アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ④

ナマステ!!
インドの宝、アジャンタ・エローラを紹介するシリーズ、その④です。

過去のご紹介記事はこちら!
アジャンタ・エローラ①
アジャンタ・エローラ②
アジャンタ・エローラ③

 

■エローラ石窟

カイラサナータ寺院
エローラ石窟 第16窟 カイラサナータ寺院

 

オーランガバードから30Kmほど離れたところにある小さな村のひとつエローラ村。ここに世界的に有名な石窟寺院群が残っており、エローラ石窟といわれています。
エローラには、全部で34の石窟があり、6世紀から10世紀の間に造られました。仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3つの宗教の寺院や僧院・僧坊などから構成されています。

 

1~12窟    :仏教寺院。石窟寺院群の南端
13~29窟 :ヒンドゥー教寺院。中央に位置する
30~34窟 :ジャイナ教寺院。北端

 

30~34窟のみ少し離れた場所に位置しておりますが、基本的には全ての石窟は近接している上に作られた時期も重なっています。当時インドではお互いの宗教に対して非常に寛容であったことが分かります。

 

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エローラ石窟 第1-6窟 遠景

まずは、仏教窟からご紹介します。仏教窟は全部で12窟あり、第10窟以外は全て僧院(ヴィハーラ)窟です。

 

石窟群の最南端に位置する第1窟は、僧院というよりは穀物や食料を貯蔵していた場所と考えられています。

 

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エローラ 第1窟 仏教窟 入口
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エローラ 第2窟 仏教窟 入口

第2窟も僧院址です。内部の回廊には多くの仏像が並んでおり、柱の装飾も細かく施されています。

第3-4窟は未完成です。エローラ石窟寺院の仏教パートは7-8世紀ごろの、インドでの仏教が衰退へと向かっている時期の開窟であったこともあり、未完成であったり作業途中である部分も多いです。

 

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エローラ 第5窟 僧院址

7世紀に開窟された第5窟は、奥行き53.28m、幅36.63mと非常に広く、エローラでも最大の室内面積をもつ僧院です。巨大な柱には、かつては美しい装飾画が施されていたといいます。この僧院址は、かつては講堂、僧侶たちの食事場所、そして宗教的な儀式の際に使われていました。

 

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エローラ 第7-8窟 仏教窟

 

第10窟は仏教のチャイティヤ(礼拝堂)建築の最高峰とも呼ばれ、ストゥーパを覆うように配置された仏像や細かい内部装飾が特徴です。2階建てですが吹き抜けの様になっています。造りは外観だけではなく音響効果も考えられており、祈りの声が深く響き渡る様に設計されています。

ガイドと一緒に訪問した際はガイドにお経の一説を詠むようリクエストしてみてください。声の響き方にきっと驚かれると思います!

 

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エローラ 第10窟 仏教窟
第10窟のストゥーパと仏陀
エローラ石窟 第10窟 本尊は、ストゥーパに仏陀が取り込まれているかたち
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エローラ 第10窟 入口正面 バルコニーから中の仏塔を見おろすことができます
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エローラ 第11窟 仏教窟

第11窟は僧院址で、なんと3階建てです。1~2階は僧房、3階は講堂として作られています。石窟の開削は上部から始まるため、通常の建築とは逆方向に、上から下へ向かって作業が進んでいきます。講堂と僧院という性格の違いはあるものの、開窟資金や資源の豊富だった初期に作業が行われた上階は精密に作られ、下の階へ行くにつれて装飾が減りシンプルな造りになっており、その変遷は見ていて面白いです。

第12窟も第11窟と同じ3階建ての造りの僧院址です。こちらは、全体的に非常にシンプルな造りとなっています。

 

 

エローラ石窟寺院群ですが、その入り口のほとんどが西側を向いています。そのため、エローラ訪問は日差しが内部まで差し込む午後の訪問がおすすめです(エローラ石窟はアジャンタとは異なり内部に照明は設置されていません)。ただ、酷暑期の訪問だと午後2-3時頃は一番暑い時間帯…。観光中の体力を考えて午前中の涼しい時間帯の訪問でもいいかもしれません。

 

 

次回の記事ではエローラの目玉・ヒンドゥー教窟をご紹介します!

 

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ②

ナマステ! 西遊インディアの橋本です。
インドの宝・アジャンタとエローラ石窟の紹介、第二弾です。

 

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9月のアジャンタ 緑が綺麗な時期です

アジャンタ・エローラ紹介記事①にて、いきなりアジャンタのハイライトである第1窟の蓮華種菩薩、金剛手菩薩を紹介しましたが、アジャンタの見どころはまだまだあります!

