レー空港に名を冠するクショク・バクラ・リンポチェ

ジュレー!西遊インディアです。
ラダックを旅する人ならほぼ必ず利用するレーの空港。正式名称は「クショク・バクラ・リンポチェ空港」といいます。はじめて知ったときから、そのちょっと長くて不思議な響きが耳に残っていました。
 
今回は、ラダック旅における空の玄関口、レー空港の正式名称となっている高僧クショク・バクラ・リンポチェについてとりあげてみます。
 
■もくじ
1.空の玄関口 レー空港
2.クショク・バクラ・リンポチェとは?
3.ラダックにおける存在と空港名となった経緯
4.ゆかりの場所

1. 空の玄関口 レー空港

デリーから飛行機で約1時間。ラダック連邦直轄領のほぼ中央、中心都市レーの標高約3,256mに位置するレー空港(Kushok Bakula Rimpochee Airport, Leh)。
インドで最も標高の高い空港で民間機も発着しますが、1961年に軍用滑走路として開設されたインド空軍の軍用飛行場でもあります。

スピトゥク僧院から遠望したレー空港の滑走路

ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に囲まれた山間部にあるため、離着陸のアプローチが困難な空港のひとつ。そのかわり、それと同時に山岳風景が美しい場所です。
 
インドの軍事施設は撮影禁止のため建物を近くから撮った写真はありませんが、従来の平家づくりの建物に加えて拡張工事が進んでおり、ゆくゆくはもう少し大きくなりそうです。
 
空港の周辺には小高い岩山の上に建つスピトゥク僧院があり、飛行場からも遠望することができます。
空港の名前は、そのスピトゥク僧院の座主をつとめたクショク・バクラ・リンポチェ19世にちなんで付けられました。スピトゥク僧院の座主は、代々バクラ・リンポチェがつとめています。

スピトゥク僧院

2.クショク・バクラ・リンポチェとは?

仏陀の16人の阿羅漢(十六羅漢)のうちの1人で、9番目の阿羅漢である、バクラ(諾距羅・なくら)の転生とされる高僧です。(仏教では輪廻転生が信じられています。)
ちなみに阿羅漢とは、悟りに達した高僧のこと。十六羅漢とは、お釈迦様が亡くなる(涅槃に入る)ときに、後を託された16人の高僧たちのことです。慶友と賓頭盧(または、迦葉と軍徒鉢歎)を加えて十八羅漢とする場合もあります。
バクラ・リンポチェは、マングースを抱いている姿で描かれることが多いです。

パドゥム僧院(ザンスカール)の壁に描かれたバクラ・リンポチェ

現在は、ヌブラ渓谷のキャガール村で2005年に生まれた20世が、ダライラマ14世によって認定されています。現在は南インドで修行されているのだそう。
 
先代のバクラ・リンポチェ19世は、高僧としての宗教的な奉仕で知られているだけでなく、インド独立後のラダックで最も尊敬される宗教的・政治的な指導者で、いわゆる土地の名士のような存在でもありました。

3.ラダックにおける存在と空港名となった経緯

先日逝去されたマンモハン・シン元首相も「現代ラダックの設計者」と称したという、バクラ・リンポチェ19世。常に人々の分裂が起こらないように努め、ラダックの人々のアイデンティティが保たれることを望んでいたと、多くの人々が言葉を残しています。
なぜ、そのように人々から尊敬を集め、インド政府からも篤い信頼を受けるようになったのでしょうか。その経緯をインド独立の時代背景とともにたどってみます。
 

スピトゥク僧院に置かれていたバクラ・リンポチェ19世の写真

1918年に、ラダックのマト村で王族に生まれたバクラ・リンポチェ19世。ダライ・ラマ13世によって転生者であると認められました。1949年、31歳のときに当時の首相ジャワハルラール・ネルーに説得されて公職につくまで、政治とは無縁でした。

のどかなマト村

英領インド時代、かつてジャンムー・カシミール州は一つの藩王国でしたが、第二次世界大戦後の1947年にインド・パキスタンが独立する際に、どちらの国へ帰属するかを決められることになりました。
住民の多くはイスラム教徒でしたが、藩王自身はヒンドゥー教徒であったこともあり、独立を希望。それが認められずなかなか状況が定まらないところ、1947年からパキスタン側の部族民が、ゆさぶりをかけてジャンムー・カシミール州を襲撃。
部族が州都のシュリーナガルまで迫ってきたため、危機に瀕した藩王はインドに援軍を頼みました。そこで当時のネルー首相は、暫定的にでもカシミールがインドに帰属すると表明するのであれば、インド領としてインド軍を派遣すると答えます。
やむなくして、藩王はインドへの帰属を決めました。これが第一次印パ戦争の発端であり、今日までつづいているカシミール問題のはじまりです。
 
