなどが有名で、海苔で有名な有明海にも近いです。運河は当然出てきますし、雛飾りもしっかり出てくるのですが、オノ・ヨーコさんの実家があるという通なポイントもストーリーに活かされています。

中国出身の朝鮮族三世で韓国在住のチャン・リュル監督は、場所の名前そのままな映画シリーズを撮り続けてきました。今回の日本公開で同時上映される『福岡』『群山』や、『慶州』などです。

僭越ながら、チャン・リュル監督が「場」を眺める視点は、自分にとても似ているなと新作を見る度に思います。一言で言うならば「詩的な認識」ということになるかと思います。

たとえば詩的なアプローチだと、「運河」という場所があった場合に、ただ運河として見るわけでなく、「流れる」「ゆるやか」「一時として同じではない」「小舟」「船頭さんの声」「舟のきしみ」など、言葉によって場所が細分化していきます。そして、その場所に一見関係がないような物事や人(もしくは逆に如実に深く関係している物事や人)を受け止める器のようなものをつくっていきます。その「発見」のプロセスの積み重ねが、「詩的な映画作り」になっていきます。

そのため、「何でこの人がここに?」とか「何でここでそういうことが?」という出来事が本作では多く、現実的でリアルなシーンというのは少ないです。そのあたかも夢のようなひとときが本作の魅力です。ちなみに余談ですが、予告編は僕が編集させていただきました。

『柳川』は12/30(金)より新宿武蔵野館ほか全国順次上映(福岡ではKBCシネマにて12/16より先行上映)。そのほか詳細は公式HPをご確認ください。

九州テキスタイル紀行
~奄美・鍋島・久留米の手仕事を訪ねて~

佐賀・福岡・鹿児島を訪問。佐賀県では、300年の歴史がある「鍋島緞通」、木版摺りと型染めを組み合わせた和更紗「木版摺更紗」、200年の歴史のある「佐賀錦」を見学。福岡県では、日本三大絣の一つ「久留米絣」、そして鹿児島では奄美大島へ渡り「本場奄美大島紬」を見学します。

バリー・リンドン

©1975/Renewed ©2003 Warner Bros.Entertainment Inc.

イギリス・アイルランド

バリー・リンドン

 

Barry Lyndon

監督:スタンリー・キューブリック
出演:ライアン・オニール、マリサ・ベレンソンほか
日本公開:1976年

2022.11.9

数十世代経ても変わらない田園風景と、人生の栄枯盛衰

18世紀アイルランドのに生きる平民の若者バリー・リンドンは、貴族になるための唯一かつ全てと思われる方法を実行していく。野心に燃える若者の半生をもって栄枯盛衰の様相を、2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『フルメタル・ジャケット』等で有名な巨匠スタンリー・キューブリックが描いた作品。

『ハリー・ポッター』『ピーターラビット』など、イギリスのコッツウォルズ・湖水地方をはじめとした田園風景を舞台にしたり活用したりした魅力的な作品は数多くあります。

しかし、心安らぐような田園風景を、本作ほど儚く無情な形でロケ地活用した例はないのではと思います。

西遊旅行のウォーキングツアーがあるコッツウォルズ地方の範囲内では、世界遺産のブレナム宮殿(コッツウォルズの東端の方)。近圏ではもう少し南のウィルトシャー州(ストーン・ヘンジで有名なソールズベリー)で多くのロケがされています。

僕はコッツウォルズに程近いバースという、町全体が世界遺産の場所に大学のとき留学していて、いわゆる「イギリスの田園風景」をよく見ていました。そして、本作を観たのは偶然にも留学する直前でした。

「これはジョージ三世の治世の時代に その世を生き争った者たちの物語である。美しい者も、醜い者も、富める者も、貧しい者も、今は皆等しくあの世だ」

大都会ロンドンからバースに向かう途中で、本作に出てくるこのような痛烈なメッセージと、フランツ・シューベルトの音楽を頭に思い浮かべていたのを今でもよく覚えています。当時20歳過ぎにしてはちょっと暗すぎるかもしれませんが、でも「諸行無常」の響きを時々でも思い出したほうが、その分今が輝くということもあると思います。