 

第2窟のご紹介の前に、アジャンタ、エローラ石窟群を見学するに欠かせない「ジャータカ」についてお話いたします。
「ジャータカ」とは仏陀の前世の功徳を伝える物語です。本生譚(ほんしょうたん)ともいい、仏陀の死後に多くのジャータカが生まれました。様々な動物(ゾウ、猿、鴨、うさぎ 等々)やある特定の人物として生まれた仏陀による、自己犠牲や利他の行いがテーマとなっています。仏陀はその前世においても修行を続けており、だからこそ悟りを得るに至ったという考えに由来しています。

(本来は仏教と関連のない土着の民話や寓話をジャータカとして吸収していったとも考えられています)。

 

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ジャータカのご紹介 ~六⽛⽩象本⽣~

 

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アジャンタ 第17窟 六牙白象本生

ヒマラヤの山中に8000頭の象の群があり、6本の牙を持った真っ白な象が王としてそれを束ねていました。王には二人の夫人がいましたが、第二夫人は第一夫人に激しく嫉妬をし、王を恨みながら自害します。その後とある国の王妃として生まれ変わった第二夫人は、六牙象のことを聞き、猟師にその象の牙を持ってくるように命令します。猟師は罠をはり象王を捕えますが、象王は自ら牙を抜き、その後絶命します。猟師の持ってきた牙を見た夫人は、象王がかつての夫であったことを思い出し、後悔し死んでしまいます。

 

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アジャンタ石窟には、ジャータカの内容を示す壁画が複数残されており、特に第17窟には「六⽛⽩象本⽣」「⼤猿本⽣」などが良好な状態で保存されています。これらジャータカのストーリーを予め予習しておくと、アジャンタ石窟の見学がより一層楽しめます。

 

それでは、第2窟のご紹介です。
アジャンタ第2窟も第1窟と同様、後期窟です。美しい壁画、彫刻が素晴らしく、保存状態も良いです。

 

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アジャンタ 第2窟 本堂 美しい天井の装飾も必見です
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アジャンタ 第2窟 杯を交わすペルシャ人 / 青い靴下の異邦人

こちらは第2窟に残る「杯を交わすペルシャ人(青い靴下の異邦人)」の天井画。2人の周囲には豊穣を表す蓮華蔓草や果実が描かれています。

壁画は、牛糞や粘土、石灰を下地に塗り、アフガニスタンから持ち込まれたといわれるラピスラズリや黄土など、全て自然の顔料で描かれています。この靴下の青色もラピスラズリで着色されていますが、今もなお鮮明にその青さが美しく残っています。

 

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アジャンタ 第2窟 「玉座に腰かけた菩薩」

長い輪廻のあと最後に兜率天上に生まれた釈迦が、王者風の姿で天人に説法する様子が描かれています。

 

他に第2窟で必見の壁画は「釈迦誕生」の壁画です。生まれたばかりの仏陀(スィッダールタ王子)を抱えるブラフマーとインドラ神、そして優しく見つめるマーヤー夫人が描かれています。

 

 

アジャンタは全部で1~30窟ありますが、作業途中で放棄され、未完で終わった窟もいくつかあります。

第4窟も未完で終わった窟のひとつです。第4窟はアジャンタでも最大の規模のヴィハーラ(僧院)窟でしたが、断層が横切っていたため作業が難航しその後放棄されてしまいました。もしこの僧院窟が完成していればアジャンタ最大かつ壮大な僧院窟が完成していたのでは…と言われています。

 

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アジャンタ 第4窟 外観
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アジャンタ 第4窟 内部はアジャンタ最大規模で広い

続いて第9窟です。これまでは、全て後期に開屈されたものを見てきましたが、9、10、12、13窟は前期窟(紀元前2世紀~紀元後1世紀ごろに開窟)のものです。

第9窟は、簡素なチャイティヤ(僧院)窟となっており、中央にストゥーパ(仏塔)が建つのみで彫刻などの装飾はありません。柱には一部壁画が残っていますが、これは後期に描かれたものです。

 