ちなみに、帰属問題を残したまま分離・独立を迎えた藩王国は、カシミールと、ハイデラバード(テランガーナ州)、ジュナーガル(グジャラート州)の3つでした。ハイデラバードは武力でインドに迫られた藩王がインドへの帰属に応じ、ジュナーガルはイスラム教徒だった藩王がパキスタンに逃避して、インドに統合されることになりました。
 
その後、1949年7月にネルー首相がラダック(旧ジャンムー・カシミール州)を訪問。ラダックが宗教上の理由で分裂しないよう、高僧であるバクラ・リンポチェに、地域の人々のために活動してほしいと指導者として抜擢します。
そうしてバクラ・リンポチェは、ラダックにおける政治活動はもちろん、学校を設立し、伝統的な価値観とともに教育を受け入れるよう近代教育を奨励。
またラダックだけでなく、全国で福祉や少数民族の権利について多くの問題に取り組み、指定カーストや指定部族、少数民族などマイノリティの人々の意見を擁護しました。
そのような熱意ある行動は、ラダックの人々がこれまでの暮らしや文化、仏教への信仰を維持する上でも重要でした。インド独立初期におけるラダックとインドとの関係をうまく保ち、ラダック人の民族的アイデンティティが失われることなのないよう、地域を守ることにつながったのです。
 
バクラ・リンポチェは、自分が指導者であるとは主張していませんでしたが、チベット難民がインドに初めて到着したときの支援活動によって、チベットの人々からも高僧として、また人権活動家としても非常に尊敬されたそうです。
ちなみに、バクラ・リンポチェは駐モンゴル・インド大使も務めており、仏教徒の多い二国間の関係を強化することにも貢献されました。
 
ダライ・ラマ14世にとっての親しい友人でもあり、仏法の献身的な擁護者であったバクラ・リンポチェ。2003年11月4日に、デリーで生涯を終えました。
 

1957年1月21日カルカッタを訪問中のダライ・ラマ14世とバクラ・リンポチェ19世(ダライ・ラマ14世の右) – Public Domain, Wikimedia Commons

このような経緯で、現在のラダックの礎を築くキーパーソンとなったバクラ・リンポチェ19世。教育と社会の改革、宗教と文化の保護に力を注ぎ、ラダックの発展と近代インドに残した貢献を称えるため、バクラ・リンポチェが亡くなった後の2005年に、レー空港はリンポチェの名を冠する名称に変更されました。
 
ラダックと世界をつなぎ伝統に根ざして進歩するという、バクラ・リンポチェ19世のビジョンを象徴するようなレーの空港。バクラ・リンポチェの生涯の功績と、ラダックの人々のために行動してきた熱意を思い起こさせるものとして存在しています。

4.ゆかりの場所

バクラ・リンポチェ19世の写真はラダックの僧院のお堂などで目にすることができますが、バクラ・リンポチェにとくにゆかりのある場所をいくつかピックアップしてご紹介します。
 
■スピトゥク僧院 Spitok Gompa
一説には、11世紀にグゲ王国の王によって建立されたといわれています。15世紀前半、当時の王がゲルク派の開祖ツォンカパからの使者を受け入れ、スピトゥク僧院はラダック初のゲルク派の僧院となりました。その後、お堂の修復・拡張が行われ、立体的で複雑な構造になっています。
11世紀につくられたという部分で唯一残っているのが、最上階にあるゴンカンです。ここにはパルデンラモ(吉祥天女)がご本尊として祀られており、仏教徒のみならずヒンドゥー教徒も訪れるといいます。
この僧院の座主は、先にお伝えしたとおりバクラ・リンポチェで、お堂に19世と20世の写真が飾られていました。
そしてこの僧院の特徴は何といっても、空港が一望できる絶好の場所にあることです。

スピトゥク僧院からの眺め

お堂に飾られていたバクラ・リンポチェ19世の絵と20世の写真

■シャンカール僧院 Sankar Gompa
20世紀初頭、バクラ・リンポチェ19世によって創建されたゲルク派の僧院。
本堂には、ドゥカル(白傘蓋仏母)の像が安置されています。「傘蓋」とは高貴な人たちのみが使う日傘で、暑さを遮ることから悪魔を遮る意味となりました。顔・手・脚がそれぞれ千あり、一つ一つの手には目があります。白い傘で災難をよけ、左手に持つ輪玉で煩悩を打ち砕きます。
白傘蓋仏母像は見られる機会が少ないのですが、レー近郊だとシャンカール僧院、レー王宮、ザンスカールではランドゥン僧院、リンシェ僧院でお目にかかることができました。

シャンカール僧院のドゥカル像

■ザンラ旧王宮 Zangla Palace
ラダックのさらに奥、ザンスカールの地に残る旧ザンラ王宮。18世バクラ・リンポチェは、ザンラ王宮で生まれました。
18世バクラ・リンポチェのストゥーパ(仏塔)は、旧王宮のすぐそばにあります。
18世バクラ・リンポチェが亡くなった後、宮殿の前で火葬され、後にストゥーパが建てられました。そのストゥーパの状態が劣化した後、村全体にバクラ・リンポチェの祝福が届くよう、丘の上にあるこの場所に移されたのだそうです。

