デリーに残る13世紀の遺跡 ホーズ・カース

マドラサ(神学校)の北塔(ホーズ・カース)

ナマステ!西遊インディアです。
 
歴代イスラーム王朝の都が置かれた歴史から、多くの遺跡が存在するデリー。
デリーにある3つの世界遺産はすべてイスラーム王朝時代に築かれたものであり、その歴史を物語っています。
今回は、世界遺産でないためフィーチャーされることが少ないながらも、貴重な13世紀の遺構が残る「ホーズ・カース」遺跡群をご紹介します。
 
オールド・デリーの南、サウスデリーに残る13世紀の遺跡群ホーズ・カース(Hauz Khas Complex/हौज़ खास)。カタカナではハウズ・カース、ハウツ・カズのように表記されることも多いですが、ホーズ・カースが現地の発音に近い気がします。
入場料は外国人料金250ルピーで、通常8:00~19:00に見学できます。デリーメトロのマゼンタ&イエロー線「Hauz Khas」駅からオートリキシャで10分くらい。周辺は高級ブティックやカフェ、レストランが立ち並ぶおしゃれなショッピングエリアとしても定着しています。
 
車で15分の場所には、同じくデリー=スルターン朝の13世紀に建てられた世界遺産の塔、クトゥブ・ミーナールがあります。

クトゥブ・ミーナール

クトゥブ・ミーナールは、デリー=スルターン朝のなかでも、1206年に始まる奴隷王朝の創始者クトゥブッディーン・アイバクが建てたものですが、ホーズ・カースはその後の1290年から始まるハルジー朝時代に建てられたもの。
ハルジー朝第3代スルターンのアラーウッディーン・ハルジー(1296-1316)が貯水池として造営しました。
 
ホーズ・カースとは、ペルシャ語由来でTank(貯水槽、もしくは湖)を表す「Hauz」と、Royal(王室の)を意味する「Khas」を合わせた意味。“王室の貯水湖”のようなイメージでしょうか。
貯水湖は最大で50ヘクタール(東京ドーム約10.5個分)もの広さに及んだそう。
貯水湖

敷地内には案内板があり、わかりやすいです

ホーズ・カースはハルジー朝の都城址シリの一部で、大きな貯水池はシリの住民に水を供給するために建設されたと考えられています。乾季の間、王族たちがお城で必要な水を十分に確保できるほどの規模だったといいます。
 
敷地内は柵がないところも多く、壁面を近くで見たり、回廊部分に入ってみたり、裏にまわったりと、自由に見学できます。(市民やカップルの憩いの場のような雰囲気もあるので、物陰に入るとたまに人がいてびっくりすることも…!)
敷地内は柵がないところもあり、自由に見学できます

市民の憩いの場のような雰囲気

マドラサの回廊

貯水池の南東側にある遺跡群のエリアには、後のトゥグルク朝スルターンであるフィールーズ・シャー・トゥグルク(1351-1388)が14世紀につくったマドラサ(神学校)や、要塞、モスク、墓廟、居住区などがあります。
 
3つのドームがつながった珍しい造りのパビリオン

庭園にあるドーム構造をもつパビリオン(Assembly Hall)は、さまざまな形とサイズがあり用途は不明ですが、碑文によるとお墓であると推測されています。ただ、現在はお墓の痕跡はありません。その大きさと形状から、集会場のような役割があったとも考えられています。

フィールーズ・シャーの墓の南側にあるパビリオン

フィールーズ・シャーの墓の南側向かいにある、8本の柱を持つ小さなチャトリ(インド・イスラーム様式の建築で、ドームが載った東屋のような建物)も印象的です。
 
このホーズ・カース遺跡群のなかでもっとも重要とされる建物は、フィールーズ・シャーの墓廟です。
南側の入口の碑文には、1508年にローディー朝のシカンダル・ローディーの命令で建物の修理が行われたことが残されています。
フィールーズ・シャーの墓廟

