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ヨルダンみどころガイド

ヨルダン北部

Northern Jordan

首都アンマンからシリア国境へとつながる北部地域。ペトラに次ぐ人気のある遺跡ジェラシ、新約聖書にも登場するデカポリスの一つウンム・カイス、世界遺産アムラ城をはじめとした「砂漠の城」など。

アンマン/ Amman

言わずと知れたヨルダンの首都。2世紀にはローマの植民都市として栄え、デカポリス(十都市同盟)のひとつフィラデルフィアと呼ばれていました。ローマ帝国の衰退後は歴史に登場することはあまりありませんでしたが20世紀初頭、メディナ(サウジアラビア)へのヒジャーズ鉄道が開通しトランス・ヨルダンの首都となり、今では金融・経済・政治の中心として活気に溢れています。劇場やオデオンなどのローマ時代の遺跡からアンマンのダウンタウンを見下ろすアンマン城、ヨルダン各地からの発掘品が集められた国立考古学博物館など見所は多く、ホテルも高級ホテルから安宿まで幅広く、ニーズにあった宿泊施設が整っています。

アンマンの町並み
かつては世界一大きな国旗だった(現在は世界2位)
ローマ劇場
2世紀に建てられたヨルダンで最大規模の劇場です。丘の斜面に造られ、舞台を北西に向けて造られているため、陽が沈むまで演劇を楽しむことができました。20世紀半ばの修復作業により現在ではフェスティバルやコンサートなどに利用されています。
アンマン城
標高850mの丘の上に造られた城砦跡。この場所は古代から宗教的・軍事的に重要な場所であり、旧約聖書にも登場します。ローマ時代に建てられたヘラクレス神殿、ビザンチン時代の教会、ウマイヤ朝時代の宮殿の跡など様々な時代の遺構が見つかっており、この場所の重要性が伺い知れます。
ヨルダン博物館
2005年に新しく建築された博物館で、ヨルダン全土から発掘された各時代の発掘品が並び、興味深い博物館です。世界最古の人型やクムラン(死海)で見つかった写本の銅の巻、ナバタイの女神像などが特に有名です。

ジェラシ/ Jerash

ヨルダンではペトラに次ぐ人気のある遺跡。首都アンマンから北へ約50km。ジェラシはアレキサンダー大王の時代から歴史に登場する様になり、セレウコス朝の崩壊に伴い、ローマの植民地となりました。 1世紀頃にはローマとの交易により富を築き「黄金の川」を意味するゲラサと呼ばれ、ダマスカスやアンマン等と共にデカポリス(十都市同盟)と呼ばれる重要な都市となりました。他の遺跡にはない楕円形をしたフォーラム(広場)が特徴で、160本ものイオニア式列柱で囲まれています。その他、主神ゼウスを祀ったゼウス神殿、町の中心に建つ壮大なアルテミス神殿、3000人を収容した円形劇場などシリアのパルミュラやレバノンのバールベックに引けを取らない程保存状態の良い遺跡です。見学には2時間は必要。チケット売り場からハドリアン・ゲートを越えて中へ。ビジターセンターのところの南門が遺跡の入り口になっており、そばにはレストランもあります。

ハドリアン・ゲート
珍しい楕円形のフォーラム
南劇場の舞台 音響効果を考えて建設されました
劇場のVIP席には名前が入っているものも
アルテミス神殿の至聖所への階段
カルドー(メインストリート)からアルテミス神殿への入り口
ニンフェウム
ローマの石畳が残されているカルドー Cardo Maximus

ウンム・カイス / Umm Qais

首都アンマンから140km、ヤルムーク渓谷(ヨルダン渓谷)の奥にゴラン高原(イスラエル、シリア)、ガリラヤ湖(イスラエル)を望むロケーションにある遺跡。2世紀にデカポリスのリーダーとして最盛期を迎えた都市で、石灰岩と玄武岩の都市遺跡が周囲の景色の中で美しい光景を見せてくれます。新約聖書の「ガダラの豚の奇跡」の舞台であるガダラ(現ウンム・カイス)は古来から文化の中心として栄え、ローマの修辞学校の創設者であるテオドロスを初め、何人かの古典詩人や哲学者を輩出しました。「ガダラ」の町はプトレマイオス朝、セレウコス朝時代を経て紀元前63年、ローマ支配下に入りデカポリスのひとつとして繁栄しました。7世紀ごろに衰退しイスラム勢力の支配下に入りました。オスマン帝国時代に遺跡の石を用いた村が作られ1987年まで人が暮らしていました。

西の劇場 玄武岩で作られた劇場
商店街の跡
バシリカ・テラス 6世紀の教会跡
ローマン・ロードから見るかすんだティベリア湖とゴラン高原
ローマン・ロード デクマヌスDecumanus Maximus
敷石に残された馬車のわだちの跡

アムラ城/ Qusayr Amra

もし、砂漠の城を一カ所しか訪問する時間しかなかったら必ず訪れるべきがこのアムラ城。素晴らしいウマイヤ朝時代のフレスコ画が残され、そして修復された「砂漠の城」でユネスコの世界遺産に指定されています。この「城」は8世紀に建てられた隊商宿跡、浴場跡、狩猟小屋跡とされていますが、フレスコ画に描かれたイスラム初期のこの当時の王族の暮らしについて様々な分析がされています。アムラ城が建設されフレスコが描かれた711年頃、ウマイヤ朝は第6代カリフのワリード1世が帝国内に壮大なイスラム建築を築いていました。ダマスカスのウマイヤ・モスクやエルサレムの岩のドームもこの時代のものです。この時代のイスラムに対する厳粛な信仰とはうらはらに、このアムラ城には裸婦の入浴姿が描かれました。そのため、この城は当時の王族たちが辺境の地で人目を逃れ快楽を享受するための離宮であったのではないかと想像されています。辺境の地であったため、そのフレスコ画はその後のイスラム教徒の破壊を逃れ、当時の王族の暮らしとユーモアを私たちに伝えています。

入り口のホールは宴会や集会が催されたとされるホールで壁面には裸婦の入浴姿
当時のウマイヤ朝のカリフのライバルであった6人の偉大な支配者たち
アーチに描かれた裸婦像
石切り場、ラクダによる石の運びだし大工仕事、壁の漆喰の様子
同じ浴室の着替えの部屋に描かれた擬人化された動物
浴室のドームに描かれた北半球の天体・星座図

ハラナ城 / Qasr Kharana

何もない砂漠の中に忽然と現れる方形の建築物ハラナ城はまさに「砂漠の城」のイメージそのもの。1辺が35mの正方形をしており、分厚い壁に支えられた2階建ての建物。四隅に見張りの円塔が設けられています。60を越える部屋があることから隊商宿、砦だったとされる説がありますが水を供給した跡が残されていないため、当時のウマイヤ朝の有力者たちが一時的に砂漠のベドウィンとの会合などに使用したものではないか、とも考えられています。

まさに砂漠の城の風貌を持つハラナ城

アズラック城/ Qasr al-Azraq

第一次世界大戦中、アラビアのロレンスとして知られるT.E.Lawrenceがトルコ軍に対するアラブの反乱時(1917-1918)に基地として使用したことでも知られる玄武岩の砦。この城のあるアズラックは古来イラクやサウジアラビア方面への交通の要衝であったことから3世紀のローマ時代には要塞が築かれ、その後にビザンチン帝国、ウマイヤ朝、マムルーク朝、オスマントルコなどを通じて改築されました。第一次世界大戦まで使われた要塞は1927年の地震により崩壊しました。

要塞の入り口 上の部屋はT.Eロレンスが使用したという
玄武岩でできた要塞
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