ザンスカールのザンラ旧王宮に立つバクラ・リンポチェのストゥーパ(左)

小高い岩山の上に残るザンラ旧王宮

■その他
ザンスカールのパドゥム僧院、トンデ僧院のドゥカンにも、バクラ・リンポチェの壁画が描かれています。

パドゥム僧院からの眺め

パドゥム僧院(ザンスカール)の壁に描かれたバクラ・リンポチェ

トンデ僧院

トンデ僧院のお堂の内部。19世バクラ・リンポチェの写真が

ラダックの玄関口である、レー空港に名を冠するクショク・バクラ・リンポチェ。
僧院を見学した際に、祭壇に飾られているバクラ・リンポチェの写真や、マングースを抱いている高僧の壁画に出会ったら、現在もラダックがラダックらしくある歴史的背景に想いを馳せてみると、より理解が深まるかもしれません。
 
※僧院や空港の情報は、2024年7月訪問時のものです。
 
参考:『インド,ラダックにおける仏教ナショナリズムの始まり』名古屋学院大学/宮坂清(2014年)、INDIA TODAY、インド首相官邸Webサイト、日本総研RIM 環太平洋ビジネス情報 1998年7月No.42『南アジア緊張の火種・カシミール問題を考える』、新纂浄土宗大辞典など
 
Photo & Text: Kondo
 


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ラダックのブッダ・プルニマ Buddha Purnima

ジュレ―!西遊インディアです。

2023年5月5日は、仏陀の誕生・悟り・涅槃を祝う「ブッダ・プルニマ」の日でした。
西遊旅行の今年のGWのラダックツアーで、ちょうどお祭りの日にレーを訪れることができました。

■ブッダ・プルニマ Buddha Purnima
仏教の伝わる各地で「ウェーサーカ祭」として祝われる日。
日本では「花まつり」「灌仏会」にあたります。
仏陀の人生の中で重要な誕生・悟り・涅槃の3つがこの同じ日に起こったとされ、ラダックではチベット暦の4月(ウェーサーカ月 Visakha)の満月の日に当たるので、毎年日付が異なります。
ヒンドゥー教では、仏陀はヴィシュヌ神の9番目の化身(アヴァターラ)と考えられており、この日はヒンドゥー教徒と仏教徒の両方に祝われます。インド全国共通の祝日(Gazetted holidays)ですが、とくにラダックではダライ・ラマの誕生日に次ぐ重要な祝日です。

  • ヴィシュヌ神の10の化身。中央下段がブッダ
  • ヴィシュヌの化身としてつくられたブッダ像
ヴィシュヌ神の10の化身。中央下段がブッダ
ヴィシュヌ神の10の化身。中央下段がブッダ

ヴィシュヌの化身としてつくられたブッダ像
ヴィシュヌの化身としてつくられたブッダ像

 
「プルニマ」とはサンスクリット語で満月のこと。「ブッダ・ジャヤンティ(Jayanti = 誕生日)」ともよばれますが、ザンスカール出身の現地ガイドさんによると、「プルニマ」の方がより敬意をこめた呼称なのだそうです。ちなみに、今年は釈迦の誕生から2567年目に当たります。
 
例年レーでは、ラダックにおける仏教組織(ラダック・ブッディスト・アソシエーション)が主催し、ピース・マーチの行進と、ポロ・グラウンドでの見世物が行われます。
ピース・マーチの練り歩きは、市街中心部にあるレー・ジョカンを出発して、シャンティ・ストゥーパ、ナムギャル・ツェモの順で回り、ポロ・グラウンドをゴールとして行われます。
 
まずは市民たちが行進するピース・マーチ。シャンティ・ストゥーパから降りてくる行進の列です。


僧侶たちの列の後には、誕生日を迎えたお釈迦様がトラックに乗って移動してきます。

経典を持った人々の列が通り過ぎるとき、頭を下げると手に持つ経典を軽く叩くように頭に乗せて行ってくれました。

ピース・マーチを見た後に向かったシャンティ・ストゥーパでは、ブッダ・プルニマならではのイベントで、仏陀の人形に水をかけてきれいにし、自分の心身を清めようというブースがありました。
日本の灌仏会でもお釈迦様の像に甘茶をかける慣習があり、遠く離れたインドの地でも、共通点を感じます。

シャンティ・ストゥーパ

日本の灌仏会で見る仏像よりちょっとかわいらしい仏陀人形。
でも、日本の灌仏会と同じく「天上天下唯我独尊」の誕生仏のポーズです!
 
