オリッサの山岳民族② ドングリア・コンド族

白い民族衣装に3つの鼻飾り、たくさんの装飾品で着飾ったドングリア・コンド族

インド東部に位置するオリッサ州。山岳部族の人々は、時代の流れを無視するかのように今も独自の生活様式を守りながら暮らしています。
前回ご紹介したボンダ族と彼らが訪れる定期市につづき、今回のテーマはドングリア・コンド族とチャティコナの水曜市についての紹介、そして部族をとりまく現状についてです。
 
オリッサの部族の中で最大の指定部族であるコンド族。コンド族の言葉はドラヴィダ語に分類され、肌は黒く、オーストラロイド(オーストラリアやニューギニア、メラネシアの人々と同じ分類)と考えられています。
一口にコンド族といっても複数の部族に分かれており、谷に暮らすデジア・コンド族や、丘に暮らすドングリア・コンド族などがいて、それぞれの村で暮らしています。
 
ドングリア・コンド族は、オリッサ州南東部の密林に覆われたニャンギリ(ニオモギリ)の丘に暮らし、山神“Niyam Raja”を信仰しています。
山でジャックフルーツやマンゴー、蜂蜜、竹などを採り、畑ではバナナやパパイヤ、生姜、オレンジなどをつくります。そして、収穫した作物をチャティコナの水曜市などの定期市で売り、生活必需品を購入します。
ボンダ族と同様、ドングリア・コンド族に出会うには週に一度行われる定期市に行く必要があります。
 
ドングリア・コンド族の集まることで有名なチャティコナという町の水曜市は、彼らが暮らすニャンギリの丘から約20㎞離れた場所にあります。

ニャンギリの丘から市場を目指して歩くドングリア・コンド族の人々
何人かのグループで山から下りてきます

週に一度の市場は大賑わい

週に一度の定期市の日は、朝3時頃に家を出て森で採れるフルーツ、草などを売りにきます。
男性はサゴ椰子からジュースを取り強壮剤に。薬草の知識にも長け、山から採れる薬草でケガや病気を治療します(マラリアや蛇のかみ傷を治すという調査結果も!)。
あまり商売上手ではないドングリア・コンド族は、まず市場の手前で商売上手のデジア・コンド族に売ります。同じ民族なので彼らの言う値段を信じています。デジア・コンド族は、それを市場でもう少し高めに販売するのだそうです。

作物を売ったお金で生活必需品を買います

コンド族では女性が重要とされ、子供や男性の面倒を見るのも女性、市場でも女性が主役。

ドングリア・コンド族の外見的な特徴は、女性が白い布を巻き、髪の毛にたくさんのヘアピン、そして小さなナイフをさし、鼻に3つの輪をつけていることです。


 
コンド族の各村には、独身の男女が集う集会所があり、男性は違う村からやってきます。そこで村人が伝統やルールなどを教えていきます。女性は生涯のパートナーになると思う男性に、お手製の刺繍を渡し、受け入れられると結婚となるのだそうです。
 
豊かな山の恵みによって、何百年とシンプルな暮らしを続けてきたドングリア・コンド族。しかし、約30年にわたって彼らの生活が脅かされているのも実情です。
1997年頃、ニャンギリの丘に、アルミニウムの原料となるボーキサイトが眠っていることがわかったのです。その価値はおよそ20億ドル。イギリスに本社をもつインド最大のアルミニウム製造会社ヴェダンタ・リソーシーズは、ドングリア・コンド族の聖なる山“Niyam Dongar”に露天掘りの鉱山を開発する計画を立てましたが、2010年にインド政府は同社が法律・民族の権利を無視したとの声明を出し、開発は保留とされました。
 
しかし現在も計画は継続中で、アルミニウム産業は大規模な雇用と経済成長を生み出すことなどを理由に、オリッサには開発資源が多く、可能性を求める他企業からも注目が集まっています。
国から現地住民との協議を命じられた州政府は2023年10月にも公聴会を実施。採掘による水源の破壊や生態系に悪影響が及ぶとして、住民のほとんどがプロジェクトに反対しています。現在も解決にはいたっていません。
先住民族の生活や文化を脅かす環境開発の話には、人々の暮らしを思うと心が苦しくなります。今後も注視していきたいところです。
 

■ひとくちコラム:ダウリーとコンド族の話
ヒンドゥー教の習慣で今でも残っているダウリー(結婚持参金)。花嫁の家族から花婿とその家族に対してされる支払いのことで、経済的な負担の大きさから社会問題となっています。コンド族にダウリーはありませんが、逆に花婿の両親が、村のシャーマンが決めた贈り物(水牛数頭など)を花嫁側に贈ります。もし準備できない場合は、花婿が花嫁の父親の下で労働力として働き、その後に結婚が認められるのだそうです。

  • クッティア・コンド族の女性。トラを模した刺青が特徴的
  • チャティコナの水曜市で出会ったドングリア・コンド族
クッティア・コンド族の女性。トラを模した刺青が特徴的

チャティコナの水曜市で出会ったドングリア・コンド族

 

 

※この記事は2016年8月のものに、きんとうん43号p.11「オリッサの山岳民族」の内容を加え、修正・加筆して再アップしたものです。

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドの文化・芸能 , オリッサ州
タグ: , ,

オリッサの山岳民族① ボンダ族

列になって歩くボンダ族の人々

インド東部に位置するオリッサ州。オリッサ州の西部に広がるバスタール地方には、ドラヴィダ系の少数民族の方々が昔ながらの暮らしを続けています。このようなドラヴィダ系の人々は、古代からインド全体に住んでいたと考えられていて、紀元前1500年ごろ、イラン方面からアーリア系の人々がやってきた際に、ドラヴィダ系の人々の多くはインドの南西部に移動したという経緯があります。

 

さて、オリッサの少数民族には62の部族コミュニティがあるとされていますが、インドに暮らす少数民族の中でも、色濃くその伝統を残し、外界の影響を受けずに暮らしているのがボンダ族の人々。
人口は12000人ほど(2011年の調査。乳児死亡率が高いことなど様々な要因により、現在は減少傾向にあるとみられています。)。
ボンダ族はインド政府の保護のもと、ボンダ・ヒルと呼ばれる丘に外部との接触をもたずに暮らしています。

