アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ⑤

ナマステ! 西遊インディアです。

エローラ石窟寺院群について、前回は第1~12窟の仏教窟を紹介しました。

今回はエローラの目玉!カイラーサナータ寺院をはじめとするヒンドゥー教窟、ジャイナ教窟についてご紹介します。

 

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エローラ 第16窟 カイラーサナータ寺院 正面出口

やはりエローラといえば第16窟のカイラーサナータ寺院。こちらの見学にじっくり時間を割きたい方が多いと思います。

 

エローラ石窟寺院群は第13~29窟がヒンドゥー教窟です。開窟年代は、6~9世紀で、インドで仏教の勢いが減退していくなか、代わってヒンドゥー教が勢力を増してきた頃です。

ヒンドゥー教窟は全部で17窟ありますが、仏教窟と違って特徴的なのが全てがチャイティヤ窟(僧院)であることです。仏教窟のように、僧房は併設されておりません。

 

それではエローラの最大の見どころ・第16窟のご紹介です。カイラサナータはヒンドゥー教の破壊の神であるシヴァの寺院であり、シヴァの住まいとして考えられているカイラス山の姿を現しています。間口46m・奥行80m・高さ34mの巨大な寺院は全て岩体を掘り下げて作られており、世界最大の石彫建築です。その完成には1世紀以上の歳月が費やされたと考えられています。当時のインド人の寿命が30~35歳であったことを踏まえると、何世代にも渡る一大事業であったことが分かります。巨大な寺院そのものの迫力に加え、随所に施された神々の彫刻はまさに圧巻です。

 

 

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エローラ 第16窟 カイラーサナータ寺院 横から眺める
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エローラ 第16窟 ラクシュミー像
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エローラ 第16窟 ドゥルガー神

門を入るとまず正面にヴィシュヌの妻ラクシュミー。2頭の像が左右から水をかける「ガジャーラクシュミー」という吉祥をあらわす姿です。右手にはシヴァの妻パールヴァティの化身で力の象徴であるドゥルガー、左手にはシヴァの息子ガネーシャの彫像が私たちを迎え入れます。ちなみにガネーシャは物事の始まりを司る神でもあり、多くの寺院で門番として入り口に描かれています。現代でもお店やホテルの入り口にガネーシャ像を置いている場面を見たことのある方もいるのではないでしょうか。

 

ガネーシャ像
16窟 ガネーシャ像

寺院の外壁、またそれを取り囲む回廊にも様々な神話や、「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」のインド二大叙事詩のシーンが丁寧に彫刻されています。寺院本体に施された彫像は本来は彩色されていたものもあり、一部にその基層となる漆喰が残されてるのも見ることができます。

 

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エローラ 16窟 細かく施された浮彫はマハーバーラタのシーンを表す
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16窟 ラーマーヤナの浮彫り
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16窟 本殿外部
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16窟 本殿を支える象たち

 

寺院内部、手前にはシヴァの乗り物である牡牛・ナンディーのための寺院(ナンディー堂)があります。そしてその奥に位置するのが本殿です。
本尊には、本尊であるシヴァリンガが安置されています。リンガは男性の象徴であり、同様に女性の象徴であるヨーニの上に置かれ、お香や乳、香油などが捧げられています。現在では観光地として世界的に人気のある寺院ですが、ここでは多くの敬虔な巡礼者たちが祈りを捧げています。

 

本殿のシヴァリンガ
16窟 本尊のシヴァリンガ

カイラーサナータ寺院の内部見学が終わりましたら、寺院横の小道より坂を上がり、カイラーサナータ寺院が見下ろせるポイントまで移動することをおすすめします(※雨期は、通行不可となっていますのでご注意ください。また、2019年冬現在、後ろまで回り込むルートは閉鎖されています)。
上から見下ろすと、カイラーサナータ寺院のその大きさを改めて実感するとともに、掘り出した石の途方もない量に言葉を失います。

 

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16窟を上から見下ろす
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16窟 僧院の天井にも美しい浮彫が施されています

 

第16窟・カイラーサナータ寺院は、その大きさ、内部の造りの精巧さ、浮彫彫刻の美しさ等、全てのポイントにおいて現代では再現不可能な、まさに偉業と呼べるにふさわしいものではないでしょうか。

 

最後に、ジャイナ教石窟群の紹介です。
エコバスに乗って5分程移動すると、ジャイナ教の寺院が見えてきます。ジャイナ教寺院群は一番北側にあり、ヒンドゥー教窟とは約1キロ程離れています。開屈は9世紀頃で、当時この地を治めていた王がジャイナ教を保護していたため、ジャイナ教の寺院も造られることになりました。

 

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ジャイナ教石窟群 遠景

 

インド全国的にジャイナ教寺院は僅かしかなく、エローラの寺院は貴重な資料となっています。ジャイナ教と聞くと不殺・不所持をはじめ簡素な生活を思い浮かべますが、そのイメージを一変させるような精緻できらびやかな内部装飾には驚かされます。それまでの仏教、ヒンドゥー教窟と比べて最も装飾が細かく美しい石窟です。

 

ジャイナ教ではその24代にわたる修行者の像が信仰の対象となっています。ヒンドゥー教の神々と比べ動きが少なく、直立したままの聖者像が多いです。また、ジャイナ教の教えである「無所有」を象徴する裸体で表現されています。

 

 

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エローラ 第32窟 正面入り口
第32窟のジャイナ教寺院
エローラ 第32窟 ジャイナ教寺院
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第32窟 柱の透かし彫りがなんとも豪華な印象

 

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第32窟 獅子に乗る女神像

 

 

アジャンタとエローラの石窟寺院を数回に渡って紹介してきました。アジャンタとエローラは、インドの宝です! ぜひ訪問して、実物をご覧になっていただきたいと思います。

 

このシリーズの冒頭で書きました通り、アジャンタ、エローラ有するデカン高原にはこのような素晴らしい石窟がまだまだありますので、またの機会に紹介したいと思います。

 

 

 

 

Text  by    Hashimoto,  Okada
Photo  by Saiyu Travel

 

 

 

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ④

ナマステ!!
インドの宝、アジャンタ・エローラを紹介するシリーズ、その④です。

過去のご紹介記事はこちら!
アジャンタ・エローラ①
アジャンタ・エローラ②
アジャンタ・エローラ③

 

■エローラ石窟

カイラサナータ寺院
エローラ石窟 第16窟 カイラサナータ寺院

 

オーランガバードから30Kmほど離れたところにある小さな村のひとつエローラ村。ここに世界的に有名な石窟寺院群が残っており、エローラ石窟といわれています。
エローラには、全部で34の石窟があり、6世紀から10世紀の間に造られました。仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3つの宗教の寺院や僧院・僧坊などから構成されています。

 

1~12窟    :仏教寺院。石窟寺院群の南端
13~29窟 :ヒンドゥー教寺院。中央に位置する
30~34窟 :ジャイナ教寺院。北端

 

30~34窟のみ少し離れた場所に位置しておりますが、基本的には全ての石窟は近接している上に作られた時期も重なっています。当時インドではお互いの宗教に対して非常に寛容であったことが分かります。

