ダージリン① 美しきヒマラヤと紅茶の里 

「ダージリン」という単語は、紅茶の名前として聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。最高級の紅茶として世界中で飲まれているダージリンティーは、その生産地「ダージリン」から名付けられています。

今回は、インド北東部に位置する西ベンガル州ダージリン地方について紹介いたします。

 

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道と美しいヒマラヤ山脈  これぞダージリンという1枚!

 

■成り立ち

ダージリンは、現在西ベンガル州の一都市ですが、もとは隣接しているシッキム州の一部でした。17世紀にチベット人がシッキム王国を建ててからインドに併合されるまで、ネパールとブータンの間に存在したシッキムは、3世紀続いたヒマラヤの小国でした。

19世紀になると、インド亜大陸で植民地支配を広げていたイギリスが進出し、シッキムを保護国にしました。クーラーのなかった時代、日中40度を上回るようなインド平野部の夏の暑さはイギリス人にとっては耐え難く、ダージリンのような涼しい高原が保養地として必要だったのです。

 

イギリスの植民地時代、ダージリンは涼しい山の気候が好まれ、在印英国人の避暑地・学校の街として人工的に開発されました。そのため、今も英国風の建物や街並みが残っています。ダージリンという名も、昔この町にあった「ドルジェ・リン(DorjeLing)」という仏教僧院の名を、イギリス人が呼びやすい呼称にしたと言われています。主要産業である紅茶の栽培を始めたのも、当時ダージリン地区長官を務めていたキャンベル博士でした。

 

1947年にインドがイギリスから分離独立すると、インドがシッキム王国を引き継ぐことになり、一時はインドの保護国となります。しかし、王国の民主化が進む中、選挙制度を巡る暴動をきっかけにインドが軍事介入し、シッキム国会は「民主主義発展の妨害者である国王の廃止と責任感の強い政府であるインドへの併合」を満場一致で決議し、1975年に正式にインドに合併されました。こうしてシッキム州が成立し、ダージリンはインドの西ベンガル州の一都市となりました。

 

茶摘みの様子

 

■ダージリンの民族

イギリスがシッキム王国を保護国とする前、ダージリンはネパールを統一したグルカ王国の支配下にありました。その後、19世紀後半からこの地で紅茶の栽培を始めたイギリス人は、紅茶園で働く安価な労働者が大量に必要となり、ネパールからたくさんの人々を移住させました。このような背景から、現在ダージリン住民の多数をネパール系民族が占めています。

ダージリンは西ベンガル州に属していますが、西ベンガル州の州都・コルカタと北の山間部にあるダージリンとでは位置、言語、歴史的背景、また文化的にも全てがかけ離れています。西ベンガル州の公用語はベンガル語です。一方でダージリンでは学校でもネパール語や英語で授業が行われています。2017年、西ベンガル州政府は州内でのベンガル語の教育を義務化することを決定しました。ダージリンはこの決定に対し「言語、文化の押し付けである」と大反発し、その後大規模なストライキへと発展しました。

現在は、ダージリンを「ゴルカランド」州として西ベンガル州からの独立を望む動きも起こっており、定期的に活発化しています。

 

Darjeeling
ダージリンの街並みとカンチェンジュンガ連山

 

■ダージリンのみどころ

標高2,134mという高地にあるため、夏は日中でも涼しく過ごしやすいダージリン。インド国内外から多くの避暑客・観光客が訪れます。

おすすめの時期は、雨季が明け乾季に入る10月後半から12月上旬頃です。晴天率も上がり、ヒマラヤが展望できる確率もぐっと上がります。ダージリン観光のみならず、カンチェンジュンガ周辺のトレッキングにも多くの人が訪れる時期です。

 

それではダージリンの見どころについて、簡単にご紹介いたします!

 

みどころ①:紅茶工場

 

お土産で買って帰るだけでなく製作工程も見てみたいという方には、紅茶工場の見学がお勧めです(茶葉を摘み終わった冬季は工場は休業します)。

収穫期にあたる4~10月は、茶畑で茶摘みをしている風景も見ることが出来るので、紅茶の王様であるダージリンティーがどのように摘まれ、加工され、紅茶葉として製品になるかを見学することが出来ます。
紅茶工場のなかには、見学不可であったり事前申請制であったりする工場があるので、お目当ての銘柄がある場合は事前にチェックが必要です。

 

Darjeeling
紅茶工場<Happy Valley Tea Factory>
ホテルでのハイティーの様子。美味しい焼菓子とダージリンティーで優雅な時間をどうぞ

11月ダージリン中心部からほど近い、ハッピーバレー紅茶園を訪問しました。工場内での作業は全て終了しており機械は止まっていましたが、まだ紅茶の香りが工場内に立ち込めていて今すぐに美味しい紅茶を飲みたい!という気分になりました(工場に小さな売店があり試飲も可能です!)。

 

 

みどころ②:ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 

収穫した紅茶の輸送と避暑客のために開通したダージリン・ヒマラヤ鉄道は、トイ・トレインとして親しまれ、ユネスコ世界遺産にも登録されています。現在は、観光用蒸気機関車もあり、約1時間の乗車を楽しむことが出来ます。

詳しくはダージリン③の記事で紹介します。

 

トイトレイン

 

みどころ③:タイガーヒル
(世界第3位の高峰カンチェンジュンガのビューポイント)

 

ダージリンの街周辺には、たくさんのヒマラヤビューポイントがあります。晴れていれば世界第3位の高峰・カンチェンジュンガをはじめ、美しいヒマラヤの山々を望むことができます。

なかでも一番整備され、よく訪れられているのは標高2,590mの展望台タイガー・ヒルです。天気が良ければ、遠くにエベレストの姿を眺められることも!

なお、ヒマラヤを望むには早朝の時間帯が圧倒的におすすめです。日の出前にダージリンを出発して、タイガーヒルにてご来光と朝日で輝くカンチェンジュンガをご覧ください。

 

 

Darjeeling
タイガーヒルから望むカンチェンジュンガ。朝日が当たり薄く赤く色づいています。
Darjeeling
インドヒマラヤの王者カンチェンジュンガ(8,586m)。「カンチェンジュンガの意味は五つの宝庫をもつ偉大な雪山」

 

みどころ④:ヒマラヤ動物園・ヒマラヤ登山学校

 

Darjeeling
ヒマラヤ動物園・登山学校

同じ敷地内に動物園とヒマラヤ登山学校が併設されています。

ヒマラヤ地方の動物の研究、保護、保存を目的に建設されたヒマラヤ動物園では幻の動物と言われるユキヒョウや、インドではここでしか飼育されていないシベリアン・タイガーを見学することが出来ます。

ヒマラヤ登山学校は、インドの登山家を訓練するために建設され、併設されている登山博物館ではエベレスト登頂者たちの写真、1953年のエベレスト初登頂時に使用された装備等が展示されています。

 

ユキヒョウ
Darjeeling
ヒマラヤ登山学校の正面広場にはイギリスの登山家ジョージ・マロニーとともにエベレスト初登頂したテンジン・ノルゲイの銅像が

 

ダージリン②の記事へ続きます!