 

特にボンダ族の男性は外部の人間に対して警戒心が強く、彼らの居住地へ入ることは簡単ではありません。彼らの暮らす土地が山にあること、そして外部の文化を受け付けず、伝統に執着するからこそ、急激に「インド化」するインド大陸において、もっとも古く、原始的な暮らしを守り続けている民族といわれています。

 

定期市に向かうボンダ族の人々

そんなボンダ族と出会うことができるのが市場。村の定期市を訪ねると、ボンダヒルの村からやってくるボンダ族と出会うことができます。
初めてこの市場へ向かって歩くボンダ族の人々を見たとき、「ここは本当にインド?」とさえ感じます。アフリカの未知の部族と出会ったような印象です。
その衣装、そしてほっそりしたスタイルも「インド」というイメージとは異なるのです。

 

市場へ向かうボンダの女性たち。壷やバスケットの中に農作物が入っていました。自分達の土地でとれる小さなじゃがいもなど、市場で他の民族とモノの交換をしたりしています。インドでも少なくなった「物々交換」の経済が残っています。

ボンダ族の伝説と暮らし

ボンダ族の服装は、インドの古代叙事詩「ラーマーヤナ」に由来していると言う伝説があります。昔、ラーマーヤナのヒロインであるシータが裸になって水浴びをしていると、ボンダ族の女性たちがくすくす笑いました。怒ったシータはボンダ族の女性たちも裸にし、さらに頭をスポーツ刈りにしてしまいました。許しを請うたボンダ族に対して、シータは彼女たちが着ていたサリーの一部を腰に巻くことを許しました。
この話は、ヒンドゥー教の人々が後から作ったものなのでは…とも思いますが、太いシルバーの首飾りや、ビーズの装飾は、森での暮らしや狩りの際、身を守るためだという説が有力です。

 

 

女性の服装は、短い布を腰に巻き、上半身は裸で、胸の前にたくさんのビーズのネックレスをたらしています。頭はスポーツ刈りで、そのまわりにもビーズを巻きつけ、真鍮のピンで留めています。

 

首には何十もの銀の輪、胸には子安貝やビーズ製のネックレスを幾重にもたらし、その下には何も身につけず、下半身は20cmほどの布を巻くのみです。裸の胸は見事な装飾品で覆いつくされています。そして腰には短い丈の織りの布を巻くだけ。
この絶妙な美のバランスに驚かされます。

 

アンカデリの木曜市では、女性は農作物を、男性は自分たちで作ったお酒を売りにやってきます。この市場ではボンダ族の男性の写真撮影は厳禁です。

 

 

ちなみに、ボンダ族の男女関係も独特です。ボンダ族の女性は、自分より年下の男性と結婚します。男性が一人前になるまでは女性が世話をし、年老いたあとは男性が女性の面倒をみます。

 

そしてボンダ族の男性はお酒が大好き。
オリッサの少数民族の市場には手作りのお酒の販売コーナーがあり、素焼きの壷に入ったお酒を葉っぱで作ったコップでたしなむ姿が見られます。椰子や米からお酒を作り、市場で売るのですが、道中自分で全部飲んでしまい、市場に着くころにはべろべろに酔っぱらってしまう人も。午後にもなると男女ともにご機嫌な人たちでいっぱいになります。「酔っ払い」はやはり万国共通ですね。

 

 

※この記事は2011年11月、2016年08月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドの文化・芸能 , オリッサ州
タグ: , ,

【仏陀の道】釈尊生誕の地 ルンビニー

ナマステ! 西遊インディアです。
今回は、仏教4大聖地のひとつ・仏陀生誕の地ルンビニーを詳しくご紹介します。
(ルンビニーについては、前回少しこちらの記事でも触れました→ 【仏陀の道】入滅の地クシナガル)

 

 

ルンビニーまでのアクセスですが、インドから陸路国境を越えて行くこともできますし、ネパールの首都・カトマンズから車両や国内線にて移動も可能です。

(※2022年4月現在、陸路国境は観光客には開いておりませんのでご注意ください)。

 

■ルンビニー

仏教の開祖釈尊の生誕の地で、父浄飯(じょうぼん)王のカピラバストゥ(迦毘羅城(かぴらじょう))と母摩耶(まや)夫人の郷里デーバダハ(天臂(てんぴ)城)の中間にあった園林の名をルンビニといいます。
摩耶夫人は、出産のための里帰りの途中、この園の無憂樹(むうじゅ)の枝につかまって、釈尊を右わきから出産したといわれています。

 

釈迦は生まれたのち、すぐに七歩あるいて一手を天に向け「天上天下、唯ただ我のみ尊しと為なす」と仰ったとの伝説があります

 

お釈迦様・ガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)は釈迦族の王であるスッドーダナ王(淨飯王)と后であるマヤ夫人(摩耶夫人・マヤデヴィ)の長男として生まれました。シッダールタ王子が出家するまで過ごした釈迦族の都がカピラヴァストゥです。

カピラヴァストゥがどこなのか、についてはネパール説(ティラウラコット)とインド説(ピプラハワ)の争いがあり、インド説は「聖なる仏舎利、釈迦族の仏舎利」と書かれた壺がピプラハワのストゥーパから発見されたことを根拠としています。しかし、発掘調査の進んだ現在では釈迦族の都はネパールのティラウラコットで、インドのピプラハワはカピラヴァストゥがコーサラ国に滅ぼされた後、生き残った釈迦族が移り住んだ場所である、という説が有力となっているようです。

 

 

ルンビニ園

マヤ・デヴィ寺院とプスカリニ池

マヤ・デヴィ寺院。ここは釈尊が誕生した場所といわれる場所に建てられた寺院です。建物の中には、1996年に発掘された、釈尊がこの地で誕生したことを記すマーカーストーンや、マヤ夫人の像、紀元前 3~7世紀ごろのものと考えられるレンガ造りの礎石が安置されています。