 

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エローラ石窟 第1-6窟 遠景

まずは、仏教窟からご紹介します。仏教窟は全部で12窟あり、第10窟以外は全て僧院(ヴィハーラ)窟です。

 

石窟群の最南端に位置する第1窟は、僧院というよりは穀物や食料を貯蔵していた場所と考えられています。

 

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エローラ 第1窟 仏教窟 入口
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エローラ 第2窟 仏教窟 入口

第2窟も僧院址です。内部の回廊には多くの仏像が並んでおり、柱の装飾も細かく施されています。

第3-4窟は未完成です。エローラ石窟寺院の仏教パートは7-8世紀ごろの、インドでの仏教が衰退へと向かっている時期の開窟であったこともあり、未完成であったり作業途中である部分も多いです。

 

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エローラ 第5窟 僧院址

7世紀に開窟された第5窟は、奥行き53.28m、幅36.63mと非常に広く、エローラでも最大の室内面積をもつ僧院です。巨大な柱には、かつては美しい装飾画が施されていたといいます。この僧院址は、かつては講堂、僧侶たちの食事場所、そして宗教的な儀式の際に使われていました。

 

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エローラ 第7-8窟 仏教窟

 

第10窟は仏教のチャイティヤ(礼拝堂)建築の最高峰とも呼ばれ、ストゥーパを覆うように配置された仏像や細かい内部装飾が特徴です。2階建てですが吹き抜けの様になっています。造りは外観だけではなく音響効果も考えられており、祈りの声が深く響き渡る様に設計されています。

ガイドと一緒に訪問した際はガイドにお経の一説を詠むようリクエストしてみてください。声の響き方にきっと驚かれると思います!

 

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エローラ 第10窟 仏教窟
第10窟のストゥーパと仏陀
エローラ石窟 第10窟 本尊は、ストゥーパに仏陀が取り込まれているかたち
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エローラ 第10窟 入口正面 バルコニーから中の仏塔を見おろすことができます
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エローラ 第11窟 仏教窟

第11窟は僧院址で、なんと3階建てです。1~2階は僧房、3階は講堂として作られています。石窟の開削は上部から始まるため、通常の建築とは逆方向に、上から下へ向かって作業が進んでいきます。講堂と僧院という性格の違いはあるものの、開窟資金や資源の豊富だった初期に作業が行われた上階は精密に作られ、下の階へ行くにつれて装飾が減りシンプルな造りになっており、その変遷は見ていて面白いです。

第12窟も第11窟と同じ3階建ての造りの僧院址です。こちらは、全体的に非常にシンプルな造りとなっています。

 

 

エローラ石窟寺院群ですが、その入り口のほとんどが西側を向いています。そのため、エローラ訪問は日差しが内部まで差し込む午後の訪問がおすすめです(エローラ石窟はアジャンタとは異なり内部に照明は設置されていません)。ただ、酷暑期の訪問だと午後2-3時頃は一番暑い時間帯…。観光中の体力を考えて午前中の涼しい時間帯の訪問でもいいかもしれません。

 

 

次回の記事ではエローラの目玉・ヒンドゥー教窟をご紹介します!

 

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ③

ナマステ! 西遊インディアの橋本です。
アジャンタとエローラを紹介する第3弾です。

過去のご紹介記事はこちら!
アジャンタ・エローラ①
アジャンタ・エローラ②

 

アジャンタ石窟ご紹介の続きの前に、アジャンタ、エローラ訪問に適した時期についてご案内します。

アジャンタ、エローラが位置するオーランガバード周辺は、近隣のムンバイとほぼ同じ具合で、3~5月は酷暑、6~9月後半頃までは雨期、その後9月後半から2月頃までが乾期となります。ムンバイは沿岸部にあるため、内陸のデカン高原にあるオーランガバードは、ムンバイよりも雨量が少なく乾燥しています。

 

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8月のエローラ石窟
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4月のアジャンタ 年間で一番暑い時期。草木の色も雨季後とは全く異なります

アジャンタ、エローラはともに1年中観光はできますが、4~5月は45度近くの酷暑のなかの観光となり、遺跡の見学中は相当の体力を奪われます。時期を選べるのであれば、9月後半~11月くらいがベストです。乾期に入りほとんど雨の影響を受けませんし、暑さも落ち着く時期です。また、遺跡の雰囲気も結構違います。上の写真を見比べていただいて分かる通り、雨期以降すぐはフレッシュな緑色が美しい時期です。

 

ちなみに、各石窟内に入る時は入り口で靴を脱いで入ります。石窟内は意外ときれいで足が汚れることはありません。素足で中へ入ると、ひんやりとした岩の感触も感じることができおすすめです。石窟内は、色々なものが混じった、独特のにおいがこもっています。石窟の奥に進めば進むほど、この石窟群の造成に費やされた途方もない時間と労力を想像し、残された壁画の美しさだけではない、この遺跡の凄さを改めて実感します。

 

それでは、石窟の続きのご紹介です。
第11窟です。

 

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アジャンタ 第11窟 天井の壁画

第11窟は後期に造られたヴィハーラ(僧院)窟です。この11窟の前後は、前期窟が並んでおります。最初に建てられた前期窟は、いずれも正面の渓谷を見渡せるよい位置に造られていますが、この11窟は10窟と12窟の間に無理やり造られており少しいびつな形です。見どころは、素晴らしい天井の装飾画です。

 

続いて第17窟。こちらもアジャンタ第1窟同様、素晴らしい壁画が多数残る石窟です。まずは17窟に残る、2つの大猿本生(ジャータカ)。

 

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大猿本生

 

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アジャンタ 第17窟 大猿本生
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アジャンタ 第17窟 上写真の右側アップ。背後から近寄る農夫と(左)、殴られ倒れてしまった大猿(右)

猿は、崖下に落ちてしまった農夫を見つけ背負って這い上がり、助けます。しかし、農夫はその猿を殺して食べようと背後から忍び寄り石で殴り倒してしまいます。その後農夫は地獄に落ちます。
(ここでは大猿=釈迦を表します)。

 

※17窟には、もうひとつの大猿本生があります。川辺のマンゴーを取って食べているときに国王軍に見つかってしまった猿群でしたが、猿王は自らの身体を橋の一部とし、仲間たちを先に逃がした、という内容のものです。

 

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シンハラ物語

 

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アジャンタ 第17窟 羅刹女を退治に行くシンハラ王の軍隊

人を食らう「羅刹女」がいる島に漂着してしまった商人・シンハラは、仲間とともに島からなんとか脱出することに成功しました。しかしその後羅刹女は美女となってシンハラの国に乗り込み、城内の人間を食い殺してしまいます。シンハラは民衆に請われ王となり、軍を率いて羅刹女を追い払っただけでなく、羅刹女たちを教化するのでした。

 