 

≪西遊インディアのツアーの紹介≫

■世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

 

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ボーパール②<ホテル紹介>ジャハン・ヌマ・パレスと、ボーパールの悲劇

Namaste!! 西遊インディアの岡田です。

 

ジャハン・ヌマ・パレス外観 (出典:ジャハン・ヌマ・パレス公式サイト)
ジャハン・ヌマ・パレス外観 (出典:ジャハン・ヌマ・パレス公式サイト)

ボーパール①の記事でも紹介しました通り、インド中央部のマディヤ・プラデーシュ州の州都であるボーパールは、サンチー仏教遺跡群やビーマベトカ壁画への観光の拠点として多くの旅行者が訪れる街です。

 

今回は、ボーパールの街で一番のおすすめであり、旅行者に大変人気の5つ星ヘリテージホテル・ジャハン・ヌマ・パレスをご紹介いたします。

 

Bhopal
ホテルの正面玄関。いつもスタッフが笑顔で迎えてくれます

 

ジャハン・ヌマ・パレス 夜の庭園
ジャハン・ヌマ・パレス 夜の庭園

ジャハン・ヌマ・パレスは、白い外壁と周囲の緑のコントラストが美しい、歴史あるホテルです。2階建ての低層の造りで、ロビーを抜けると大変広い中庭があり、その周りに客室が並んでいます。中庭は吹き抜けになっており、大変開放的です。

 

先の記事でも述べましたが、ボーパールにおいて1829年から1926年までの107年間、ベーガムと呼ばれる4人の女性指導者たちが統治していたことは大変有名です。

最初の女性指導者であるカドシャ・ベーガムは暗殺された夫の跡を継いでボーパールの統治を進め、その統治は彼女の娘からさらにその娘へと、母子4代にわたりました。その4代目・スルタン・ジャハン・ベーガムの治世の時・1890年に建設された宮殿が、現在のジャハン・ヌマ・パレス・ホテルです。

 

ジャハン・ヌマ・パレスは、完成後藩王族の住まいとして使われてきましたが、上記スルタン・ジャハン・ベーガムの次男(ウバイドゥラ・ハン)が亡くなる1924年以降、宮殿は移転や改築を経ながら様々な用途で用いられるようになりました。
次男の死後、1952年までは事務局として利用され、その後インド政府に接収された宮殿は政府によって宿泊施設として、そして1981年まではインド地理調査局の事務所として利用されました。

 

Bhopal
客室内
ジャハン・ヌマ・パレス 客室
ジャハン・ヌマ・パレス 客室

インド分離独立後、再度藩王一族の元に戻ってきた宮殿は、ウバイドゥラ・ハンの孫が5つ星ホテルとして整備し、1983年の9月に現ジャハン・ヌマ・パレスホテルとしてオープンしました。19世紀の藩王国時代の雰囲気をそのままに引き継いだ高級ホテルとして話題となり、2000年には人気ヘリテージホテルとして選出されるようになりました。レストランも評価が高く、またカフェやスパも併設されています。

 

Bhopal
ホテルのレセプション。正面は広いロビースペースになっており、歴代藩王の肖像画や古い調度品が展示されています

現在でもウバイドゥラ・ハンのひ孫にあたる方が経営しているジャハン・ヌマ・パレス。ホテル内には一族の歴史を示す当時の写真や道具などが飾られており、まさにボーパールの歴史を肌で味わうことのできるホテルです。ボーパールでの滞在に余裕のある場合は、ぜひとも泊まっていただきたいホテルです。

 

是非ご検討ください!

 

 

最後に、ボーパール関連のエピソードで忘れてはならない事故の話です。
ボーパールの街は、今から35年前の1984年12月に大変悲惨な事故に見舞われてしまいました。

 

その事故とは「ボーパール化学工場事故( Bhopal disaster)」。ユニオン・カーバイド社の化学工場で、深夜に起きた事故により強い毒性を持つガスが工場から漏れ出て街へと流入。未明までに約2,000人が命を落とし、その後も死傷者は増え最終的には2万人を超える死者をだした、史上最大・最悪の産業事故です。問題となった物質はイソシアン酸メチルという肺を犯す猛毒でした。
今でも、工場を管理していたユニオンカーバイド社への訴訟や責任問題は未解決とのことです。

 

この他に類をみない惨劇が起こったボーパールは、インド国内では「インドの広島」と呼ばれています。

 

Bhopal
ユニオンカーバイド社工場の跡地

活気溢れるボーパールの街からは、今は事故の影はありません。
ですが、汚染された土壌の回復や、被害者の後遺症との闘いや心のケア、遺族のケア等、まだ問題は残ったままとなっています。

 

 

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ボーパール① サンチー仏教遺跡群とビーマベトカ壁画

 

ナマステ!!西遊インディアの岡田です。今日はサンチー遺跡とビーマベトカ壁画、その拠点となるボーパールの街をご紹介します。

 

インド中央部に位置し、「中央の州」を表すマディヤ・プラデーシュ州の州都・ボーパール。デリーからは南へ800kmほどの位置にあります。18世紀からインド独立まで、イギリス統治の下でボーパール藩王国として栄え、その中でも1829年から1926年までの107年間は4人の女性藩王が治めたことで知られています。

ボーパールは付近の二つの世界遺産・サンチー遺跡とビーマベトカ壁画の観光拠点として多くの旅行者が訪れる街となっていますが、ボーパールの街自体も非常に多くの見どころを有しています。

その一つが、街の中心にあるタージウル・マスジッド。女性藩王の一人・シャー・ジャハーン・ベーガムがデリーのジャマー・マスジッドに勝るモスクを目指して1800年半ばに建設を開始しました。彼女の死後資金難等の問題により何度も建設は中止しましたが、1985年に完成しました。現在はアジア最大級のモスクとして、ボーパールのシンボルとなっております。

 

■サンチー遺跡

サンチー遺跡の第1ストゥーパ
サンチー遺跡の第1ストゥーパ

 

ボパールから北東へ約50km、サンチーの街へ着くと山の上にストゥーパの影が見えてきます。

ストゥーパ(仏塔)は本来は仏舎利(仏陀の遺骨/遺灰)を収めた塚を指し、全てのストゥーパには仏舎利が収められているとされていましたが、現在はその真偽を問わずに信仰の対象となっています。日本では「卒塔婆」あるいは単に「塔」として伝えられ、各地に三重塔や五重塔のような形で残されています。インドでは仏教へ帰依し広く布教を行った紀元前3世紀・マウリヤ朝のアショーカ王によって各地にストゥーパ、そしてアショーカの石柱と呼ばれる石柱が建設されています。

 

メインとなるサンチーの第一ストゥーパはアショーカ王によって建設されたもの。紀元前3世紀の建設の後、その後前2~1世紀にそれを覆うように拡張され現在の姿となりました。最大の見どころは、ストゥーパへの入り口に建てられた門・トラナに施された精緻な彫刻群です。

 