道中、行列に配っているハルワやサモサ、ジュースをいただきながら、広場へ向かいました。

いただいたハルワ。カシューナッツが入っていて、甘くておいしいです

レーの町の広場、ポロ・グラウンドでの見世物を見学しました。広場の真ん中に作られた壇上で、市民やお坊さんが踊りを披露していました。
ナムギャル・ツェモから見たポロ場

たくさんの見物客でにぎわっています!

仮面(チャム)を付けて踊る様子


日本の縁日やお祭りのように賑やかでした!
 
明るい雰囲気に包まれた、ブッダ・プルニマ祭のラダックの様子でした。
これからはお祭りの多い季節。ラダックは本格的な旅行シーズンを迎えます。
 
 
■おまけ
ピース・パレードで見学した色々な山車


 
Text: Kondo
Photo: Saiyu Travel

 


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地上の楽園シュリーナガル ①ハウスボートで優雅な湖上の休日を!

ナマステ、西遊インディアです!

 

「シュリーナガル」みなさまは聞いたことはありますか?インド英領時代の夏の首都であり、広がる湖とそこで楽しむハウスボートでの宿泊が有名で、大変風光明媚な場所です。ですが、定期的に不穏なニュースも流れてくるため、実際に旅行となるとちょっと治安が心配…という方もいらっしゃるかと思います。

 

今回は、そんなシュリーナガルについて、近隣の観光地も含め、ご紹介いたします。

 

早朝、ナギン湖に浮かぶハウスボートと、水上花売り

 

シュリーナガルは、ジャンムー&カシミール州の夏の州都。訪問には、デリーからは毎日直行便が数便運航しており、国内線で約1時間半ほどです(ちなみに冬の州都は、ジャンムーです)。

 

英領時代、なぜシュリーナガルが夏の首都としてイギリス人に重宝されたかというと、シュリーナガルは標高が1,600mほどで、4~6月にインド平野部が酷暑期にあたる時期でも涼しく、大変過ごしやすいためです(4〜6月の平野部・デリーは日中気温40度を越えます)。シュリーナガルでは12月〜2月は例年降雪が見られ 、西に約40km行った場所にあるグルマルグは、インド国内有数のスキーリゾートの場所として知られています。

シュリーナガルはその美しい自然から、「インドのスイス」「東方のヴェニス」と例えられる程で、国内外から多くの観光客がやってきます。一般的な観光シーズンは4月~10月とされておりますが、冬の雪景色もとても美しく、年間を通して旅行できます。

 

シュリーナガルでの滞在先といえば湖に浮かぶハウスボート。空港から車で約30分、総面積22平方キロメートルの「ダル湖」には、たくさんのハウスボートが浮かんでおり、普通のホテル滞在とは違う体験を楽しむことができます。

 

 

私が滞在したハウスボートがあるのはダル湖の隣に位置する「ナギン湖」で、ダル湖ほど大きくはないですが、町の喧騒から離れて静かに過ごしたい方にはおすすめのエリアです。

 

カシミールのハウスボートはイギリス統治時代、イギリス人が湖に豪華な家屋を浮かべて、別荘にしたのがはじまりです。イギリス人は本来土地を買って別荘を建てたかったのですが、時の藩主が外国人の土地の購入を認めなかったため、苦肉の策として湖上に建設しました。「ハウスボート」という名称ではありますが、ボートの半分は岸に上がっており、実際に水の上で動くわけではありません。

 

リビングルームの一例。丁寧に施された木彫りの装飾も大変綺麗です

ハウスボートは、その内部はイギリス式となっており、リビング/サロン(応接間)、ダイニング、ベッドルームと別れております。それぞれのお部屋にはバスルームが付属しており、バスタブがあるお部屋も(お湯はためることはできません)。

 

ハウスボートの内装は豪華なカシミール様式となっており、細やかな木彫りの装飾が施されています。

リビングにて、カシミール・ティーを飲みながらボートに打ち付ける優しい波音を聞きつつ湖を眺めるとなんともいえない優雅な気持ちになります。

 

広々としたダイニングルーム
調度品等、統一感があり素敵です

忙しい毎日から離れて優雅に休日を過ごされたい方におすすめのハウスボート。一度ハウスボートに宿泊し、またリピートする、という方もいらっしゃいます。ぜひ一度、ご滞在されてはいかがでしょうか?

 

シュリーナガルの紹介はまだまだ続きます!