そんなことを最初に思い浮かべながら留学生活をはじめて、なぜかイギリスにいるのにインド哲学を勉強して、それもあって西遊旅行に入って、その経験もあって今国内外で映画を撮れていて・・・というような縁の連鎖が、時折この作品を見返す度に頭に思い浮かびます。

ちなみに僕はコッツウォルズのフットパスを歩いている最中に、野生のハリネズミ(イギリスではとても縁起が良いそうです)を見たことがあります。ぜひ現地に行かれた際には、特に夕方頃、足元をよく見ながら歩いてみてください。

イギリスの田舎道
コッツウォルズフットパスを歩く

コッツウォルズはイングランドでも屈指の美しさを誇る緑豊かな丘陵地帯で、白い羊たちが草を食む牧歌的な田園地帯、中世からの古い町並みや、かわいい村々が広がるとても美しい地域です。人々が自然とともにのどかな暮らしを営むコッツウォルズの村。その村々をつなぐフットパスを歩きながら、コッツウォルズの自然や文化などの魅力を感じることができるトレイルです。

サハラのカフェのマリカ

(C)143 rue du desert Hassen Ferhani Centrale Electrique -Allers Retours Films

アルジェリア

サハラのカフェのマリカ

 

143 rue du desert

監督:ハッセン・フェルハーニ
出演:マリカほか
日本公開:2022年

2022.8.24

サハラ砂漠を縦断する道路沿いのカフェ その一点からアルジェリアを眺める

アルジェリアのサハラ砂漠のど真ん中に、高齢の女主人マリカがひとりで切り盛りするカフェがある。

そこにはトラック運転手や旅人、ヨーロッパのバックパッカーなど、通りすがりの人たちが訪れる。時には即興の演奏会場になる。

マリカはそんな彼らと他愛のない会話を交わしながら、グローバル資本主義の脅威を感じつつも、カフェという場を日々を保ちつづけている。

人々はコーヒーを飲みながら、国について、人生について、家族についてなど、様々なことを初対面のマリカに打ち明ける。客の中には、マリカ自身の人生を案じる者も出てきて・・・

アルジェリアの映画を紹介するのは本作で2本目です(1本目は『パピチャ 未来へのランウェイ』という1990年代の内戦時代における女性たちを描いた作品でした)。本作は、マリカのカフェという一箇所のみから現代アルジェリアを切り取った作品です。

『パピチャ 未来へのランウェイ』と同じく、本作はアルジェリアにおける女性の生き方を描く映画でもあると思います。このカフェが好きなんだと言われたり色々と未来につながる持ちかけや提案をされたりしても「私は特に何もできないし、ただこうして砂漠を眺られてればいいのさ」といった論調です。

そんなマリカの生活を、カメラはじっくり肯定も否定もせず見つめます。

魅力的な被写体に出会った瞬間、映画の作り手はどのように振る舞うものだろうかと本作を見て考えました。ハッセン・フェルハーニ監督は偶然僕と同じ1986年生まれのようですが、マリカのカフェに入った瞬間、マリカに出会った瞬間、どのような印象を持ったのだろうとあれこれ想像しました。というのも、本作のリズムとサウンドスケープ(音風景)は、その第一印象に決定付けられているように思えるからです。

初見の瞬間に電撃が走ったように、体が動かなくなる(つまり「この人を撮りたい」と思う)こともあるでしょう。最初は気付かず、段々と被写体としての魅力を発見していくこともあるでしょう。

基本的にはネコのの暮らしのようにのんびりゆったりとしたペースで物語は進んでいくのですが、マリカの店を包むサウンドスケープがとにかく印象的です(特に劇場ではそれが顕著でしょう)。砂漠の静寂の中にポツンと佇むカフェなのではなく、国道沿いで「ゴーーーーッ」と大ホールか大聖堂のような残響音によって全方位に引き伸ばされているかのようなカフェとして、マリカの根城はひたすら描かれています。