トラナに施された彫刻(北門裏側)
トラナに施された彫刻(北門裏側)

トラナはストゥーパへ至る通路にかかる塔門。日本の「鳥居」の原型はこのトラナにあると言われます。東西南北に建てられたトラナは、その表裏を覆いつくすように仏伝、ジャータカと呼ばれる仏陀の前世譚などをモチーフにした精緻なレリーフが刻まれています。トラナを埋め尽くすレリーフは「石の絵本」とも表現され、美仏陀の生涯やその教えを現代に伝えています。

 

仏陀が生まれる前のマヤ夫人に象が入る夢の場面
釈迦の生母・マヤ夫人(一番上)。天から白象が降りてきて、自分の右わきから胎内に入る夢を見て懐妊したという伝説が伝えられています。

初期仏教では仏陀を直接的に彫刻、絵画等で表すことは憚られました。そのためこの時期は「無仏像時代」といわれています。
仏陀はどの場面でも菩提樹・法輪・足跡・仏塔・傘などでシンボリックに表現されており、レリーフの中にはそれらを組み合わせて象徴的に仏陀の前身を表したものも見ることができます。仏陀の姿が仏像として実際に表されるようになるのは紀元後1世紀以降のことです。

 

仏足で象徴的に表された仏陀
仏足で象徴的に表された仏陀

 

仏教の衰退後は多くのストゥーパが破壊されてしまったのに対し、サンチーのストゥーパは森におおわれていたため発見を免れ、19世紀にイギリス軍により再発見されるまで良好な状態で残っていました。現在は第1~3までの3つのストゥーパに加えて僧院や寺院なども一部が残っており、一大仏教センターとして賑わったであろう当時の様子を伺えます。

 

第3ストゥーパ
第3ストゥーパ

 

■ビーマベトカ遺跡

ビーマベトカ壁画
ビーマベトカ壁画

続いて、ボーパールより幹線道路を南下すること約50kmのところに位置する、ビーマベトカ岩窟群をご紹介します。
ビーマベトカの岩窟群はチークの木が生い茂る小高い丘の上にあり、それぞれの岩陰に最大で約1万5千年前~3000年前の人類が描いた壁画が残されています。初期は単純な動物・人間の姿を写したものが、時代を下るにつれて人と人とが輪になって踊る様子、集団で狩りをする様子、馬に乗って行進する様子等へ変わっていき、当時の様子や社会の形成・発展の過程を知ることができます。

その他、馬は約3,000年前にモンゴルからはじめてインドに来たため、馬が描かれている壁画は3,000年前以降の新しいもの、また人物が三角形で描写されているのは5,000年前のもの、といった壁画の時代の見分け方もありそれぞれの岩全てを大変興味深く見ることができます。

 

この壁画を描くのに使われている染料は全て天然のものです。白は植物の根や石、動物の骨を粉末にしたもの、赤は動物の血や植物の樹液を混ぜたもの。黄色は植物の花等を原料として作られており、色の種類も時代に従って豊富になっていきます。

 

赤色顔料を用いた壁画 (武器を持ち馬に乗る人々)
赤色顔料を用いた壁画 (武器を持ち馬に乗る人々)

 

白色・黄色の顔料を用いた壁画(花)
白色・黄色の顔料を用いた壁画(花)

 

全部で750ある岩のうち、500の岩陰に壁画が施されています(旅行者が観光できるエリアは、15箇所のみです)。なかでも、大きな岩面に様々な時代の壁画が密集して描かれている場所は「Zoo Rock」と呼ばれ、1万年以上もの長期にわたって継続的に人々が生活し、壁画を描き続けてきたことを示す貴重な資料となっています。

 

岩一面に壁画が施されたZoo Rock
岩一面に壁画が施されたZoo Rock
ビーマベトカの岩体
ビーマベトカの岩体

 

描かれた岩絵は、ストーリー性のあるものもあり、大変見応えがあります。上記に述べたこの土地の人々の営みの変遷もそうですし、この岩窟周辺には、今よりも緑が溢れ、牛、鹿、猪、バイソンなど多くの動物が生息していたのが、壁画から伺えます。

世界にはこのような太古の岩陰壁画が残されている場所は数多くありますが、ここビーマベトカではいつ行っても他に観光客もおらず独占的に観光できるのも魅力。この地での人の営みを想像しながら、ゆっくりと見学をお楽しみください。

 

 

<西遊旅行>サーンチー・ビーマベトカを訪問する西インドツアーはこちら

 

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南国ケーララでハウスボートクルージング②

ナマステ! 西遊インディアです。
本記事ではケーララ州の水郷地帯で楽しむハウスボートクルーズの2日目の様子をご紹介いたします。

(前回の記事はこちら

 

⛴ ⛴ ⛴ ⛴ ⛴

 

2日目の早朝。日の出過ぎに、ハウスボートは動き出します。

こちらは寝室から見えた地元の漁師の方。小さな船に立ちながらバランスよく作業する様はまさに職人技でした。

 

Kerala
早朝小舟をだす村の人
Kerala
眩しく輝く朝日

朝食は南インドの定番朝ごはん、イドゥリー(豆と米の粉などから作った蒸しパン)とサンバル(スパイスたっぷりの南インド風スープカレー)。そして搾りたてのパイナップルジュースとたくさんのカットフルーツでした。

 

Kerala
朝食
Kerala
南インドの朝食の定番・イドゥリ―

このクルーズはハウスボートでの宿泊がひとつのポイントですが、「バックウォーターの景色」も大きな見どころであり魅力です。

ケーララ州には、総延長1,500kmの運河が広がっております。

このバックウォーターエリアは米作地帯のため、運河の左右には奥まで広がる青々とした稲穂の育つ水田を見ることができます。水田だけだと見慣れた景色ですが、その回りにバナナやヤシの木が生えており、ケーララらしい景色となっています。
また、運河沿いに暮らす人々の暮らしが見られるのも楽しいものです。運河の水で炊事洗濯をするお母さん、水浴びする子どもたち。まさに生活とぴったり密着しています。また、張り巡らされた水路は現在でも地元の人に利用されており、ボートに乗って登校、出勤します。登校用のボートを船乗り場で待つ子ども達をたくさん見かけました。

 

Kerala
ヤシの木の奥には水田が広がっています
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洗濯をするお母さん
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登校用のボートを待つ子どもたち
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水浴びする子どもたち。気持ちよさそうです。 羨ましい!