 

寺院の傍らには、紀元前 249 年にマウリヤ王朝のアショカ王がこの地を訪れた際に建てたと言われる高さ 6m の石柱があり、アショカ王が即位 20 年の年にこの地を訪れ石柱を立てたこと、釈尊の生誕地であるこの村は免税され 8 分の1のみの納税で許されることなどが刻まれています。

 

またプスカリニ池は、マヤ夫人が出産の前に沐浴し、釈尊の産湯にも使われたといわれる池です。池のほとりには大きな菩提樹があり、巡礼者が瞑想をしたり、説法をしたりと思い思いに過ごしています。

 

 

ティラウラコット

ルンビニの西 27 キロ、周りはのどかな麦畑が広がっている森の中にあります。後に釈尊となるシャカ族の王子ゴーダマ・シッダールタが、29 歳で出家するまで何不自由なく過ごしていた、カピラヴァストゥ城跡であると考えられています。

 

この遺跡は 1967 年から日本の立正大学によって発掘・城砦跡だと確認され、現在はネパールの人々により管理されています。まだまだ発掘途中ですが、礎をレンガで補修しきれいに整備されています。

 

ここには西門、釈尊が愛馬カンタカに乗りこの地を出発したといわれる東門、城壁お堀跡、かつての宮殿跡、井戸、貯水槽が発見されています。この場所で一番見応えがあるのは遺跡の奥にある東門です。

『ある時、釈尊が東門から外出した際、やせ衰えてふらふらと歩いている老人を見かけた。またある日、南門から外出した際、病人を見かけた。また西門から外出した際、葬儀の列に遭遇した。この出来事から釈尊は「老い」、「病」、「死の悲しみ」を知り、深く思い悩んだ。ところがある日、北門から外出した際、道を求めて托鉢に励む修行者の姿に接し心を打たれ、釈尊は出家を覚悟した』という有名な「四門出遊」という説話が残っている場所です。

 

 

2月頃は、菜の花の時期。車窓からは一面黄色になった菜の花畑が見渡せます

 

お釈迦様の生誕の地だからでしょうか、ルンビニ―はとても静かで穏やかな空気が漂っています。宿等で自転車が借りれますので、自転車での散策もなかなかお勧めです!

 

 

Text: Hashimoto
Photo: Saiyu Travel

 

 

カテゴリ:■インド東部・極東部 , ビハール州 , 仏陀の道(ビハール州、ネパール)
タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , ,

【仏陀の道】入滅の地クシナガル

皆様こんにちは。今回ご紹介するのは入滅の地クシナガルです。

古代インドの十六大国の一つで、マッラ人の首都。仏典によれば、人々は釈尊の遺体を荼毘に付し、ここに塔を建てて祀ったと伝えられ、法顕や玄奘が訪れたころにはすでにさびれていたが、精舎や塔があり、仏陀の涅槃像が安置されていたようです。

釈尊の故郷ルンビニはクシナガルの北側に位置し、「父・母に足を向ける事はできない」との意味から「頭を北にして」涅槃に入られたとのこと。これが「北枕」の習慣の始まりだといわれます。

 

まずは、大涅槃堂。

インド政府により1956年(釈尊生誕2500年記念事業)に建立されました。内部の涅槃像は、砂岩製で5世紀、グプタ王朝期に作成され、19世紀にアレキサンダー・カニンガム(イギリスの考古学者)らが発見したもの。

大涅槃寺の周囲には、僧院跡の遺構が残ります。

 

涅槃堂からすぐ近くの場所に釈尊が最後の説法を行った場所があります。

小さな精舎の中には11世紀パーラ王朝時代の降魔成道像が安置されています。

 

そして車で5分程移動したところにある荼毘塚(ラーマーバル仏塔)

釈尊の遺体は、荼毘に付されると時、火はなかなか付かなかったが、後継者たる摩訶迦葉が500人の弟子と1週間後に到着して礼拝すると、自然に発火したという説があります。

 

クシナガルとラジギールの間に位置するヴァイシャリ。

商業都市として栄えたリッチャヴィ族の都。ジャングルの猿までが、釈尊にハチミツを供養したのもこの地だそう。

釈尊が最後の旅の途次に立ち寄った地で釈尊の死後、第二結集が行われたといわれています。

 

仏舎利が発見された八分起塔は4回ほど増築されています。発見された仏舎利は現在パトナ州立博物館にあります。

 

アショカ王柱も非常にきれいな状態。三ヶ月後に涅槃することを修行者たちに宣言された場所という説もあります。

 

柱頭の獅子像は、現存する獅子像では最古の様式です。

 

西遊旅行のツアー「仏陀の道」では、クシナガルから国境を越えて生誕の地ルンビニへと向かいます。

釈尊が誕生した場所といわれる場所に建てられたマヤ・デヴィ寺院。建物の中には、1996年に発掘された釈尊がこの地で誕生したことを記すマーカーストーンやマヤ夫人の像、紀元前3~7世紀ごろのものと考えられるレンガ造りの礎石を見ることができます。

目の前のプスカリニ池は、マヤ夫人が出産の前に沐浴し、釈尊の産湯にも使われたといわれる池です。

 

 

現在(2022年2月)、国境が開いていないので陸路での移動は難しいですが、クシナガル周辺での仏跡周遊の際は、是非お隣のネパールまで足を運んでみてください。

 

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドの世界遺産 , インドの宗教 , ビハール州 , 仏陀の道(ビハール州、ネパール)
タグ: , , , , , , , , , , , , , , , ,

【仏陀の道】晩年を過ごしたラジギール

今回は、お釈迦様が仏陀になってから過ごしたラジギールのご紹介です。

 

「目覚めた人」という意味をもつ「仏陀」。

29歳で出家した後は様々な仙者を訪ね、教えを請いながら修行を続けるも、なかなか悟りを開くまでに至りませんでした。

そこから苦行が始まりますが、苦行像はインドではあまり創られなかったようです(苦行像はパキスタンのラホール博物館やペシャワルの博物館にあるものが有名ですね。尚、ルンビニに行くと、仏像は右手を上に指した「誕生仏」スタイルが多いです)。

