異色の世界遺産:カジュラホ寺院群①

ナマステ!!!西遊インディアです。

今回は、インドの世界遺産の中でも異彩を放つ、カジュラホの寺院遺跡群をご紹介します。

 

カジュラホ最大の寺院:カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院
カジュラホ最大の寺院:カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院

 

■カジュラホの位置と概要

カジュラホはインド中央部のマディヤ・プラデーシュ州の北西部、デリーからは南東に約650kmに位置する町です。規模としては非常に小さな田舎の村、という具合ですが、そのユニークな遺跡群の存在のために世界的に有名です。

 

デリーからカジュラホへ行くには、乾期のシーズン中であれば、国内線が運航されますが、1日1,2便のみの運航です。もし国内線の運航がない・もしくはスケジュールが合わなければデリーから特急列車でジャンシーという街まで行き、そこから車両で約4時間程移動すると、カジュラホに到着します(長い道のりですが…)。

または、バラナシ、アグラ、ジャイプル等からカジュラホ行の列車も運行されていますので、カジュラホのみ単体で行くのではなく、周辺の観光地と一緒に組み合わせて行かれると良いかと思います。

 

 

 

カジュラホの遺跡群は東・西・南の3群に分かれており、そのうち西・南の2群がヒンドゥー教、東群はジャイナ教の寺院が残っています。最も人気があるのはメインとなる大規模な寺院が集中する西群のエリアです。それぞれのエリアは車で5分ほどの距離に位置しています。

 

巨大な寺院の壁面を覆うように施された精緻な彫刻群はまさに圧巻の迫力があり、特に男女の性行為の様子を表現したミトゥナ像と呼ばれるユニークな彫刻を見るため、多くの旅行者が訪れます。

 

 

カジュラホ
一瞬ぎょっとするカジュラホのミトゥナ像

 

これらの寺院は10世紀初頭から12世紀末までの間にこの地で栄えたチャンデーラ朝が建設したものです。チャンデーラ朝は5世紀ごろから北方の遊牧系の民族が定住化・ヒンドゥー教化して古代クシャトリヤの末裔を自称し、各地に王国を建設したラージプート族の一派です。当時は全部で85もの寺院を建設したと言われていますが、現在はそのうちの25の寺院が残されております。

 

現存する寺院の多くは970~1030年の間に建設されたもので、主要なものではヤショヴァルマン王の治世のラクシュマナ寺院ダンガ王の治世のヴィシュワナータ寺院、そしてヴィリダダーラ王の治世の建設であり現存する最大の寺院・カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院などです。また、東群のジャイナ教寺院も同時期に建設・利用されたことが分かっており、当時のカジュラホでヒンドゥー教徒とジャイナ教徒が平和的に併存していたことがわかります。

 

 

寺院群は12世紀後半までは実際の信仰の場として利用されていましたが、13世紀からはデリー・スルタン朝の支配下に入り、その後のイスラム系王朝の支配の下でもヒンドゥー教寺院の破壊が進められ、多くの寺院がそのまま放棄されました。

 

その後、19世紀に英国の測量士がカジュラホを発見するまでは寺院群はジャングルに覆われていました。カジュラホは1986年に世界遺産に登録され、柵の設置や公園内の整備、また街に空港を建設するなど観光地としての整備も進められています。

 

カジュラホ
美しく整備された公園。時期によってはブーゲンビリアが綺麗に咲きます

 

■ミトゥナ像とシャクティ信仰

カジュラホの際立った特徴はミトゥナ像と呼ばれる、男女の性行為の場面を描いた彫刻です。ミトゥナは「性的合一」を指すサンスクリット語で、カジュラホでは2人あるいはそれ以上の男女、また時には動物が交わった像が寺院の壁面に数多く彫刻されています。カジュラホのこの様なユニークな彫刻群はただ単に性行為の場面を描いたものではなく、実はヒンドゥー教のシャクティと呼ばれる独特の信仰の表現によるものです。

 

カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院南壁のミトゥナ像
カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院南壁のミトゥナ像

 

ヒンドゥー教ではシヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーの男性神3柱が主神とされていますが、現在ではブラフマーの人気が低くなり、それに代わって女神信仰がもう一つの主な一派となっています。現在のヒンドゥー教における女神には、もともとはヒンドゥー教由来ではない土着の地母神が多く存在します。ヒンドゥー教はそれらの地母神を男性神の伴侶の女神、またその女神の化身として設定することで、土着の信仰集団をヒンドゥー教に取り込み、勢力を拡大していきました。ヒンドゥー教の主な神々が多くの化身を持っているのも、このような宗教としての発展の歴史に由来しているものです。

 

シャクティとは「」あるいは「性力」と訳されますが、単に性的な力を指すものではなく、もともとは神の内部に宿る神聖なエネルギーを指す概念です。そして、そのシャクティは男性神としては現れず、女性の姿で顕現すると考えられました。つまり、例えばシヴァのシャクティ(神の力)は妻のパールヴァティ、あるいはその化身のドゥルガーやカーリーの姿で現れる、という考えです。

 

そこからヒンドゥー教では、男女が一つとなって初めて完全なものとなるという思想が生じます。顕著な例がシヴァ神とその妻パールヴァティが一体となったというアルダーナリシュヴァラと呼ばれる姿。右半身がシヴァ、左半身がパールヴァティのこの神の姿は、まさに男女の性的合一、完全な状態を表しています。

 

アルダーナリシュヴァラ
アルダーナリシュヴァラ

 

女神信仰はシャクティ派と呼ばれ、各地で様々な女神がシャクティの顕現として信仰されています。現在ではシヴァ派、ヴィシュヌ派に並ぶ勢力となっており、ブラフマー神に代わって新たなトリムルティを形成しているとも言えます。またシャクティ信仰の思想はシヴァ派・ヴィシュヌ派にも影響を与えており、シヴァ、ヴィシュヌのシャクティはそれぞれの妻となる神の姿で顕現すると考えられています。

 

そのようなシャクティ信仰が彫像として具体化する際には、時として特に性的な部分が強調され、非常にエロティックな像として現れます。カジュラホの寺院を装飾するミトゥナ像や天女の像はこのようなシャクティ信仰に基づくものと考えられ、カジュラホの寺院を特徴づけています。

 

 

カジュラホその②へと続きます!

 

 

 

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ジャイプル③ ジャイプルの観光スポット!