ケーララのハウスボートクルーズは外国人観光客のみならず、今やインド人国内観光客の方にも大人気です。クルーズ中、インド人観光客の方が乗ったボートとたくさんすれ違いました。船着き場では、デリーから来たというファミリーと出会いましたが、内陸のデリーでずっと生活してきた人にとっては、川・海・空が青く、美しい緑がいっぱいに広がるケーララは、まさに南国の楽園そのものなのだと思います。本当に皆さん楽しそうでした。

 

Kerala
手を振ってこたえてくれる国内観光客のみなさん

ボートから見ることのできる全てのものを楽しみながら、アレッピーの船着き場まで戻ります。クルーズ終盤は、河口へと近づき、景色も大きく変わります。

 

Kerala
河口部分に到着

9時頃、ハウスボートは船着き場に到着。名残惜しすぎて船着き場についてもボートを降りたくない…最後にはそんな気持ちになっていました。南国的な景色に、温暖な気候。お食事も素晴らしく、心も体も癒された1泊2日でした。

 

ハウスボートはまさに動くホテルで、基本的には大変快適に過ごせます。船内は清潔、設備も問題なく、スタッフもフレンドリーでみなさん温かく迎えてくれました。
ただ、よく皆様にご質問いただいている点でもありますが、Wifi設備はボートにはございません。また、インドの携帯SIM(Airtel)を利用していても、クルーズ中は一時的に電波が無くなり、接続ができなくなることがありました。その点だけ注意が必要です。

 

最後に、クルーズを快適に、そして120%満喫するためのお勧めの持ち物をご紹介します。

 

  1. 虫よけグッズ
    ダイニングスペースはオープンエアです。寝室などもハウスボートの造り上、完璧にドアを閉めることはできないので、隙間から入ってきてしまいます。肌に塗るタイプの虫よけスプレーなどお持ちになることをお勧めします。ハウスボートでも対策はしてくれているのですが、結構刺されました。※ケララでは年中蚊がいます。
  2.  洗面用具
    ハウスボートでは基本的にアメニティの設置はありません。
  3.  サンダル
    靴だと暑いので、スリッパやビーチサンダルなどあると快適です。
  4. 酔い止め
    停泊の際は岸に打ち付けられるような横揺れがありました。揺れに弱い方は酔い止めをお持ちになるとよいかと思います。
  5. 自由時間を楽しむアイテム
    貸し切りハウスボートでは、自由時間を思い思いに楽しむことができます。カメラ、本、トランプ、スピーカー、スケッチブックなどなど (ハウスボートが動いている間は他のハウスボートとも距離があるので、個人で楽しむくらいの音量でしたら、音楽もお楽しみいただけます。楽器を持ってきて演奏されている方もいらっしゃいました! ※停泊中や夜間は周りの方に迷惑にならないよう、音量等、十分お気をつけください。)
  6. 日本の調味料
    記事①でも紹介しましたが、クルーズ中魚屋さんに立ち寄ることが可能です。そこで新鮮なシーフードを購入できますので、夕食時にグリルしてもらいお召し上がりください  (No masalaと言い忘れると、カレー味になります。ご注意を)
    塩・胡椒でも十分美味しいのですが、醤油があったらなぁ…と思いました。

 

 

ハウスボートクルーズはゆったりと過ごせる1泊2日が大変お勧めですが、4時間ほどのデイクルーズのアレンジも可能です。また、よりバックウォーターを体感されたい方は、細い水路をカヌーで巡るビレッジツアーなどのアクティビティもおすすめです!!

 

Kerala
かわいく並んだヤシ!

 

西遊旅行の楽園の南インドツアー

西遊インディアのハウスボートクルーズツアー

 

Text  by Saiyu India

 

 

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シク教の聖地 アムリトサル③ 観光編

ナマステ!

今回は、今やアムリトサルの一大名物となっているインド・パキスタン国境で毎夕行われるフラッグセレモニー(国境閉鎖式)と、アムリトサル市内の黄金寺院以外の見どころについてご紹介します。

 

■フラッグセレモニー

「フラッグセレモニー」とは、インドとパキスタンの国境地点(インド側:アターリー、パキスタン側:ワガ)で、毎夕行われている国境閉鎖式の通称です。

アターリー/ワガ国境は、朝9時から午後3時までしか開いておらず、夕方は閉門します(ちなみにこの国境は、この60年来インドとパキスタン間を外国人が越えることのできる唯一の国境です)。

毎日国境を閉める前に、日中掲げている両国の国旗を降ろし丁寧に畳んでしまい、その後ゲートを完全に閉鎖します。その様子を見守るのがこの「フラッグセレモニー」ですが、始まりはなんと1959年。それから毎日ずっと続いています。

 

 

フラッグセレモニー会場・インド側の様子
フラッグセレモニー会場・インド側の様子

 

日没の約1~1.5時間前になるとインド、パキスタン両側ともに観光客や地元の方が集まりスタジアムを埋め尽くします。ボリウッドソングが大音量で流れ、歓声が響き渡る会場では、観客のテンションもMAX。両国ともに、ダンス、掛け声などを披露していきますが、盛り上がりの度合いは愛国心のバロメーターだとでも思っているのか、両陣営ともに必死です。会場は毎日相当な熱気に包まれますが、特に週末はたくさんの方が訪れ、巨大なスタジアムに収まりきらない程の人が殺到しひときわ盛り上がります。
(週末に訪問予定の場合は、かなり時間的余裕を持って現地に到着するよう計画してください)。

 

 

国旗グッズは現地で購入可能です

 

インド側では、観客がインドの国旗を持って走ったり、中央の広場でダンスが繰り広げられたりと、観客が参加するシーンも多くありました。

 

国旗を持って走る参加者

 

国境のゲートで旗を降ろす様子セレモニーが始まると、インド兵、パキスタン兵が登場。国威を示さんばかりに大きく腕や足を振り上げ行進しますが、国旗降納の場面では、両国の旗が常に同じ高さに保たれるように、非常にゆっくり、慎重に降ろされます。

最後は、インドとパキスタンの両軍の兵士が固い握手と敬礼を交わし、終了です。

 

 

行進するインド兵
行進するインド兵
国旗をゆっくりと降ろしています
両方のスピードを揃えて、ゆっくりと降ろしています

 

やはり抱えている人口の違いか、インド側の観客の方が数が多く、インド側にいると、パキスタン側の観客の歓声はかすかにしか聞こえません。しかし、パキスタン側からのセレモニー参加は、会場の参加人数ではやや劣るものの、それに負けじと観客全員が一体となっている印象を受けました。

 

インド側、パキスタン側、いずれにしても見ごたえがあるので、ぜひ両側から見学してみてください!