トゥグルク朝3代目のスルターンとして1388年まで統治したフィールーズ・シャーは、内政を重視した行政改革を行い、人々から人気がある王様だったそうです。妻はヒンドゥー教徒の女性、信頼する宰相もヒンドゥー教からの改宗者だったそうで、ヒンドゥー教徒に一定の理解を示した宥和政策をとっていました。また、都市・灌漑施設などのインフラ拡充、税制改革、罪人に対しても残酷な処罰を廃止したりして、イスラーム政権の安定を図りました。
 
フィールーズ・シャーが亡くなったのは1388年でしたが、1354年の生前に、マドラサと同時に自分の墓廟を建てました。
大きさは13.5m×13.5m、マドラサの北棟・西棟の接続点にあり、ドームの頂上は建物全体で一番高い場所になっています。部屋の中央にあるお墓はフィールーズ・シャーのもので、他の大理石のお墓はおそらく彼の息子と孫のものとみられます。
 
通常ツアーで訪問することは少ない場所ですが、見応えは十分。クトゥブ・ミーナールの見学やホーズ・カース・ヴィレッジでのショッピングと合わせて、日差しの強くない日に訪れてみるのもおすすめです!

マドラサの遺構

 
※入場料などの情報は、2024年7月訪問時のものです。
 
Photo & Text: Kondo
 


▼日本発着のインドツアー一覧はこちら
https://www.saiyu.co.jp/list/ipnp.php#india

▼インド現地発着の個人手配プランはこちら
https://www.saiyuindia.com/

カテゴリ:■インド北部 , インドの世界遺産 , インドの偉人 , インドの街紹介 , デリー
タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , , ,

レー空港に名を冠するクショク・バクラ・リンポチェ

ジュレー!西遊インディアです。
ラダックを旅する人ならほぼ必ず利用するレーの空港。正式名称は「クショク・バクラ・リンポチェ空港」といいます。はじめて知ったときから、そのちょっと長くて不思議な響きが耳に残っていました。
 
今回は、ラダック旅における空の玄関口、レー空港の正式名称となっている高僧クショク・バクラ・リンポチェについてとりあげてみます。
 
■もくじ
1.空の玄関口 レー空港
2.クショク・バクラ・リンポチェとは?
3.ラダックにおける存在と空港名となった経緯
4.ゆかりの場所

1. 空の玄関口 レー空港

デリーから飛行機で約1時間。ラダック連邦直轄領のほぼ中央、中心都市レーの標高約3,256mに位置するレー空港(Kushok Bakula Rimpochee Airport, Leh)。
インドで最も標高の高い空港で民間機も発着しますが、1961年に軍用滑走路として開設されたインド空軍の軍用飛行場でもあります。

スピトゥク僧院から遠望したレー空港の滑走路

ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に囲まれた山間部にあるため、離着陸のアプローチが困難な空港のひとつ。そのかわり、それと同時に山岳風景が美しい場所です。
 
インドの軍事施設は撮影禁止のため建物を近くから撮った写真はありませんが、従来の平家づくりの建物に加えて拡張工事が進んでおり、ゆくゆくはもう少し大きくなりそうです。
 
空港の周辺には小高い岩山の上に建つスピトゥク僧院があり、飛行場からも遠望することができます。
空港の名前は、そのスピトゥク僧院の座主をつとめたクショク・バクラ・リンポチェ19世にちなんで付けられました。スピトゥク僧院の座主は、代々バクラ・リンポチェがつとめています。

スピトゥク僧院

2.クショク・バクラ・リンポチェとは?

