ホームワーク
監督: アッバス・キアロスタミ
出演: テヘランの小学生たち
日本公開:1995年
「なぜ宿題をしてこなかったの?」という問いから、イランの社会問題を考える
1987年、テヘランのジャヒッド・マスミ小学校。学校内の一室で、監督が次々と子どもたちや彼らの親にインタビューをしていく。親がペルシャ語を読むことができず子どもの宿題をみれないこと、1979年のイスラム革命で教育システムが変わってしまって勉強を教えようとすると混乱すること、家庭内で体罰が横行していること、宿題の量が多く子供たちの負担になっていることなどが明らかになっていく・・・
本作は以前ご紹介した『そして人生は続く』と同じく、2016年に亡くなったアッバス・キアロスタミ監督の作品で、デジタルリマスターされたソフトが発売されたことによって、観る機会が得やすくなった一作です。
イランでは映画に対する検閲があり、宗教的・政治的に問題がある作品は製作・上映が認められません。それが理由で多くの作家が活動を禁じられたり、イランを去ったりしましたが、アッバス・キアロスタミ監督は日本を含む海外での作品製作も行いつつも、ずっとイランを拠点に活動していました。
本作は、製作時にどこまで監督がそこを計算したのかはわかりませんが、検閲のギリギリラインを攻めた作品といえるかもしれません。
自身の息子がしている宿題に疑問を抱いたことがきっかけで、監督は自ら映画に出演して、「なぜ宿題をしなかったのか?」と子どもたちに尋ねていきます。ストーリーはそれだけといえばそれだけなのですが、DVDジャケット写真の右下の方を見ていただければわかる通り、質問を続ける内に泣き出してしまう子もいます。かと思えば、あっけらかんと答える子もいて、十人十色の反応を見ることができます。
宿題の内容に疑問を持つことは、教育方針を策定している政府を批判することとも捉えられる可能性があります。しかし、インタビューという手法によって、インタビュー対象者が「主体的に」言ったことが「撮れてしまった」という形で、監督の意志からいくつかクッションを挟むことによって、直接的な政府批判であると捉えられるのを避けています。国民にとって検閲はないほうが好ましいかもしれませんが、結果的には、検閲があることによってこのユニークな表現が生まれたと言われています。
チベット・ブータンの仏教学校、ラダック、バングラデシュなど、ツアー中に様々な学校に訪れる機会がありましたが、生徒たちの生活の様子が見れるだけでなく、彼らが大人になった未来を想像することができて私はとても学校訪問が好きでした。本作に出演した子どもたちも、今では現在30〜40代になっていることを思い浮かべながら観ていただくと、映画の中に流れる時間が豊かになって、本作をより楽しむことができるはずです。