 

▼こちらは、フラッグセレモニーをパキスタン側から見た動画です!
(奥側がインドです)。

 

 

■ジャリヤンワーラー庭園

1947年の印パ分離独立から現在において、印パ両国間の関係は未だ安定していないというのはみなさまご存知かと思います。アムリトサルはその印パ国境から近い街ということで、訪問に際し治安面を心配されている方もいるかもしれません。確かに、印パ間でいざこざが起こると、即座にアムリトサルの空港が閉鎖になり、緊張感が走ります…。手放しで常に絶対安全! とは言えないエリアではありますが、基本的にはアムリトサルの日常は他の都市同様落ち着いており、大変穏やかです。

 

そんな平穏無事なアムリトサルのほぼ中心地に、緑豊かで大変のどかな庭園「ジャリヤンワーラー庭園」があります。現在は人々が集い寛ぐ庭園ですが、イギリス占領下の時代、この場所で大変悲劇的な事件が起きました。

 

1917年、当時のインドはイギリスの直接統治下に置かれておりましたが、自治要求運動が各地で激化しようとしていた頃でした。イギリスは、インドに第一次世界大戦後に自治を徐々に認めていくという約束をしておりましたが、実際にその約束のために施行されたものは全く意味を成さないもので、自治実現に希望を膨らませていたインド国民は、失望していました。
1919年3月、「ローラット法」が発布されました。ローラット法とは、令状なしの逮捕、裁判手続き抜きの投獄を認める、民族運動に対する法外な弾圧を目的とする法律です。これに対し、1919年4月、アムリトサルを中心してパンジャーブ州内で大暴動が発生し、町中で暴徒に襲われたイギリス人が十数人亡くなりました。すぐさま治安部隊が投入され、集会禁止令が発令されました。

 

事件が起こったのはその年の4月13日、アムリトサルの民族指導者が逮捕され、これに抗議する市民が集会を行いました。集会には女性や子供たちも参加しており、非武装かつ暴力的な行いもありませんでしたが、イギリスのダイヤー准将はグルカ兵(ネパール山岳民族から構成された兵)とイスラム教徒からなるインド軍部隊にいきなり発砲させました。解散の警告も与えられず、逃げ惑う人々の背中に向かって10~15分に渡り弾丸が尽きるまで銃撃が続けられ、379名が亡くなり、1137名の負傷者をだす惨事となりました。
※死傷者の方の数字は諸説あります。

 

銃弾の跡が残る壁

「土民に思い知らせるため(実際の准将の言葉といわれています)」、行われたこの「アムリトサル大虐殺」は、あまりにも凄惨な事件として広まり、これをきっかけに、インドの反英運動は更に強まっていきました。また既に始まっていたマハトマ・ガンディーの非暴力抵抗運動にも大きく影響を及ぼすことになりました。

 

犠牲者追悼の碑
犠牲者追悼の碑
ジャリヤンワラー公園
公園内では銃を構えた人を模したモニュメントも

現在、ジャリヤンワーラー庭園内には慰霊碑が建てられ、当時の銃弾跡や人々が逃げ込んだものの亡くなってしまった井戸等が大切に保存されています。また、ギャラリーも併設されており、なかでは事件の現場を描いた絵画が展示されています。

 

■バザール

アムリトサルへの旅行では、ショッピングも1つの楽しみです。黄金寺院付近には、文房具・ポット・アクセサリーなどが売られるカーティアン(Kathian)バザール、婦人服店が並ぶグル(Guru)バザールなど、多数のバザールがあります。

 

バザールで売られているアクセサリー

たくさんのバザール、ストリートがある中でもメインとなるのは、パーティション博物館のあるアムリトサルの市庁舎から黄金寺院までをつなぐ道。2016年ごろに整備され、ヨーロッパの街並みを思わせる解放感のあるストリートが黄金寺院まで続きます。

 

メインストリート

約500mのこのストリートは、歩行者天国となっていて、黄金寺院に向かう人や、参拝を終えて帰っていく人々がショッピングを楽しんだり、ベンチで休憩しています。また、ところどころに建てられている様々なモニュメント群にも注目してみてください。特に目を引くのが、こちらの大理石の彫刻。

 

犠牲者の顔の彫刻

 

「アムリトサル大虐殺」で亡くなった犠牲者のために、ジャリヤンワラー庭園への入り口付近に建てられました。犠牲者の中でも名の知れた約80人の顔や名前が刻印されています。

このストリートではその他にも、「パンジャーブの虎」と呼ばれたシク王国の君主ランジート・シンの銅像や、シク教の伝統的なダンスを表現した像も見ることが出来ます。

 

ランジート・シンの像

 

アムリトサル訪問の際には、参拝客や観光客で賑わうバザールでの散策もぜひお楽しみください。

 

 

 

≪インド支店・西遊インディアのツアー紹介≫

 

■アムリトサル 1泊2日 黄金寺院とパキスタン国境のフラッグ・セレモニー

■印パ両側から見る国境フラッグ・セレモニー!ラホール・アムリトサル2泊3日

 

 

参考図書:南アジアを知る事典(平凡社)

 

 

カテゴリ:■インド北部 , アムリトサル , インド・パキスタン国境 , パンジャーブ州
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シク教の聖地 アムリトサル② 黄金寺院とグル・カ・ランガル

Golden Temple
黄金寺院の聖堂と四方を囲む聖なる池「アムリタ・サロヴァル」

 

今回は、アムリトサル観光の目玉でもある黄金寺院と、併設されているランガル(食堂)を紹介します。

 

■ハリマンディール・サーヒブ

シク教における寺院はグルドワーラーといわれていますが、そのなかで最も神聖であり、シク教の原典も安置されている寺院が、アムリトサルにあるハリマンディール・サーヒブです。「アムリタ・サロヴァル(不老不死の池)」と呼ばれる聖なる池の中央にその聖堂が建ち、750Kgもの純金で装飾されているため、黄金寺院(Goden Temple)という名前で親しまれています。

 

 

Golden Temple
聖堂

アムリタ・サロヴァルに架かる橋を渡ると、シクの聖典「グル・グラント・サーヒブ」の原典が安置されている聖堂へと進むことがきます。聖堂へはシク教に限定されずどなたでも参拝ができます。聖堂へと続く橋の上は、参拝客で長蛇の列ですが、ハルモニウムやタブラーの伴奏とともに聖典を詠唱する声が響き、神聖な雰囲気に包まれています。また聖堂の煌びやかで美しい装飾も一見の価値ありです。ぜひ時間的余裕を十分に持って、訪れてください。

 

なお、参拝時には①頭を布で覆う②靴、靴下を脱ぎ預ける③洗い場で足を洗い清めてからの入場④たばこ・酒の持ち込みは禁止、等のルールがありますので、入場前によく確認してください。

 

 

並ぶ参拝客

 

聖堂内の美しい装飾

 

夜の黄金寺院訪問もおすすめです。ライトアップされ水面に映る黄金寺院は何とも幻想的。なお黄金寺院内には巡礼宿も併設されており、夜でも参拝客が途絶えません。昼間とは異なる美しさの黄金寺院を味わうことが出来ます。

 

ライトアップされた黄金寺院

 

 

■グル・カ・ランガル

黄金寺院内には「グル・カ・ランガル」という食堂が併設されています。1度に5千人もの人々が同時に食事ができる大きな食堂で、平均して1日に10万人分もの食事が提供されています。この食堂は、シク教のある教義を守り、実践するため500年以上も続いている習わしです。

 

「宗教、カースト、肌の色、信条、年齢、性別、社会的地位に関係なく、すべての人々は平等である」

 

ご存知の通り、ヒンドゥー社会にはカーストという身分制度があり、異なるカーストの人間は食事を共にしてはならない、という掟がありました(現在はカースト制度は憲法で廃止されましたが、その根は深く、影響は未だ残っています)。シク教の開祖グル・ナーナクは、ヒンドゥー教を排除するような思想はありませんでしたが、カースト制度に対しては否定的、批判的でした。その批判の意味も込め、礼拝後に誰もが同じ部屋で、同じ鍋の食事をとる制度<ランガル>を確立させたのです。