80歳で涅槃に入るまで教えを説き続けた仏陀は、当時としてはかなりの長寿、まさに奇跡の人だったのではないでしょうか。

 

 

 

■ラジギール

ラジギールは、出家したシッダールタが修行した場所であり、晩年滞在して説法を重ねた場所です。インド最初の統一王朝マガダ王国の首都ラージャグリハ(王舎城)があった所だといわれています。

 

お釈迦様が苦行したといわれる前正覚山。

 

ブッダガヤからラジギールに向かう途中にあります。

車で麓まで行き、坂道を上がること約15分。(籠屋もいます)洞窟の入り口に到着です。

 

どのくらいの期間苦行をしていたかは定かではありませんが、苦行だけでは悟りの境地に至らないと判断した後

尼連禅河で沐浴をし、すぐ近くの村でスジャータから乳粥の供養を受けたといわれています。

 

少しずつ体力を戻しながら、成道の境地に達し「仏陀」となったのが35歳のこと。

そう、出家をしてからわずか6年程の修業期間なのです。

 

 

ラジギールに滞在する際には是非訪れていただきたいのが霊鷲山。

 

 

サンスクリット語でグリドラクータといい、音写して耆闍崛山(ぎじゃくっせん)ともいいます。釈尊時代、インドのマガダ国の首都王舎城を取り巻く五山のなかの一つで、その名は山頂が鷲の嘴(くちばし)に似ているからとも、山頂に鷲がすんでいたからとも伝えられています。釈尊はしばしばここにとどまり、多数の経典を説いたとされる。現在の石畳は「ビンビサーラ王の道」と呼ばれ、王が説法を聞くために整備したと言われています。

 

訪問するなら、是非早朝に。朝焼けが望めます。

霊鷲山の麓、すぐ近くにはビンビサーラ王が寄進した竹林精舎と温泉精舎(現在、大半はヒンドゥー教寺院)もあります。

 

そして、外せないのがナーランダ大学址です。

 

 

ナーランダは、5世紀頃に創設された最大の仏教の学院(大学)があった町。学生1万人以上、教師も1,000人を数えたといわれ、階建ての校舎の他、六つの寺院、七つの僧院があったそうです。

古代世界では最大の教育施設だった大学は、12世紀イスラーム勢力のインド征服により完全に破壊され、それと共にインドでの仏教の衰退が始まりました。

釈尊が最後に旅をしたルートでもあり、マガダ国の王舎城(ラジギール)から多くの弟子を従え、パータリガーマに至るまでの旅の立ち寄り地点と言われています。

(隣接している博物館は金曜日が休館となります)。

 

ラジギールの近くには釈尊亡きあと最初の仏典結集が行われた「七葉窟」があります。

七葉窟とは、当時、洞窟の入口に七葉の木(ジタノキ)が立っていたので、そう名付けられたと日本では言われていますが、現地の地名の意味は、「七つの川」だそうです。

 

岩山の中腹に白いペンキで塗られた七葉窟

 

ラジギールはブッダガヤやバラナシとセットで訪問する方が多いですが、行くなら最寄りはパトナ空港(ビハール州)になります。

 

※この記事は2011年7月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドの世界遺産 , インドの宗教 , ビハール州 , 仏陀の道(ビハール州、ネパール)
タグ: , , , , , , , , , , , , , , ,

【仏陀の道】初転法輪の地サールナートとブッダガヤ

皆様こんにちは。

 

インドの宗教といえば、圧倒的大多数を占めるのがヒンドゥー教ですが、その他にもイスラム教、キリスト教、ジャイナ教、シク教等々多くの信仰が混在しています。

 

仏教もその一つです(2011年の調査では信者はインド全体人口の約0.7%)。

仏教は、紀元前5世紀頃にインドで生まれ、13世紀以降に衰退していきますが、その聖地と呼ばれるスポットはインド国内に点在しています。

 

今回から数回に分けて、インド・ネパールに点在する仏跡をご紹介していきます。

インド国内で仏教徒の多い地域は、ラダックエリアとマハラシュトラ州を中心としたインド中央部ですが、仏跡はビハール州(インド東部)の辺りに多くあります。

 

一般的に4大仏跡と呼ばれているのが、下記の場所です。

・降誕の地 ルンビニ(ネパール)

・初転法輪の地 サールナート

・成道の地 ブッダガヤ

・入滅の地 クシナガル

 

 

■サールナート

インドといえばバラナシのガンジス川を思い浮かべる方も多いと思いますが、そのバラナシ郊外にあるのが、釈尊が初めて説法をした地サールナートです。

 

仏教はここから各地に広まっていきました。

ブッダガヤで悟りを開いた釈尊はかつて苦行を共にした5人の修行者に会い行きます。乳粥の供養を受けた釈尊を「苦行を捨てた者」とし、口をきかないようにしていましたが、近づいてきた釈尊の威厳に打たれ説法を願い出ます。

またここは『鹿野苑』という名でも知られていますが、これは当時ここにたくさんの鹿が住んでいたことに由来しているとの説があり、仏陀の最初の説法もこの5人の弟子と森に住む鹿に対して行われたと言われています。

 

アショカ王(前3世紀中頃)の頃から12世紀までの遺址と多数の彫刻が出土し、グプタ時代に最も栄えたことが明らかになった場所。また東方に現存するダメーク・ストゥーパは、高さ約42m、基部の直径約28mあり、グプタ時代の貴重な例です。現在、公園のようにきれいに整備され、中心には仏舎利を収めたダメーク・ストゥーパが堂々とそびえます。

 

 

バラナシ見学といえば、ガンジス川のボート遊覧がメインになりがちですが、

世界遺産として登録されているサールナートも外せません。

あまり大きくないですが、博物館には初転法輪のレリーフがあります。非常に美しいので、残念ながら撮影は禁止されている博物館なので、バラナシ見学の際には是非訪れてみてください。

(博物館は金曜日が閉館ですが、バラナシ市内から近いので前後のお日にちで訪問スケジュールも調整可能です)