ナマステ! 西遊インディアです。

今回は、人気の観光スポット・ジャイプルのみどころを詳しく紹介します。

 

▮アンベール城

 

山上の砦:アンベール城
山上の砦:アンベール城。左奥にはさらに古い都であるジャイガルが見えている。

アンベール城は、1727年にジャイプルの建設が始まるまでアンベール王国の都として利用されていた城。ジャイプル市街から約11㎞北東に位置し、平野部から40mほど標高の高い丘の上に建設され、周囲は堅牢な城壁で囲われています。

 

ここでは、入り口から城内部へ象のタクシーに乗ることができます。当時は象での入場は一部の上流階級にのみに限られていましたが、現在では一般の観光客もマハラジャ気分で象に乗ることができます!人の視点よりはるかに高い像の背からの景色は格別です。

 

象のタクシーに乗ってアンベール城へ
象のタクシーに乗ってアンベール城へ
象の背からの眺め
象の背からの眺め

入り口の広場で像を降り階段を上ると、広場を見下ろす場所にあるのが一般謁見所ディワニ・アームです。貴族向けではなく一般民衆に開かれた謁見所ですが、柱や欄干の細かな装飾の美しさが光ります。

 

一般謁見所(ディワニ・アーム)

 

ここからガネーシャ門をくぐると、王族のエリアとなります。細やかな装飾で彩られた門はアンベールでも最も有名なスポットのひとつ。麓から見上げると堅牢な城壁のイメージが強い城ですが、ガネーシャ門の内側へ足を踏み入れると繊細で豪奢な装飾に彩られた建築が並んでおり、当時の様子を偲ばせます。

 

ガネーシャ門
ガネーシャ門

 

鏡による装飾が美しい「鏡の間」
鏡による装飾が美しい来賓謁見所ディワニ・カースは、「鏡の間」としても知られます。

 

最奥部に位置するハーレム。壁面にはいたるところにフレスコ画の装飾が施されています。
最奥部に位置するハーレム。壁面にはいたるところにフレスコ画の装飾が施されています。

▮シティ・パレス

 

シティ・パレス 中央の建物に旗が掲げられている
中央の建物(チャンドラ・マハル)に、王族が滞在していることを示す旗が掲げられている

シティ・パレスは、1733年に完成したジャイプルの宮殿。現在でも一部で王族が暮らしており、王族が滞在しているときには、王宮にそれを示す旗が掲げられています。

 

まず中央に位置するのが貴賓謁見所のディワニ・カース。謁見の間には銀製の巨大な甕が置かれており、これは1902年に当時の王がイギリス国王へ謁見に向かう際、ガンジス川の水をこの甕に入れて運び、船の上で沐浴をしたものです、高さ1.6mのこの甕は世界最大の銀製品としても知られています。

 

シティ・パレスの一般謁見所と銀の壺
シティ・パレスの貴賓謁見所と銀の甕

このディワニ・カースの広場の周りに各施設が隣接しており、西側にはピタム・ニワス・チョークと呼ばれる中庭が広がっています。この回廊部分にクジャクの扉をはじめとする4つの装飾扉が設置されています。

 

ピタム・ニワス・ チョウクのクジャクの扉 上部の装飾
ピタム・ニワス・ チョウクのクジャクの扉 上部の装飾

また、迎賓館ムバラク・マハル、一般謁見所ディワニ・アームは現在はどちらも展示室として公開されています。残念ながら施設内の写真撮影は禁止されていますが、当時の王族が身に着けた豪奢な衣服やテキスタイル、またジャイプルの諸王の肖像画等を見学することができます。

 

 

ジャンタル・マンタル天文台

ジャイプルの街を建設したジャイ・シン2世は天文学に造詣が深く、インド各地に天文台を建設しました。ジャイプルのほかにもデリー、ウジャイン、バラナシ、マトゥラーと計5箇所に天文台が建造されましたが、ジャイプルのものが最大規模を誇ります。

 

敷地内には様々な天体観測機器が並んでいますが、最大の機器がサムラート・ヤントラと呼ばれる日時計です。基本的に日時計は高さが高くなるほど計測精度が上がるものですが、高さ27.4mのこの日時計は2秒単位の時間を計測できます。

 

ジャンタル・マンタルの巨大な日時計:サムラート・ヤントラ
ジャンタル・マンタルの巨大な日時計:サムラート・ヤントラ

インドでは占星術が非常に重視されていたため、正確な時刻や天体の位置を観測するために各地にこのような天文台が作られました。ジャイプルではラーシ・ヴァラヤ・ヤントラと呼ばれる観測器が12星座のそれぞれの方向に向かって設置されており、併設された機器と併用することで非常に正確な星座の観測を可能にしていました。

 

ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ
12星座を観測するラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ。同様の小型の機器が12基並んでいます。

ジャイプルのジャンタル・マンタルには全部で16の観測儀があり、それぞれ時刻や天体の位置、日の出と日没の方向、赤道座標…など様々な観測を担っており、またそれぞれの観測結果を補正データとすることでより正確な観測が可能でした。マハラジャはこれらの機器をもとに暦の製作や天候予測を行い、政治や祭儀に活用していたといわれています。

 

天体の赤道座標と地平座標をはかるジャイ・プラカーシュ・ヤントラ
天体の赤道座標と地平座標をはかるジャイ・プラカーシュ・ヤントラ

ジャンタル・マンタルは1901年に修復が行われ、現在も正確に観測がつづけられています。イギリスの統治が始まってから欧米由来の高性能な観測機器が持ち込まれたためにその後の拡大がされることはありませんでしたが、ジャイプルの天文台は現在でも十分に機能しており、実際にその様子を見学することができる数少ない場所です。

 

ラグ・サムナート・ヤントラ
小型の日時計であるラグ・サムナート・ヤントラでは、影から実際の時刻を確認することができます。

 

 

▮風の宮殿 ハワー・マハル

1799年にジャイ・シン2世の孫:プラテープ・シンによって建設。シティ・パレスのそばの大通りに面して作られており、宮廷の女性たちが外から姿を見られずに街の様子を見られるように窓がつけられています。どの窓からも風が入るような設計から、風の宮殿と称されます。

 

風の宮殿:ハワー・マハル
風の宮殿:ハワー・マハル

前面からの姿が非常に印象的な建築ですが、背後へ回ってみると意外と奥行きの無い建物であることがわかります。出窓部分には鮮やかなステンドグラスが施されており、町の様子を一望することができます。また反対側には上述のシティ・パレスやジャンタル・マンタル、さらにアンベール城へと続く岩山まで見通すことができ、市内の絶好の展望スポットにもなっています。

 

背面から見た風の宮殿
背面から見た風の宮殿

 

出窓部分のステンドグラス
出窓部分のステンドグラス

また、ジャイプルは宝石や彫金、象牙細工、絨毯、陶器、手織物などの手工業が盛んなことでも知られています。特にブロックプリントと呼ばれる独特な手法で装飾される更紗は世界的に評価が高く、これを買うためにジャイプルを訪れる人も少なくありません。

 

ジャイプルの手芸店。美しい糸が一面に並びます。
ジャイプルの手芸店。美しい糸が一面に並びます。

 

ブロックプリントについてはこちらの記事で特集しています!ぜひ併せてご覧ください。

■ジャイプル ブロックプリント編

 

 

 

Text by Okada

 

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ジャイプル② ラジャスタン州とラージプート族

ナマステ、西遊インディアです!