おそらくそれこそが、監督のマリカとカフェに対するファーストインプレッションだったのではないかと僕は予想しています。

『サハラのカフェのマリカ』は8/26(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次上映。そのほか詳細は公式HPをご確認ください。

アルジェリア探訪

ティムガッドも訪問 望郷のアルジェに計3泊と世界遺産ムザブの谷。

天国にちがいない

(C)2019 RECTANGLE PRODUCTIONS – PALLAS FILM – POSSIBLES MEDIA II – ZEYNO FILM – ZDF – TURKISH RADIO TELEVISION CORPORATION

イスラエル

天国にちがいない

 

It Must Be Heaven

監督:エリア・スレイマン
出演:エリア・スレイマンほか
日本公開:2021年

2022.7.26

イスラエル版『ミスター・ビーン』―ナザレ発 映画企画売り込み世界旅行

パレスチナにルーツがあるイスラエル・ナザレ在住のスレイマン監督は新作映画の企画を売り込むため、ナザレからパリ、ニューヨークへと旅に出る。

パリではおしゃれな人々やルーブル美術館、ビクトール広場、ノートルダム聖堂などの美しい街並みに見ほれ、ニューヨークでは映画学校やアラブ・フォーラムに登壇者として招かれる。

行く先々で故郷とは全く違う世界を目の当たりにするスレイマン監督は思いがけず故郷との類似点を発見し、それが自身の想像とまざりあい、摩訶不思議な世界観が展開されていく。

以前にご紹介した、イスラエル・パレスチナ間の問題を題材にした『テルアビブ・オン・ファイア』はなかなか変わったコメディ映画でしたが、本作もかなりユニークかつシュールなコメディです。

イスラエル版『ミスター・ビーン』とでもいいましょうか、主人公のエリア・スレイマン監督はほぼ一言も喋りません。そして、イエスが生まれ育ったことで有名な町・ナザレ、パリ、ニューヨークをじっと観察していきます。

なのですが、町で展開されていく出来事や、そもそも景観そのものがおかしくなってきます。たとえば、ルーブル美術館にしてもセーヌ川沿いにしても全く人の気配がなく、不自然なことこの上ありません。

観光客でにぎわっているはずのエリア・バスティーユにあるフランス銀行前では、なぜか戦車が通過します。

ニューヨークに渡れば、スマホを持つかのようなカジュアルさで自動小銃を手にした人々がスーパーマーケットで買い物をしていたり、タクシーから降りてきたりします。

こうした不可思議な描写を通して、観客はスクリーンに映っているのが「観察」なのではなく、監督の洞察の「投影」なのだと気付いていきます。

では、何に対して「天国にちがいない」と監督は思ったのか?
「天国」とは「この世」と比較すると、どのような場所なのか?
「この世」は何が問題でどうあるべきなのか?

これらの問いかけが本作のストーリーの核でもあり、劇中で主人公が売り込みをしている企画の核でもありますので、鑑賞時の楽しみにして頂ければと思います

個人的にはたっぷり映る(ややヘンテコな)日常のナザレの光景に「ああ、ナザレというのはこういう町並みなのか」というだけでも観た価値がありました。

ぜひ、テイストの違うコメディの『テルアビブ・オン・ファイア』と2本立てでお楽しみください。

パレスチナ西岸と聖地エルサレム滞在

パレスチナとイスラエルの今と昔に触れる―ベツレヘムに2連泊。パレスチナ自治政府事実上の首都ラマラ、「誘惑の山」があるエリコ、旧市街が世界遺産に登録されているヘブロンなど、パレスチナ自治区の代表都市も巡ります。