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また、第17窟は内部だけでなく、外側の装飾画も見事です。
こちらは、入り口の装飾。扉の上には過去七仏が並んでいます。また、向かって左側の外壁には、六道輪廻の図が残っています。今やインド北部・ヒマラヤを越えたラダックエリアとその周辺でしかほとんど見ることができない六道輪廻の図がここアジャンタで見ることができるとは…! 感激です。

 

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アジャンタ 第17窟 入口の装飾
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アジャンタ 第17窟 六道輪廻

第19窟です。後期のチャイティヤ(僧院)窟で、中央には仏塔と仏像を合体させた本尊と、両側には丹念に施された彫刻が残っています。また、石窟内部自体が馬蹄形となっています。

 

仏塔(ストゥーパ)とは、お釈迦様が荼毘に付された後、残された灰や遺骨(仏舎利)を納めた塚が起源です。 仏教が各地へ広まると、ストゥーパが建てられ、お釈迦様のシンボルとして祀られるようになりました。
仏塔は3部分から構成されています。①基壇(下の写真では、仏像が組み込まれています)、②丸い部分の卵塔、③一番上に乗っている平頭です。もともとは②の部分のみでしたが、尊いものとして基壇と傘が施されるようになりました。

 

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アジャンタ 第19窟  内部

アジャンタ石窟寺院の見学の最後は、第26窟です(第27窟は未完成、28-30窟は位置的に訪問不可)。後期のチャイティヤ窟で、内部にはインドで最大級の大きさである涅槃仏(全長7.3m)が横たわっています。涅槃仏の周りや列柱に施されている彫刻も素晴らしく、見ごたえのある石窟です。

 

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アジャンタ 第26窟 正面入り口
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アジャンタ 第26窟 作成途中の仏像(右)

 

第26窟は概ね出来上がっているものの、完成はしておりません。上の写真の左部分のように、製作途中で放棄されてしまっている部分もあります。未完部分をみると、まずは大枠でかたどりされ、その後彫り進める、という石窟内での作業の進め方が分かります。

 

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アジャンタ 第26窟 インド最大級の涅槃仏
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アジャンタ 第26窟 涅槃仏 正面から

横たわる涅槃仏は、少し微笑んでいるようにも見えます。この写真では分かりにくいですが、釈尊の台座には、その死を悲しむ弟子や在家の姿が彫られています。また上部分には、天人が舞っています。

 

 

 

アジアの古代仏教美術の源流ともいわれているアジャンタ石窟寺院。何度訪問しても飽きません。じっくりと時間をかけて訪問して欲しいと思います。

 

エローラは次の記事でご紹介します!
アジャンタ・エローラ④

 

 

 

Text by Hashimoto

 

 

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ②

ナマステ! 西遊インディアの橋本です。
インドの宝・アジャンタとエローラ石窟の紹介、第二弾です。

 

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9月のアジャンタ 緑が綺麗な時期です

アジャンタ・エローラ紹介記事①にて、いきなりアジャンタのハイライトである第1窟の蓮華種菩薩、金剛手菩薩を紹介しましたが、アジャンタの見どころはまだまだあります!

 

第2窟のご紹介の前に、アジャンタ、エローラ石窟群を見学するに欠かせない「ジャータカ」についてお話いたします。
「ジャータカ」とは仏陀の前世の功徳を伝える物語です。本生譚(ほんしょうたん)ともいい、仏陀の死後に多くのジャータカが生まれました。様々な動物(ゾウ、猿、鴨、うさぎ 等々)やある特定の人物として生まれた仏陀による、自己犠牲や利他の行いがテーマとなっています。仏陀はその前世においても修行を続けており、だからこそ悟りを得るに至ったという考えに由来しています。

(本来は仏教と関連のない土着の民話や寓話をジャータカとして吸収していったとも考えられています)。

 

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ジャータカのご紹介 ~六⽛⽩象本⽣~

 

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アジャンタ 第17窟 六牙白象本生

ヒマラヤの山中に8000頭の象の群があり、6本の牙を持った真っ白な象が王としてそれを束ねていました。王には二人の夫人がいましたが、第二夫人は第一夫人に激しく嫉妬をし、王を恨みながら自害します。その後とある国の王妃として生まれ変わった第二夫人は、六牙象のことを聞き、猟師にその象の牙を持ってくるように命令します。猟師は罠をはり象王を捕えますが、象王は自ら牙を抜き、その後絶命します。猟師の持ってきた牙を見た夫人は、象王がかつての夫であったことを思い出し、後悔し死んでしまいます。

 

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アジャンタ石窟には、ジャータカの内容を示す壁画が複数残されており、特に第17窟には「六⽛⽩象本⽣」「⼤猿本⽣」などが良好な状態で保存されています。これらジャータカのストーリーを予め予習しておくと、アジャンタ石窟の見学がより一層楽しめます。

 

それでは、第2窟のご紹介です。
アジャンタ第2窟も第1窟と同様、後期窟です。美しい壁画、彫刻が素晴らしく、保存状態も良いです。

 

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アジャンタ 第2窟 本堂 美しい天井の装飾も必見です
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アジャンタ 第2窟 杯を交わすペルシャ人 / 青い靴下の異邦人

こちらは第2窟に残る「杯を交わすペルシャ人(青い靴下の異邦人)」の天井画。2人の周囲には豊穣を表す蓮華蔓草や果実が描かれています。

壁画は、牛糞や粘土、石灰を下地に塗り、アフガニスタンから持ち込まれたといわれるラピスラズリや黄土など、全て自然の顔料で描かれています。この靴下の青色もラピスラズリで着色されていますが、今もなお鮮明にその青さが美しく残っています。

 

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アジャンタ 第2窟 「玉座に腰かけた菩薩」

長い輪廻のあと最後に兜率天上に生まれた釈迦が、王者風の姿で天人に説法する様子が描かれています。

 

他に第2窟で必見の壁画は「釈迦誕生」の壁画です。生まれたばかりの仏陀(スィッダールタ王子)を抱えるブラフマーとインドラ神、そして優しく見つめるマーヤー夫人が描かれています。

 

 

アジャンタは全部で1~30窟ありますが、作業途中で放棄され、未完で終わった窟もいくつかあります。

第4窟も未完で終わった窟のひとつです。第4窟はアジャンタでも最大の規模のヴィハーラ(僧院)窟でしたが、断層が横切っていたため作業が難航しその後放棄されてしまいました。もしこの僧院窟が完成していればアジャンタ最大かつ壮大な僧院窟が完成していたのでは…と言われています。

 

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アジャンタ 第4窟 外観
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アジャンタ 第4窟 内部はアジャンタ最大規模で広い

続いて第9窟です。これまでは、全て後期に開屈されたものを見てきましたが、9、10、12、13窟は前期窟(紀元前2世紀~紀元後1世紀ごろに開窟)のものです。

第9窟は、簡素なチャイティヤ(僧院)窟となっており、中央にストゥーパ(仏塔)が建つのみで彫刻などの装飾はありません。柱には一部壁画が残っていますが、これは後期に描かれたものです。

 