 

 

■ブッダガヤ

釈尊は、人間の4つの苦しみ「生・老・病・死」の答えを求めて出家をします(四門出遊)。

それから6年間、苦行を続け、尼連禅川を渡った村でスジャータという娘からの乳粥供養を受けます。そして、苦行が悟りをひらくための道ではないことを自覚します。

その後、ウルベーラの森(現在のブッダガヤ)に辿り着き、大きな菩提樹の木の下で、深い瞑想の後、悪魔(マーラ)の数々の誘惑を退けます(降魔成道)。そして、悟りをひらき仏陀となりました。

 

 

ブッダガヤには、全ての仏教徒にとってとても重要なマハーボディ寺院(世界遺産)があります。

アショカ王が紀元前3世紀に建てた寺院が起源と言われていますが、現在の寺院は、総レンガ製の南インド・トラヴィダ様式でグプタ朝(5~6世紀)建立のもの。

高さ55mで現存する最古の仏教寺院のひとつです。

 

菩提樹(5代目だそう)のもと金剛宝座で成道された後、釈尊は、第1週目は同じ金剛宝座で禅定を続けられました。

 

釈尊成道後、第6週目は豪雨が荒れ狂い、ムチリンダ竜王に守られながら禅定に入っと言われています。

 

※本物のムチリンダ池はブッダガヤ郊外にあります。

 

夜間はライトアップされているので、是非ブッダガヤで一泊した際には夜も訪れてみてください。

 

 

次回は、ラジギールをご紹介します。

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドの世界遺産 , インドの地理 , インドの宗教 , ビハール州 , 仏陀の道(ビハール州、ネパール)
タグ: , , , , , , , , , , , , , , , ,

イギリス植民地時代の首都コルカタ

ナマステ!!西遊インディアの岡田です。

今回は古くイギリス植民地時代の首都であり、現在では東インドの中心都市となっている、コルカタをご紹介します。

 

コルカタはバングラデシュと国境を接する西ベンガル州の州都です。ガンジス川の支流の一つであるフグリー川沿いに街が広がっており、都市圏人口ではインド3位ですが、市域での人口密度はインド1位の巨大都市です。

 

1640年にイギリスが商館を建て活動を開始した時点では、ここは3つの村が水辺に点在する程度の未開地でした。このうちの一つ・カーリカタ村の名をとって、イギリス時代からはカルカッタと呼ばれるようになります。イギリスは西海岸のボンベイ(現ムンバイ)、東海岸のマドラス(現チェンナイ)とカルカッタを中心に商館を要塞化し、さらに1757年にはプラッシーの戦いでベンガル太守とフランスを退けてインド貿易を独占。カルカッタはイギリスのインド統治の中心となり、イギリスはここを拠点にインドの侵略を進めていくこととなります。

 

カルカッタは、都市化とともに文化の成熟・教育の充実が進み、アジア初のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールを輩出しています。またインド人の知識階層の集う場ともなり、民族運動の発信地としても機能していきます。

 

1911年、カルカッタでの民族運動の煽りを受けイギリスの拠点がデリーへ移されましたが、その後も経済的には発展を続けました。インド独立後はパキスタンとの分離による政治的・経済的な影響を受け他の都市圏に抜かれていきますが、現在でも東インドに置いてはその中心であり、最大の都市であることは変わりません。

 

 

■カーリー寺院

カーリーガート
カーリーガート

神々とアスラ(悪魔)の戦いの中でシヴァ、ヴィシュヌ、アグニ等の神の怒りから軍神の女神:ドゥルガーが生まれますが、アスラへの怒りによってドゥルガーの額から生まれた戦闘の女神がカーリーです。争いと血を好み、手に生首を掴み腰に切り取った敵の手足を提げるという荒々しい姿で知られています。

 

カーリーの姿で人気があるのは夫であるシヴァを踏みつぶしながら踊るシーン。流血してもその血から分身を生んで無限に増え続ける力を持つラクタヴィージャというアスラとの戦いを終えた後の勝利のダンスのシーンです。カーリーはラクタヴィージャの血を全て飲み込むことでアスラを倒し、歓喜して踊り始めますが、あまりにも激しい踊りによって大地が砕けてしまいそうになったためシヴァがその衝撃を和らげるためにカーリーに踏まれているという場面です。やがて夫を踏みつけていることに気づいたカーリーは我に返り踊りを止めたので大地は砕けずに済んだ、という神話が伝えられています。

 

コルカタのカーリー寺院ではカーリーへの犠牲礼拝が盛んで、現在でも毎日のようにヤギを犠牲に捧げています。ヒンドゥー教徒以外は寺院内部へ入ることは出来ませんが、運が良ければ柵越しに犠牲の儀式を見ることができます。

 

■花市場

花市場
花市場

血を好むカーリーへ捧げるための赤いハイビスカス、ヒンドゥー教で好まれるオレンジ(サフラン)色のマリーゴールド等多くの生花が取引される広大な市場です。いつも多くの人でごった返しており、海岸沿いの湿った空気とともにコルカタの街の熱気を感じる場所です。コルカタ港に繋がるフグリー川に沿って広がっており、川辺のガートでは沐浴する人の姿も見られます。ここからフグリー橋を越えて行くハウラー橋はコルカタのシンボルにもなっています。

 

■インド博物館

インド博物館
インド博物館

植民地時代の1817年に開館したインド最古の博物館です。バールフットの塔門や仏舎利、また豊富な仏教・ヒンドゥー教の彫刻群などに加え、絵画や絹織物、動植物などの展示も充実しています。さらに収蔵品は5万点を越え、1日では巡りきれないほどの見応えのある博物館です。

 

バールフットの塔門
バールフットの塔門

 

■マザー・テレサ・ハウス

マザー・テレサの彫像
マザー・テレサの彫像

1929年からインドで活動したマザー・テレサ。コルカタでは1948年から1997年まで活動を行っており、彼女が晩年を過ごした場所は今でも修道女たちの活動の場として利用されています。マザー・テレサの廟もここに置かれており、現在でも多くのキリスト教徒が巡礼に訪れます。建物の一部は展示室として公開されており、マザー・テレサの活動の記録や生前に使っていた様々な道具が展示されている他、実際に彼女が暮らしていた部屋も公開されています。

 

 

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドの街紹介 , コルカタ , 西ベンガル州
タグ: , , , , , , , , ,

ダージリン④:ヘリテージホテル ・ウィンダメア

ナマステ、西遊インディアです!