ナザレ

イエスは伝道を始められるまでの約30年間を、ナザレで両親と共に過ごしました。 またこの町は、イエスの母マリアが天使ガブリエルよりイエスの受胎を告げられた場所として知られています。 現在ここには、マリアの受胎告知を記念した教会(受胎告知教会)が建っています。アベ・マリアの頭文字「A」を模って作られた屋根が印象的な建物です。 受胎告知教会の礼拝堂の中には世界の国々から寄贈された様々な聖母子の絵があります。 その中には日本から贈られた「華の聖母子」(作:長谷川路可氏)も飾られています。

オリーブの林を抜けて

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イラン

オリーブの林をぬけて

 

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監督: アッバス・キアロスタミ
出演: ホセイン・レザイほか
日本公開:1994年

2022.6.22

「映画のようなこと」を求めて、フィクションとリアルの間を旅する

1990年、大地震がイラン北部を襲った。石工の青年・ホセインはひょんなきっかけから、都心からやって来た映画クルーの撮影に、俳優として参加することとなる。

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カメラがまわっていないときに、地震で家族を亡くしたタヘレという女性にホセインはプロポーズをする。貧しく読み書きができないホセインからの求婚を、タヘレの家族は反対する。しかし、そうした状況下でタヘレは映画の中でホセインと共演しなければならず、戸惑う。撮影クルーも徐々に異変に気づいていき、映画の枠を越えて2人に関与していく・・・

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この2-3年の間、コロナ禍によって「映画のようなこと」が次々と起こっていき、映画を生業にしている身にしても「現実のほうが映画っぽい」と感じるような光景にしばしば遭遇してきました。ですが、ようやく元通りに国内外を旅できる兆しが見えてきて、旅という「非日常」を日常生活が受け止められるバランス感覚が社会の中に戻ってきているように思えます。

そんな今だからこそ観たくなる(観ていただきたい)作品が、本コラムで度々ご紹介しているアッバス・キアロスタミ監督作品です。本作は2019年にご紹介した『そして人生はつづく』とセットのような作品なのですが、片方だけ観ても、(2本観る場合であっても)どちらを先に観ても楽しめるセット作品です。

フランスでもリメイクがなされた邦画『カメラを止めるな』のように「映画を撮る映画」というのは、映画史において恒常的にあり続けていますが、『オリーブの林をぬけて』に関しては、「映画が撮られているのか撮られていないのか、わからなくなってくる映画」と言えるかと思います。

上記のあらすじにも紹介したように、主要登場人物の2人は「映画内映画」で演じているときに話すことと、「映画外」で話すことがゴチャゴチャになってきます。

さらに映画鑑賞者(私たち)にとって良い意味でややこしいのは、2人を演じているのは地元で暮らしを営むアマチュア俳優であるという点です。そのため、彼らが演じているのか演じていないのかがわからなくなってきます。

また、「映画内映画のカメラ」はまわっていないけれども、「映画のカメラ」はまわっているというシーンのとき話されていることが、筋書きに書かれたまぎれもない「映画」なのか、自然の流れの中で立ち起こってきた「映画のようなこと」なのかわからなくなってきます。

と、書いている私自身もなかなかこんがらがってくるような構造をしている本作ですが、結果的に観客がこのような映画を観てこそ受け取れるのは「自分の今見聞きしている世界は映画のようだ」と思える感覚です。旅という非日常をよりビビッドにとらえることが可能になる「映画のようなことセンサー」を、ぜひキアロスタミ監督作品から感覚に取り入れてみてください。

歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡

歩いてみた世界_B5_H1_N©️SIDEWAYS FILM

イギリス・アルゼンチン・オーストラリア・ガーナ・チャド等

歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡

 

Nomad: In the Footsteps of Bruce Chatwin

監督:ベルナー・ヘルツォーク
出演:ブルース・チャトウィン、ベルナー・ヘルツォーク
ほか
日本公開:2022年

2022.5.25

歩き、放浪するという生き方―作家・ブルース・チャトウィンに、今こそ出会う

ドイツの名匠ベルナー・ヘルツォークは、『パタゴニア』『ソングライン』等の著作で有名なイギリス人紀行作家ブルース・チャトウィン(1940-1989)と親交を持っていた。