仏陀の16人の阿羅漢(十六羅漢)のうちの1人で、9番目の阿羅漢である、バクラ(諾距羅・なくら)の転生とされる高僧です。(仏教では輪廻転生が信じられています。)
ちなみに阿羅漢とは、悟りに達した高僧のこと。十六羅漢とは、お釈迦様が亡くなる(涅槃に入る)ときに、後を託された16人の高僧たちのことです。慶友と賓頭盧(または、迦葉と軍徒鉢歎)を加えて十八羅漢とする場合もあります。
バクラ・リンポチェは、マングースを抱いている姿で描かれることが多いです。

パドゥム僧院(ザンスカール)の壁に描かれたバクラ・リンポチェ

現在は、ヌブラ渓谷のキャガール村で2005年に生まれた20世が、ダライラマ14世によって認定されています。現在は南インドで修行されているのだそう。
 
先代のバクラ・リンポチェ19世は、高僧としての宗教的な奉仕で知られているだけでなく、インド独立後のラダックで最も尊敬される宗教的・政治的な指導者で、いわゆる土地の名士のような存在でもありました。

3.ラダックにおける存在と空港名となった経緯

先日逝去されたマンモハン・シン元首相も「現代ラダックの設計者」と称したという、バクラ・リンポチェ19世。常に人々の分裂が起こらないように努め、ラダックの人々のアイデンティティが保たれることを望んでいたと、多くの人々が言葉を残しています。
なぜ、そのように人々から尊敬を集め、インド政府からも篤い信頼を受けるようになったのでしょうか。その経緯をインド独立の時代背景とともにたどってみます。
 

スピトゥク僧院に置かれていたバクラ・リンポチェ19世の写真

1918年に、ラダックのマト村で王族に生まれたバクラ・リンポチェ19世。ダライ・ラマ13世によって転生者であると認められました。1949年、31歳のときに当時の首相ジャワハルラール・ネルーに説得されて公職につくまで、政治とは無縁でした。

のどかなマト村

英領インド時代、かつてジャンムー・カシミール州は一つの藩王国でしたが、第二次世界大戦後の1947年にインド・パキスタンが独立する際に、どちらの国へ帰属するかを決められることになりました。
住民の多くはイスラム教徒でしたが、藩王自身はヒンドゥー教徒であったこともあり、独立を希望。それが認められずなかなか状況が定まらないところ、1947年からパキスタン側の部族民が、ゆさぶりをかけてジャンムー・カシミール州を襲撃。
部族が州都のシュリーナガルまで迫ってきたため、危機に瀕した藩王はインドに援軍を頼みました。そこで当時のネルー首相は、暫定的にでもカシミールがインドに帰属すると表明するのであれば、インド領としてインド軍を派遣すると答えます。
やむなくして、藩王はインドへの帰属を決めました。これが第一次印パ戦争の発端であり、今日までつづいているカシミール問題のはじまりです。
 
ちなみに、帰属問題を残したまま分離・独立を迎えた藩王国は、カシミールと、ハイデラバード(テランガーナ州)、ジュナーガル(グジャラート州)の3つでした。ハイデラバードは武力でインドに迫られた藩王がインドへの帰属に応じ、ジュナーガルはイスラム教徒だった藩王がパキスタンに逃避して、インドに統合されることになりました。
 
その後、1949年7月にネルー首相がラダック(旧ジャンムー・カシミール州)を訪問。ラダックが宗教上の理由で分裂しないよう、高僧であるバクラ・リンポチェに、地域の人々のために活動してほしいと指導者として抜擢します。
そうしてバクラ・リンポチェは、ラダックにおける政治活動はもちろん、学校を設立し、伝統的な価値観とともに教育を受け入れるよう近代教育を奨励。
またラダックだけでなく、全国で福祉や少数民族の権利について多くの問題に取り組み、指定カーストや指定部族、少数民族などマイノリティの人々の意見を擁護しました。
そのような熱意ある行動は、ラダックの人々がこれまでの暮らしや文化、仏教への信仰を維持する上でも重要でした。インド独立初期におけるラダックとインドとの関係をうまく保ち、ラダック人の民族的アイデンティティが失われることなのないよう、地域を守ることにつながったのです。
 