ダージリンはインド国内外から多数の観光客が訪れる一大観光地となり、現地には多数の宿泊施設が建ち並ぶようになりました。全室ヒマラヤビュー、街の中心地にある、リーズナブル、コロニアル風…等々、様々なこだわりやポイントを打ち出したホテルがあり、選択肢は幅広いです。

 

そんなダージリンでの宿泊ですが、今回は弊社スタッフ一押し「ウィンダメア・ホテル(Windamere Hotel )」について紹介します。

 

Daejeeling
ホテル・ウィンダメアへ!
Darjeeling
コロニアルロイヤルスイーツ ベッドルーム Windamere WEBサイトより

 

Darjeeling
メインハウス内にある暖炉のあるコモンルーム クリスマス前だったのでお部屋は装飾されていました!

 

 

■歴史

ダージリンは、19世紀インドを植民地にしていたイギリスの統治下におかれ、在印英国人の避暑地・学校の街として開発されました。また、今となっては紅茶の最高峰として世界に知られるダージリンティーも、この時代に栽培が始まっています。そんな中、イギリス人の紅茶農園主人の邸宅として1841年に建てられたのがこのホテルの始まりです。後に改築され、1930年代からホテルとしての経営が始まりました。当時の調度品、雰囲気をそのまま残し、サービスもイギリス統治時代のまま受け継がれています。

その後増築もされ、敷地内にはメインハウスの他に、コテージタイプの棟も建てられました。

 

 

Darjeeling
ホテルのコテージ部分

 

 

■ウィンダメア・ホテルでの宿泊

ホテルが位置するのは、ダージリンのランドマークともいえるオブザーバトリーヒル。見晴らしが大変よく、中庭にはルーフトップへの階段も設置されていて、晴れていればヒマラヤ山脈を見渡すこともできます。
ウィンダメアホテルの敷地面積は結構広く、整備されたお庭も広がっていますので、晴れていればお散歩も楽しめます。

街の中心まで徒歩圏ですが、高台にあるため一日中大変静か。静かにゆったりとくつろぐことが出来ます。

 

Darjeeling
12月はマリーゴールドがきれいに咲いていました

 

Darjeeling
見晴らしの良い中庭

ウィンダメアホテルは、イギリス植民地時代の雰囲気をたっぷり残しておりますが、その一助になっているのがホテル内の調度品や設備品の数々。特にお部屋の暖炉が素敵でした。ダージリンは標高があるため朝・夜は冷え込みますが、空調はありません。代わりに、各部屋には暖炉が設置されており、スタッフが火をくべて温めてくれます。

訪問したのは12月でしたが、この暖炉のおかげで朝まで一度も寒さを感じることなく休むことができました。各お部屋は天井が高く、結構な広さがありますが、暖炉の威力ってすごいな…と実感。

 

Darjeeling
暖炉に火を灯してくれました
客室の暖炉の一例

 

 

■ハイティー

ダージリンに来たのであれば美味しい紅茶を味わいたいですよね。ウィンダメアホテルでは、毎日夕方ごろに宿泊ゲスト用にハイティーのサービスがあります。使用されている紅茶は、キャッスルトンという紅茶農園のセカンドフラッシュ。とても香り高い紅茶です。

アフタヌーンティーのメニューは、野菜のサンドイッチ、ビスケットケーキ、クッキー、等々。もちろんハイティーには欠かせないスコーンもあります。ジャムやクロテッドクリームを添えていただきます。

 

英国の雰囲気漂うウィンダメア・バーでゆっくりソファに腰掛けていただくも良いですし、晴れていればテラスで、ダージリンの澄んだ空気とともにダージリンティーを味わいながら過ごすのも素敵です。

 

焼き菓子を提供してくれます
Darjeeling
ウィンダメア・バー
Darjeeling
ウィンダメアの紅茶はホテルで購入可能です!

 

■食事

食事は、ダイニングルームでいただきます。キャンドルの明かりだけで灯されている夕食は、雰囲気たっぷりでまるでタイムスリップをしたよう。コンチネンタル料理とインド料理を楽しむことが出来ます。

 

ダイニングルーム  蝋燭が灯されロマンティックな雰囲気
サーブしてくれました
朝食の例 ダージリンティーと一緒に

 

 

ウィンダメア・ホテルでは、インドの他の場所ではなかなか体験できない優雅な時間を過ごすことが出来ます。

伝統的なホテルに滞在する特別な週末はいかがでしょうか。

 

 

 

 

≪西遊インディアのツアーの紹介≫

■世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

 

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドのホテル , ダージリン , 西ベンガル州
タグ: , , , , , , , , ,

ダージリン③ 世界遺産 ダージリン・ヒマラヤ鉄道

ナマステ、西遊インディアです!
ダージリンを紹介する第3回目の記事では、「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」を紹介します。

「インドの山岳鉄道群」として、インド国内3か所の鉄道が世界遺産登録されていますが、ダージリン・ヒマラヤ鉄道はその中でも1番初めに登録された、アジア最古の登山鉄道です。

  

■ダージリン・ヒマラヤ鉄道とは?

