ジュレー!西遊インディアです。
ラダックを旅する人ならほぼ必ず利用するレーの空港。正式名称は「クショク・バクラ・リンポチェ空港」といいます。はじめて知ったときから、そのちょっと長くて不思議な響きが耳に残っていました。
今回は、ラダック旅における空の玄関口、レー空港の正式名称となっている高僧クショク・バクラ・リンポチェについてとりあげてみます。
■もくじ
1.空の玄関口 レー空港
2.クショク・バクラ・リンポチェとは?
3.ラダックにおける存在と空港名となった経緯
4.ゆかりの場所
1. 空の玄関口 レー空港
デリーから飛行機で約1時間。ラダック連邦直轄領のほぼ中央、中心都市レーの標高約3,256mに位置するレー空港(Kushok Bakula Rimpochee Airport, Leh)。
インドで最も標高の高い商業空港で民間機も発着しますが、1961年に軍用滑走路として開設されたインド空軍の軍用飛行場でもあります。
ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に囲まれた山間部にあるため、離着陸のアプローチが最も困難な空港のひとつ。そのかわり、同時に山岳風景が美しい場所です。
インドの軍事施設は撮影禁止のため建物を近くから撮った写真はありませんが、従来の平家づくりの建物に加えて現在は拡張工事が進んでおり、ゆくゆくはもう少し大きくなりそうです。
空港の周辺には小高い岩山の上に建つスピトゥク僧院があり、飛行場からも遠望することができます。
空港の名前は、そのスピトゥク僧院の座主をつとめたクショク・バクラ・リンポチェ19世にちなんで付けられました。スピトゥク僧院の座主は、代々バクラ・リンポチェがつとめています。
2.クショク・バクラ・リンポチェとは?
仏陀の16人の阿羅漢(十六羅漢)のうちの1人で、9番目の阿羅漢である、バクラ(諾距羅・なくら)の転生とされる高僧です。
ちなみに阿羅漢とは、悟りに達した高僧のこと。十六羅漢とは、お釈迦様が亡くなる(涅槃に入る)ときに、後を託された16人の高僧たちのことです。慶友と賓頭盧(または、迦葉と軍徒鉢歎)を加えて十八羅漢とする場合もあります。
バクラ・リンポチェは、マングースを抱いている姿で描かれることが多いです。
現在は、ヌブラ渓谷のキャガール村で2005年に生まれた20世が、ダライラマ14世によって認定されています。現在は南インドで修行されているのだそう。
先代のバクラ・リンポチェ19世は、高僧としての宗教的奉仕で知られているだけでなく、インド独立後のラダックで最も尊敬される宗教的・政治的指導者で、いわゆる土地の名士のような存在でもありました。
3.ラダックにおける存在と空港名となった経緯
先日逝去されたマンモハン・シン元首相も「現代ラダックの設計者」と称したという、バクラ・リンポチェ19世。常に人々の分裂が起こらないように努め、ラダックの人々のアイデンティティが保たれることを望んでいたと、多くの人々が言葉を残しています。
なぜ、そのように人々から尊敬を集め、インド政府からも篤い信頼を受けるようになったのでしょうか。その経緯をインド独立の時代背景とともにたどってみます。
1917年に、ラダックのマト村で王族に生まれたバクラ・リンポチェ19世。ダライ・ラマ13世によって転生者であると認められました。1949年、32歳のときに当時の首相ジャワハルラール・ネルーに説得されて公職につくまで、政治とは無縁でした。
英領インド時代、かつてジャンムー・カシミール州は一つの藩王国でしたが、第二次世界大戦後の1947年にインド・パキスタンが独立する際に、どちらの国へ帰属するかを決められることになりました。
住民の多くはイスラム教徒でしたが、藩王自身はヒンドゥー教徒であったこともあり、独立を希望。それが認められずなかなか状況が定まらないところ、1947年からパキスタン側の部族民が、ゆさぶりをかけてジャンムー・カシミール州を襲撃。
部族が州都のシュリーナガルまで迫ってきたため、危機に瀕した藩王はインドに援軍を頼みました。そこで当時のネルー首相は、暫定的にでもカシミールがインドに帰属すると表明するのであれば、インド領としてインド軍を派遣すると答えます。
やむなくして、藩王はインドへの帰属を決めました。これが第一次印パ戦争の発端であり、今日までつづいているカシミール問題のはじまりです。
ちなみに、帰属問題を残したまま分離・独立を迎えた藩王国は、カシミールと、ハイデラバード(テランガーナ州)、ジュナーガル(グジャラート州)の3つでした。ハイデラバードは武力でインドに迫られた藩王がインドへの帰属に応じ、ジュナーガルはイスラム教徒だった藩王がパキスタンに逃避して、インドに統合されることになりました。
その後、1949年7月にネルー首相がラダックを訪問。ラダックが宗教上の理由で分裂しないよう、高僧であるバクラ・リンポチェに、ラダックの人々のために活動してほしいと指導者として抜擢します。