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アジャンタ 第9窟 チャイティヤ窟

第10窟です。
こちらも前期窟で、中央にストゥーパがあるシンプルな造りです。ここ第10窟で注目すべきは、右13番目の一本の柱の落書きです。このアジャンタ石窟を最初に発見したイギリス人士官ジョン・スミス(John Smith)が、発見した時に思わず自分の名前と日付を柱に刻み付けてしまい、その落書きが今でも残っています。

盛んに開窟が続けられたアジャンタ石窟ですが、インドでの仏教の衰退に伴い作業されなくなり、8世紀には完全に放棄されました。その後アジャンタ石窟は1000年以上忘れ去られましたが、偶然こちらにトラ狩りに来ていたジョン・スミスによって1819年に発見されたのです。

 

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アジャンタ 第10窟 ストゥーパ(仏塔)
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アジャンタ 第10窟 ジョン・スミスの落書きが残る柱 よく見ると名前が確認できます

ジョン・スミスの落書きは、柱の高さ3mの位置に残っています。結構見上げて目を細めないと確認できません。これは、ジョン・スミスが長身の大男であったわけではなく、発見当時アジャンタは密林のなかに埋まっており、各石窟の内部にも1.5m程泥が積もっている状態だったためです。

 

この第10窟を訪問した時、偶然この遺構を見つけたジョン・スミスの気持ちを想像してみました。密林のなか本来あるはずのない人工物を自分が最初に見つけ、世紀の大発見を予感したとき、思わず名前を刻みたくなるのでしょうか。

 

 

 

アジャンタ・エローラの記事その③へと続きます!

 

 

Text by  Hashimoto

 

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ダージリン③ 世界遺産 ダージリン・ヒマラヤ鉄道

ナマステ、西遊インディアです!
ダージリンを紹介する第3回目の記事では、「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」を紹介します。

「インドの山岳鉄道群」として、インド国内3か所の鉄道が世界遺産登録されていますが、ダージリン・ヒマラヤ鉄道はその中でも1番初めに登録された、アジア最古の登山鉄道です。

  

■ダージリン・ヒマラヤ鉄道とは?

トイ・トレインという愛称で知られるダージリン・ヒマラヤ鉄道は、西ベンガル州の交通の要衝であるシリグリのニュー・ジャルパーイーグリー駅から、ダージリン駅までの約88Km、高低差2000mをつなぐ登山鉄道です。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は、1999年に世界遺産に登録されましたが、その後、南インドのニルギリ山岳鉄道(2005年登録)、カールカー・シムラー鉄道(2008年登録)も追加となり、現在は世界遺産「インドの山岳鉄道群」として登録されております。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は、鉄道における世界遺産としては世界で2番目の登録でした(1番目はオーストリアのゼメリング鉄道です)。

 

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 

■開通に至るまで

1879年、紅茶の輸送と避暑客の便宜を図るためにイギリス人が建設を開始しました。レール幅を610mmとかなり狭くなっておりますが、これは現地に既に存在していた山道や地形を流用しやすいようにしたためです。

 

機関部分には小回りの利く小型タンク機関車を採用しました。トンネルを掘ってレールを敷くとコストがかかってしまうため、山間を縫うように路線を設定しました。そのため全行程の約70%がカーブ区間となっています。イギリス産業革命により発明された当時の最新技術を駆使して造ったと言われています。

 

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レール幅61センチ! なんとも可愛らしい!

蒸気機関車は、イギリスのグラスゴー製で、最も古いもので130年、最も新しいもので120年経っているとのこと(いずれにしても古いですね)。

お客様用の車両は、1車両約40席ほどですが、古い機関車であまりパワーが無いので、2両までしか牽引できません。

実際に乗ってみると、古い機関車がよいしょ、よいしょと一生懸命坂道を登っていく感じが、なんとも応援したくなります。

 

 

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100年以上使われている蒸気機関
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ダージリン・ヒマラヤ鉄道の車両

 

 

■トイトレインに乗ってみよう!

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は本来始発駅から乗車すると7時間程かかりますが、観光客用に、ダージリンから出発する「JOY RIDE」という列車が走っています。このJOY RIDEに乗れば、ダージリン駅からグーム駅までの往復2時間の乗車を楽しむことが出来ます(ご希望であれば片道のみの利用でグーム下車も可能です)。

グーム駅は、標高2,258mと、世界で2番目に標高が高い場所に位置する駅です。

 

ダージリン駅

ちなみにこのJOY RIDEの列車チケットを予約の際に、蒸気機関か、ディーゼルかは予め分かるようになっておりますが、蒸気機関車はよく調子が悪くなり、メンテナンスに入ることもしばしば。そのため折角蒸気機関で予約が取れていても、当日ディーゼルが来た…ということも少なくありません。乗車日当日は、ダージリン駅で蒸気機関が目の前に登場するまでは油断できませんのでご注意ください。

 

乗車していよいよ出発!