トイ・トレインという愛称で知られるダージリン・ヒマラヤ鉄道は、西ベンガル州の交通の要衝であるシリグリのニュー・ジャルパーイーグリー駅から、ダージリン駅までの約88Km、高低差2000mをつなぐ登山鉄道です。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は、1999年に世界遺産に登録されましたが、その後、南インドのニルギリ山岳鉄道(2005年登録)、カールカー・シムラー鉄道(2008年登録)も追加となり、現在は世界遺産「インドの山岳鉄道群」として登録されております。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は、鉄道における世界遺産としては世界で2番目の登録でした(1番目はオーストリアのゼメリング鉄道です)。

 

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 

■開通に至るまで

1879年、紅茶の輸送と避暑客の便宜を図るためにイギリス人が建設を開始しました。レール幅を610mmとかなり狭くなっておりますが、これは現地に既に存在していた山道や地形を流用しやすいようにしたためです。

 

機関部分には小回りの利く小型タンク機関車を採用しました。トンネルを掘ってレールを敷くとコストがかかってしまうため、山間を縫うように路線を設定しました。そのため全行程の約70%がカーブ区間となっています。イギリス産業革命により発明された当時の最新技術を駆使して造ったと言われています。

 

Darjeeling
レール幅61センチ! なんとも可愛らしい!

蒸気機関車は、イギリスのグラスゴー製で、最も古いもので130年、最も新しいもので120年経っているとのこと(いずれにしても古いですね)。

お客様用の車両は、1車両約40席ほどですが、古い機関車であまりパワーが無いので、2両までしか牽引できません。

実際に乗ってみると、古い機関車がよいしょ、よいしょと一生懸命坂道を登っていく感じが、なんとも応援したくなります。

 

 

Darjeeling
100年以上使われている蒸気機関
Darjeeling
ダージリン・ヒマラヤ鉄道の車両

 

 

■トイトレインに乗ってみよう!

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は本来始発駅から乗車すると7時間程かかりますが、観光客用に、ダージリンから出発する「JOY RIDE」という列車が走っています。このJOY RIDEに乗れば、ダージリン駅からグーム駅までの往復2時間の乗車を楽しむことが出来ます(ご希望であれば片道のみの利用でグーム下車も可能です)。

グーム駅は、標高2,258mと、世界で2番目に標高が高い場所に位置する駅です。

 

ダージリン駅

ちなみにこのJOY RIDEの列車チケットを予約の際に、蒸気機関か、ディーゼルかは予め分かるようになっておりますが、蒸気機関車はよく調子が悪くなり、メンテナンスに入ることもしばしば。そのため折角蒸気機関で予約が取れていても、当日ディーゼルが来た…ということも少なくありません。乗車日当日は、ダージリン駅で蒸気機関が目の前に登場するまでは油断できませんのでご注意ください。

 

乗車していよいよ出発!

 

Darjeeling
街中を走るダージリン・ヒマラヤ鉄道
Darjeeling
街中に敷かれているトイトレインの線路。

 

蒸気機関車は大量の煙と灰を吐き出しながら、ダージリン駅からグーム駅までの8kmを時速約10kmでゆっくりと走っていきます。

駅を出発して前半は、ダージリンの街中を走ります。線路ぎりぎりまで家や商店が建てられていますので、ぶら下がっている売店のスナックや洗濯物にも手が届きそうな距離です。時速10キロというゆっくりなスピードですので、車はもちろん、途中自転車にも追い抜かれました。

こうして人力に近いスピードで、地元の人々の生活風景の一部を見ることが出来るのは他の世界遺産登録されているニルギリ鉄道、カルカ・シムラ鉄道にはなく、独特の面白さがあります。

煙を上げて走っていく間、窓が開いている車内には煙の匂いが漂い、煤が顔にあたり少し黒くなっている人もいました。日本ではなかなか珍しくなってきた機関車の旅、やっぱりいいものですね。

 

列車は街を抜け、標高を上げながら走っていきます。どんどん緑が多くなってきました。

 

 

Darjeeling
グーム駅に向けて走っていきます

 

グーム駅に到着する手前、バタシア・ループで10分程停車します。バタシアは、ネパール語で「風が強い」という意味があり、実際に風の強い場所のようです。ループとは、急こう配の坂を登る際に、高度調整をするために大きく円を描くように線路が回る所のこと。このバタシア・ループは、数か所あるループの中で最も美しいとされている所です。

 

Daejeeling
バタシアループ
Darjeeling
バタシアループの広場。いいお天気でヒマラヤの展望もバッチリ
Darjeeling
グルカ兵戦没記念碑

バタシア・ループはちょっとした広場となっており、ネパールの山岳民族から構成されるグルカ兵の慰霊碑も建てられています。

 

そして天候に恵まれれば、カンチェンジュンガとトイ・トレインのツーショットをカメラに収めることもできます!

 

Darjeeling
白く美しいヒマラヤと青い空と黄色いマリーゴールドの花と鉄道

 

世界遺産の鉄道に乗って、一味違うダージリンの街並み、ヒマラヤの展望を味わってみてはいかがでしょうか。

鉄道好きな方は、ぜひ「インドの山岳鉄道群」の3つ制覇を目指してみてください!

 

Darjeeling

 

 

≪西遊インディアのツアー紹介≫

世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

カテゴリ:■インド東部・極東部 , ダージリン , 西ベンガル州
タグ: , , , , , , ,

ダージリン② 世界三大銘茶のひとつ・ダージリンティー

言わずと知れた銘茶・ダージリンティーは、インド北東部西ベンガル州のダージリン地方で生産される紅茶です。世界最大の紅茶生産国のインドが誇る、ダージリンティーについて紹介します。

 

ダージリンの茶摘みの様子。手で丁寧に摘みます

 

 

■ダージリンティーの始まり

ダージリンでの紅茶の栽培は19世紀のイギリス植民地時代に始まりました。夏の間の保養地確保のため、ダージリンを含むシッキム王国を保護国としたイギリスは、避暑地としてダージリンを開発していきます。1841年、ダージリン地区長官を務めていたキャンベル博士が自宅に茶樹の苗を植えたところ、栽培に成功。そこから茶園が開かれていき、今では87もの茶園でダージリンティーが生産されています。年間の生産量は約12,000トンで、その約80%が国外に輸出されています。

 

 

ダージリンティー

■ダージリンティーの茶樹

キャンベル博士は数多くの苗・茶樹栽培を試みましたが、多くはダージリンの環境に合わずに枯れてしまいました。日中はヒマラヤ山麓の強い直射日光にあたり、夜間は低温となるこの寒暖差こそがダージリンティーのみが持つ上品で芳醇な香りを生み出すのですが、多くにとっては厳しい環境だったのです。幸いなことに生き残った茶樹の子孫は、耐寒性のある中国種のチャイナと呼ばれる茶樹でした。