今回はラージャスターン州とこの地で長い定住の歴史を持つラージプート族について、ご紹介します。

■ラージャスターン州とラージプート族

 

前回ご紹介した通り、ジャイプルはインド北西部、ラジャスタン州に位置しています。ラジャスタン州はインド最大の土地面積を有する州であり、その名は「王(Raja)の土地(Sthan)」を意味します。もともと古代インドのサンスクリット語で「部族の長」を意味する語だった「ラージャン」は後に「王」の意に転じ、インドの支配者たちが長く用いてきました。そして、「王の子」を意味するサンスクリット語の「ラージプトラ」の俗語形がラージプートです。

 

ラージプート族は自らの部族を古代インドの栄誉ある戦士階級とされるクシャトリヤの正統な末裔であると主張します。クシャトリヤは、5世紀頃に中央アジアからインドへ入ったエフタルに伴ってインドへやってきた中央アジア系の民族や、土着の諸部族にルーツを持つと考えられています。

 

インドの歴史的な身分制度:ヴァルナ制ではバラモン(祭司)・クシャトリヤ(戦士)・ヴァイシャ(平民・商人)とシュードラ(労働者・隷属民)の4つに分けられることはよく知られています。インドの王権社会では、政治的権力をつかさどるクシャトリヤ階級、そして宗教的権力を司るバラモン階級がお互いに協力して支配者階級としての特権を維持しようとしていました。これは王権の偉大さを主張したいクシャトリヤはバラモンにクシャトリヤの宗教的な正しさを示してもらい、バラモンはクシャトリヤに宗教的な権威を与えることで自らの庇護を求める、という互助関係です。

 

あくまでバラモンは司祭階級である自分たちが最高権力であるという立場でしたが、実際には王権をもつクシャトリヤの力は強大であり、クシャトリヤとバラモンの関係も完全な協力体制ではなく微妙なバランスの上に成り立つものでした。2階級間の争いも多く、ヴィシュヌの6番目の化身・パラシュラーマの物語にもみられるように、ヒンドゥー教の神話の中でもその軋轢が描かれています。

 

クシャトリヤを殲滅したパラシュラーマ(右)
クシャトリヤを殲滅したパラシュラーマ(右) (画像出典:長谷川 明  著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

 

ラージプート族も自らの宗教的な権威を民衆に示すためにバラモンを利用しました。8~12世紀の北西インドはラージプート時代と呼ばれ、ラージプート族がバラモンの協力を受けて神話上の英雄にまで遡る系統図を作っています。自らが英雄的な神の子孫であることを示すことで、王権の正当性を築いたというものです。

 

ラージプート族はクシャトリヤの戦士の末裔としての自負を持ち、強い結束を持った誇り高い戦士として知られています。封建的な社会で上下関係と騎士道を重んじ、女性には貞淑が求められました。独立勢力としての誇りが高かったためにラージプート族全体で団結することはありませんでしたが、その後の度重なるイスラム勢力の侵入に対しても個々に抵抗し、インドにイスラム政権が成立した後も政権に服従しながらも地方勢力として存続し、たびたび離反・独立してイスラム勢力に対抗しています。

 

ムガル帝国の弱体化した後はインドの他勢力と同様にイギリスの侵略を受け、19世紀初めまでにその多くが藩王国としてイギリスに吸収されていきます。その後、インド独立後にラージプートの諸藩王国はラジャスタン州として併合されていきました。

 

ジャイプルからは少し離れますが、同じラジャスタン州のチットールガルを舞台にした映画『パドマーワト 女神の誕生』が2018年インドで作成・公開されました。インド映画史上最高の製作費約36.4億円をかけて作成されたというこの映画は、日本でも話題となり2019年に公開されています。

13世紀のラジャスタンを舞台にした本作では、ジャイプルのジャイガル城(アンベール城の奥に控える要塞)でもロケが行われました。

 

(C)Viacom 18 Motion Pictures (C)Bhansali Productions
(C)Viacom 18 Motion Pictures (C)Bhansali Productions

 

脚本や映画の時代考証等でインド国内で大きな論争を引き起こした映画ですが、インド映画史上最も興行的に成功した映画の一つでもあり、当時のラジャスタンの雰囲気を体感できる映画です。

 

詳しくは神保監督のブログをご覧ください!

 

■パドマーワト 女神の誕生 | 700年の時を越え現代に甦る、伝説の王妃 ラーニー・パドミニー

 

 

今回は文字ばかり多くなってしまいましたが、次回は写真をジャイプルの街の見どころを写真をたっぷり使ってご紹介します!

 

 

Text by Okada

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ジャイプル① ジャイプルと名君ジャイ・シン2世

ナマステ、西遊インディアです。

インド北部の観光名所といえば首都のデリー、そしてタージマハルを擁するアグラが人気ですが、その2都市にジャイプルを加えたルートが「ゴールデン・トライアングル」という名でよく知られています。今回はデリーからのアクセスも容易で見どころ盛りだくさんのスポット・ジャイプルについて、町の歴史、ラジャスタン州、ラージプート族についてご紹介します。

 

■ラジャスタン州の州都ジャイプル

 

ジャイプルはインドの首都デリーから南西に約260kmの距離に位置し、幹線道路や鉄道によってデリー、そして東に約240㎞離れたアグラと繋がれています。この3都市を巡るルートだけで多くの世界遺産を巡ることができることから、インド観光の”ゴールデントライアングル“とも呼ばれます。

 

 

ラジャスタン州の中では、ジャイプルは州の中部に位置し、同州の州都となっています。現在の都市は平野部に広がっていますが、18世紀以前は現在のジャイプル中心部から8㎞ほど北東の丘陵地帯に位置するアンベールに、さらに1600年以前はアンベールよりさらに山岳部へ入ったジャイガルに都が築かれていました。旧都はどちらも岩山の上に作られた都であり、人口の増加や水不足のためにジャイガルからアンベールへ、そしてアンベールから平野部のジャイプルへと新たに都を造成しています。

 

アンベール城から眺めるジャイガル要塞
アンベール城から眺めるジャイガル要塞

 

山麓から眺めるアンベール城
アンベール城

■名君ジャイ・シン2世とジャイプル建設

1728年にジャイプルの建設を行ったのが、18世紀のインドで最も啓蒙的な王と称されるジャイ・シン2世です。1688年にアンベールで生まれたジャイ・シン2世は、1699年に父王ビジャン・シンが亡くなった時から11歳でアンベール王国の王となりました。

 

ジャイ・シング2世
ジャイ・シン2世
(画像出典:The British Museum-Portrait of Maharaja Sawai Jai Singh II

 

この頃、インドではデカン戦争(又はムガル・マラーター戦争)の渦中にありました。第6代皇帝アウラングゼーブは17世紀前半からデカン高原への介入を強め、1650年代からシヴァージーを中心としたマラーター王国と、周辺の諸勢力を巻き込んだ超長期の戦争を繰り広げます。1707年のアウラングゼーブ帝の死をもって終焉したデカン戦争でしたが、ジャイ・シン2世はこの戦争の最終期にアンベール王として参戦しています。アウラングゼーブ帝のもとでマラーター王国に対して武功を治めたジャイ・シン2世は、皇帝より”Sawai(サワーイー)”の称号を与えられています。これは「4分の1」を意味する言葉で、他の者より4分の1人分優れていることを示します。

 

アウラングゼーブ帝
アウラングゼーブ帝(画像出典:The British Museum – Álamgír,ie Awrangzíb)

 

