天空のチベット ラダック第3弾: チベット仏教の世界と仏教美術の宝庫アルチ僧院

ジュレー!(ラダック語でこんにちは)
インド最北部・ラダックを紹介する第3弾です。

 

チベット僧院の前で、マニ車を回す女性

ラダックに到着するためにヒマラヤ越えをしなければならなかった時代は、ラダックエリアの住民は、チベット仏教を信仰する人がほとんどでした。大戦後、インドが隣国パキスタン、中国との関係を注視しなければならなくなったあと、両国と隣接しているラダックエリアには、多数の軍の駐屯地が置かれるようになりました。また、ラダックエリアの観光が広く開かれるようになり、夏の時期にはホテルやレストランでの季節労働者も集中しました。そのため、現在のラダックにはもともとの土着の信仰以外にも、ヒンドゥー教徒、シーク教徒も少なからずおります。また、地域によってはイスラム教徒が古くから居住しているエリアもあり、そういった街にはモスク(イスラム教の礼拝所)が街の中心にあります。シリーズ第二弾で紹介した頭飾りが特徴的な花の民・ドクパ(ダルド)の人々が住む地域は、古くから伝わる民間信仰も根強く残っています。

 

上記の通り、ラダックは宗教における多様性が認められますが、この地域に圧倒的に多いのは、チベット仏教徒(特にゲルク派、ドゥルク派が多数)です。

 

今回は、ラダックでの信仰・チベット仏教について、ご紹介します。

 

■ラダックで信仰されているチベット仏教

スムダ・チュン僧院の立体金剛界曼荼羅
ティクセ僧院全景

仏教発祥の地はインドであるということは皆様ご存知かと思います。紀元前3世紀、インドのアショカ王が仏教を庇護したことで、インド各地に仏教が広まりましたが、ラダックのお隣のエリアのカシミール地方でも、この時代に仏教が伝わりました。
ラダックは、カシミールの影響を様々な面で強く受けており、仏教の伝播についても影響は受けたものと推測されますが、残念ながら10世紀以前の記録はほとんど残されておらず詳細は分かりません。おそらく9世紀頃、チベットで起きた内乱から逃れるために多くの高僧たちがこの地にやって来たことで、本格的にラダックで仏教が栄え始めたのではないかといわれています。

インド本土においては、13世紀に仏教はほとんど滅んでしまいますが、ラダック地方においては、逆にチベット仏教が非常に盛んな時期にあたります。そしてそのまま現代まで、ラダックではチベット仏教として信仰が受け継がれているのです。

 

 

ラダック地方におけるチベット仏教を確立したのは、リンチェン・サンポと、インドのナーランダから来た学僧アティーシャとされています。

 

リンチェン・サンポ 偉大なる翻訳家

ロツァワ(大翻訳家)・リンチェン・サンポは11世紀にグゲ王の命を受け、当時仏教が盛んだったカシミールに2度留学しました。戻った後は膨大な数の経典翻訳に励んだことから、大翻訳家(ロツァワ)と呼ばれ、仏教発展に大きな足跡を残しました。ロツァワは2度目の帰路時に、カシミールから32人の大工や仏師、絵師を連れ帰ったことで、カシミール様式の仏教美術を西チベットに持ち込むことに成功し、グゲにトリン僧院、ラダックにニャルマ僧院、そして仏教美術の宝庫・アルチ僧院など、全部で108の僧院を建てました。

 

アルチ僧院 スムツェク(三層堂)
アルチ僧院仏塔内に描かれたリンチェンサンポ
アルチ僧院 木枠の装飾にはカシミールの影響が随所に

ラダックの仏教美術は11世紀のリンチェンサンポ時代と、14世紀頃からのポスト・リンチェンサンポ時代に分けることができます。リンチェンサンポ様式はカシミールや中央アジア美術の系統をひいており、壁画の着色に「群青」を多用していることが特徴として挙げられます。対してポスト・リンチェンサンポ様式はカシミールの様式が薄れ、チベットの影響を受けるようになり、「赤」の多様が目立ちます。

 

 