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アジャンタ 第9窟 チャイティヤ窟

第10窟です。
こちらも前期窟で、中央にストゥーパがあるシンプルな造りです。ここ第10窟で注目すべきは、右13番目の一本の柱の落書きです。このアジャンタ石窟を最初に発見したイギリス人士官ジョン・スミス(John Smith)が、発見した時に思わず自分の名前と日付を柱に刻み付けてしまい、その落書きが今でも残っています。

盛んに開窟が続けられたアジャンタ石窟ですが、インドでの仏教の衰退に伴い作業されなくなり、8世紀には完全に放棄されました。その後アジャンタ石窟は1000年以上忘れ去られましたが、偶然こちらにトラ狩りに来ていたジョン・スミスによって1819年に発見されたのです。

 

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アジャンタ 第10窟 ストゥーパ(仏塔)
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アジャンタ 第10窟 ジョン・スミスの落書きが残る柱 よく見ると名前が確認できます

ジョン・スミスの落書きは、柱の高さ3mの位置に残っています。結構見上げて目を細めないと確認できません。これは、ジョン・スミスが長身の大男であったわけではなく、発見当時アジャンタは密林のなかに埋まっており、各石窟の内部にも1.5m程泥が積もっている状態だったためです。

 

この第10窟を訪問した時、偶然この遺構を見つけたジョン・スミスの気持ちを想像してみました。密林のなか本来あるはずのない人工物を自分が最初に見つけ、世紀の大発見を予感したとき、思わず名前を刻みたくなるのでしょうか。

 

 

 

アジャンタ・エローラの記事その③へと続きます!

 

 

Text by  Hashimoto

 

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イギリス植民地時代の首都コルカタ

ナマステ!!西遊インディアの岡田です。

今回は古くイギリス植民地時代の首都であり、現在では東インドの中心都市となっている、コルカタをご紹介します。

 

コルカタはバングラデシュと国境を接する西ベンガル州の州都です。ガンジス川の支流の一つであるフグリー川沿いに街が広がっており、都市圏人口ではインド3位ですが、市域での人口密度はインド1位の巨大都市です。

 

1640年にイギリスが商館を建て活動を開始した時点では、ここは3つの村が水辺に点在する程度の未開地でした。このうちの一つ・カーリカタ村の名をとって、イギリス時代からはカルカッタと呼ばれるようになります。イギリスは西海岸のボンベイ(現ムンバイ)、東海岸のマドラス(現チェンナイ)とカルカッタを中心に商館を要塞化し、さらに1757年にはプラッシーの戦いでベンガル太守とフランスを退けてインド貿易を独占。カルカッタはイギリスのインド統治の中心となり、イギリスはここを拠点にインドの侵略を進めていくこととなります。

 

カルカッタは、都市化とともに文化の成熟・教育の充実が進み、アジア初のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールを輩出しています。またインド人の知識階層の集う場ともなり、民族運動の発信地としても機能していきます。

 

1911年、カルカッタでの民族運動の煽りを受けイギリスの拠点がデリーへ移されましたが、その後も経済的には発展を続けました。インド独立後はパキスタンとの分離による政治的・経済的な影響を受け他の都市圏に抜かれていきますが、現在でも東インドに置いてはその中心であり、最大の都市であることは変わりません。

 

 

■カーリー寺院

カーリーガート
カーリーガート

神々とアスラ(悪魔)の戦いの中でシヴァ、ヴィシュヌ、アグニ等の神の怒りから軍神の女神:ドゥルガーが生まれますが、アスラへの怒りによってドゥルガーの額から生まれた戦闘の女神がカーリーです。争いと血を好み、手に生首を掴み腰に切り取った敵の手足を提げるという荒々しい姿で知られています。

 

カーリーの姿で人気があるのは夫であるシヴァを踏みつぶしながら踊るシーン。流血してもその血から分身を生んで無限に増え続ける力を持つラクタヴィージャというアスラとの戦いを終えた後の勝利のダンスのシーンです。カーリーはラクタヴィージャの血を全て飲み込むことでアスラを倒し、歓喜して踊り始めますが、あまりにも激しい踊りによって大地が砕けてしまいそうになったためシヴァがその衝撃を和らげるためにカーリーに踏まれているという場面です。やがて夫を踏みつけていることに気づいたカーリーは我に返り踊りを止めたので大地は砕けずに済んだ、という神話が伝えられています。

 

コルカタのカーリー寺院ではカーリーへの犠牲礼拝が盛んで、現在でも毎日のようにヤギを犠牲に捧げています。ヒンドゥー教徒以外は寺院内部へ入ることは出来ませんが、運が良ければ柵越しに犠牲の儀式を見ることができます。

 

■花市場

花市場
花市場

血を好むカーリーへ捧げるための赤いハイビスカス、ヒンドゥー教で好まれるオレンジ(サフラン)色のマリーゴールド等多くの生花が取引される広大な市場です。いつも多くの人でごった返しており、海岸沿いの湿った空気とともにコルカタの街の熱気を感じる場所です。コルカタ港に繋がるフグリー川に沿って広がっており、川辺のガートでは沐浴する人の姿も見られます。ここからフグリー橋を越えて行くハウラー橋はコルカタのシンボルにもなっています。

 

■インド博物館

インド博物館
インド博物館

植民地時代の1817年に開館したインド最古の博物館です。バールフットの塔門や仏舎利、また豊富な仏教・ヒンドゥー教の彫刻群などに加え、絵画や絹織物、動植物などの展示も充実しています。さらに収蔵品は5万点を越え、1日では巡りきれないほどの見応えのある博物館です。

 

バールフットの塔門
バールフットの塔門

 

■マザー・テレサ・ハウス

マザー・テレサの彫像
マザー・テレサの彫像

1929年からインドで活動したマザー・テレサ。コルカタでは1948年から1997年まで活動を行っており、彼女が晩年を過ごした場所は今でも修道女たちの活動の場として利用されています。マザー・テレサの廟もここに置かれており、現在でも多くのキリスト教徒が巡礼に訪れます。建物の一部は展示室として公開されており、マザー・テレサの活動の記録や生前に使っていた様々な道具が展示されている他、実際に彼女が暮らしていた部屋も公開されています。

 

 

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バーブルの生涯とムガル帝国建国

ムガル帝国」は、北インドを観光中、1日に一度ならず何度も何度もガイドの口から出てくるワードの一つです。

 

インドはイギリス植民地として支配下に置かれるまで、ムガル帝国によって支配されてきました。その支配力は常にインド全域に渡っていたものではありませんでしたが、特に北インドにおいては、広く諸勢力を支配下に置き、北インドは長い間ムガル帝国の基礎・拠点となってきました。

 

デリー、アグラを中心とする北インドエリアでは帝国の統治下において、インド・イスラーム文化が華開き、現代にも多くの遺産が受け継がれ、大切にされています。

 

今回は、その「ムガル帝国」建国までの歴史と、創立者であるバーブルについて紹介します。

 

バーブル(左)と息子フマユーン(右)
バーブル(左)と息子フマユーン(右) (出典:間野 英二 著 「バーブル―ムガル帝国の創設者 」山川出版社 2013年)