 

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街中を走るダージリン・ヒマラヤ鉄道
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街中に敷かれているトイトレインの線路。

 

蒸気機関車は大量の煙と灰を吐き出しながら、ダージリン駅からグーム駅までの8kmを時速約10kmでゆっくりと走っていきます。

駅を出発して前半は、ダージリンの街中を走ります。線路ぎりぎりまで家や商店が建てられていますので、ぶら下がっている売店のスナックや洗濯物にも手が届きそうな距離です。時速10キロというゆっくりなスピードですので、車はもちろん、途中自転車にも追い抜かれました。

こうして人力に近いスピードで、地元の人々の生活風景の一部を見ることが出来るのは他の世界遺産登録されているニルギリ鉄道、カルカ・シムラ鉄道にはなく、独特の面白さがあります。

煙を上げて走っていく間、窓が開いている車内には煙の匂いが漂い、煤が顔にあたり少し黒くなっている人もいました。日本ではなかなか珍しくなってきた機関車の旅、やっぱりいいものですね。

 

列車は街を抜け、標高を上げながら走っていきます。どんどん緑が多くなってきました。

 

 

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グーム駅に向けて走っていきます

 

グーム駅に到着する手前、バタシア・ループで10分程停車します。バタシアは、ネパール語で「風が強い」という意味があり、実際に風の強い場所のようです。ループとは、急こう配の坂を登る際に、高度調整をするために大きく円を描くように線路が回る所のこと。このバタシア・ループは、数か所あるループの中で最も美しいとされている所です。

 

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バタシアループ
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バタシアループの広場。いいお天気でヒマラヤの展望もバッチリ
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グルカ兵戦没記念碑

バタシア・ループはちょっとした広場となっており、ネパールの山岳民族から構成されるグルカ兵の慰霊碑も建てられています。

 

そして天候に恵まれれば、カンチェンジュンガとトイ・トレインのツーショットをカメラに収めることもできます!

 

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白く美しいヒマラヤと青い空と黄色いマリーゴールドの花と鉄道

 

世界遺産の鉄道に乗って、一味違うダージリンの街並み、ヒマラヤの展望を味わってみてはいかがでしょうか。

鉄道好きな方は、ぜひ「インドの山岳鉄道群」の3つ制覇を目指してみてください!

 

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≪西遊インディアのツアー紹介≫

世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

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ボーパール① サンチー仏教遺跡群とビーマベトカ壁画

 

ナマステ!!西遊インディアの岡田です。今日はサンチー遺跡とビーマベトカ壁画、その拠点となるボーパールの街をご紹介します。

 

インド中央部に位置し、「中央の州」を表すマディヤ・プラデーシュ州の州都・ボーパール。デリーからは南へ800kmほどの位置にあります。18世紀からインド独立まで、イギリス統治の下でボーパール藩王国として栄え、その中でも1829年から1926年までの107年間は4人の女性藩王が治めたことで知られています。

ボーパールは付近の二つの世界遺産・サンチー遺跡とビーマベトカ壁画の観光拠点として多くの旅行者が訪れる街となっていますが、ボーパールの街自体も非常に多くの見どころを有しています。

その一つが、街の中心にあるタージウル・マスジッド。女性藩王の一人・シャー・ジャハーン・ベーガムがデリーのジャマー・マスジッドに勝るモスクを目指して1800年半ばに建設を開始しました。彼女の死後資金難等の問題により何度も建設は中止しましたが、1985年に完成しました。現在はアジア最大級のモスクとして、ボーパールのシンボルとなっております。

 

■サンチー遺跡

サンチー遺跡の第1ストゥーパ
サンチー遺跡の第1ストゥーパ

 

ボパールから北東へ約50km、サンチーの街へ着くと山の上にストゥーパの影が見えてきます。

ストゥーパ(仏塔)は本来は仏舎利(仏陀の遺骨/遺灰)を収めた塚を指し、全てのストゥーパには仏舎利が収められているとされていましたが、現在はその真偽を問わずに信仰の対象となっています。日本では「卒塔婆」あるいは単に「塔」として伝えられ、各地に三重塔や五重塔のような形で残されています。インドでは仏教へ帰依し広く布教を行った紀元前3世紀・マウリヤ朝のアショーカ王によって各地にストゥーパ、そしてアショーカの石柱と呼ばれる石柱が建設されています。