▮仏教美術の宝庫アルチ僧院

リンチェンサンポ様式の代表・アルチ僧院。ドゥカン(勤行堂又は大日堂)、ロツァワ・ラカン(翻訳官堂)、文殊堂、スムツェク(三層堂)と仏塔から成っています。そのなかでも11世紀のカシミール様式が良好な保存状態で残されているのが、スムツェク(三層堂)です。名前の通り三階建ての比較的こじんまりしたお堂ですが、外観だけ見ても、ギリシャ・イオニア様式の柱頭など、ギリシャの影響を受けたカシミールの様式が随所に残されています。

 

三層堂に入ると、三立像(文殊菩薩(右:東)、赤い弥勒菩薩(正面:北)、白い観音菩薩(左:西)が立ち、それぞれの菩薩の下衣に仏伝図(釈迦牟尼の一生との事)などが描かれています。壁には青を基調とした千体仏。隙間なくびっしりと埋め尽くされた壁画の数々は、じっくり見ていくと時間がいくらあっても足りない程です。
堂内で見られるカシミール様式の特徴としては、壁の隅に施された「白鳥の絵」、溝彫り式でうずまき模様が施されている柱、そして独特の明り取りの仕様であるラテルネン・デッケ(持ち送り式天井)などです。

 

仏塔内部の天井画。天井は、ラテルネン・デッケ(持ち送り式天井)
般若波羅密仏母の壁画 (アルチ僧院発行の写真集より)

そしてこの堂内での見所は何と言っても般若波羅密仏母の壁画です。堂内に入って左側、観音菩薩の立像の足元にひっそりと佇む仏母は、細字の黒色の線で美しくくま取りされ、丁寧に施された着色、ななめ下に向けられた視線は控えめな美しさを感じさせます。

般若波羅密仏母は仏を生み出す母と言われており、右手には青い蓮の花、左手には経典を持っています。

 

あまりに繊細な線と美しい着色は、思わず見入ってしまうほどです。

 

※アルチ僧院三層堂の内部は、写真撮影が禁止されております。ぜひ写真集の購入をおすすめいたします!

 

 

 

ラダックシリーズ第4弾へ続きます。
第4弾: チベット仏教の世界とマンダラ

 

 

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天空のチベット ラダック第2弾:基本情報(暮らし・民族・食)

ナマステ!西遊インディアです。
今回は、ラダックエリアの気候、暮らしや食事などについて、ご紹介いたします。

■気候

夏は短く、冬は長いラダック地方。6月~9月頃がいわゆるラダックの夏です。日中は30度前後まで気温が上がり日差しも強烈ですが、朝晩は10度以下まで下がることもあり、特に天気が悪い日は冷え込みます。青い空と、緑、雪を被った白い山脈の組み合わせが非常に美しい時期です。

 

7月撮影のレーの街。晴天率も高く、過ごしやすい時期です

10月~4月上旬はラダックの冬。日中でも氷点下まで気温が下がり、時には-20℃を超える極寒の世界となります。積雪もあり、峠道は通行不可となってしまうことも多いです。レー・デリー間の国内線も、天候不良によるフライトキャンセルが頻発する時期です。

 

1月、レー郊外の道路の様子
ルンバク村の1月

一般的には、6~9月がラダックの観光シーズンとされており、この時期はレーの街や郊外の観光地は大変賑わいます。

また、季節の見どころとして4月中旬~5月上旬頃、標高の低いインダス川沿いの村々では、杏の花が咲きます。薄いピンク色の杏の花はとても可愛く、日本の桜を思い出します。日中はまだ寒いですが、4月頃に杏の花目当てで行くのもいいですね。

 

4月、満開の杏の花

ラダックは年間降水量が非常に少なく、一年を通し非常に乾燥しています。また天気も変わりやすいです。お出かけの際は、事前に現地の気候をチェックのうえ、日よけ・乾燥・暑さ・寒さ対策が必要です。

■暮らし

家畜の世話をする女性

伝統的なラダックの暮らしは、散らばった小さな村々での営みで、主な仕事は牛の飼育と耕作です。近年までほとんど完全な自給自足が成り立っていました。標高4000m前後の土地のため耕作できる土地は少なく、また作物が育つ時期は約4ヶ月間と極めて短いです。しかし、人糞と家畜の糞尿を肥料にし、氷河から溶け出した水を畑に引く複雑な灌漑のシステムを開発。集約的な農耕農業で、1年間に必要な小麦や大麦の生産を可能にしました。

 

初春、畑作業に勤しむ女性(ラマユル村にて)

もっとも重要なものは家畜で、特にヤクが重要視されています。ヤクは穀物を脱穀したり、土地を耕したり、荷物の運搬に利用され、糞は肥料や乾燥させてこの地方唯一の燃料になります。乳を採り、肉を食べたり、毛皮を衣服・カーペットなどの原料として使用します。

 

ラダックの夏の間は大変忙しいです。大麦、小麦、豆、杏やその他果樹の収穫、干しアンズなど長い冬を越すための保存食作り等、休む暇もなく作業をこなします。

 

8-9月は刈り入れ作業の時期です
ラダックの女性は働き者!