軍事や外交で手腕を振るったジャイ・シン2世は、内政でも数々の功績を遺していますが、その一つがジャイプルの新都建設です。アンベールでの人口の増加と水不足を解消するために平野部に建設された新都は、彼の名にヒンディー語で「城壁に囲まれた街」を意味する「プル」を足し”ジャイプル”と呼ばれるようになりました。

 

実際にジャイプルの中心部(現在の旧市街)は高さ6m、総延長10㎞に及ぶ堅牢な城壁で囲まれています。街は綿密な建設計画のもとに建てられており、碁盤の目状の構造を基本に整然とした街並みが建設されています。このジャイプルの市街は世界文化遺産にも指定されています。

 

航空写真で見たジャイプル中心地(シティ・パレス周辺)。
航空写真で見たジャイプル中心地(シティ・パレス周辺)。
(画像出典:Yahoo Map)

 

内政に関しては改革者としても知られ、ジャイ・シン2世は女性の人権侵害に関わる改革を行っています。夫に先立たれた妻が焼身自殺するサティー、花嫁に多額の結婚持参金を求めるダヘーズ、そして女児が生まれた際に(主に金銭的な理由で)嬰児を殺害する女児殺しの風習等、現代のインド社会においても通じる巨大な問題として残されているこれらの慣習ついて、ジャイ・シン2世は廃止のための立法を試み、撤廃のために尽力した人でした。

 

 

また、科学者・天文学者としても非凡の才を表しています。ジャイ・シン2世は海外の科学書を入手してサンスクリット語訳し、インド各地に多くの天文台を設置しました。

ジャンタル・マンタルと呼ばれるこの天文台はジャイプルの他にデリー、ウッジャイン、ヴァーラーナシー、マトゥラーにも設置され、特にジャイプルの天文台は最大のもので、後にイギリスの観測機器が持ち込まれるまではインドで最も正確な観測器として機能しました。ここは現在でも十分に観測器としての機能を保っており、実際に見学することも可能です。

 

ジャンタル・マンタルの観測器のひとつ(日時計)
ジャンタル・マンタルの観測器のひとつ(日時計)

 

ジャイ・シン2世の築いたジャイプルの街は、現在では街並みが淡い桃色で統一されていることから、”ピンク・シティ”とも呼ばれます。これは1876年にイギリスのヴィクトリア女王の息子・アルバート王子がジャイプルを訪れた際、歓迎の意を示すために市街をピンク色に飾ったことに由来しており、現在でも慣習的にピンク色の街並みの維持が続けられています。華やかな桃色の街並みを巡るのもジャイプル観光の魅力の一つです。

 

ジャイプル市街地。一般の建物もピンク色に塗られています
ジャイプル市街地。一般の建物もピンク色に塗られています

 

今回は、今もジャイプルの人々に愛され慕われているジャイ・シン2世について紹介いたしました。

次回は、ラジャスタン州とラージプート族についてご紹介します!

 

Text by Okada

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シク教の聖地 アムリトサル③ 観光編

ナマステ!

今回は、今やアムリトサルの一大名物となっているインド・パキスタン国境で毎夕行われるフラッグセレモニー(国境閉鎖式)と、アムリトサル市内の黄金寺院以外の見どころについてご紹介します。

 

■フラッグセレモニー

「フラッグセレモニー」とは、インドとパキスタンの国境地点(インド側:アターリー、パキスタン側:ワガ)で、毎夕行われている国境閉鎖式の通称です。

アターリー/ワガ国境は、朝9時から午後3時までしか開いておらず、夕方は閉門します(ちなみにこの国境は、この60年来インドとパキスタン間を外国人が越えることのできる唯一の国境です)。

毎日国境を閉める前に、日中掲げている両国の国旗を降ろし丁寧に畳んでしまい、その後ゲートを完全に閉鎖します。その様子を見守るのがこの「フラッグセレモニー」ですが、始まりはなんと1959年。それから毎日ずっと続いています。

 

 

フラッグセレモニー会場・インド側の様子
フラッグセレモニー会場・インド側の様子

 

日没の約1~1.5時間前になるとインド、パキスタン両側ともに観光客や地元の方が集まりスタジアムを埋め尽くします。ボリウッドソングが大音量で流れ、歓声が響き渡る会場では、観客のテンションもMAX。両国ともに、ダンス、掛け声などを披露していきますが、盛り上がりの度合いは愛国心のバロメーターだとでも思っているのか、両陣営ともに必死です。会場は毎日相当な熱気に包まれますが、特に週末はたくさんの方が訪れ、巨大なスタジアムに収まりきらない程の人が殺到しひときわ盛り上がります。
(週末に訪問予定の場合は、かなり時間的余裕を持って現地に到着するよう計画してください)。

 

 

国旗グッズは現地で購入可能です

 

インド側では、観客がインドの国旗を持って走ったり、中央の広場でダンスが繰り広げられたりと、観客が参加するシーンも多くありました。

 

国旗を持って走る参加者

 

国境のゲートで旗を降ろす様子セレモニーが始まると、インド兵、パキスタン兵が登場。国威を示さんばかりに大きく腕や足を振り上げ行進しますが、国旗降納の場面では、両国の旗が常に同じ高さに保たれるように、非常にゆっくり、慎重に降ろされます。

最後は、インドとパキスタンの両軍の兵士が固い握手と敬礼を交わし、終了です。

 

 

行進するインド兵
行進するインド兵
国旗をゆっくりと降ろしています
両方のスピードを揃えて、ゆっくりと降ろしています

 

やはり抱えている人口の違いか、インド側の観客の方が数が多く、インド側にいると、パキスタン側の観客の歓声はかすかにしか聞こえません。しかし、パキスタン側からのセレモニー参加は、会場の参加人数ではやや劣るものの、それに負けじと観客全員が一体となっている印象を受けました。

 

インド側、パキスタン側、いずれにしても見ごたえがあるので、ぜひ両側から見学してみてください!

 

▼こちらは、フラッグセレモニーをパキスタン側から見た動画です!
(奥側がインドです)。

 

 

■ジャリヤンワーラー庭園

1947年の印パ分離独立から現在において、印パ両国間の関係は未だ安定していないというのはみなさまご存知かと思います。アムリトサルはその印パ国境から近い街ということで、訪問に際し治安面を心配されている方もいるかもしれません。確かに、印パ間でいざこざが起こると、即座にアムリトサルの空港が閉鎖になり、緊張感が走ります…。手放しで常に絶対安全! とは言えないエリアではありますが、基本的にはアムリトサルの日常は他の都市同様落ち着いており、大変穏やかです。

 

そんな平穏無事なアムリトサルのほぼ中心地に、緑豊かで大変のどかな庭園「ジャリヤンワーラー庭園」があります。現在は人々が集い寛ぐ庭園ですが、イギリス占領下の時代、この場所で大変悲劇的な事件が起きました。

 