 

メインとなるサンチーの第一ストゥーパはアショーカ王によって建設されたもの。紀元前3世紀の建設の後、その後前2~1世紀にそれを覆うように拡張され現在の姿となりました。最大の見どころは、ストゥーパへの入り口に建てられた門・トラナに施された精緻な彫刻群です。

 

トラナに施された彫刻(北門裏側)
トラナに施された彫刻(北門裏側)

トラナはストゥーパへ至る通路にかかる塔門。日本の「鳥居」の原型はこのトラナにあると言われます。東西南北に建てられたトラナは、その表裏を覆いつくすように仏伝、ジャータカと呼ばれる仏陀の前世譚などをモチーフにした精緻なレリーフが刻まれています。トラナを埋め尽くすレリーフは「石の絵本」とも表現され、美仏陀の生涯やその教えを現代に伝えています。

 

仏陀が生まれる前のマヤ夫人に象が入る夢の場面
釈迦の生母・マヤ夫人(一番上)。天から白象が降りてきて、自分の右わきから胎内に入る夢を見て懐妊したという伝説が伝えられています。

初期仏教では仏陀を直接的に彫刻、絵画等で表すことは憚られました。そのためこの時期は「無仏像時代」といわれています。
仏陀はどの場面でも菩提樹・法輪・足跡・仏塔・傘などでシンボリックに表現されており、レリーフの中にはそれらを組み合わせて象徴的に仏陀の前身を表したものも見ることができます。仏陀の姿が仏像として実際に表されるようになるのは紀元後1世紀以降のことです。

 

仏足で象徴的に表された仏陀
仏足で象徴的に表された仏陀

 

仏教の衰退後は多くのストゥーパが破壊されてしまったのに対し、サンチーのストゥーパは森におおわれていたため発見を免れ、19世紀にイギリス軍により再発見されるまで良好な状態で残っていました。現在は第1~3までの3つのストゥーパに加えて僧院や寺院なども一部が残っており、一大仏教センターとして賑わったであろう当時の様子を伺えます。

 

第3ストゥーパ
第3ストゥーパ

 

■ビーマベトカ遺跡

ビーマベトカ壁画
ビーマベトカ壁画

続いて、ボーパールより幹線道路を南下すること約50kmのところに位置する、ビーマベトカ岩窟群をご紹介します。
ビーマベトカの岩窟群はチークの木が生い茂る小高い丘の上にあり、それぞれの岩陰に最大で約1万5千年前~3000年前の人類が描いた壁画が残されています。初期は単純な動物・人間の姿を写したものが、時代を下るにつれて人と人とが輪になって踊る様子、集団で狩りをする様子、馬に乗って行進する様子等へ変わっていき、当時の様子や社会の形成・発展の過程を知ることができます。

その他、馬は約3,000年前にモンゴルからはじめてインドに来たため、馬が描かれている壁画は3,000年前以降の新しいもの、また人物が三角形で描写されているのは5,000年前のもの、といった壁画の時代の見分け方もありそれぞれの岩全てを大変興味深く見ることができます。

 

この壁画を描くのに使われている染料は全て天然のものです。白は植物の根や石、動物の骨を粉末にしたもの、赤は動物の血や植物の樹液を混ぜたもの。黄色は植物の花等を原料として作られており、色の種類も時代に従って豊富になっていきます。

 

赤色顔料を用いた壁画 (武器を持ち馬に乗る人々)
赤色顔料を用いた壁画 (武器を持ち馬に乗る人々)

 

白色・黄色の顔料を用いた壁画(花)
白色・黄色の顔料を用いた壁画(花)

 

全部で750ある岩のうち、500の岩陰に壁画が施されています(旅行者が観光できるエリアは、15箇所のみです)。なかでも、大きな岩面に様々な時代の壁画が密集して描かれている場所は「Zoo Rock」と呼ばれ、1万年以上もの長期にわたって継続的に人々が生活し、壁画を描き続けてきたことを示す貴重な資料となっています。

 

岩一面に壁画が施されたZoo Rock
岩一面に壁画が施されたZoo Rock
ビーマベトカの岩体
ビーマベトカの岩体

 