ちなみにラダックでは、厳しい環境下で、食料や資源が少ないため、人口増加を抑えるために兄弟で妻を共有する一妻多夫性が取り入れられてきました。現在は、インドの法律で禁じられ、一夫一妻制となっています。

■民族・言語

ラダックで暮らす人々の多くは、チベット系の民族であるラダック人(ラダクスパ)です。ほとんどの人はチベット仏教を信仰していて、服装や食事、風習など、チベットと共通する部分がたくさんあります。言語はチベット語の方言、ラダック語。チベット語と文字は同じですが、発音はかなり異なります。

 

ラダック北西部のダー・ハヌーには、頭に花を飾る華やかな風習で知られる、ドクパ(ブロクパ)と呼ばれる人々が住んでいます。アーリア系民族ですが、仏教徒です。ラダック語ともバルティ語とも異なる、ドクスカットという言語を使っています。ラダック東部のチャンタン高原には、チベット人の遊牧民たちが暮らしています。

 

ダー村の女性たち。頭の花飾りが特徴的です
ダー村の男性

■民族衣装

ラダックは標高が高く、紫外線を目いっぱい浴びる場所です。夏でも肌をあまり出さず、紫外線や乾燥から体を守っています。冬は凍てつく寒さから体を守るためにしっかりとした防寒が必要です。寒くなってくると、男女ともに着用するのは、ゴンチェというウールの上着です。

その他、帽子はティビ、靴はパブーといいます。

 

「ゴンチェ」と「パブー」
ラダックの山高帽「ティビ」

ペラクは主にザンスカール地方に伝わる、トルコ石がふんだんに使われた女性用の頭飾りです。母から娘へと受け継がれる、いわゆる家宝です。お祭りや、特別な行事のときに被ります。一度被らせてもらいましたが、トルコ石が隙間なく並べられているため被るとずしっととても重いです。

 

トルコ石をあしらったぺラク

伝統的な民族衣装を纏う人は近年減ってきているそうですが、レーを離れて郊外の村まで行けば、年配の方を中心に着用している人々はまだ目にします。民家訪問でお邪魔させてもらった時、試着させてもらえることもあります!

 

■食事

ラダック地方はチベット文化圏ですので、チベット料理が主流です。主に大麦、小麦を主食とし、ラーメンのようなトゥクパ、タントゥク(ワンタンメン)、モモ(餃子)などのチベット料理は、日本人にも食べやすいあっさりした味付けです。 「ツァンパ」と呼ばれる炒った大麦を粉にしたものをお碗の中でバター茶と練って作る「コラック」。ツァンパを大鍋で水から練って作る「パバ」。これらは自家製ヨーグルトなどと一緒に食べることが多いです。また、インド料理もポピュラーで、野菜カレーやチャパティなどもよく食べられています。大きな町やムスリムの多い町では、チキンやマトンを使った料理も食べることができます。

 

モモ
トゥクパ
ラダッキ・ブレッド。焼きたては特においしい!

 

 

ラダックシリーズ③へ続きます!
ラダック第3弾: チベット仏教の世界と仏教美術の宝庫アルチ僧院

 

 

 

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天空のチベット ラダック第1弾:ラダック地方の歴史

ナマステ!
西遊インディアです。

 

はためく五色の旗(タルチョ)を見ると、違う文化圏に来たという実感がよりわきます

インド北西部、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に囲まれた、標高約3500メートルの地に広がるラダック地方。「峠を越えて」という意味のラダック(Ladakh)が使われるようになったのは17世紀頃からで、それまでは「低地の国」という意味のマルユル(Maryul)という名で呼ばれていました。荒涼とした山々に囲まれ、広大な大地に青い空、恵みをもたらすインダス川…。インドのイメージを覆す絶景デスティネーションとして、大変人気です。