 

Text: Hashimoto
Photo: Saiyu Travel

 

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インドのお祭り コルゾックグストール

ナマステ!西遊インディアです。

以前、デリーから陸路で行くレーの時に途中で立ち寄ったコルゾック僧院。

標高4,500mに位置するこの僧院でも、年に一度お祭りが開催されます。

グストールとは・・・

「グ」とは9や19、29の「9」の付く日を表し、「ストール」とは「トルマ=麦粉やツァンパ、バターなどで作った立体的なお供え物」のことです。「9の付く日にトルマを壊すお祭り」となり、コルゾック僧院では毎年チベット暦の7月29日にあたる日に合わせてこのお祭りが開かれます。

天空のチベット ラダック第8弾:祭り・チベット仏教の用語とマナー・お土産など

 

2日間にわたって行われるグストール祭のハイライトは2日目

(初日はディックとよばれる予行練習が行われます)

 

まずは動物達のお清めの儀からスタート

飼われている動物を開放し、新しい人生を与えてやる儀式。

ここで解放された動物は寿命を全うでき、食べられることはないそうです。

 

続いてタンカのご開帳

 

チャムが始まる前にはハトゥクと呼ばれる道化が会場整備に一役買います。

祭りをひらくには、昔も今も莫大な費用がいります。スポンサーだけでは賄えないので、寄付やお布施を集める役割も担います。

 

13黒帽の舞やチティパティの舞など、他のお祭りと共通しているチャムもありますが、午後には皆まとめて登場します。

 

会場の中央に置かれた悪の象徴“ベレ”(悪いことをすべて吸収してくれます)は、チャムの最後、大黒天により八つ裂きにされていきます。

最後はこんな姿に。

これは、トルマと一緒に焼かれるそうです。

 

チャムが終わるとハシャンの登場です。

ハシャンは日本では七福神の布袋和尚にあたるそうです。もともと中国唐の時代の禅僧であり仏教寺院に多額の金銭的な貢献をしたという伝説的な人物です。

お祭りでは人々にお布施や喜捨の大切なころを教える役目をしているそうです。ハシャンは子供を大変かわいがった人として知られ、後にハトクという子供のお面をつけた子供の僧が必ず従います。

 

先日ご紹介したツェチュとの違いがこちら

「トルマ」の破壊です。

グストールでは、最後にトルマを一定方向に向かって破壊する儀式もつきものなのですが、壊す方向はお祭り終了後に占いで決められます。

 

これは特に時間が決まっていませんので、本堂内で法要が行われていましたが、私が見学した時は2時間以上待ってようやく決まった方向へと運ばれていきました。村の端の方まで持っていき焼かれるそうです。

夏はラダックのお祭りシーズン。

大事な儀式でもありますが、地元の方たちにとっては年に一度のお楽しみでもあります。この日の為によそ行きの服を身にまとった地元の方たちとの交流もお楽しみください。

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ラダック最大のお祭り ヘミス僧院のツェチュ②

前回はツェチュの午前の部をご紹介しました。

ここからは午後の部です ↓↓

 

(4)12守護尊の舞

各僧院に描かれている守護尊の舞です。マハカーラ(大黒)やヤマ、パルデン・ラモなど。

 

(5)The four Goma

赤、白、黄、緑と4色の門番たち。幸福や豊かさの為に動く神のような存在です。フック(白)で邪気を捕まえ、ロープ(黄)でそれらを縛り付けます。鉄鎖(赤)で固定し、ベル(緑)で惑わせて逃げられなくするといったように持ち物それぞれに意味があります。

(6)チティパティの舞

チティパティ(屍陀林王)と呼ばれる骸骨の仮面です。「墓場の主」という意味を持つこの仮面は、かつては苦行僧だったそうで、祭りの時に悪霊を退散させる重要な役割を担うとされています。

 

チティパティの衣装、2015年頃にリニューアルされた模様です。

2013年時にはこんな感じでした↓

 

(7)パドマサンバヴァの忿怒の舞

平和と幸福に反する悪の心を解き放ち、浄土へと導きます。

手には剣や短剣を持っています。

 

(8)ダーキニーの舞

守護尊の一つヘールカの妃であるダーキニーの舞。赤、白、黄、赤、青色の5体のチャムです。祭り会場の中央にある、邪気を吸収させたトルマを破壊していきます。

 

(9)勇士の舞

 

大体16時前にはチャムは終了します。

お祭りの間は本堂は僧侶の方たちの控室のようになるので見学は出来ません。

内部をゆっくり見学したい方は、お祭りの後、又は別日に行くのがお勧めです。

 

ラダックのお祭りは、大切な宗教行事。地元の方たちにとっても、年に一度のお楽しみです。

マナーを守って気持ちよく見学しましょう。

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ラダック最大のお祭り ヘミス僧院のツェチュ①

夏になるとラダックではお祭りシーズン到来!