バクラ・リンポチェは、自分が指導者であるとは主張していませんでしたが、チベット難民がインドに初めて到着したときの支援活動によって、チベットの人々からも高僧として、また人権活動家としても非常に尊敬されたそうです。
ちなみに、バクラ・リンポチェは駐モンゴル・インド大使も務めており、仏教徒の多い二国間の関係を強化することにも貢献されました。
 
ダライ・ラマ14世にとっての親しい友人でもあり、仏法の献身的な擁護者であったバクラ・リンポチェ。2003年11月4日に、デリーで生涯を終えました。
 

1957年1月21日カルカッタを訪問中のダライ・ラマ14世とバクラ・リンポチェ19世(ダライ・ラマ14世の右) – Public Domain, Wikimedia Commons

このような経緯で、現在のラダックの礎を築くキーパーソンとなったバクラ・リンポチェ19世。教育と社会の改革、宗教と文化の保護に力を注ぎ、ラダックの発展と近代インドに残した貢献を称えるため、バクラ・リンポチェが亡くなった後の2005年に、レー空港はリンポチェの名を冠する名称に変更されました。
 
ラダックと世界をつなぎ伝統に根ざして進歩するという、バクラ・リンポチェ19世のビジョンを象徴するようなレーの空港。バクラ・リンポチェの生涯の功績と、ラダックの人々のために行動してきた熱意を思い起こさせるものとして存在しています。

4.ゆかりの場所

バクラ・リンポチェ19世の写真はラダックの僧院のお堂などで目にすることができますが、バクラ・リンポチェにとくにゆかりのある場所をいくつかピックアップしてご紹介します。
 
■スピトゥク僧院 Spitok Gompa
一説には、11世紀にグゲ王国の王によって建立されたといわれています。15世紀前半、当時の王がゲルク派の開祖ツォンカパからの使者を受け入れ、スピトゥク僧院はラダック初のゲルク派の僧院となりました。その後、お堂の修復・拡張が行われ、立体的で複雑な構造になっています。
11世紀につくられたという部分で唯一残っているのが、最上階にあるゴンカンです。ここにはパルデンラモ(吉祥天女)がご本尊として祀られており、仏教徒のみならずヒンドゥー教徒も訪れるといいます。
この僧院の座主は、先にお伝えしたとおりバクラ・リンポチェで、お堂に19世と20世の写真が飾られていました。
そしてこの僧院の特徴は何といっても、空港が一望できる絶好の場所にあることです。

スピトゥク僧院からの眺め

お堂に飾られていたバクラ・リンポチェ19世の絵と20世の写真

■シャンカール僧院 Sankar Gompa
20世紀初頭、バクラ・リンポチェ19世によって創建されたゲルク派の僧院。
本堂には、ドゥカル(白傘蓋仏母)の像が安置されています。「傘蓋」とは高貴な人たちのみが使う日傘で、暑さを遮ることから悪魔を遮る意味となりました。顔・手・脚がそれぞれ千あり、一つ一つの手には目があります。白い傘で災難をよけ、左手に持つ輪玉で煩悩を打ち砕きます。
白傘蓋仏母像は見られる機会が少ないのですが、レー近郊だとシャンカール僧院、レー王宮、ザンスカールではランドゥン僧院、リンシェ僧院でお目にかかることができました。

シャンカール僧院のドゥカル像

■ザンラ旧王宮 Zangla Palace
ラダックのさらに奥、ザンスカールの地に残る旧ザンラ王宮。18世バクラ・リンポチェは、ザンラ王宮で生まれました。
18世バクラ・リンポチェのストゥーパ(仏塔)は、旧王宮のすぐそばにあります。
18世バクラ・リンポチェが亡くなった後、宮殿の前で火葬され、後にストゥーパが建てられました。そのストゥーパの状態が劣化した後、村全体にバクラ・リンポチェの祝福が届くよう、丘の上にあるこの場所に移されたのだそうです。

