ヴィシュヌの化身神話を紹介する第6回。今回は8番目の化身、クリシュナ神をご紹介します。
牧童の美少年として描かれるクリシュナは、ヒンドゥー教の神々の中でも最大の人気を誇る神の一つです。クリシュナ自体もヤーダヴァ族の英雄、ヴリシュニ族の一神教的な神、アービーラ族の牧童など様々な土着の神的存在がヒンドゥー教のもとで統合されて生まれた神でしたが、後にヴィシュヌの化身とされたことでヒンドゥー教、そしてヴィシュヌ派の拡大に大きく貢献しています。
「クリシュナ」の名は「黒」を意味します。肌が黒いことに由来する神名ですが、ここからもクリシュナがアーリア系由来ではなく土着の神に由来するものと分かります。絵画においては、シヴァ神と同様に青色の肌で描かれています。モチーフとしては横笛・バーンスリーを吹く姿が象徴的です。その音色を聞くと女性はみなクリシュナの虜になってしまうほどの笛の名手とされています。また光輪(チャクラ)、額のU字のモチーフはヴィシュヌ神を表すもので、こちらもクリシュナの重要なシンボルです。
様々な神話を持つクリシュナですが、その中でもクリシュナ自身の出生に関する神話をご紹介します。
■クリシュナ神の誕生譚
その昔、マトゥラーのヤーダヴァ族のヴァースデーヴァ王子はデヴァーキーと結婚します。しかしその結婚式の際、デヴァーキーの従兄のカンサ王は「デヴァーキーの8番目の子どもがお前を殺すだろう」という何者かの声を聴きます。カンサ王はそれを恐れ、デヴァーキーを牢に監禁し、その子を全て殺すことを決めます。
カンサ王によってデヴァーキーの6人の息子が殺されます。その後デヴァーキーは7番目の子どもを妊娠しますが、その子はヴィシュヌの力によってヴァースデーヴァの別の妻であるロヒニーの胎内に移されます。この子が後にクリシュナの相棒となるバララーマとなります。そしてその後、第8子としてクリシュナが誕生します。
ヴィシュヌは自ら第8子としてデヴァーキーの胎内に入り誕生しますが、生まれてすぐに父のヴァースデーヴァに対して「牢を出て、村の羊飼いの子と自分を交換せよ」と命じます。神々の力によって牢は開き番人も眠っていたため、デヴァーキーは言われた通りに子供を交換しました。そのためクリシュナは村の羊飼いであるヤショダーとナンダの間の子として生まれ、牧童として成長していきます。カンサ王はデヴァーキーが新たな子を抱いているのに気づき殺そうとしますが、その子はヴィシュヌが生んだ幻影であり、カンサ王に対して「お前を殺す者は既に生まれている」と告げて光とともに消えていきます。
■幼少期・青年期のクリシュナ
クリシュナは幼少期から青年期へと、その成長の中で様々なエピソードを残しています。特に幼少期にヤムナー川の毒の竜・カーリヤを退治してからは、村の人々から神としてあがめられる存在になっています。
クリシュナはバララーマと共にカンサ王を倒しますが、カンサ王の二人の妻たちの復讐として度重なる攻撃を受けたため、民と共にマトゥラーを出て西方のドヴァーラカーへ移り住んでいます。「マハーバーラタ」の中で活躍するクリシュナはこのドヴァーラカーに移った後の時代です。
■マハーバーラタの中でのクリシュナ
クリシュナはマハーバーラタでは主人公の5王子の一人・アルジュナの御者として活躍します。特にアルジュナが親族同士での争いに意義を見出せずに戦意を喪失した際にクリシュナが説いた教えは「神の詩(バガヴァット・ギーター)」として伝えられ、マハーバーラタから独立した聖典としても高く評価され、ヒンドゥー教の聖典とされています。
アルジュナとクリシュナの問答の形をとって紡がれるバガヴァット・ギーターでは、クリシュナが「迷いを捨ててクシャトリヤの戦士としての務めを果たすこと」を説きます。その中で真理は神(ヴィシュヌ=クリシュナ)として表れ、またそれは自分自身でもある、と説いたこの教えは、梵我一如の思想を明確化したものとして受け入れられ、後に仏教思想にも取り入れられています。
数々の英雄譚を持つクリシュナですが、その死の場面はあっけないもので、クリシュナが死期を悟って天界へ帰ろうと瞑想している途中で、漁師が誤って放った矢が急所である足の裏に撃ち込まれたことで最期を迎えています。
■バクティ信仰
クリシュナ信仰の特徴はバクティ信仰と呼ばれるものです。バクティはサンスクリット語で「クリシュナ神への愛の奉仕」を意味し、これは神への絶対的な信愛、神に全てを委ねることを意味します。
特に南インドではクリシュナとその恋人ラーダーを象徴としてバクティ信仰が広がります。ラーダーは既婚の女性であり、またクリシュナも他に多くの妻を持っていますが、ラーダーのクリシュナへの愛は神への純粋な信愛であるとされ、バクティ信仰の象徴となりました。
現在でもヒンドゥー教の神の中で随一の人気を持つクリシュナ神の姿はインドの様々な場所で目にすることができ、現代のインド映画の中でも度々登場します。クリシュナを自身の信仰として取り込んだヴィシュヌはさらに巨大な存在となりましたが、あまりにもクリシュナの占める割合が大きいため、むしろヴィシュヌ信仰というよりもクリシュナ信仰としての側面が強くなっていることも確かです。
Text by Okada
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