1917年、当時のインドはイギリスの直接統治下に置かれておりましたが、自治要求運動が各地で激化しようとしていた頃でした。イギリスは、インドに第一次世界大戦後に自治を徐々に認めていくという約束をしておりましたが、実際にその約束のために施行されたものは全く意味を成さないもので、自治実現に希望を膨らませていたインド国民は、失望していました。
1919年3月、「ローラット法」が発布されました。ローラット法とは、令状なしの逮捕、裁判手続き抜きの投獄を認める、民族運動に対する法外な弾圧を目的とする法律です。これに対し、1919年4月、アムリトサルを中心してパンジャーブ州内で大暴動が発生し、町中で暴徒に襲われたイギリス人が十数人亡くなりました。すぐさま治安部隊が投入され、集会禁止令が発令されました。

 

事件が起こったのはその年の4月13日、アムリトサルの民族指導者が逮捕され、これに抗議する市民が集会を行いました。集会には女性や子供たちも参加しており、非武装かつ暴力的な行いもありませんでしたが、イギリスのダイヤー准将はグルカ兵(ネパール山岳民族から構成された兵)とイスラム教徒からなるインド軍部隊にいきなり発砲させました。解散の警告も与えられず、逃げ惑う人々の背中に向かって10~15分に渡り弾丸が尽きるまで銃撃が続けられ、379名が亡くなり、1137名の負傷者をだす惨事となりました。
※死傷者の方の数字は諸説あります。

 

銃弾の跡が残る壁

「土民に思い知らせるため(実際の准将の言葉といわれています)」、行われたこの「アムリトサル大虐殺」は、あまりにも凄惨な事件として広まり、これをきっかけに、インドの反英運動は更に強まっていきました。また既に始まっていたマハトマ・ガンディーの非暴力抵抗運動にも大きく影響を及ぼすことになりました。

 

犠牲者追悼の碑
犠牲者追悼の碑
ジャリヤンワラー公園
公園内では銃を構えた人を模したモニュメントも

現在、ジャリヤンワーラー庭園内には慰霊碑が建てられ、当時の銃弾跡や人々が逃げ込んだものの亡くなってしまった井戸等が大切に保存されています。また、ギャラリーも併設されており、なかでは事件の現場を描いた絵画が展示されています。

 

■バザール

アムリトサルへの旅行では、ショッピングも1つの楽しみです。黄金寺院付近には、文房具・ポット・アクセサリーなどが売られるカーティアン(Kathian)バザール、婦人服店が並ぶグル(Guru)バザールなど、多数のバザールがあります。

 

バザールで売られているアクセサリー

たくさんのバザール、ストリートがある中でもメインとなるのは、パーティション博物館のあるアムリトサルの市庁舎から黄金寺院までをつなぐ道。2016年ごろに整備され、ヨーロッパの街並みを思わせる解放感のあるストリートが黄金寺院まで続きます。

 

メインストリート

約500mのこのストリートは、歩行者天国となっていて、黄金寺院に向かう人や、参拝を終えて帰っていく人々がショッピングを楽しんだり、ベンチで休憩しています。また、ところどころに建てられている様々なモニュメント群にも注目してみてください。特に目を引くのが、こちらの大理石の彫刻。

 

犠牲者の顔の彫刻

 

「アムリトサル大虐殺」で亡くなった犠牲者のために、ジャリヤンワラー庭園への入り口付近に建てられました。犠牲者の中でも名の知れた約80人の顔や名前が刻印されています。

このストリートではその他にも、「パンジャーブの虎」と呼ばれたシク王国の君主ランジート・シンの銅像や、シク教の伝統的なダンスを表現した像も見ることが出来ます。

 

ランジート・シンの像

 

アムリトサル訪問の際には、参拝客や観光客で賑わうバザールでの散策もぜひお楽しみください。

 

 

 

≪インド支店・西遊インディアのツアー紹介≫

 

■アムリトサル 1泊2日 黄金寺院とパキスタン国境のフラッグ・セレモニー

■印パ両側から見る国境フラッグ・セレモニー!ラホール・アムリトサル2泊3日

 

 

参考図書:南アジアを知る事典(平凡社)

 

 

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シク教の聖地 アムリトサル② 黄金寺院とグル・カ・ランガル

Golden Temple
黄金寺院の聖堂と四方を囲む聖なる池「アムリタ・サロヴァル」

 

今回は、アムリトサル観光の目玉でもある黄金寺院と、併設されているランガル(食堂)を紹介します。

 

■ハリマンディール・サーヒブ

シク教における寺院はグルドワーラーといわれていますが、そのなかで最も神聖であり、シク教の原典も安置されている寺院が、アムリトサルにあるハリマンディール・サーヒブです。「アムリタ・サロヴァル(不老不死の池)」と呼ばれる聖なる池の中央にその聖堂が建ち、750Kgもの純金で装飾されているため、黄金寺院(Goden Temple)という名前で親しまれています。

 

 

Golden Temple
聖堂

アムリタ・サロヴァルに架かる橋を渡ると、シクの聖典「グル・グラント・サーヒブ」の原典が安置されている聖堂へと進むことがきます。聖堂へはシク教に限定されずどなたでも参拝ができます。聖堂へと続く橋の上は、参拝客で長蛇の列ですが、ハルモニウムやタブラーの伴奏とともに聖典を詠唱する声が響き、神聖な雰囲気に包まれています。また聖堂の煌びやかで美しい装飾も一見の価値ありです。ぜひ時間的余裕を十分に持って、訪れてください。

 

なお、参拝時には①頭を布で覆う②靴、靴下を脱ぎ預ける③洗い場で足を洗い清めてからの入場④たばこ・酒の持ち込みは禁止、等のルールがありますので、入場前によく確認してください。

 

 

並ぶ参拝客

 

聖堂内の美しい装飾

 

夜の黄金寺院訪問もおすすめです。ライトアップされ水面に映る黄金寺院は何とも幻想的。なお黄金寺院内には巡礼宿も併設されており、夜でも参拝客が途絶えません。昼間とは異なる美しさの黄金寺院を味わうことが出来ます。

 

ライトアップされた黄金寺院

 

 

■グル・カ・ランガル

黄金寺院内には「グル・カ・ランガル」という食堂が併設されています。1度に5千人もの人々が同時に食事ができる大きな食堂で、平均して1日に10万人分もの食事が提供されています。この食堂は、シク教のある教義を守り、実践するため500年以上も続いている習わしです。

 

「宗教、カースト、肌の色、信条、年齢、性別、社会的地位に関係なく、すべての人々は平等である」

 

ご存知の通り、ヒンドゥー社会にはカーストという身分制度があり、異なるカーストの人間は食事を共にしてはならない、という掟がありました(現在はカースト制度は憲法で廃止されましたが、その根は深く、影響は未だ残っています)。シク教の開祖グル・ナーナクは、ヒンドゥー教を排除するような思想はありませんでしたが、カースト制度に対しては否定的、批判的でした。その批判の意味も込め、礼拝後に誰もが同じ部屋で、同じ鍋の食事をとる制度<ランガル>を確立させたのです。

アムリトサルの黄金寺院に限らず、全てのシク教の寺院には必ず共同厨房と食堂があります。誰でも自由に入り、無料で食事を食べることができます。

 

 

配布するお皿が大量に積まれています

一体どのようにして、これほどの人数に食事を提供しているのでしょうか。お昼時、実際に食堂へ足を運んでみました。食堂エリアでは、土足と髪の毛を出していることが禁止されていますので、靴は靴番に預け、頭にはバンダナ、スカーフなどを巻いて入場します。