■生誕とサマルカンド奪還の野望

1483年、バーブルは現在のウズベキスタン東部に位置するフェルガナ地方にティムール朝の王子として生まれました。

父親は14世紀末に中央アジアに覇権を唱えたティムールの血、母親はモンゴル帝国のチンギス・ハンの血を継いでおり、バーブルは輝かしい出自であったと言えます(バーブル自体はティムールの5代目の子孫でした)。
フェルガナの領主の息子として育ったバーブルですが、1494年、父親の突然の事故死により、僅か12歳でフェルガナの領主となります。

 

当時サマルカンドを都としていたティムール帝国(1370-1507)は既に凋落の一途を辿っていました。諸勢力がサマルカンド獲得を巡って攻防を続けていましたが、バーブルもこの攻防に参加し、ティムール帝国の再興をもくろみます。

バーブルは1497年には従兄のバイスィングル、1500年にはウズベク系のシャイバーニー朝、また1511年には再度シャイバーニー朝を破って計3回のサマルカンド入城を果たしましたが、どれも短命政権に終わり、サマルカンドを後にすることとなりました。

 

現在のサマルカンド レギスタン広場
現在のサマルカンド  レギスタン広場(正面の神学校はティムール朝第4代君主ウルグ・ベクによって建てられました)

 

■インド支配への道

3度にわたるサマルカンド支配に失敗したバーブルは、サマルカンドから南部へと路線を変更します。アフガニスタンのカーブルに最初の拠点を築いたバーブルは、同じくアフガニスタンのカンダハール、パキスタンのペシャワール、そしてインドのパンジャーブへと進軍し、徐々にインド方面へ目を向けるようになっていきました。
1520年にはタジキスタン南部のバダフシャンを占領し、2年後の1522年にはさらに南下してカンダハールを占領。カーブルを拠点として、インド方面へと支配力を広げていきます。

 

また、バーブルはインドへ6度に渡って遠征を繰り返しています。カブールは大帝国の都としては十分な土地ではなく、始めは単に財貨の略奪を主目的としてインドへの遠征を行っていました。北西インドでは10世紀頃からイスラーム勢力の侵入が激しくなってきますが、このような財貨の略奪を目的とした遠征は当時としても珍しいことではなかったようです。

 

しかしインドへの遠征の中でバーブルはその豊かさに驚き、次第にインドを拠点とした建国を目指すようになります。徐々に力を増したバーブルは、当時の北インドのイスラーム勢力の内部抗争を好機とみて本格的な侵攻へ向かいます。1526年、第6次の遠征で、バーブルはデリーから北西に約90kmのパーニ―パットにてローディー朝を破り、デリー・アグラヘ入城。ここから、単なる略奪ではなく、インドに拠点を置いての本格的な支配へと移行していきます。

 

第一次パーニーパットの戦い
第一次パーニーパットの戦い(画像出典:パーニーパット県公式Webサイト)

 

若くから各地を転々とし建国の野望を秘めていたバーブルは、43歳にしてようやくムガル帝国の建立に至りました。「ムガル」とは、ペルシャ語でモンゴルを意味する語が変化したもの。バーブルがティムールの子孫であり、モンゴル系の血統を継いでいることに由来しています。実際はムガル帝国という名は自称していたものではなく、自称としてはヒンドゥスターン(ペルシャ語で「インダス川の土地」を意味)と名乗っていたようです。

 

当初はデリーとアグラ周辺を支配する小国に過ぎなかったムガル帝国ですが、バーブルは息子で後に第2代ムガル皇帝となるフマユーンとともに、ガンジス川沿いに東方のビハール、そしてベンガル地方へ遠征を繰り返して勝利を治め、インドでの支配基盤を整えていきました。

 

■バーブルの最期

1530年、病に倒れ遠征から帰ったフマユーンのため、バーブルは自らの命を捧げてフマユーンの回復を祈る儀式を行います。フマユーンは無事回復しますが、それからほどなくした1530年12月26日、バーブルはアグラにてその47年の生涯を閉じました。

 

諸国を遍歴し、ムガル帝国の建立後も僅か4年でその生涯を終えたバーブル。文学と書物を愛し、詩人でもあった彼は、その自伝を『バーブル・ナーマ』(バーブルの書)として書き記しており、まさに波乱万丈の生涯を窺い知ることができます。

 

バーブル・ナーマ
バーブル・ナーマの一部

 

バーブルは、自らの死後は初めて自分が拠点としたアフガニスタンのカーブルに葬ることを遺言として残していました。しかし、バーブル死後の戦乱のためにカーブルへの埋葬は叶わず、まずはヤムナー川沿いのラーム・バーグ庭園に葬られることとなります。バーブルの治世は僅か4年でしたが、このラーム・バーグ庭園はその中でバーブルが命じて建造した数少ない建築物でした。

 

その後、バーブルの棺はカーブルに移され、現在にまで伝えられています。

 

 

バーブルの墓
バーブルの墓(アフガニスタン カーブル)

 

Text by Okada

カテゴリ:■インド北部 , インドの偉人
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ダージリン④:ヘリテージホテル ・ウィンダメア

ナマステ、西遊インディアです!

ダージリンはインド国内外から多数の観光客が訪れる一大観光地となり、現地には多数の宿泊施設が建ち並ぶようになりました。全室ヒマラヤビュー、街の中心地にある、リーズナブル、コロニアル風…等々、様々なこだわりやポイントを打ち出したホテルがあり、選択肢は幅広いです。

 

そんなダージリンでの宿泊ですが、今回は弊社スタッフ一押し「ウィンダメア・ホテル(Windamere Hotel )」について紹介します。

 

Daejeeling
ホテル・ウィンダメアへ!
Darjeeling
コロニアルロイヤルスイーツ ベッドルーム Windamere WEBサイトより

 

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メインハウス内にある暖炉のあるコモンルーム クリスマス前だったのでお部屋は装飾されていました!

 

 

■歴史

ダージリンは、19世紀インドを植民地にしていたイギリスの統治下におかれ、在印英国人の避暑地・学校の街として開発されました。また、今となっては紅茶の最高峰として世界に知られるダージリンティーも、この時代に栽培が始まっています。そんな中、イギリス人の紅茶農園主人の邸宅として1841年に建てられたのがこのホテルの始まりです。後に改築され、1930年代からホテルとしての経営が始まりました。当時の調度品、雰囲気をそのまま残し、サービスもイギリス統治時代のまま受け継がれています。

その後増築もされ、敷地内にはメインハウスの他に、コテージタイプの棟も建てられました。

 

 

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ホテルのコテージ部分

 

 

■ウィンダメア・ホテルでの宿泊

ホテルが位置するのは、ダージリンのランドマークともいえるオブザーバトリーヒル。見晴らしが大変よく、中庭にはルーフトップへの階段も設置されていて、晴れていればヒマラヤ山脈を見渡すこともできます。
ウィンダメアホテルの敷地面積は結構広く、整備されたお庭も広がっていますので、晴れていればお散歩も楽しめます。

街の中心まで徒歩圏ですが、高台にあるため一日中大変静か。静かにゆったりとくつろぐことが出来ます。

 