ツェチュ、グストール、カブギャットなど、由来に応じでお祭りの呼び名も様々です。

ヘミス僧院は17世紀の創建以来ラダック王家の援助の下で大きな力を持ってきたこともあり、ラダックでもっとも裕福なゴンパのひとつ。もちろんお祭も盛大で、国内外から観光客も多くやってきます。そんなヘミス僧院のツェチュについてご紹介します。

ツェチュとは・・・

チベット文化圏の寺院での祭りのことですが、本来は「(月の)十日」を意味します。

これは、紀元後八百年前後にチベット仏教をヒマラヤ一帯に流布した、ニンマ派の祖師グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)にちなんでいます。彼の生涯には十二の重大な出来事が起きたといわれ、各月の十日に、その月に該当する出来事の法要を行います。

また、「月の十日にツェチュ祭のあるところには必ず戻ってくる」という言葉を残したとも言われています。ツェチュ祭とは、グル・リンポチェを再び目の前に拝み、法要を行う、一年のうちでも大切な日です。

ヘミスツェチュはチベット歴の5月10~11日(太陽暦の6~7月)に行われます。発表される2日間のスケジュールのうち、盛り上がるのは僧侶によるチャムが行われる初日です。

(3日間開催とある場合、1日目は僧侶たちのリハーサル、2日目がチャムの日です)

 

そして、大事なイベントの一つが大タンカの御開帳。

毎年行われるのですが、12年に一度、申年にはグル・リンポチェの特別なタンカの御開帳があります。前回は2016年でしたが、この年は例年以上の人出になります。

 

■例年御開帳されるタンカ↓

 

■12年に一度ご開帳されるタンカ (2016年撮影) ↓

 

チャムは10時頃からスタート

解説等は無いのですが、プログラムは毎年同じ感じです。10時ごろ、流れに沿ってチャムもスタートします。

 

(1)13黒帽の舞

13名の僧侶によって舞われるもの。広場全体を清める意味を持ちます。口元のマスクは悪霊を吸い込まない為。彼ら黒帽の僧侶たちはシャナクと呼ばれ、ダオ(仏教における悪の象徴を表す人形)にまつわる儀式など、チャムの中でも重要な役割を果たします。

 

 

(2)祝福の儀

16名の銅製のマスクをつけた踊り手たちの舞。

会場に来ている人たちに、祭りの開始を告げ、邪気をとりはらいます。

 

(3)パドマ・サンバヴァ八変化

グル・リンポチェは8つの化身の姿を持っていたと言われています。いろいろな姿がありますが、その中でもブータンの聖地・タクツァン僧院はグル・リンポチェがグル・ツェンゲの一つ「グル・ドルジドロ」という姿で虎に乗ってやって来たという伝説が残っています。

祭りでは、お坊さん達に連れられて八変化相が次から次へと登場しますが、パドマサンバヴァは金色の傘が掲げられ人一倍大きな仮面として表現されているので、一目で判別をつけることができます。用意されたイスに座っているパドマサンバヴァの前で、八変化相が次々と舞いを披露していきます。

 

 

通常、ここまでが午前の部。

次回は午後から行われるチャムをご紹介します。

 

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ヒマーチャル・プラデーシュ州の魅力③ カングラ鉄道

サチパスの紹介をした際に「英国人がヒマーチャルを「発見」したのは、シク教徒とグルカ族の戦争の後で、20世紀初頭には狭軌鉄道が建設され、一本はシムラ方面へ、もう一本は、カングラ渓谷を貫くように敷かれました。」書いていたのですが、シムラ方面の鉄道は山岳鉄道群として世界遺産に登録されたシムラ・カルカ鉄道です。

今回は、もう一つのトイトレイン カングラ渓谷を走るカングラ鉄道のご紹介です。

 

■カングラ渓谷鉄道

ダージリンのトイトレインと同じように1926年~1929年にかけてイギリスによって敷かれた鉄道で、線路幅は76.2mmのナローゲージ。そのため機関車は小さくエンジン出力が弱いために勾配が緩やかな南方向への迂回ルートをとっていてその分、鉄道距離は長くなり、Joginder Nagar駅~Pathankotまで全長164kmを繋いでいます。ダージリン、ニルギリ、シムラなどインドの他の山岳列車が既に世界遺産に登録 されている一方でカングラ鉄道はまだ世界遺産に申請中。この列車は観光用ではなく普通のローカル線で、地元の人の生活の足になっています。

朝、人気のない駅で入線を待ちます。

列車が来ないと、切符売り場もオープンしません。

 

運行率は8割ほどらしい、この路線。

観光客は少ないですが、地元の人で席も混みあいます。

 

 

ダラムサラに程近いカングラ渓谷は、古くから仏教と深い関係があり、635年、三蔵法師がその旅行記の中で、かつてこの周辺に50もの仏教僧院があり、そこで2000人以上もの僧侶たちが修行していたことを記しています。しかし、その数世紀後、バラモン教の隆盛により仏教はこの谷間から消えます。1849年、イギリスはダラムサラを軍の駐屯地に決め、アッパーダラムサラはイギリス人たちの避暑地となりました。

アッサム、ダージリンと同様にお茶の生産も盛んに行われていたようです。

しかし、1905年に大地震に見舞われ、住民たちは麓のロウアーダラムサラの安全な場所に移動。そして、1947年、インドが独立するとダラムサラからイギリス人たちはいなくなったそうです。