描かれた岩絵は、ストーリー性のあるものもあり、大変見応えがあります。上記に述べたこの土地の人々の営みの変遷もそうですし、この岩窟周辺には、今よりも緑が溢れ、牛、鹿、猪、バイソンなど多くの動物が生息していたのが、壁画から伺えます。

世界にはこのような太古の岩陰壁画が残されている場所は数多くありますが、ここビーマベトカではいつ行っても他に観光客もおらず独占的に観光できるのも魅力。この地での人の営みを想像しながら、ゆっくりと見学をお楽しみください。

 

 

<西遊旅行>サーンチー・ビーマベトカを訪問する西インドツアーはこちら

 

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インドの宝となった「妻への愛」 タージ・マハル

インドを代表する世界遺産・タージマハル。誰もが一度は目にしたことがあると思います。ムガール帝国の5代皇帝シャー・ジャハーンが亡き妻を偲び1632年に着工し、1653年に完成させた巨大な霊廟です。

 

Taj Mahal
タージマハル

シャー・ジャハーンの寵愛を受けた妻ムムターズ・マハルは彼との間に14人もの子供をもうけ、最後の14人目の息子のお産中に36歳の若さで亡くなりました(ちなみに、ムムターズ・マハルの14人の子供のうち、成人したのは男子4人と女子2人のみでした)。
シャー・ジャハーンは彼女を戦にまで連れて行く愛しようで、一説では彼女の死を悼んで、一晩で黒々とした髪が真っ白になったと言われています。
ムムターズが亡くなった翌年にタージマハルの着工が始まり、ラジャスタン地方から約10,000頭もの象で運んだ白大理石、世界各地から運んだ数々の宝石。建設にかかった費用は明らかではありませんが、国の財政を傾けるほどだったと言われています。

 

Taj Mahal
タージマハル 中央

白大理石の壁面は赤サンゴやオニキス、ひすいなどを用いて装飾されています。下から見上げると太陽光を反射した宝石がきらきらと光り大変美しいです。

 

タージマハル完成からわずか4年後、シャー・ジャハーンは病床に臥します。その後、息子たちの間で皇位継承の争いが行われ、勝ち取ったのは第3皇子アウラングゼーブ。彼は成人した兄弟全てを殺害し、その座を奪取しました。
更には実父のシャー・ジャハーンを1658年、タージマハルからほど近くに建つアグラ城に幽閉。亡くなるまでの約8年間、シャー・ジャハーンは幽閉された部屋の窓から明けても暮れてもタージマハルを眺め、妻を偲ぶ余生を送ることになりました。

 

Taj Mahal
アグラ城から望むタージマハル

現在、世界遺産に指定されているアグラ城。シャー・ジャハーンが幽閉されていた小部屋(テラス)も見学することができます。ムガール様式のアーチ状の小窓を覗くと、タージマハルとその傍をゆっくり流れるヤムナー川の風景。シャー・ジャハーンの時代から変わっていないだろうこの風景は、王の悲しみと王妃への強い気持ちを今も伝えてきます。

 

ちなみにタージマハルは、 2015年秋より大規模な修復&クリーニング作業が行われ、ドーム、ミナレット(尖塔)の周りに木組みの作業台が設置されている状態が約4年程続いていました。現在はほぼ完了しておりますので、大気汚染等の影響を受けやや黄ばんでいたタージマハルは今は白くピカピカです。

 

Taj Mahal

 

夕方のタージマハルもおすすめ。こちらは、ヤムナー川を挟んでタージマハルの反対側に位置するマターブ・バーグからの撮影です。夕刻はタージマハルがピンク色に染まります。マターブ・バーグはもともとはシャー・ジャハーン自身の墓・「黒いタージ」の建設予定地でした。三男に皇帝の座を奪われてしまったことで実現には至りませんでしたが、現在は庭園として整備され憩いの場所となっております。

 

Taj Mahal
夕方、マターブ・バーグから眺めるタージマハル

現在、タージマハルには観光シーズンの週末ですと1日6~7万人程が訪れています。今後政府は混雑緩和と施設保護の観点から、1人当たりの観覧時間を最長3時間、インド国民の入場者数を1日4万人に制限することを発表しました(外国人観光客にはこの制限は適用されません)。

 

インドを代表する遺産であり、ムガール帝国時代の栄華を象徴するタージマハル。時間帯によってもその見え方、輝き方が異なります。ぜひ一度と言わず何度か足を運んでいただきたいです。

 

Taj Mahal

 

※この記事は2012年1月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

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