アムリトサルの黄金寺院に限らず、全てのシク教の寺院には必ず共同厨房と食堂があります。誰でも自由に入り、無料で食事を食べることができます。

 

 

配布するお皿が大量に積まれています

一体どのようにして、これほどの人数に食事を提供しているのでしょうか。お昼時、実際に食堂へ足を運んでみました。食堂エリアでは、土足と髪の毛を出していることが禁止されていますので、靴は靴番に預け、頭にはバンダナ、スカーフなどを巻いて入場します。

 

中に入ると、まずはお皿や食器を手渡しで受け取ります。学校給食のように担当が分かれていて、それぞれの担当が、順番にお皿・スプーン・コップなどを配っています。

 

その後食堂の部屋の手前で、既に食事中の前のグループの人たちが食事を終えるのを座って待ちます。前のグループの食事が終わると、私たちのグループが部屋の中に呼ばれます。部屋には細長い布が何本も敷かれており、そこに腰掛けます。

 

 

食堂内の様子

 

布の上に座り、食器を置いて食事が提供されるのを待ちます。この日のメニューは、お米と2種類のカレー、チャパティ、お水でした。チャパティを受け取るときは、両手で受けとります。

 

チャパティを配る様子

 

カレーは辛すぎず、素朴な味でした。観光客が行くようなレストランやホテルでは、外国人向けに味がマイルドに調整されていたり、過度にオイリーに仕上がっていることがありますが、ここでは本当にシンプルな味付けの美味しいカレーがいただけます。食事の後は食器を持って食堂階下へ行き、食器をみなで洗い、元の場所に戻します。

 

 

黄金寺院では、毎日約300人の方が調理、給仕などにあたっています。彼ら全員は無償で働くボランティアです。提供される食事の材料費も全て寄付によって賄われています。

 

シク教の考え方に、「世俗の職業に就いてそれを一生懸命励むことを重んじる」というものがあります。神に祈ることや、出家などをして修行をするのではなく、働くことで幸せになれると考えられています。そういった思想もこの厨房と食堂の存続を支えているのかもしれません。

 

 

厨房の様子
Langar
巨大な鍋がいくつも並んでいます
Langar
チャパティ担当のみなさま。手際が良すぎてカメラでは捉えられません
Langar
チャパティを手際よく焼いています。こちらもスピードが速すぎてカメラでは捉えられず

 

食堂でのボランティアは誰でも参加することが出来ます。お腹を満たした後は、少しお手伝いをしてみてもいいかもしれません。

 

 

なお、黄金寺院のグル・カ・ランガルの様子は、ドキュメンタリー映画となって日本でも公開されました。
「聖者たちの食卓(原題:Himself He Cooks)」。監督はパキスタンに行く途中にアムリトサルの黄金寺院をたまたま訪れ、その食堂のシステム、教義に感銘を受けたというベルギー人のヴァレリー・ベルトとフィリップ・ウィチュス。ベルギーでは2012年公開、日本では2014年以降全国で順次公開されました。現在DVDにもなっております。

 

Himself He Cooks
映画「聖者たちの食卓」(原題:Himself He Cooks)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪ツアー紹介≫

■パンジャーブからヒマーチャル・カングラ渓谷へ

 

≪西遊インディアの現地ツアー紹介≫

■アムリトサル 1泊2日 黄金寺院とパキスタン国境のフラッグ・セレモニー

■印パ両側から見る国境フラッグ・セレモニー!ラホール・アムリトサル2泊3日

 

 

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シク教の聖地 アムリトサル①

ナマステ!
今回は、シク教の聖地として知られ、隣国パキスタンとも陸路移動可能ということで世界中から多くの旅人が集まるインド北西部パンジャーブ州の都市アムリトサルと、アムリトサルを聖地とするシク教について紹介します。

 

(デリーからアムリトサルへのアクセスは、フライトで約1時間、もしくは列車で約6時間半。デリーからの週末1泊2日旅の行先として人気です)。

 

Golden Temple
アムリトサルの象徴黄金寺院

 

パキスタンと国境を接しインド北西部に位置するパンジャーブ州。「パンジャーブ」とは「5つの水(川)」を意味しインダス川と4つの支流(ジェラム川、シェナブ川、ラヴィ川、サトレジ川)に囲まれていたことがその名の由来となっています。大河に囲まれていたことから肥沃な土地が広がり、古くから小麦、米などの生産が盛んでした。インドに限らずパキスタン側のパンジャーブに置いても、「穀倉地帯」として有名です。

 

イギリスのインド植民地化が始まってから、最後まで植民地化に抵抗したのがパンジャーブ地方でしたが、シク戦争の結果、パンジャーブ地方はイギリスに併合されることとなります。1947年のインド・パキスタン分離独立の際に、パンジャーブは東西に分割され、人口のほとんどがイスラム教徒である西部は、パキスタンの西パンジャーブ県、ヒンドゥー教徒、シク教徒が多い東側エリアはインドのパンジャーブ州となりました。その後、二言語州であったインドのパンジャーブ州は、パンジャービー語地域をパンジャーブ州、ヒンディー語地域をハリヤーナ州として二分され、それぞれ単一の言語州となりました。

 

パンジャーブ州はインドで唯一、シク教徒が大多数を占める州ですが、そのシク教徒の総本山・黄金寺院があるのがアムリトサルです。アムリトサルはサンスクリット語で「生命の水の貯水池」という意味。人口は約100万人でインドの一都市としては大規模というわけではないですが、シク教徒の巡礼者が年中訪れ、街の中心地は常に賑わっています。また西側に約50キロ行くと、隣国パキスタンの都市ラホールが位置していることもあり、冒頭で紹介したように多くの旅行者も集まっています。

 

黄金寺院
黄金寺院を参拝するシク教徒の人々

 

【シク教とは】

シク教は15世紀インドでグル・ナーナクによって興された宗教です。ナーナクは現在のパキスタンのタルワンディーという農村で、ヒンドゥー教徒の家庭に生まれました。彼は、各地を旅しながらヒンドゥー教、イスラム教双方の教義を受容しつつ真理を追究しました。また同時期の宗教改革者カビールの影響も受けたといわれています。

 

信徒数は現在約2400万人。インドでは人口の2%ほどと少数派になりますが、世界では5番目に信者の多い宗教です。パンジャーブ州には、インド国内のシク教徒の約4分の3の人口がいるとされています。

シク教徒の男性といえば、「豊かな髭とターバン」をイメージする方が多いのではないでしょうか。シク教徒は、宗教的に髪を切ることが許されておりません。長い髪のままでは生活のあらゆるシーンで邪魔になってしまうため、ターバンのなかに髪の毛をまとめるようになりました。

 

 

シク教徒の巡礼者たち
シク教徒
シク教徒の巡礼者

シク教徒の男性には、下記の5項目の約束事があります。これらの5つは、すべて頭文字がKであるため、シク教徒の5Kと呼ばれています。

1  ケーシュ (Kes) 髪(体毛)を切らないこと
2 キルパン (Kirpan)  短剣
3 カンガー(Kengha) 木製の櫛
4 カラー(Kara)   鉄の腕輪
5 カッチュ(Kachhu) 綿の短パン

 

一般的なターバンの長さは6mほどです。シク教徒の男性は大変お洒落な方が多く、その日のターバンの色に合わせて、シャツ、ネクタイもコーディネートしています(もしくはシャツに合わせてターバンの色を選ぶことも)。
ちなみに最近では、ターバンを着用していない若い方も多いです。理由は暑い、重い、等々。確かに夏は蒸れて大変そうです。

 

Sikh
ターバンの布サンプル。
ターバンを広げるとお店の中から外まで余裕で届く長さ!