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死後30年以上経っても色褪せないどころか輝きを増すブルース・チャトウィンの著作と彼の存在自体が、ヘルツォーク監督自身のナレーションやさまざまなインタビューを交えながら、全8章構成で振り返られていく・・・

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ベルナー・ヘルツォーク監督はフィルモグラフィー(映画制作歴)に「旅」にかかわる作品が多い監督で、西遊旅行のお客様にピッタリの作家なのでいつかご紹介できればと機会を伺っていました。

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本作では対談・インタビューだけではなく、ヘルツォーク監督の過去作からの引用も収録されていて、一作の中で全世界様々な場所へ旅した気分が味わえます。

対談・インタビューは例えば、19世紀初頭ブラジルからダホメ王国(現ベナン)に追放された総督を描いた1987年の『コブラ・ヴェルデ』のガーナでの撮影舞台裏や、パタゴニアの鋭鋒セロトーレ山に挑む男たちの姿を捉えた1991年の『彼方へ』の撮影で山岳ガイドを務めたスタッフとの対話など。撮影場所も秘境、エピソードもユニークすぎるものが連続して展開されていきます。

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HIVが進行して生気を失っていくブルース・チャトウィンをヘルツォーク監督が励ますために使ったのは、チャドのボロロ族の祭典の様子をとらえた映像だったといいます。ボロロ族たち自身もびっくりの、作家同士らしいコミュニケーション方法の話もご注目ください。

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ブルース・チャトウィンは、幼少の頃、祖母の家のガラス張りの飾り棚にあった「ブロントサウルスの毛皮」(あとあと恐竜の毛皮でないことが判明するのですが・・・)をきっかけに、先史時代や人類史に関心を抱くようになったといいます。

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そこから「ノマド」(放浪)の生き方を追求し、全世界を「自らの足で旅をする」ことを通して、作品を紡いでいきました。

Chapter8

「世界は徒歩で旅する人にその姿を見せるのだ」と映画のキャッチコピーにありますが、私も全く同じことをぼんやりと感じていたので、それをブルース・チャトウィンが言語化してくれていて嬉しく思いました。

私の場合、ペーパードライバーなこともあり、人が車で行くようなところを歩き・自転車・公共交通機関で行くことが多いのですが、やはり自分で地面に足をつけて歩くのと、車や電車で通過するのとでは根本的に感覚に訴えるものが違ってきます。

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自分で歩いて発見する一番のメリットは、他の人が「何もない」と思っているところに「何か」を見出せることだと思います。

Sub2

『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』は、岩波ホール約50年の歴史を締めくくる作品でもあります。6月4日(土)より岩波ホール他全国公開ですが、ぜひ「自分の足で」劇場に足を運んでブルース・チャトウィンの揺るぎない世界観を発見してみてください。その他詳細は公式ホームページをご確認ください。

ワン・セカンド 永遠の24フレーム

OneSecond_mainvisual© Huanxi Media Group Limited

中国

ワン・セカンド 永遠の24フレーム

 

一秒钟

監督:チャン・イ―モウ
出演:チャン・イー、リウ・ハオツン、ファン・ウェイ
ほか
日本公開:2022年

2022.5.18

「たった数秒」という永遠―巨匠チャン・イーモウの若かりし日の思い出

1969年、文化大革命下の中国・陝西省。造反派に抵抗したことで強制労働所送りになった男は、妻に愛想を尽かされ離婚となり、最愛の娘とも親子の縁を切られてしまう。数年後、「22号」という映画の本編前に流れるニュースフィルムに娘の姿が1秒だけ映っているとの手紙を受け取った男は、娘の姿をひと目見たいという思いから強制労働所を脱走し、逃亡者となりながらフィルムを探し続ける。