ザンスカールのザンラ旧王宮に立つバクラ・リンポチェのストゥーパ(左)

小高い岩山の上に残るザンラ旧王宮

■その他
ザンスカールのパドゥム僧院、トンデ僧院のドゥカンにも、バクラ・リンポチェの壁画が描かれています。

パドゥム僧院からの眺め

パドゥム僧院(ザンスカール)の壁に描かれたバクラ・リンポチェ

トンデ僧院

トンデ僧院のお堂の内部。19世バクラ・リンポチェの写真が

ラダックの玄関口である、レー空港に名を冠するクショク・バクラ・リンポチェ。
僧院を見学した際に、祭壇に飾られているバクラ・リンポチェの写真や、マングースを抱いている高僧の壁画に出会ったら、現在もラダックがラダックらしくある歴史的背景に想いを馳せてみると、より理解が深まるかもしれません。
 
※僧院や空港の情報は、2024年7月訪問時のものです。
 
参考:『インド,ラダックにおける仏教ナショナリズムの始まり』名古屋学院大学/宮坂清(2014年)、INDIA TODAY、インド首相官邸Webサイト、日本総研RIM 環太平洋ビジネス情報 1998年7月No.42『南アジア緊張の火種・カシミール問題を考える』、新纂浄土宗大辞典など
 
Photo & Text: Kondo
 


▼日本発着のインドツアー一覧はこちら
https://www.saiyu.co.jp/list/ipnp.php#india

▼インド現地発着の個人手配プランはこちら
https://www.saiyuindia.com/

カテゴリ:■インド山岳部・ガンジス源流 , インドの偉人 , インドの宗教 , ラダック , レー
タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , , , ,

バーブルの生涯とムガル帝国建国

ムガル帝国」は、北インドを観光中、1日に一度ならず何度も何度もガイドの口から出てくるワードの一つです。

 

インドはイギリス植民地として支配下に置かれるまで、ムガル帝国によって支配されてきました。その支配力は常にインド全域に渡っていたものではありませんでしたが、特に北インドにおいては、広く諸勢力を支配下に置き、北インドは長い間ムガル帝国の基礎・拠点となってきました。

 

デリー、アグラを中心とする北インドエリアでは帝国の統治下において、インド・イスラーム文化が華開き、現代にも多くの遺産が受け継がれ、大切にされています。

 

今回は、その「ムガル帝国」建国までの歴史と、創立者であるバーブルについて紹介します。

 

バーブル(左)と息子フマユーン(右)
バーブル(左)と息子フマユーン(右) (出典:間野 英二 著 「バーブル―ムガル帝国の創設者 」山川出版社 2013年)

■生誕とサマルカンド奪還の野望

1483年、バーブルは現在のウズベキスタン東部に位置するフェルガナ地方にティムール朝の王子として生まれました。

父親は14世紀末に中央アジアに覇権を唱えたティムールの血、母親はモンゴル帝国のチンギス・ハンの血を継いでおり、バーブルは輝かしい出自であったと言えます(バーブル自体はティムールの5代目の子孫でした)。
フェルガナの領主の息子として育ったバーブルですが、1494年、父親の突然の事故死により、僅か12歳でフェルガナの領主となります。

 

当時サマルカンドを都としていたティムール帝国(1370-1507)は既に凋落の一途を辿っていました。諸勢力がサマルカンド獲得を巡って攻防を続けていましたが、バーブルもこの攻防に参加し、ティムール帝国の再興をもくろみます。

バーブルは1497年には従兄のバイスィングル、1500年にはウズベク系のシャイバーニー朝、また1511年には再度シャイバーニー朝を破って計3回のサマルカンド入城を果たしましたが、どれも短命政権に終わり、サマルカンドを後にすることとなりました。

 

現在のサマルカンド レギスタン広場
現在のサマルカンド  レギスタン広場(正面の神学校はティムール朝第4代君主ウルグ・ベクによって建てられました)