バクラ・リンポチェは、ラダックにおける政治活動はもちろん、学校を設立し、伝統的な価値観とともに教育を受け入れるよう近代教育を奨励。またラダックだけでなく、全国で福祉や少数民族の権利について多くの問題に取り組み、指定カーストや指定部族、少数民族などマイノリティの人々の意見を擁護しました。
そうした熱意ある行動は、ラダックの人々がこれまでの暮らしや文化、仏教への信仰を維持する上でも重要でした。インド独立初期におけるラダックとインドとの関係をうまく保ち、ラダック人の民族的アイデンティティが失われることなのないよう、地域を守ることにつながったのです。
バクラ・リンポチェは、自分が指導者であるとは主張していませんでしたが、チベット難民がインドに初めて到着したときの支援活動によって、チベットの人々からも高僧として、また人権活動家としても非常に尊敬されたそうです。
ちなみに、バクラ・リンポチェは駐モンゴル・インド大使も務めており、仏教徒の多い二国間の関係を強化することにも貢献されました。
ダライ・ラマ14世にとっての親しい友人でもあり、仏法の献身的な擁護者であったバクラ・リンポチェ。2003年11月4日に、デリーで生涯を終えました。
このような経緯で、現在のラダックの礎を築いたキーパーソンとなったバクラ・リンポチェ19世。教育と社会の改革、宗教と文化の保護に力を注ぎ、ラダックの発展と近代インドに残した貢献を称えるため、バクラ・リンポチェが亡くなった後の2005年に、レー空港はリンポチェの名を冠する名称に変更されました。
ラダックと世界をつなぎ、伝統に根ざした進歩というバクラ・リンポチェ19世のビジョンを象徴するようなレーの空港。バクラ・リンポチェの生涯の功績と、ラダックの人々のために行動してきた熱意を思い起こさせるものとして存在しています。
4.ゆかりの場所
バクラ・リンポチェ19世の写真は、ラダックの僧院のお堂などで目にすることができますが、とくにゆかりのある場所をいくつかピックアップしてご紹介します。
■スピトゥク僧院 Spitok Gompa
一説には、11世紀にグゲ王国の王によって建立されたといわれています。15世紀前半、当時の王がゲルク派の開祖ツォンカパからの使者を受け入れ、スピトゥク僧院はラダック初のゲルク派の僧院となりました。その後、お堂の修復・拡張が行われ、立体的で複雑な構造になっています。
11世紀につくられたという部分で唯一残っているのが、最上階にあるゴンカンです。ここにはパルデンラモ(吉祥天女)がご本尊として祀られており、仏教徒のみならずヒンドゥー教徒も訪れるといいます。
この僧院の座主は、先にお伝えしたとおりバクラ・リンポチェで、お堂に19世と20世の写真が飾られていました。
そしてこの僧院の特徴は何といっても、空港が一望できる絶好の場所にあることです。
■シャンカール僧院 Sankar Gompa
20世紀初頭、バクラ・リンポチェ19世によって創建されたゲルク派の僧院。
本堂には、ドゥカル(白傘蓋仏母)の像が安置されています。「傘蓋」とは高貴な人たちのみが使う日傘で、暑さを遮ることから悪魔を遮る意味となりました。顔・手・脚がそれぞれ千あり、一つ一つの手には目があります。白い傘で災難をよけ、左手に持つ輪玉で煩悩を打ち砕きます。
白傘蓋仏母像は見られる機会が少ないのですが、レー近郊だとシャンカール僧院、レー王宮、ザンスカールではランドゥン僧院、リンシェ僧院でお目にかかることができました。
■ザンラ旧王宮 Zangla Palace
ラダックのさらに奥、ザンスカールの地に残る旧ザンラ王宮。18世バクラ・リンポチェは、ザンラ王宮で生まれました。
18世バクラ・リンポチェのストゥーパ(仏塔)は、旧王宮のすぐ近くにあります。
バクラ・リンポチェが亡くなった後、宮殿の前で火葬され、後にストゥーパが建てられました。そのストゥーパの状態が劣化した後、村全体にバクラ・リンポチェの祝福が届くよう、丘の上にあるこの場所に移されたのだそうです。
■その他
ザンスカールのパドゥム僧院、トンデ僧院のドゥカンにも、バクラ・リンポチェの壁画が描かれています。
ラダックの玄関口である、レー空港に名を冠するクショク・バクラ・リンポチェ。
僧院を見学した際に、祭壇に飾られているバクラ・リンポチェの写真や、マングースを抱いている高僧の壁画に出会ったら、現在もラダックがラダックらしくある歴史的背景に想いを馳せてみると、より理解が深まるかもしれません。
※僧院や空港の情報は、2024年7月訪問時のものです。
参考:『インド,ラダックにおける仏教ナショナリズムの始まり』名古屋学院大学/宮坂清(2014年)、INDIA TODAY、インド首相官邸Webサイト、日本総研RIM 環太平洋ビジネス情報 1998年7月No.42『南アジア緊張の火種・カシミール問題を考える』、新纂浄土宗大辞典など
Photo & Text: Kondo
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