 

色濃くチベット文化を残し、「小チベット」とも呼ばれるラダックについて紹介するシリーズ、第一弾です。

 

■基本情報

ラダック連邦直轄領
中心都市:レー (標高約3650m)

人口:約24万人
主な宗教 : 主に仏教 その他にイスラム教、ヒンドゥー教、シーク教など
主な言語 : ラダック語、ヒンディー語、ザンスカール語、バルティ語、ウルドゥー語など

(※英語もある程度通じる)

アクセス:首都デリーからレーまで、国内線が運航されております。所要約1時間。その他にも、夏の間はマナリやシュリーナガルから陸路移動も可能です。

 

ラダック・ザンスカール地方の地図
国内線移でデリーからレーへ
フライトは、ヒマラヤ山脈が見下ろせる迫力の山岳フライトです

 

■ラダック地方の歴史

8世紀頃、チベットの吐蕃王国がラダックを占領し、チベット系の民族がラダックに流入して住み着くようになったと言われています。ラダックを統一した最初の王であるラチェン・パルギゴンは、シェイを王都に定めてラチェン王朝を興しました。16世紀頃、タシ・ナムギャル王のナムギャル王朝は、シェイからレーに遷都。17世紀、センゲ・ナムギャル王の治世には、ラダック王国は全盛期を迎えます。レー王宮やヘミス・ゴンパなどを次々と建立し、さらには周辺のザンスカール王国やグゲ王国を併合するなど、領土を拡大していきました。

 

レー王宮跡

1640頃、センゲ・ナムギャル王は9階建ての王宮をレーに建設。このレー王宮は、ラサのポタラ宮のモデルになったとも言われています。中にはお堂が一つあり、王族の祈りをささげる場としての役割を果たしていました。現在は廃墟となっておりますが一部博物館として開放されています。

 

17世紀後半、ラダック王国とダライ・ラマ5世治下のチベットとの間で戦争が勃発します。ラダック王国はかろうじてチベットとの講和を締結しましたが、代償として多くの領土を失い衰退していきました。

1846年、イギリスが介入した第一次シク戦争の結果、イギリス植民地のジャンムー・カシミール藩王国が成立し、ラダック王国は他のカシミール諸侯とともに藩王国の一部として併合されました(その後もラダックの王家は藩王国内の一諸侯として一定の自治権は保持したとされています)。

 

第二次世界大戦後の1947年、インド・パキスタンが分離独立すると、各藩王国はインドかパキスタン、どちらかに帰属を求められました。時のカシミールの藩王ハリ・シンは自身がヒンドゥー教でしたが、対して住民の80%はムスリム(イスラム教徒)であり、住民はパキスタンへの帰属を望んでいたことから、帰属先の決定が先延ばしにされていました。

そんななか、パキスタンの民兵がカシミールに侵入。焦ったハリ・シン王は慌ててインドに武力介入を要請し、第一次印パ戦争へと展開していきました。その後第二次、第三次印パ戦争へと続くことになります。

 

結局カシミールの紛争地域は、1947年の第一次印パ戦争後の1949年に制定された国連停戦ラインによって2つの部分に分割され、1972年にそのまま管理ライン(LoC:Line of Control)として再定義されました。インドの地図をみると、この管理(停戦)ラインが、点線で示されています。

 

緑部分がパキスタン側カシミール、オレンジかインド側カシミール。点線が、Line of control のライン。

2019年、ジャンムー・カシミール州再編成法の規定により、ジャンムー・カシミール州は廃止され、ラダック連邦直轄領とジャンムー・カシミール連邦直轄領に分割されました。

 

なお、1947年からこのエリアは外国人の立ち入りが禁止されておりましたが、1974年、再び外国人の立ち入りが許可されるようになりました。軍事的理由により約30年もの間閉ざされていたため、レーを中心とするラダックエリアには、チベット本土では破壊され、失われてしまった本当のチベット仏教文化が残されています。中国のチベットよりも「チベットらしい」と言われる所以です。

 

 

シリーズ第2弾では、この地方の基本情報や、暮らしの様子などを紹介いたします!

ラダック第2弾:基本情報(暮らし・民族・食)

 

 

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