 

■インド支配への道

3度にわたるサマルカンド支配に失敗したバーブルは、サマルカンドから南部へと路線を変更します。アフガニスタンのカーブルに最初の拠点を築いたバーブルは、同じくアフガニスタンのカンダハール、パキスタンのペシャワール、そしてインドのパンジャーブへと進軍し、徐々にインド方面へ目を向けるようになっていきました。
1520年にはタジキスタン南部のバダフシャンを占領し、2年後の1522年にはさらに南下してカンダハールを占領。カーブルを拠点として、インド方面へと支配力を広げていきます。

 

また、バーブルはインドへ6度に渡って遠征を繰り返しています。カブールは大帝国の都としては十分な土地ではなく、始めは単に財貨の略奪を主目的としてインドへの遠征を行っていました。北西インドでは10世紀頃からイスラーム勢力の侵入が激しくなってきますが、このような財貨の略奪を目的とした遠征は当時としても珍しいことではなかったようです。

 

しかしインドへの遠征の中でバーブルはその豊かさに驚き、次第にインドを拠点とした建国を目指すようになります。徐々に力を増したバーブルは、当時の北インドのイスラーム勢力の内部抗争を好機とみて本格的な侵攻へ向かいます。1526年、第6次の遠征で、バーブルはデリーから北西に約90kmのパーニ―パットにてローディー朝を破り、デリー・アグラヘ入城。ここから、単なる略奪ではなく、インドに拠点を置いての本格的な支配へと移行していきます。

 

第一次パーニーパットの戦い
第一次パーニーパットの戦い(画像出典:パーニーパット県公式Webサイト)

 

若くから各地を転々とし建国の野望を秘めていたバーブルは、43歳にしてようやくムガル帝国の建立に至りました。「ムガル」とは、ペルシャ語でモンゴルを意味する語が変化したもの。バーブルがティムールの子孫であり、モンゴル系の血統を継いでいることに由来しています。実際はムガル帝国という名は自称していたものではなく、自称としてはヒンドゥスターン(ペルシャ語で「インダス川の土地」を意味)と名乗っていたようです。

 

当初はデリーとアグラ周辺を支配する小国に過ぎなかったムガル帝国ですが、バーブルは息子で後に第2代ムガル皇帝となるフマユーンとともに、ガンジス川沿いに東方のビハール、そしてベンガル地方へ遠征を繰り返して勝利を治め、インドでの支配基盤を整えていきました。

 

■バーブルの最期

1530年、病に倒れ遠征から帰ったフマユーンのため、バーブルは自らの命を捧げてフマユーンの回復を祈る儀式を行います。フマユーンは無事回復しますが、それからほどなくした1530年12月26日、バーブルはアグラにてその47年の生涯を閉じました。

 

諸国を遍歴し、ムガル帝国の建立後も僅か4年でその生涯を終えたバーブル。文学と書物を愛し、詩人でもあった彼は、その自伝を『バーブル・ナーマ』(バーブルの書)として書き記しており、まさに波乱万丈の生涯を窺い知ることができます。

 

バーブル・ナーマ
バーブル・ナーマの一部

 

バーブルは、自らの死後は初めて自分が拠点としたアフガニスタンのカーブルに葬ることを遺言として残していました。しかし、バーブル死後の戦乱のためにカーブルへの埋葬は叶わず、まずはヤムナー川沿いのラーム・バーグ庭園に葬られることとなります。バーブルの治世は僅か4年でしたが、このラーム・バーグ庭園はその中でバーブルが命じて建造した数少ない建築物でした。

 

その後、バーブルの棺はカーブルに移され、現在にまで伝えられています。

 

 

バーブルの墓
バーブルの墓(アフガニスタン カーブル)

 

Text by Okada

カテゴリ:■インド北部 , インドの偉人
タグ: , , , , , , ,