 

中に入ると、まずはお皿や食器を手渡しで受け取ります。学校給食のように担当が分かれていて、それぞれの担当が、順番にお皿・スプーン・コップなどを配っています。

 

その後食堂の部屋の手前で、既に食事中の前のグループの人たちが食事を終えるのを座って待ちます。前のグループの食事が終わると、私たちのグループが部屋の中に呼ばれます。部屋には細長い布が何本も敷かれており、そこに腰掛けます。

 

 

食堂内の様子

 

布の上に座り、食器を置いて食事が提供されるのを待ちます。この日のメニューは、お米と2種類のカレー、チャパティ、お水でした。チャパティを受け取るときは、両手で受けとります。

 

チャパティを配る様子

 

カレーは辛すぎず、素朴な味でした。観光客が行くようなレストランやホテルでは、外国人向けに味がマイルドに調整されていたり、過度にオイリーに仕上がっていることがありますが、ここでは本当にシンプルな味付けの美味しいカレーがいただけます。食事の後は食器を持って食堂階下へ行き、食器をみなで洗い、元の場所に戻します。

 

 

黄金寺院では、毎日約300人の方が調理、給仕などにあたっています。彼ら全員は無償で働くボランティアです。提供される食事の材料費も全て寄付によって賄われています。

 

シク教の考え方に、「世俗の職業に就いてそれを一生懸命励むことを重んじる」というものがあります。神に祈ることや、出家などをして修行をするのではなく、働くことで幸せになれると考えられています。そういった思想もこの厨房と食堂の存続を支えているのかもしれません。

 

 

厨房の様子
Langar
巨大な鍋がいくつも並んでいます
Langar
チャパティ担当のみなさま。手際が良すぎてカメラでは捉えられません
Langar
チャパティを手際よく焼いています。こちらもスピードが速すぎてカメラでは捉えられず

 

食堂でのボランティアは誰でも参加することが出来ます。お腹を満たした後は、少しお手伝いをしてみてもいいかもしれません。

 

 

なお、黄金寺院のグル・カ・ランガルの様子は、ドキュメンタリー映画となって日本でも公開されました。
「聖者たちの食卓(原題:Himself He Cooks)」。監督はパキスタンに行く途中にアムリトサルの黄金寺院をたまたま訪れ、その食堂のシステム、教義に感銘を受けたというベルギー人のヴァレリー・ベルトとフィリップ・ウィチュス。ベルギーでは2012年公開、日本では2014年以降全国で順次公開されました。現在DVDにもなっております。

 

Himself He Cooks
映画「聖者たちの食卓」(原題:Himself He Cooks)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪ツアー紹介≫

■パンジャーブからヒマーチャル・カングラ渓谷へ

 

≪西遊インディアの現地ツアー紹介≫

■アムリトサル 1泊2日 黄金寺院とパキスタン国境のフラッグ・セレモニー

■印パ両側から見る国境フラッグ・セレモニー!ラホール・アムリトサル2泊3日

 

 

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シク教の聖地 アムリトサル①

ナマステ!
今回は、シク教の聖地として知られ、隣国パキスタンとも陸路移動可能ということで世界中から多くの旅人が集まるインド北西部パンジャーブ州の都市アムリトサルと、アムリトサルを聖地とするシク教について紹介します。

 

(デリーからアムリトサルへのアクセスは、フライトで約1時間、もしくは列車で約6時間半。デリーからの週末1泊2日旅の行先として人気です)。

 

Golden Temple
アムリトサルの象徴黄金寺院

 

パキスタンと国境を接しインド北西部に位置するパンジャーブ州。「パンジャーブ」とは「5つの水(川)」を意味しインダス川と4つの支流(ジェラム川、シェナブ川、ラヴィ川、サトレジ川)に囲まれていたことがその名の由来となっています。大河に囲まれていたことから肥沃な土地が広がり、古くから小麦、米などの生産が盛んでした。インドに限らずパキスタン側のパンジャーブに置いても、「穀倉地帯」として有名です。

 

イギリスのインド植民地化が始まってから、最後まで植民地化に抵抗したのがパンジャーブ地方でしたが、シク戦争の結果、パンジャーブ地方はイギリスに併合されることとなります。1947年のインド・パキスタン分離独立の際に、パンジャーブは東西に分割され、人口のほとんどがイスラム教徒である西部は、パキスタンの西パンジャーブ県、ヒンドゥー教徒、シク教徒が多い東側エリアはインドのパンジャーブ州となりました。その後、二言語州であったインドのパンジャーブ州は、パンジャービー語地域をパンジャーブ州、ヒンディー語地域をハリヤーナ州として二分され、それぞれ単一の言語州となりました。

 

パンジャーブ州はインドで唯一、シク教徒が大多数を占める州ですが、そのシク教徒の総本山・黄金寺院があるのがアムリトサルです。アムリトサルはサンスクリット語で「生命の水の貯水池」という意味。人口は約100万人でインドの一都市としては大規模というわけではないですが、シク教徒の巡礼者が年中訪れ、街の中心地は常に賑わっています。また西側に約50キロ行くと、隣国パキスタンの都市ラホールが位置していることもあり、冒頭で紹介したように多くの旅行者も集まっています。

 

黄金寺院
黄金寺院を参拝するシク教徒の人々

 

【シク教とは】

シク教は15世紀インドでグル・ナーナクによって興された宗教です。ナーナクは現在のパキスタンのタルワンディーという農村で、ヒンドゥー教徒の家庭に生まれました。彼は、各地を旅しながらヒンドゥー教、イスラム教双方の教義を受容しつつ真理を追究しました。また同時期の宗教改革者カビールの影響も受けたといわれています。

 

信徒数は現在約2400万人。インドでは人口の2%ほどと少数派になりますが、世界では5番目に信者の多い宗教です。パンジャーブ州には、インド国内のシク教徒の約4分の3の人口がいるとされています。

シク教徒の男性といえば、「豊かな髭とターバン」をイメージする方が多いのではないでしょうか。シク教徒は、宗教的に髪を切ることが許されておりません。長い髪のままでは生活のあらゆるシーンで邪魔になってしまうため、ターバンのなかに髪の毛をまとめるようになりました。

 

 

シク教徒の巡礼者たち
シク教徒
シク教徒の巡礼者

シク教徒の男性には、下記の5項目の約束事があります。これらの5つは、すべて頭文字がKであるため、シク教徒の5Kと呼ばれています。

1  ケーシュ (Kes) 髪(体毛)を切らないこと
2 キルパン (Kirpan)  短剣
3 カンガー(Kengha) 木製の櫛
4 カラー(Kara)   鉄の腕輪
5 カッチュ(Kachhu) 綿の短パン

 

一般的なターバンの長さは6mほどです。シク教徒の男性は大変お洒落な方が多く、その日のターバンの色に合わせて、シャツ、ネクタイもコーディネートしています(もしくはシャツに合わせてターバンの色を選ぶことも)。
ちなみに最近では、ターバンを着用していない若い方も多いです。理由は暑い、重い、等々。確かに夏は蒸れて大変そうです。

 

Sikh
ターバンの布サンプル。
ターバンを広げるとお店の中から外まで余裕で届く長さ!