雪山を眺めながら、のんびりと列車の旅が楽しめます。

 

11月撮影
11月撮影

11月頃よりは3月頃の方が雪山がはっきり見える印象です。

 

3月撮影
3月撮影

1905年の大地震が無ければ、この地もお茶の産地として栄え、この路線も世界遺産の仲間入りをしていたかもしれません。

個人的にはダージリン、ニルギリ、シムラのどの鉄道よりもこのカングラ鉄道乗車が楽しかったので、大好きなお勧めの路線です。

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ヒマーチャル・プラデーシュ州の魅力② ダラムサラ

ヒマーチャル・プラデーシュ州をご紹介する上で、忘れてはいけない場所ダラムサラ。

1959年にダライ・ラマ14世がインドに亡命し、チベット亡命政府を樹立して以来チベット仏教文化の拠点となっており、「リトル・ラサ」とも呼ばれています。標高約1,800mの涼しい丘陵地帯にあるため、イギリス統治時代にはイギリス人たちの軍駐屯地及び避暑地となっていました。1905年の壊滅的な大地震で多くのイギリス人が麓の谷に移らざるを得なくなり、1947年にインドがイギリスから独立して以降、イギリス人たちはこの地から完全にいなくなっていきました。

 

チベット本土では失われつつある伝統的な文化や宗教を守り、後世に残していくための様々な努力がなされており、異国での亡命生活を今なお強いられているチベット人たちの現在を垣間見ることができます。

 

■ナムギャル僧院(ツクラカン堂、カーラチャクラ堂)

ナムギャル僧院は、ダライ・ラマ公邸の正面に位置し、ツクラカン堂とカーラチャクラ堂からなるゲルク派の総本山です。時折、庭で僧たちが足を踏み鳴らし大げさに手をたたく身振りで教義問答する光景が見られます。 ツクラカン堂は、ラサのジョカンに相当するダラムサラでは最も重要な寺院で、マニ車が囲む堂内には、釈迦牟尼仏、観世音菩薩、パドマサンバヴァの3体の格調高い仏像が祀られています。また、ツクラカン堂の隣にある1992年建立のカーラチャクラ堂には、目の覚めるほど美しいカーラチャクラ(時輪)曼荼羅の壁画が収められています。

■チベット子供村

1960年にダライ・ラマ法王の姉によって建てられたこの施設では、チベット難民やチベット難民2世、3世が寄宿して教育を受けています。チベットの農村部では、3年間の初等教育以上を受けられる学校はほとんどなく、都市部でも中国語教育を嫌った親たちが、チベット語による伝統的なチベットの歴史や文化を尊重する教育を受けさせるために、子供たちをインドへ送るケースが増えてきているそう。

ここで学ぶ子供たちのほとんどの親はチベット本土に住んでおり、いつ再会できるか分かりません。そのような状況下にありながら、無邪気に学び、元気に遊びまわる子供たちを見ていると、逆に私たちの方が勇気付けられます。訪問の際は、事前に連絡をし、事務所で許可をもらいましょう。

■ノルブリンカ芸術文化研究所

ラサにあるダライラマ法王の夏の離宮「ノルブリンカ」から名前がつけられたこの研究所では、チベット仏教の精神的・文化的遺産、伝統芸術・技術を保存し発展させるための取り組みが行われています。チベット人が異国の地で経済的に自活することも目指しており、タンカ絵師や仏像の彫師を養成するコース、裁縫・刺繍の職業訓練の教室なども設けられています。

受付で許可をもらえば、案内人と一緒に中を見学することが出来ます。同じ敷地内には、チベット各地の民族を紹介する小さな人形博物館や、この施設で作成された質の高い手工芸品などを購入できるお店の他、ゲストハウスやカフェもあります。

 

町の中心マクロード・ガンジを歩くとチベット料理のレストランが並び、えんじ色の袈裟をまとった僧侶を見かけます。

雨の降ることの多いダラムサラ。

「リトル・ラサ」の呼び名の通り、インドにいながら海外気分を味わえる不思議な町です。

 

 

 

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ヒマーチャル・プラデーシュ州の魅力①  高山植物の名所 サチ・パス

インド北西部ヒマラヤ山脈の西側に位置するヒマーチャル・プラデーシュ州。

(ヒム=雪、アチャル=山)「万年雪をいだく山々」という意味で、平らな土地がヒマラヤの高山へと姿を変える一帯で、州の最高峰はレオ・パルギャル山(6816m)です。

 

「ヒマーチャルは世界の花かご」と、言われるほど花があります。

古代この地はチベットや中央アジア、カシミールへの交易ルートの十字路で、ラージャ(藩主)やラナ(王)、タクル(貴族)が、ラフン族やタクライ族と対抗し、ヒマーチャルは小さな国々の寄せ集めのようなところでした。