シク教は、成立時に裕福で教育水準の高い層の帰依が多かったことから、成立後長らく社会的にも活躍する人材を多く輩出してきました。職務等で海外に渡航するインド人にシク教徒が多く、頭にターバンを巻いたスタイルがインド人のイメージとして海外で広まったと言われています。

インドに実際来てみると、「ターバンを巻いた人が意外といない?」と思う方も多いと思います(私もそうでした…)。それもそのはず、実際にターバンを巻いて生活しているのは、インドに2%しかいないシク教徒で、そのほとんどがパンジャーブ州に集中していますので、パンジャーブ州以外の地域ではあまり見かけません。

 

 

シク教徒の親子
シク教徒の親子。子どもでも髪をまとめて小さなお団子にしています

 

「ターバンを巻いたインド人」というイメージ通りの人々に出会えるアムリトサル。現地でターバンを購入し、観光をしてみるのもお勧めです。次の記事ではアムリトサルの見どころをより詳しくご案内します!

 

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ホテル グレリア・コティ<バラナシ>紹介と路地裏散策

Namaste!!
バラナシの街の見どころ紹介が続きましたので、この流れでバラナシのお勧めホテルをご紹介します。

 

前回: バラナシ② ガンガーのガート群 / 仏教聖地サールナート

 

Guleria Kothi
グレリア・コティ

■Guleria Kothi Hotel

 

バラナシの旧市街にあるヘリテージタイプのホテルです。

皆様ご存知かとは存じますが、ガンジス川沿いには84ものガード(沐浴場)が存在しております。その中心的存在でいつも多くの人で賑わっているガートが、ダシャシュワメード・ガート(Dashashwamedh Ghat)。旧市街エリアで一番大きな交差点であるゴードリヤー(Godowlia)からガンジス川に向かって真っすぐ歩けば着くので、バラナシは初訪問という方にも行き着きやすく、散策の際の目印になるような場所です。そのダシャシュワメード・ガードより川沿いに徒歩15分程歩くと、ガネーシュマンディル・ガート(Ganesh Mandir Ghat)が出現しますが、その直ぐそばに建つヘリテージ風ホテルが今回紹介するグレリア・コティホテルです。
(他にもガンガー沿いに建つヘリテージホテルはございますが、このグレリア・コティは、最近リノベーションが完了しましたのでお部屋内はとても綺麗で近代的。また宿泊料金も他のヘリテージホテルに比べややリーズナブルと大変おすすめです)。

 

Guleria Kothi
夜はライトアップされます

このホテルは、もともと18世紀に地元の有力者の邸宅として建てられました。バラナシ旧市街には古めかしい建物が多いものの18世紀の建物はほとんど現存しておらず、大変貴重です。

外壁や柱にはウッタルプラデーシュ州チュナールから切り出した砂岩が使われていいます。このチュナールの砂岩は、赤みがった色をしておりきめが細かく、大変丈夫な石として、アショーカ王の石柱をはじめとするインドの古い文化遺産にも広く使われています。

 

Guleria Kothi
レセプション近く。中は広々、というわけではないですが選ばれた調度品がセンス良く配置されています
Guleria Kothi
お部屋の一例。グレリア・コティは全てのお部屋がダブルベッド仕様です

ホテルの内部は大変雰囲気が良く、内装や調度品も可愛くて素敵です。全室がガンガー・ビューというわけではないですが、ホテルの前庭のカフェ、屋上からはガンジス川がばっちりご覧いただけるばかりか、耳を澄ませば川が流れる音、波立った川の水が岸にやさしく打ち付ける音が聞こえてきます。

ガートの傍なのでホテルの前の通りなど、日中はそれなりに人通りはありますが、基本的にはとても静か。夜と朝は本当に、驚くほどの静寂です。

 

Guleria Kothi
ホテルの前庭のカフェ。川まではやや階段で高低差が設けられているものの、まさにガンジス川の傍! ここで飲むコーヒーは最高です。

ガード巡りのお散歩、旧市街巡り、また早朝のボート遊覧へのアクセスもこちらのホテルでしたらばっちり。時間いっぱいバラナシをお楽しみいただけます。

 

Varanasi
くつろぐ牛をよけながら散策

特に旧市街散策へはホテルの横の道を入っていけば、意図せずとも迷路のような裏路地の散策が楽しめます。バラナシの旧市街エリアは牛や猿、野犬がうろうろとしている他、狭い路地を無理やり走るオートリキシャ、走り回る地元の子供たち等、散策中は身の回り360度を確認しながら歩かないとなりませんが(特に所々に落ちている牛のフンには要注意です)、皆さまがイメージする「これぞインド!」という風景がここにあるのではないかと思います。

 

Varanasi
バラナシ旧市街を散策
Varanasi
歩き疲れたら路面にあるお茶屋さんにて休憩

グレリア・コティは全部で15室と限られており、シーズン中は大変混みあい満室ということも少なくありません。ご検討の際はお早めにご相談下さい。

 

インド支店・西遊インディアではバラナシツアーを取り扱っております。
バラナシ1泊2日

 

Text,Photo : Hashimoto

 

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バラナシ ①ガンガー神話とプジャ

ナマステ!!

 

西遊インディアの岡田です。インドと言えばヒンドゥー教、ヒンドゥー教と言えばガンジス川、ガンジス川と言えばバラナシ。本日はヒンドゥー教の一大聖地:バラナシの街をご紹介します。

 

ガンガー(ガンジス川)とガート群
ガンガー(ガンジス川)とガート群

日本人にとっても知名度が高く、いつかはバラナシに行ってみたい、という方も多いのではないでしょうか。今回は「バラナシ前編:ガンガー神話とプジャ」としてご紹介します。「ガンガー」はヒンドゥー語での名称、後に英語ではガンジス川と表現されていきます。

バラナシの都市としての歴史は非常に古く、紀元前6世紀頃にはカーシー王国が都をバラナシに置き、ガンジス川中流域の経済・文化的な中心地として発展していました。紀元後5世紀頃のグプタ朝の下では政治的な安定のもとヒンドゥー教・仏教ともに大きく文化的に発展し、その中でバラナシはシヴァ信仰の中心地としての地位を確立していきます。ヒンドゥー教の隆盛に従い以降多くの寺院やガートが整備されていきますが、11世紀以降のイスラム王朝の侵略の結果寺院は徹底的に破壊されてしまいます。