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男は「22号」が上映される小さな村の映画館を目指すが、ある子どもが映画館に運ばれるフィルムの缶を盗みだすところを目撃する。フィルムを盗んだその子どもは、孤児の少女リウだった。

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トラブルを乗り越えつつやっとの思いで「22号」を観るに至った男を待つ運命とは・・・

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北京2022冬季オリンピック・パラリンピックで開閉会式の総監督を務めたことでも注目を集めた巨匠チャン・イーモウ監督は、とても個人的な記憶をまじえて本作を撮ったそうですが、そのことは言われなくても何となく観客には伝わるような気がします。物語の本筋よりも、記憶の1シーン1シーンを再現することを重視してドラマが描かれているような感じがしました。

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今でこそ撮った映像をすぐ再生できたり、好きな映画を様々な場所で思い思いのタイミングで鑑賞できますが、テレビも普及していない環境で映画は貴重な情報源でした。

もちろん、戦時中の日本がプロパガンダに映画を利用したように、文化革命当時の体制維持・増強においても映画は欠かせないツールでした。映画が上映されるホールの入口には「毛沢東思想宣伝センター」というサインがあります。

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私が子どもの頃にはまだ1000席や700-800席の映画館がちらほらあり、色々な映画をそういう空間で観て育ちましたが、今700席(ましてや1000席)以上の映画館で映画を鑑賞するとなったら、数えるほどしか場所はありません。先日娘を連れて300席ほどの映画館を訪れたときに「広い」と娘が口にしていましたが、私は内心「いやいや広い劇場というものはこんなものではないと」思っていました。

1秒(24フレーム)のために決死の思いで駆け回る主人公を見ていると、現代社会の人々の映画の見方(ひいては世界の見方)というのは、50-60年前からするとあまりにも劇的に変わってしまったのだと痛感します。そして同時に、私が子どもだった頃の1990年代という時代も、本作のように「価値観が全く違った時代」としていつか描かれるのだと思いました。本作を描く際に監督が抱いたであろうような憧憬の念に、自分がいつか身を浸す日が来るというのは若干怖くもあり、楽しみでもあります。

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1秒1秒の重みを噛みしめるような機会はどんどん少なくなり、フィルムのようなテクスチャー(手触り)を感じる瞬間も稀少になりつつあります。時に滑稽なまで「たった数秒」のために奔走する主人公の姿は、現代人に対して深い示唆を与える比喩表現のような形でストーリーの中で機能しています。

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現代社会に失われつつある大事な人間の感性を今一度復興させてくれる力を持つ『ワン・セカンド 永遠の24フレーム』は、5月20日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ 他全国公開。その他詳細は公式ホームページをご確認ください。

ヨナグニ 旅立ちの島

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日本(与那国島)

ヨナグニ 旅立ちの島

 

監督:アヌシュ・ハムゼヒアン、ビットーリオ・モルタロッティ
公開年:2022年

2022.5.11

「旅立ち」という進路―高校がない与那国島、迷いと決断のひととき

与那国島には高校がなく、若者たちは中学校を卒業すると一度は島を離れることになる。イタリア出身の映像作家アヌシュ・ハムゼヒアンと写真家ビットーリオ・モルタロッティは、中学校卒業前の少年少女たちにカメラを向け、学校生活や豊かな自然の中で過ごす放課後の様子、思春期の本音をのぞかせる会話などを通し、多感な10代の日常をありのままに映し出していく。

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先週の『ばちらぬん』に続き、日本最西端の与那国島でうまれた作品をご紹介します。『ばちらぬん』はどちらかというとフィクション寄りな作品で与那国島出身の監督が描いた作品でしたが、本作はイタリアからの「来訪者」が撮ったドキュメンタリー作品です。