シク教は、成立時に裕福で教育水準の高い層の帰依が多かったことから、成立後長らく社会的にも活躍する人材を多く輩出してきました。職務等で海外に渡航するインド人にシク教徒が多く、頭にターバンを巻いたスタイルがインド人のイメージとして海外で広まったと言われています。

インドに実際来てみると、「ターバンを巻いた人が意外といない?」と思う方も多いと思います(私もそうでした…)。それもそのはず、実際にターバンを巻いて生活しているのは、インドに2%しかいないシク教徒で、そのほとんどがパンジャーブ州に集中していますので、パンジャーブ州以外の地域ではあまり見かけません。

 

 

シク教徒の親子
シク教徒の親子。子どもでも髪をまとめて小さなお団子にしています

 

「ターバンを巻いたインド人」というイメージ通りの人々に出会えるアムリトサル。現地でターバンを購入し、観光をしてみるのもお勧めです。次の記事ではアムリトサルの見どころをより詳しくご案内します!

 

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ホテル グレリア・コティ<バラナシ>紹介と路地裏散策

Namaste!!
バラナシの街の見どころ紹介が続きましたので、この流れでバラナシのお勧めホテルをご紹介します。

 

前回: バラナシ② ガンガーのガート群 / 仏教聖地サールナート

 

Guleria Kothi
グレリア・コティ

■Guleria Kothi Hotel

 

バラナシの旧市街にあるヘリテージタイプのホテルです。

皆様ご存知かとは存じますが、ガンジス川沿いには84ものガード(沐浴場)が存在しております。その中心的存在でいつも多くの人で賑わっているガートが、ダシャシュワメード・ガート(Dashashwamedh Ghat)。旧市街エリアで一番大きな交差点であるゴードリヤー(Godowlia)からガンジス川に向かって真っすぐ歩けば着くので、バラナシは初訪問という方にも行き着きやすく、散策の際の目印になるような場所です。そのダシャシュワメード・ガードより川沿いに徒歩15分程歩くと、ガネーシュマンディル・ガート(Ganesh Mandir Ghat)が出現しますが、その直ぐそばに建つヘリテージ風ホテルが今回紹介するグレリア・コティホテルです。
(他にもガンガー沿いに建つヘリテージホテルはございますが、このグレリア・コティは、最近リノベーションが完了しましたのでお部屋内はとても綺麗で近代的。また宿泊料金も他のヘリテージホテルに比べややリーズナブルと大変おすすめです)。

 

Guleria Kothi
夜はライトアップされます

このホテルは、もともと18世紀に地元の有力者の邸宅として建てられました。バラナシ旧市街には古めかしい建物が多いものの18世紀の建物はほとんど現存しておらず、大変貴重です。

外壁や柱にはウッタルプラデーシュ州チュナールから切り出した砂岩が使われていいます。このチュナールの砂岩は、赤みがった色をしておりきめが細かく、大変丈夫な石として、アショーカ王の石柱をはじめとするインドの古い文化遺産にも広く使われています。

 

Guleria Kothi
レセプション近く。中は広々、というわけではないですが選ばれた調度品がセンス良く配置されています
Guleria Kothi
お部屋の一例。グレリア・コティは全てのお部屋がダブルベッド仕様です

ホテルの内部は大変雰囲気が良く、内装や調度品も可愛くて素敵です。全室がガンガー・ビューというわけではないですが、ホテルの前庭のカフェ、屋上からはガンジス川がばっちりご覧いただけるばかりか、耳を澄ませば川が流れる音、波立った川の水が岸にやさしく打ち付ける音が聞こえてきます。

ガートの傍なのでホテルの前の通りなど、日中はそれなりに人通りはありますが、基本的にはとても静か。夜と朝は本当に、驚くほどの静寂です。

 

Guleria Kothi
ホテルの前庭のカフェ。川まではやや階段で高低差が設けられているものの、まさにガンジス川の傍! ここで飲むコーヒーは最高です。

ガード巡りのお散歩、旧市街巡り、また早朝のボート遊覧へのアクセスもこちらのホテルでしたらばっちり。時間いっぱいバラナシをお楽しみいただけます。

 

Varanasi
くつろぐ牛をよけながら散策

特に旧市街散策へはホテルの横の道を入っていけば、意図せずとも迷路のような裏路地の散策が楽しめます。バラナシの旧市街エリアは牛や猿、野犬がうろうろとしている他、狭い路地を無理やり走るオートリキシャ、走り回る地元の子供たち等、散策中は身の回り360度を確認しながら歩かないとなりませんが(特に所々に落ちている牛のフンには要注意です)、皆さまがイメージする「これぞインド!」という風景がここにあるのではないかと思います。

 

Varanasi
バラナシ旧市街を散策
Varanasi
歩き疲れたら路面にあるお茶屋さんにて休憩

グレリア・コティは全部で15室と限られており、シーズン中は大変混みあい満室ということも少なくありません。ご検討の際はお早めにご相談下さい。

 

インド支店・西遊インディアではバラナシツアーを取り扱っております。
バラナシ1泊2日

 

Text,Photo : Hashimoto

 

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バラナシ② ガンガーのガート群 / 仏教聖地サールナート

■「ガンジス川で沐浴をすれば、全ての罪が洗い流される」

ヒンドゥー教徒が一度は巡礼を願うガンジス川。特に早朝、朝日に清められた沐浴はさらに効果があると考えられ、多くの巡礼者が早朝の沐浴へ出かけます。旅行者に対しては早朝のガンジス川を巡るボートが用意されており、朝のガンジス川の雰囲気をゆったりと感じながらガートを見学することができます。

 

早朝のボートツアー
夜明け前、ガンジス川をボートにて遊覧
Ganga
ガンジス川対岸より朝日が昇ります
Ghat
早朝のガート

「ガート」は川辺や湖畔などに作られた広場を指し、多くの場合は水位の高低に関わらず利用できるように階段状・テラス状になっています。単純に水辺の作業場を指すこともありますが、特に沐浴の場・またバラナシでは火葬場として利用されています。

 

バラナシには84のガートが並び、その中央に毎晩プジャの行われるダシャーシュワメード・ガートが位置しています。全てのガートはガートは川の流れの西側に位置しており、朝日を浴びながら沐浴をする人々の姿をあちこちで見ることができます。寄進や運営の母体によってさまざまなガートがあり、インド国内外からの巡礼者が訪れています。

 

朝のガート
朝のガート インド全国から集まったヒンドゥー教の巡礼者でいつも大変な賑わい

バラナシで火葬場として利用されているガートはマニカルニカー・ガート、ハリシュチャンドラ・ガートの二つ。火葬のための薪が大量に積み上げられたガートでは、ドームと呼ばれるカーストの専門職能集団が火葬場を運営し、作業にあたっています。バラナシで死を迎え、遺灰をガンジス川に流せば輪廻から解放されるという信仰に基づき多くの人がバラナシでの火葬を望み、死を迎えるためにバラナシを訪れる信者もいます。一般の信者は火葬されますが、子供と出家者はそのまま川へ流されます。