 

しかし16世紀以降、ムガル帝国の凋落期には南部のマラーター同盟による寄進などにより寺院の再建が進み、現代のバラナシのガート群の姿が形作られていきました。現在でも聖地として、インド国内外から多くの巡礼者が訪れます。

 

18世紀前半にバラナシを統治したバルクント・シンの居城:ラームナガル城
18世紀前半にバラナシを統治したバルクント・シンの居城:ラームナガル城

 

■プジャ(礼拝)へ

インド全国から巡礼者が集まるバラナシでは、ガート群の丁度中央にあるダシャーシュワメード・ガートにて毎日プジャ(又はアルティ)と呼ばれる礼拝儀式を行っており、ヒンドゥー教徒以外でも参加することができます。夕刻、ガートにたどり着くと階段にはびっしりと巡礼者が詰めかけて座っており、会場は静かな熱気に満ちています。

 

プジャの会場:ダシャーシュワメード・ガート
プジャの会場:ダシャーシュワメード・ガート

この礼拝ではまず「ガンガーの降下」の神話で知られる聖者バギーラタへの礼拝が捧げられます。バギーラタは祖先の霊を浄化するために天上の聖なる河であったガンジス川を地上へ流そうと苦行に励んだ聖者。苦行の結果、川の女神ガンガーにその願いを認められますが、もしガンガーがそのまま地上へ流れてしまえばその衝撃で世界が壊れてしまい、その衝撃を受け止められるのはシヴァ神のみであると告げられます。

 

シヴァはこれを了承し、自らの髪でガンガーの流れを受け止めることを承諾しました。ついに地上へガンガーが流れるかと思いきや、その衝撃でシヴァに自らの強さを見せつけようと目論んでいたガンガーはその野望をシヴァに見破られ、怒ったシヴァはその髪にガンガーを封じ込めてしまいます。

 

これに困ったバギーラタはさらに苦行を重ね、シヴァの心を開いてようやくガンガーは地上へ流れることとなりました。そのため、今でもシヴァ神の肖像では彼の髪の間からガンガーが流れ出ています。この神話に由来し、プジャではバギーラタ、ガンガー、そして最後にシヴァ神への礼拝が行われます。

 

プジャの儀式
プジャの儀式

プジャの儀式はガートの先端部、川辺の部分で行われます。参加者はガートの階段部に座りますが、川の上のボートから参加している人もいます。団体の観光客の場合はガートに面したテラスから椅子に座って儀式を見ることのできる有料席を利用できる場合もあります。

 

プジャはまず7人の僧の礼拝席にヒンドゥー教のシンボルであるサフラン色のマリーゴールドの花びらを撒くことから始まります。準備が整うと両面太鼓や手押しオルガン、鐘による演奏に合わせて礼拝の祝詞が歌われ、バギーラタ、ガンガー、シヴァの順に3神に対してランプ、香炉、燭台を掲げ、礼拝をおこないます。

 

合計で1時間ほど続くプジャの最中では、会場の参加者が僧侶に合わせて祝詞をあげたり、拍手をしたりという場面もあります。会場が一体となって礼拝に向かう光景はまさに聖地のイメージそのものであり、まさに旅のハイライトにふさわしいような荘厳さを感じさせます。

 

 

 

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ジャイプル ブロックプリント編

インドの三大観光都市デリー・アグラ・ジャイプルはゴールデントライアングルと呼ばれ、インドで人気の周遊コースです。この3都市には世界遺産も7か所もあり、各都市間を車両でも移動できるため、短期間で効率よく観光ができるルートとして、世界中からたくさんの観光客が訪れます。

 

ジャイプル郊外・サンガネール村の工房にて

 

そのうちジャイプルは、ブロックプリント(木版染め)をはじめとするファブリック製品、ブルーポッタリー(陶器)、宝石(ジャイプールはインドで一番宝石が安く手に入る街です)などの手工芸品が有名で、お買い物目的で訪れる人も少なくありません。今回は、ジャイプルとその周辺の街にたくさんの工房がある、ブロックプリントの魅力についてご紹介いたします。

 

≪デリーからジャイプルへのアクセス≫
車:片道5時間
飛行機:片道1時間
特急列車:片道4時間半

 

 

■ブロックプリントとは

インドの伝統的な染色技術で、木版捺染とも呼ばれます。シンプルな技法で、手のひらサイズの木片に模様の彫り、インクを塗ってスタンプのように布を染めます。この技法の起源は中国で、世界最古の印刷物である、「金剛般若経(Diamond Sutra)868年」は中国で出土されています。しかし、綿の貿易はインドからイラクのあたりでゴータマ・ブッダが生きた時代から行われていたため、この技法で布を染める伝統については紀元前から存在していたと言われています。そして、15世紀に大航海時代が訪れると同時に、インドネシア、タイ、ヨーロッパ、そして日本など世界中に広まりました。

 

 

■ジャイプル/ジャイプル近郊 のブロックプリント産地

 

・バグルー村
ジャイプールから30キロほど離れた村で、天然の染料を使った草木染め・泥防染の産地として有名です。3つの家族から始まった染色業は、400年ほどの歴史を誇り、今では250世帯が染色業を営んでいます。

 

・サンガネール村
テキスタイルの一大産地として知られる、ジャイプル郊外の村。ジャイプルの中心地からは車で約1時間のアクセスです。茜の花柄のデザインが、サンガネールのプリントとして有名です。

 

 

■ブロックプリントの製作工程

①チャパイを彫る

木版工房で、チャパイと呼ばれる木版が作られます。堅く、伸縮率が低く、水に強い種類の木材である、チークやローズウッドという木を使い、たがねを木の棒で叩きながら手際よく彫っていきます。

 

チャパイ

デザインによっては、1つのブロックを彫るのにプロでも10日以上かかることもあるとのことです。

 

 

②コットンに捺染をする

プリント工房にて、チーパーと呼ばれる職人が布にブロックを押して捺染していきます。柄や色が複数あるデザインの場合は、乾かした後に上から別の木版を重ねてプリントしていきます。利用する染料は、一般的な化学染料を用いたものと、天然由来の染料を用いたものがあり、天然の染料を利用したバグルー村の生地は「バグループリント」と呼ばれます。天然由来の染料は、藍やターメリックといった草木が原料です。

 

 

③生地を洗い、乾かす

プリントが完成すると、次の工程は洗い場での水洗いです。色落ちしない程度まで洗ったら、太陽の下に干して乾かします。地面の上に広げ、太陽の日に当てて生地を乾かすことで、染料がしっかりと布に安定するそうです。

 

 

ジャイプルへは、デリーから週末に日帰りもしくは1泊旅行で気軽にご旅行いただけます。通常の観光内容を変更して、ブロックプリント工房訪問やショッピングを楽しむ等のアレンジも承ります。

 

<▼西遊インディアの現地ツアー>

■デリーから行くジャイプール日帰り観光:日本語ガイド同行
■デリーから行くジャイプール1泊2日:日本語ガイド同行

 

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