Darjeeling
12月はマリーゴールドがきれいに咲いていました

 

Darjeeling
見晴らしの良い中庭

ウィンダメアホテルは、イギリス植民地時代の雰囲気をたっぷり残しておりますが、その一助になっているのがホテル内の調度品や設備品の数々。特にお部屋の暖炉が素敵でした。ダージリンは標高があるため朝・夜は冷え込みますが、空調はありません。代わりに、各部屋には暖炉が設置されており、スタッフが火をくべて温めてくれます。

訪問したのは12月でしたが、この暖炉のおかげで朝まで一度も寒さを感じることなく休むことができました。各お部屋は天井が高く、結構な広さがありますが、暖炉の威力ってすごいな…と実感。

 

Darjeeling
暖炉に火を灯してくれました
客室の暖炉の一例

 

 

■ハイティー

ダージリンに来たのであれば美味しい紅茶を味わいたいですよね。ウィンダメアホテルでは、毎日夕方ごろに宿泊ゲスト用にハイティーのサービスがあります。使用されている紅茶は、キャッスルトンという紅茶農園のセカンドフラッシュ。とても香り高い紅茶です。

アフタヌーンティーのメニューは、野菜のサンドイッチ、ビスケットケーキ、クッキー、等々。もちろんハイティーには欠かせないスコーンもあります。ジャムやクロテッドクリームを添えていただきます。

 

英国の雰囲気漂うウィンダメア・バーでゆっくりソファに腰掛けていただくも良いですし、晴れていればテラスで、ダージリンの澄んだ空気とともにダージリンティーを味わいながら過ごすのも素敵です。

 

焼き菓子を提供してくれます
Darjeeling
ウィンダメア・バー
Darjeeling
ウィンダメアの紅茶はホテルで購入可能です!

 

■食事

食事は、ダイニングルームでいただきます。キャンドルの明かりだけで灯されている夕食は、雰囲気たっぷりでまるでタイムスリップをしたよう。コンチネンタル料理とインド料理を楽しむことが出来ます。

 

ダイニングルーム  蝋燭が灯されロマンティックな雰囲気
サーブしてくれました
朝食の例 ダージリンティーと一緒に

 

 

ウィンダメア・ホテルでは、インドの他の場所ではなかなか体験できない優雅な時間を過ごすことが出来ます。

伝統的なホテルに滞在する特別な週末はいかがでしょうか。

 

 

 

 

≪西遊インディアのツアーの紹介≫

■世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

 

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドのホテル , ダージリン , 西ベンガル州
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ダージリン③ 世界遺産 ダージリン・ヒマラヤ鉄道

ナマステ、西遊インディアです!
ダージリンを紹介する第3回目の記事では、「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」を紹介します。

「インドの山岳鉄道群」として、インド国内3か所の鉄道が世界遺産登録されていますが、ダージリン・ヒマラヤ鉄道はその中でも1番初めに登録された、アジア最古の登山鉄道です。

  

■ダージリン・ヒマラヤ鉄道とは?

トイ・トレインという愛称で知られるダージリン・ヒマラヤ鉄道は、西ベンガル州の交通の要衝であるシリグリのニュー・ジャルパーイーグリー駅から、ダージリン駅までの約88Km、高低差2000mをつなぐ登山鉄道です。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は、1999年に世界遺産に登録されましたが、その後、南インドのニルギリ山岳鉄道(2005年登録)、カールカー・シムラー鉄道(2008年登録)も追加となり、現在は世界遺産「インドの山岳鉄道群」として登録されております。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は、鉄道における世界遺産としては世界で2番目の登録でした(1番目はオーストリアのゼメリング鉄道です)。

 

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 

■開通に至るまで

1879年、紅茶の輸送と避暑客の便宜を図るためにイギリス人が建設を開始しました。レール幅を610mmとかなり狭くなっておりますが、これは現地に既に存在していた山道や地形を流用しやすいようにしたためです。

 

機関部分には小回りの利く小型タンク機関車を採用しました。トンネルを掘ってレールを敷くとコストがかかってしまうため、山間を縫うように路線を設定しました。そのため全行程の約70%がカーブ区間となっています。イギリス産業革命により発明された当時の最新技術を駆使して造ったと言われています。

 

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レール幅61センチ! なんとも可愛らしい!

蒸気機関車は、イギリスのグラスゴー製で、最も古いもので130年、最も新しいもので120年経っているとのこと(いずれにしても古いですね)。

お客様用の車両は、1車両約40席ほどですが、古い機関車であまりパワーが無いので、2両までしか牽引できません。

実際に乗ってみると、古い機関車がよいしょ、よいしょと一生懸命坂道を登っていく感じが、なんとも応援したくなります。

 

 

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100年以上使われている蒸気機関
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ダージリン・ヒマラヤ鉄道の車両

 

 

■トイトレインに乗ってみよう!

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は本来始発駅から乗車すると7時間程かかりますが、観光客用に、ダージリンから出発する「JOY RIDE」という列車が走っています。このJOY RIDEに乗れば、ダージリン駅からグーム駅までの往復2時間の乗車を楽しむことが出来ます(ご希望であれば片道のみの利用でグーム下車も可能です)。

グーム駅は、標高2,258mと、世界で2番目に標高が高い場所に位置する駅です。

 

ダージリン駅

ちなみにこのJOY RIDEの列車チケットを予約の際に、蒸気機関か、ディーゼルかは予め分かるようになっておりますが、蒸気機関車はよく調子が悪くなり、メンテナンスに入ることもしばしば。そのため折角蒸気機関で予約が取れていても、当日ディーゼルが来た…ということも少なくありません。乗車日当日は、ダージリン駅で蒸気機関が目の前に登場するまでは油断できませんのでご注意ください。

 

乗車していよいよ出発!

 

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街中を走るダージリン・ヒマラヤ鉄道
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街中に敷かれているトイトレインの線路。

 

蒸気機関車は大量の煙と灰を吐き出しながら、ダージリン駅からグーム駅までの8kmを時速約10kmでゆっくりと走っていきます。

駅を出発して前半は、ダージリンの街中を走ります。線路ぎりぎりまで家や商店が建てられていますので、ぶら下がっている売店のスナックや洗濯物にも手が届きそうな距離です。時速10キロというゆっくりなスピードですので、車はもちろん、途中自転車にも追い抜かれました。

こうして人力に近いスピードで、地元の人々の生活風景の一部を見ることが出来るのは他の世界遺産登録されているニルギリ鉄道、カルカ・シムラ鉄道にはなく、独特の面白さがあります。

煙を上げて走っていく間、窓が開いている車内には煙の匂いが漂い、煤が顔にあたり少し黒くなっている人もいました。日本ではなかなか珍しくなってきた機関車の旅、やっぱりいいものですね。

 

列車は街を抜け、標高を上げながら走っていきます。どんどん緑が多くなってきました。

 

 

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グーム駅に向けて走っていきます

 

グーム駅に到着する手前、バタシア・ループで10分程停車します。バタシアは、ネパール語で「風が強い」という意味があり、実際に風の強い場所のようです。ループとは、急こう配の坂を登る際に、高度調整をするために大きく円を描くように線路が回る所のこと。このバタシア・ループは、数か所あるループの中で最も美しいとされている所です。

 

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バタシアループ
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バタシアループの広場。いいお天気でヒマラヤの展望もバッチリ
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グルカ兵戦没記念碑

バタシア・ループはちょっとした広場となっており、ネパールの山岳民族から構成されるグルカ兵の慰霊碑も建てられています。

 

そして天候に恵まれれば、カンチェンジュンガとトイ・トレインのツーショットをカメラに収めることもできます!