 

聖なる水であるガンジスの水は腐ることがないと言われ、バラナシ土産として水を持って帰る巡礼者の姿も多く見えます。容器としてペットボトルやポリタンクが土産屋に並んでいる風景はバラナシならではのものです。

 

 

■初天法輪の地:サールナート

ダメーク・ストゥーパ
ダメーク・ストゥーパ

ヒンドゥー教の聖地としてのイメージが強いバラナシですが、バラナシ郊外のサールナートは釈尊が悟りを得た後に初めて説法を行った場所「初転法輪の地」として仏教の聖地となっており、ここにも多くの巡礼者が訪れています。

5人の仲間と共に苦行に励んでいた釈尊は苦行という修行の限界を理解し、一人仲間の下を離れてナイランジャラー川での沐浴を行い、近くの村の娘スジャータから乳粥を施されます。その釈尊の姿を見た5人の仲間たち苦行を諦めた釈尊は堕落してしまったと軽蔑しブッダガヤを離れますが、釈尊はブッダガヤの菩提樹の下、「悟りを開くまでここから動かない」と」覚悟を決めて瞑想に入り、遂に悟りを開き、仏陀(目覚めた者)と呼ばれることとなりました。真理を悟ったあと、なぜ彼が布教や説法への道へ向かおうとしたのかという問題は仏教最大の謎とも言われています。ヒンドゥー教的な解釈では最高神のひとつブラフマーが説法でその教えを広めるよう仏陀に勧めたという話が一般に知られていますが…。

 

Mulgandha Kuti Vihar
サールナート内にあるムールガンダ・クティ・テンプルの内壁には、日本人画家・野生司香雪氏作の「仏陀の生涯」が描かれています

仏陀は説法のために共に苦行に励んだ5人の仲間を追い、サールナートにて説法を行います。はじめは理解を示さなかった仲間たちも説法の中で仏陀の教えに導かれ、後に阿羅漢(悟りを得た者)として仏教を広めていく仲間となります。

 

Sarnath
サールナート 鹿公園

 

サールナートは鹿野苑とも呼ばれ、以降の仏教美術の中ではこのサールナートでの初天法輪のモチーフは鹿や法輪をシンボルとして各地に描かれていきます。また紀元前3世紀にはアショカ王がストゥーパを建設し、紀元後6世紀のグプタ朝期に現在の形に増築されました。現在のサールナートは遺跡公園として整備され、併設の博物館に出土品が展示されています。

 

Sarnath
博物館内に安置されている仏陀像(左)と、アショーカ王石柱の頂上に置かれていた四方を向いたライオン像(右)
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バラナシ ①ガンガー神話とプジャ

ナマステ!!

 

西遊インディアの岡田です。インドと言えばヒンドゥー教、ヒンドゥー教と言えばガンジス川、ガンジス川と言えばバラナシ。本日はヒンドゥー教の一大聖地:バラナシの街をご紹介します。

 

ガンガー(ガンジス川)とガート群
ガンガー(ガンジス川)とガート群

日本人にとっても知名度が高く、いつかはバラナシに行ってみたい、という方も多いのではないでしょうか。今回は「バラナシ前編:ガンガー神話とプジャ」としてご紹介します。「ガンガー」はヒンドゥー語での名称、後に英語ではガンジス川と表現されていきます。

バラナシの都市としての歴史は非常に古く、紀元前6世紀頃にはカーシー王国が都をバラナシに置き、ガンジス川中流域の経済・文化的な中心地として発展していました。紀元後5世紀頃のグプタ朝の下では政治的な安定のもとヒンドゥー教・仏教ともに大きく文化的に発展し、その中でバラナシはシヴァ信仰の中心地としての地位を確立していきます。ヒンドゥー教の隆盛に従い以降多くの寺院やガートが整備されていきますが、11世紀以降のイスラム王朝の侵略の結果寺院は徹底的に破壊されてしまいます。

 

しかし16世紀以降、ムガル帝国の凋落期には南部のマラーター同盟による寄進などにより寺院の再建が進み、現代のバラナシのガート群の姿が形作られていきました。現在でも聖地として、インド国内外から多くの巡礼者が訪れます。

 

18世紀前半にバラナシを統治したバルクント・シンの居城:ラームナガル城
18世紀前半にバラナシを統治したバルクント・シンの居城:ラームナガル城

 

■プジャ(礼拝)へ

インド全国から巡礼者が集まるバラナシでは、ガート群の丁度中央にあるダシャーシュワメード・ガートにて毎日プジャ(又はアルティ)と呼ばれる礼拝儀式を行っており、ヒンドゥー教徒以外でも参加することができます。夕刻、ガートにたどり着くと階段にはびっしりと巡礼者が詰めかけて座っており、会場は静かな熱気に満ちています。

 

プジャの会場:ダシャーシュワメード・ガート
プジャの会場:ダシャーシュワメード・ガート

この礼拝ではまず「ガンガーの降下」の神話で知られる聖者バギーラタへの礼拝が捧げられます。バギーラタは祖先の霊を浄化するために天上の聖なる河であったガンジス川を地上へ流そうと苦行に励んだ聖者。苦行の結果、川の女神ガンガーにその願いを認められますが、もしガンガーがそのまま地上へ流れてしまえばその衝撃で世界が壊れてしまい、その衝撃を受け止められるのはシヴァ神のみであると告げられます。

 

シヴァはこれを了承し、自らの髪でガンガーの流れを受け止めることを承諾しました。ついに地上へガンガーが流れるかと思いきや、その衝撃でシヴァに自らの強さを見せつけようと目論んでいたガンガーはその野望をシヴァに見破られ、怒ったシヴァはその髪にガンガーを封じ込めてしまいます。

 

これに困ったバギーラタはさらに苦行を重ね、シヴァの心を開いてようやくガンガーは地上へ流れることとなりました。そのため、今でもシヴァ神の肖像では彼の髪の間からガンガーが流れ出ています。この神話に由来し、プジャではバギーラタ、ガンガー、そして最後にシヴァ神への礼拝が行われます。

 

プジャの儀式
プジャの儀式

プジャの儀式はガートの先端部、川辺の部分で行われます。参加者はガートの階段部に座りますが、川の上のボートから参加している人もいます。団体の観光客の場合はガートに面したテラスから椅子に座って儀式を見ることのできる有料席を利用できる場合もあります。

 

プジャはまず7人の僧の礼拝席にヒンドゥー教のシンボルであるサフラン色のマリーゴールドの花びらを撒くことから始まります。準備が整うと両面太鼓や手押しオルガン、鐘による演奏に合わせて礼拝の祝詞が歌われ、バギーラタ、ガンガー、シヴァの順に3神に対してランプ、香炉、燭台を掲げ、礼拝をおこないます。

 

合計で1時間ほど続くプジャの最中では、会場の参加者が僧侶に合わせて祝詞をあげたり、拍手をしたりという場面もあります。会場が一体となって礼拝に向かう光景はまさに聖地のイメージそのものであり、まさに旅のハイライトにふさわしいような荘厳さを感じさせます。

 

 

 

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