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『ばちらぬん』と『ヨナグニ 旅立ちの島』の2作観る場合、もちろんどのような順番で観るかは観客の自由なのですが、私の場合は熟考の末に本作を後で観ました。長い間潜水した後で水面にブワッと出て呼吸したかのように「ああそうか、『ばちらぬん』が撮られた場所ではこういう日常生活が送られているのか」と、ぬかるんだ田んぼを長靴を履いて歩くような心地で鑑賞することができました。

今の時代、「離島で暮らす/生まれる」ということは、半自動的に「消滅の危機がある文化をどのように受け継いでいくか」という課題を考えることとセットになっているように思えます。

卓球部の女の子が、ひたすら壁打ちをして練習している。稼ぎ頭の親は都会で働いて島を不在にしていて、子どもは祖父母と暮らしている。そのように文化伝承の機会と対象が極めて限られている中で、島の言葉「どぅなんむぬい(与那国語)」をはじめとした伝統文化をどのように残していこうとしているのかを、本作のカメラはひたすらじっと見つめます。

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進学面接で面接官が「もし与那国に高校があったら、そこに行っていたか?」という質問を10代半ばの生徒たちに投げかけていくシーンが印象的です。「歴史に『もしも』はない」という言葉がありますが、客観的にいうならば現実にも「もしも」はありません。しかし、やはりそれを考えてしまうのが人間ですし、「もしも」と空想・想像したことから世の中が変わっていくこともあります。

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「旅立ちの島」という題名がついていますが、何かしらの決断がもたらす「旅立ち」という行動は、ある「もしも」を捨てて、また新たな「もしも」を探し求めることなのかもしれないと、本作を見て感じました。

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『ヨナグニ 旅立ちの島』は『ばちらぬん』と共に、2022年5月7日より新宿K’s Cinemaほか全国順次上映中。詳細は公式ホームページをご確認ください。

日本最西端・与那国島ホーストレッキングと
西表島の自然を遊ぶ

晴れた日には台湾の山も見渡せる国境の島・与那国に連泊。日帰りでは決して感じることのできない、島の自然や人々の暮らし、ゆったりとした時の流れを堪能していただけます。

ばちらぬん

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日本(与那国島)

ばちらぬん

 

監督:東盛あいか
公開年:2022年

2022.5.4

与那国島出身の若手監督が描く「島の記憶」

日本の最西端に位置する離島・与那国島。主人公兼監督の東盛あいかは、花・果実・骨・儀式などをモチーフにした幻想的な世界と、日常・漁業の様子・祭事を記録したドキュメンタリーや年配の島民へのインタビューを混ぜあわせながら、島の言葉である与那国語で物語を紡いでいく。

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「三つ子の魂百まで」という言葉がありますが、人がどこで生まれ育つかというのは、当人の一生を左右することが少なくないです。私は(一切記憶はないですが)4歳までシンガポールで育ち、物心ついてからは東京で暮らし、30歳前後で第一子が生まれたタイミングで福岡で暮らすようになりましたが、自分が生まれ育った東京やシンガポールなどのことはやはり折に触れてあれこれ考えます。

与那国島出身の東盛あいか監督は1997年生まれで、京都芸術大学で俳優業から映画を学んだそうですが、『ばちらぬん』は監督が故郷・与那国島をしばらくの間離れた望郷の念を、映画というにしてなんとか残しておかなければならないという使命に導かれたかのような、不思議なパワーに満ちている作品です。

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本作のセリフの多くは与那国語で、日本語字幕を時おり見ながら鑑賞するのですが、何語か知らないで映画を観たら日本国内の言語であると気付かないかもしれないと思いました。

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響き的には、ベトナム語のように聞こえる瞬間もありました。題名の「ばちらぬん」は与那国語で「忘れない」の意味だそうです。「ぬん」は何となく「ない」の意味だとわかりますが、「ばちら」は「忘れる」とは程遠い響きがするように感じます。

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「忘れない」と思わなくても、監督は与那国で過ごした時間を忘れることはなかったのでしょう。きれいな川のど真ん中にマリンブルーの郵便ポストが植わっているシーンが要所要所で出てきますが、監督が与那国で過ごしてきたと過ごさ(せ)なかった時間が溶け合わさって、映画のジャンル・撮影フォーマット・過去と未来などというあらゆる軸が結晶になった稀有な作品です。