 

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白く美しいヒマラヤと青い空と黄色いマリーゴールドの花と鉄道

 

世界遺産の鉄道に乗って、一味違うダージリンの街並み、ヒマラヤの展望を味わってみてはいかがでしょうか。

鉄道好きな方は、ぜひ「インドの山岳鉄道群」の3つ制覇を目指してみてください!

 

Darjeeling

 

 

≪西遊インディアのツアー紹介≫

世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

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インドの商業と娯楽の中心地:ムンバイ

ナマステ!

 

西遊インディアの岡田です。今回はインド最大の都市・ムンバイの歴史と主要な観光地をご紹介いたします。

古くは16世紀からポルトガル、そしてその後はイギリスの植民地として外へ開かれ、自由な空気の漂うコスモポリタンとして巨大都市へ成長してきたムンバイ。現在はインドのビジネスの中心地として、また西インドの観光の拠点としても国内外から多くの人々が訪れます。

 

2011年の国勢調査では、ムンバイ市の人口は約1,250万。隣接するムンバイ新市街として建設されたナビムンバイやムンバイの衛星都市として発展してきたターネーも含めると、都市圏人口は、約2,300万人となります。まさに、アジアを代表する巨大都市。ムンバイの街中は常に人が溢れており、活気が溢れ、並々ならぬパワーを感じることができます。

 

また、ムンバイはインド映画の中心地・ボリウッドとしても有名です。アメリカの映画産業の中心地・ハリウッドのインド版として、「Bombay」の頭文字「B」をとりボリウッドと呼ばれています。年間2000本近くの映画が撮影されているインド映画界を牽引する存在です。

 

現在は一大都市となっているムンバイですが、かつては小さな漁村でした。16世紀、当時のスルタンより7つの島々を獲得したポルトガルはこの地に要塞と教会を建て、ポルトガル語で「良い港」を意味するボンバイアと名付けました。後にポルトガルは1661年にポルトガル王女とイギリスの王子の婚姻の際に贈り物としてこの地をイギリスへと委譲。東のコルカタ・西のボンベイ(ボンバイアは英語名でボンベイと表された)を拠点にインド支配を着実に進めていったイギリスは、国内に張り巡らせた鉄道網で各地の産品をボンベイへ送って集め、スエズ運河を通してヨーロッパへ輸出していきました。これにより、イギリスはさらにインドでの支配力を増していきました。

 

1900年代に入り、インドの反イギリス支配の声が大きくなり始めた頃、ムンバイではインド独立運動が盛んに行われました。インド建国の父マハトマ・ガンディーも頻繁に訪れ「クイット・インディア(インドを立ち去れ)」運動が繰り広げられました。

インドの分離独立後は、ムンバイはグジャラートのエリア一帯も含むボンベイ州の州都となりましたが、後に言語の違いによりさらにムンバイ州がグジャラート州とマハーラーシュトラ州に分割され、マハーラーシュトラ州の州都となりました。州都の公式名称がボンベイからマラーティー語のムンバイと変更されたのは、1996年のことです。

ムンバイは植民地時代から、インド国内外の貿易拠点としてお金が集まり、そのお金を目指して人間が集まり、徐々に巨大都市へと発展していきました。現代でもその流れは止まらず、多くの人が地方から職を求めてムンバイへやってきています。

 

それでは、ムンバイの見どころを簡単にご紹介します。

 

■チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅

 

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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅外観

インド貿易の要となった鉄道網ですが、そのアラビア海側の終着駅がヴィクトリア・ターミナス駅です。もともとは当時のヴィクトリア女王に因んでこの名がつけられましたが、現1988年に現:チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅に改称されました。ヴィクトリアン・ゴシック様式を基本としつつ、尖塔に代わってドーム屋根を使用し、各所にアーチを施す等インド的・オリエンタルな要素で装飾されているのが特徴です。イギリス植民地時代のインドの代表的な建築物の一つです。

新名称として採用された「チャトラパティ・シバージー」は、ムガル帝国、そしてイギリスに抵抗してマラーター同盟を結成した17世紀の英雄:シヴァージーの名をとったもの。チャトラパティは王の称号を意味します。インド独立運動の際にも反英運動の一つの象徴として人気を持ち、勇敢な「戦うヒンドゥー教徒」として、各地にその像が建立されています。

1887年に完成した駅舎は現在でも利用され、インド国内でも最大級の乗降者数を誇っています。駅の目の前の交差点には写真撮影用のスペースが確保されており、駅舎を眺めることができます。

 

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駅のすぐ横に建つムンバイ市庁舎

■エレファンタ島石窟寺院

 

エレファンタ島の3面のシヴァ神像
エレファンタ島の3面のシヴァ神像

ムンバイの一大観光/巡礼の名所となるのがエレファンタ島の石窟寺院群です。6~8世紀に開窟されたこの石窟群にはもともと複数の石窟が開かれたものの、16世紀にポルトガル人によって発見された際に多くが破壊されてしまい、現在一般に公開されているのは第1窟のみとなっています。

 

エレファンタ島、第1窟の外観
エレファンタ島、第1窟の外観

 

エレファンタ島、第1窟の内部
エレファンタ島、第1窟の内部

第1窟はエレファンタ島最大の石窟寺院で、シヴァ神を祀るための寺院です。内部には中心部のシヴァリンガを囲むように回廊が設けられており、壁には様々なシヴァ神話のシーンが見事なレリーフで表されています。パールヴァティをはじめとするシヴァの親族、またヴィシュヌやブラフマーなど他の主神も登場しますが、やはりシヴァとパールヴァティが主役となるシヴァ派ヒンドゥー教の世界観を生で感じることができる場所です。

 

エレファンタ島 核心部のシヴァリンガ
エレファンタ島 核心部のシヴァリンガ

 

■インド門

エレファンタ島へのボートの発着地となるのがインド門です。かつて1911年にイギリス国王ジョージ5世夫妻の来印を記念して建立され、その後1924年に完成しています。玄武岩製、高さ26mのインド門は当時はイギリス帝国の権威と権力の象徴でしたが、現在ではムンバイ市のシンボルとなっています。

 

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インド門
インド門広場に面して建つタージ・マハル・ホテル
インド門広場に面して建つタージ・マハル・ホテル

 