その後、標高500~2500mにわたる山腹の各所にて茶園の開拓が進められ、現在は先にも紹介した通り87か所の茶園のもと、美しいお茶畑が広がっています。

 

余談ですが、インドの三大紅茶の1つアッサムティーもイギリスの植物研究家によって発見され栽培が始められました。こちらはアッサム地方に自生していたもので、ダージリンの中国種とは別の系統です。高低差のある山腹で作られるダージリンティーとは異なり、標高が低く降水量の多い大平原で栽培されています。こくが強いためミルクティーに向いており、インドではチャイとして国内で多くが消費されています。

インドの紅茶とマサラチャイの記事もご参考ください)。

 

 

ダージリンの茶畑

 

 

■ダージリンティーの特徴

ダージリンティーは「紅茶のシャンパン」とも呼ばれ、セイロンのウバ、中国のキーマンと並び世界三大紅茶と称されています。価格は抜きんでており高級茶として知られ、独特の香りが特徴的です。朝夕の霧、そして日中の強い日差しといった、ダージリンの天候こそがこの独特の香りを生み出しています。

 

中でもその香りがマスカット、あるいはマスカットから造ったワインの香りに似ているものは、マスカテル・フレーバーとして珍重されています。このフレーバーは、「ウンカ」という体長5mmほどの小さな虫が茶園の葉を噛み、茶葉の水分を吸うことで生まれます。水分を吸われた茶葉は黄色く変色し、攻撃に対抗すべく抗体物質(ファイトアレキシン)を作り出します。これがマスカテルフレーバーの香りの正体です。これは、セカンドフラッシュ・夏摘みだけの特別な紅茶です。

 

Darjeeling
マスカテルフレーバーの茶葉は、「Muscatel」のシールが貼られて出荷されます

 

 

■茶葉の種類と飲み方

ダージリンの茶葉

ダージリンティーは、特有の香りを楽しむためストレートで楽しむのに向いています。

3月末~4月頃から、11月頃までが茶摘みの時期に当たり、そのなかでも4月の一番茶(ファーストフラッシュ)、6月の2番茶(セカンドフラッシュ)が最も良質とされています。また、10,11月頃に収穫される茶葉は、オータムナルと呼ばれます。

摘み取るのは、一芯二葉、つまり、まだ開いていない中央の新芽とその下の若葉二枚を摘み取ります。

 

ファーストフラッシュ

3月~4月頃に収穫される春摘みの茶葉です。柔らかな新芽を使い、水色は黄金色の明るい色です。緑茶のような若々しい爽やかな香りが特徴ですが、青臭い、薄いと好みがわかれるものでもあります。ストレートで香りを楽しむ飲み方がお勧めです。

 

セカンドフラッシュ

6月~7月頃に収穫される、夏摘みの茶葉です。ダージリンのクオリティシーズンで、マスカテルフレーバーを有するとされる茶葉はすべてこのセカンドフラッシュです。爽やかな香りと天然の甘みが特徴で、味・コク・香りのバランスがよく日本人に最も好まれる味と言われています。他の収穫期と比べ、高品質とされ高値で取引されています。水色はうすいオレンジ色です。

 

オータムフラッシュ

10月~11月頃に収穫される秋摘みの茶葉です。厚みのある葉を利用し、渋みがある濃いめの味が特徴。水色も深いオレンジ色になります。中級品とされ比較的安価で手に入ります。香りは少々劣るものの、比較的濃厚で丸みを帯びた味が特徴でミルクティーにも合うものとされます。

 

 

お茶の製法は、基本的には「オーソドックス(伝統的)製法」と「アン・オーソドックス(非伝統的)製法」のふたつですが、ダージリンティーは、オーソドックス製法が用いられています。オーソドックス製法は、人手による伝統的な製法を機械で忠実に再現した製法で、主にリーフティーの製造に使われています。
アン・オーソドックス製法で主なのが、現在世界中に広がっているCTC製法(お茶の記事ご参照)です。

 

摘んだ茶葉は工場に集められ、下記のステップを踏みます。

 

①萎凋(温風を送ってしおれさせ、水分を40-60%減少させる)
②蹂躙(茶葉を揉む)
③発酵
④乾燥

途中、ふるいに大きさと見た目による等級分けも行われます。この仕分けによって、同じ茶葉でも味わいの異なる紅茶としてパッケージ分けされることになります。

 

紅茶工場では、このような紅茶の加工の見学も可能です。はっきりとした四季があるダージリンでは、冬は茶樹の手入れの季節となり、工場はお休みですでのご注意ください。

 

ダージリンティー

 

 

■ダージリンでの試飲体験

ダージリンの街のバザールには紅茶屋が並んでおり、各店試飲をさせてくれます。

摘んだ時期や、茶園によってこんなにも色に違いが出ています。香りも味もそれぞれの特徴がありました。

 

Darjeeling
紅茶屋さんにて

 

こちらは最高級と言われるダージリンのホワイトティー。芽吹く直前の若い新芽を使った、希少性の高い紅茶です。紅茶の渋みが全く感じられず、さっぱりとした緑茶に近い風味でした。他では味わえない香り高い紅茶です。

 

ホワイトティー

デリー等の都市部でもダージリンティーの茶葉は手に入りますが、ダージリンで購入された方が種類も豊富ですしお値段も安いです(パッケージはシンプルなものが多いですが…)。

 

また、ダージリンティーは、生産量と市場に出回っている量が大きく異なっていると言われており、粗悪品も一部混ざっているとも言われていますので、購入場所はある程度考慮する必要があります。

 

 

ヒマラヤの麓に広がる紅茶の王様・ダージリンの茶畑の景観を楽しみ、好みの茶葉探しはいかがでしょうか!

 

≪西遊インディアのツアー紹介≫

■世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

カテゴリ:■インド東部・極東部 , インドのお土産 , ダージリン , 西ベンガル州
タグ: , , , , , ,