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忘れられない瞬間の集積が「旅の思い出」だとするならば、喜怒哀楽関わらず、忘れられない思いの集積が「人生」あるいは「映画」なのだと思わせてくれる『ばちらぬん』は、2022年5月7日より新宿K’s Cinemaほか全国順次上映。詳細は公式ホームページをご確認ください。

8島巡る!自然と民俗の八重山諸島大周遊 8日間

石垣島から黒島、新城島、波照間島、西表島、小浜島、竹富島、そして与那国島へ。8日間で八重山諸島8島を周遊し、離島に残る沖縄の原風景とともに、亜熱帯の自然と歴史・文化にふれます。

セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター

poster2(C)Sebastiao Salgado (C)Donata Wenders (C)Sara Rangel (C)Juliano Ribeiro Salgado

ブラジル

セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター

 

Le sel de la terre

監督:ヴィム・ヴェンダース、ジュリアーノ・リベイロ・サルガド
出演:セバスチャン・サルガド
日本公開:2015年

2022.4.6

世界中のあらゆる光景を目にしてきた写真家 セバスチャン・サルガドの人生

1944年ブラジル出身の「神の眼を持つ」写真家、セバスチャン・サルガド。モノクロ基調で人間の死・破壊・腐敗といった根源的なテーマを撮り続け、人間という存在の暴力性に絶望を感じてきた。

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しかし、2000年代に入ってから大自然の神秘に目を向けることで、「人間性」の見直しを希求しはじめる。

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地球上の最も美しい場所を探し求め、ガラパゴスやアラスカ、サハラ砂漠などで撮影を行い、圧巻の風景を写し出したサルガドのプロジェクト「ジェネシス」の現場に、ドイツの世界的監督ヴィム・ヴェンダースとサルガドの息子ジュリアーノ・リベイロ・サルガドが同行。2人の視点から、写真家サルガドの足跡が解き明かされていく。

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西遊旅行のお客さまにも、セバスチャン・サルガドファンの方は多いのではと思います 。「世界中を旅している」というキャッチーな言葉で仕事の説明がなされる際、当人が旅先の土地土地にどの程度どのように関与しているかという観点は置いてけぼりにされがちです。本作は、彼ほど政治・経済・文化等あらゆる分野に、旅をしながらも深く関与している人物はいないかもしれないと観客に思わせるパワーにみなぎっています。

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本記事の関連する国の表記も、あまりに多すぎるため、出身国・ブラジルのみ記載しました。

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本作はサルガドの素晴らしい(かつ ときに目を塞ぎたくなるような)作品が随時映りながら展開していきますが、あたかも昨今のロシア・ウクライナ情勢に関して示唆しているかのような内容となっています。

サルガドはバルカンやアフリカにおける、想像を絶するようなジェノサイドや貧困・飢餓の現場に身を置いてきました。様々な被写体の思いが自身に伝播したサルガドは、あらすじに記載した通り心をズタズタに引き裂かれます。そこから、それでも希望を見出すために人から自然に被写体を変え、自身の復興に取り組みました。

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ロシア・ウクライナ情勢や母国を追われた人々の生活の今後を思うと、問題・課題が巨大すぎて為す術がない虚無感におちいってしまうかもしれません。しかし、絶望を目の当たりにした上で、それでも希望を抱く、それでも旅をするという思いを抱くパワーを、サルガドが辿った足跡は与えてくれます。

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特に、妻と共に自分の故郷に20年をかけて200万本を超える植樹を行った「インスティテュート・テラ」プロジェクトの存在は本作の基軸になっています。自分自身はどんな根・幹・葉・花を持っていて、それをどのように周りに伝播できる存在なのかと、サルガドの人柄から感じ取れる作品です。