カーングラー王国とクルー王国、そして後のチャンバ王国のみがささいな争いから脱却する力を持っていました。

植民地時代には、多くの藩主が英国軍と運命をともにしましたが、自らの王国も自立権も失うことになってしまいました。初めて訪れた西洋人は、伝説に残るプレスター・ジョンの王国を探しに来たイエズス会の宣教師たちです。

英国人がヒマーチャルを「発見」したのは、シク教徒とグルカ族の戦争の後で、19世紀後半にシムラー、ダルハウジー、ダラムサラーに小英国が造られました。20世紀初頭には狭軌鉄道が建設され、一本はシムラー方面へ、もう一本は、カーングラー渓谷を貫くように敷かれました。

1948年ヒマーチャル・プラデーシュ州が形成され、大勢の農民が封建制度から解放されました。州としての地位は1971年に確立されています。

手つかずの自然から、イギリス統治時代の趣を残す町並みまで、魅力沢山のヒマーチャル・プラデーシュ州。

今回ご紹介するのは、フラワーウォッチングにおすすめのサチ・パスです。

 

チャンバ渓谷からパンギ渓谷へ抜けるサチ・パス(4,420m)。このルートは、冬は深い雪に覆われるため6月末から10月頃までしかオープンしません。

 

3,000m以上の山の斜面では放牧キャンプで暮すグジャールの人々との出会いもあります。

3,500m付近からはブルーポピーをはじめとする高山植物の花が現れ始めます。

 

ここで通過するパンギ渓谷はピール・パンジャール山脈とザンスカール山脈に挟まれた谷で、ヒマーチャル・プラデーシュ州の中で最も“閉ざされた谷”です。積雪のため、1年の半分以上が他の地域から隔絶されます。

バイラガルから出発し、つづら折りの道をぐんぐん進んでいきます。

 

峠付近は7月でも雪が残ります。

途中、ブルーポピーをたくさん見つけることができました。

 

そして峠付近では一面のお花畑。

インド人観光客もおらず、まさに『手つかずの自然』というのにふさわしい場所です。

こんな道も通ります。

簡単には難しいですが、アドベンチャールートがお好きな方にはおすすめの場所です。

 

 

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インドヒマラヤ冒険行③ デリーから陸路で行くラダック

ついに、レーに到着です。

ラチュルン・ラ(5060m)を越えてまっすぐラダックの中心レーへと向かうこともできますが、さらに寄り道をしてチャンタン高原の湖ツォ・モリリを目指します。

 

ラチュルン・ラ

湖手前にはツォ・カルという塩湖があります。ここで採れていた塩は、スピティにあるキッバル村等での物々交換の材料になっていた品です。

 

ツォ・カル

まずはチャンタン高原について、ご紹介します。

 

■チャンタン高原

チベット北西部からラダック南東に広がる広大なチャンタン高原。1962年のインド・中国紛争の後、チャンタン高原の西の一部がインドに属することになりました。平均標高が4,500mの高原には湖が点在し、古くからチャンパと呼ばれるチベット遊牧民が暮らしてきました。

チャンタン高原の人々の生活の糧は大切な家畜と、その家畜が食む草。家畜はヤク、羊、そしてパシュミナヤギです。冬はマイナス30℃以下になる厳しい環境では草が生える期間も短く、このわずかな草を食い尽くさないよう、チャンパの人々は年に8~10回キャラバンを組んで移動します。

 

早朝、遊牧民のテントを訪れると、乳しぼりをしている様や、バター、ヨーグルトなどを作っているところが見学できます。

乳しぼりの後、子ヤギたちがミルクを飲まないように胸に薬草を塗られて、日中はエサを求めてさらに山の方へと移動するヤギたち。夕方になると戻ってきます。

 

そんなチャンタン高原の西の端、標高4,500mの土地に美しい半塩湖「ツォ・モリリ」が広がります。 湖畔の小さな村「コルゾック村」の中心にはチベット仏教のコルゾック僧院が建ち、周辺の人々の信仰の拠り所となっています。

 

コルゾック僧院※グストール祭の様子

朝、ツォ・モリリを出発。ここからレーまでは約8時間。

ポロコンカ・ラを通り、塩湖ツォ・カルの辺りまで来ると国道に合流。

荒涼とした渓谷の中をぐんぐん進み世界で2番目に高いタグラン・ラ(5327m)を越えて、一気に町へと入ります。

 

タグラン・ラ

レーのバザールの様子です。

飛行機で移動すれば1時間程で到着する町ですが、荒涼とした景色を眺めながら陸路で移動するのも、飛行機では味わえない雰囲気満載の楽しい旅なのでオススメです。

 

この他、デリーからマナリへと移動。ロータンパスを越えてキーロンからレーに移動するルートもありますので、また別の記事でご紹介したいと思います。

 

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