海から見たタージマハルホテルとインド門。手前にはエレファンタ島行の船が見えています。
海から見たタージマハルホテルとインド門。手前にはエレファンタ島行の船

インドの伝統的な家庭では男性が外に出てお金を稼ぎ、女性が家庭内の仕事を行いますが、ムンバイでは女性の就労率が国内の他の都市と比べて比較的高く、現市長も女性のキショリ・ペドネカール氏が就任するなど女性の社会進出も進んでいます。一方で格差の拡大や人口の過集中など、他の大都市が抱える問題も同様に抱えており、スラム街を見下ろすように聳える高層ビル群は格差社会を象徴するような風景です。スラムの住人は主に漁業を生業とする人々でしたが、現在では職を求めてムンバイへ移住してきた出稼ぎの労働者等が、家賃の安いスラムでの生活を始めることが多いそうです。

 

また、映画の街ボリウッドとしても名高いムンバイは様々なインド映画のロケ地となっています。ムンバイに暮らす様々な境遇を生きる男女4人の姿を描いた映画「ムンバイ・ダイアリーズ」(2011年)では全てのロケがムンバイ市内で行われており、ムンバイの雰囲気、またインド人にとってのムンバイのイメージを存分に感じることができる一作です。またこちらはインド映画ではありませんが、ムンバイのスラム出身の少年を主人公とした「スラムドッグ$ミリオネア」(2008年)は、アカデミー賞はじめ数々の映画賞を受賞し日本でも大きな話題となりました。

 

インドの伝統と自由な思想が大都市の中で混ざり合うムンバイ。
世界遺産のより詳細なご案内や他の見どころについては、また別の記事でも紹介いたします。

 

 

 

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南国ケーララでハウスボートクルージング②

ナマステ! 西遊インディアです。
本記事ではケーララ州の水郷地帯で楽しむハウスボートクルーズの2日目の様子をご紹介いたします。

(前回の記事はこちら

 

⛴ ⛴ ⛴ ⛴ ⛴

 

2日目の早朝。日の出過ぎに、ハウスボートは動き出します。

こちらは寝室から見えた地元の漁師の方。小さな船に立ちながらバランスよく作業する様はまさに職人技でした。

 

Kerala
早朝小舟をだす村の人
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眩しく輝く朝日

朝食は南インドの定番朝ごはん、イドゥリー(豆と米の粉などから作った蒸しパン)とサンバル(スパイスたっぷりの南インド風スープカレー)。そして搾りたてのパイナップルジュースとたくさんのカットフルーツでした。

 

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朝食
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南インドの朝食の定番・イドゥリ―

このクルーズはハウスボートでの宿泊がひとつのポイントですが、「バックウォーターの景色」も大きな見どころであり魅力です。

ケーララ州には、総延長1,500kmの運河が広がっております。

このバックウォーターエリアは米作地帯のため、運河の左右には奥まで広がる青々とした稲穂の育つ水田を見ることができます。水田だけだと見慣れた景色ですが、その回りにバナナやヤシの木が生えており、ケーララらしい景色となっています。
また、運河沿いに暮らす人々の暮らしが見られるのも楽しいものです。運河の水で炊事洗濯をするお母さん、水浴びする子どもたち。まさに生活とぴったり密着しています。また、張り巡らされた水路は現在でも地元の人に利用されており、ボートに乗って登校、出勤します。登校用のボートを船乗り場で待つ子ども達をたくさん見かけました。

 

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ヤシの木の奥には水田が広がっています
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洗濯をするお母さん
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登校用のボートを待つ子どもたち
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水浴びする子どもたち。気持ちよさそうです。 羨ましい!

ケーララのハウスボートクルーズは外国人観光客のみならず、今やインド人国内観光客の方にも大人気です。クルーズ中、インド人観光客の方が乗ったボートとたくさんすれ違いました。船着き場では、デリーから来たというファミリーと出会いましたが、内陸のデリーでずっと生活してきた人にとっては、川・海・空が青く、美しい緑がいっぱいに広がるケーララは、まさに南国の楽園そのものなのだと思います。本当に皆さん楽しそうでした。

 

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手を振ってこたえてくれる国内観光客のみなさん

ボートから見ることのできる全てのものを楽しみながら、アレッピーの船着き場まで戻ります。クルーズ終盤は、河口へと近づき、景色も大きく変わります。

 

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河口部分に到着

9時頃、ハウスボートは船着き場に到着。名残惜しすぎて船着き場についてもボートを降りたくない…最後にはそんな気持ちになっていました。南国的な景色に、温暖な気候。お食事も素晴らしく、心も体も癒された1泊2日でした。

 

ハウスボートはまさに動くホテルで、基本的には大変快適に過ごせます。船内は清潔、設備も問題なく、スタッフもフレンドリーでみなさん温かく迎えてくれました。
ただ、よく皆様にご質問いただいている点でもありますが、Wifi設備はボートにはございません。また、インドの携帯SIM(Airtel)を利用していても、クルーズ中は一時的に電波が無くなり、接続ができなくなることがありました。その点だけ注意が必要です。

 

最後に、クルーズを快適に、そして120%満喫するためのお勧めの持ち物をご紹介します。

 

  1. 虫よけグッズ
    ダイニングスペースはオープンエアです。寝室などもハウスボートの造り上、完璧にドアを閉めることはできないので、隙間から入ってきてしまいます。肌に塗るタイプの虫よけスプレーなどお持ちになることをお勧めします。ハウスボートでも対策はしてくれているのですが、結構刺されました。※ケララでは年中蚊がいます。
  2.  洗面用具
    ハウスボートでは基本的にアメニティの設置はありません。
  3.  サンダル
    靴だと暑いので、スリッパやビーチサンダルなどあると快適です。
  4. 酔い止め
    停泊の際は岸に打ち付けられるような横揺れがありました。揺れに弱い方は酔い止めをお持ちになるとよいかと思います。
  5. 自由時間を楽しむアイテム
    貸し切りハウスボートでは、自由時間を思い思いに楽しむことができます。カメラ、本、トランプ、スピーカー、スケッチブックなどなど (ハウスボートが動いている間は他のハウスボートとも距離があるので、個人で楽しむくらいの音量でしたら、音楽もお楽しみいただけます。楽器を持ってきて演奏されている方もいらっしゃいました! ※停泊中や夜間は周りの方に迷惑にならないよう、音量等、十分お気をつけください。)
  6. 日本の調味料
    記事①でも紹介しましたが、クルーズ中魚屋さんに立ち寄ることが可能です。そこで新鮮なシーフードを購入できますので、夕食時にグリルしてもらいお召し上がりください  (No masalaと言い忘れると、カレー味になります。ご注意を)
    塩・胡椒でも十分美味しいのですが、醤油があったらなぁ…と思いました。

 

 

ハウスボートクルーズはゆったりと過ごせる1泊2日が大変お勧めですが、4時間ほどのデイクルーズのアレンジも可能です。また、よりバックウォーターを体感されたい方は、細い水路をカヌーで巡るビレッジツアーなどのアクティビティもおすすめです!!

 

Kerala
かわいく並んだヤシ!

 

西遊旅行の楽園の南インドツアー

西遊インディアのハウスボートクルーズツアー

 

Text  by Saiyu India

 

 

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