ブトカラⅠ – スワート渓谷のガンダーラ遺跡

ブトカラⅠはガンダーラの中心地のひとつであったスワート渓谷にある遺跡。紀元前3世紀に遡るマウリヤ朝時代アショーカ王の時代に遡る仏塔があること、その周りに272もの奉献塔があることで知られています。ブトカラⅠは仏塔群だけでなく僧院などの建築物もあるのですが、その部分は発掘されておらず、すでにその上に住宅が建てられています。

 

遺跡は1956年から1962年にかけて、イタリア考古学調査団とパキスタン政府考古学局によって発掘されました。この遺跡の歴史はマウリヤ朝時代紀元前3世紀にまでさかのぼり、紀元後11世紀ごろまで使用されていたと考えられています。

 

サンチ―型の円形基壇のメインストゥーパは、内部に一番古い部分にあたる紀元前3世紀のマウリヤ朝時代の仏塔があり、その上に覆いかぶせる形で何世紀にもわたり5回拡大されました。発掘現場の一部からその増築の過程が見えるようになっています。

 

メインストゥーパの周りは参拝者が右繞(うにょう)した繞道があります。参拝者は仏塔だけでなく胴部のレリーフも拝んだことでしょう。

 

ストゥーパの周囲の繞道には敷石が置かれ、一部にはガラスの装飾が残っています。

 

この座仏のレリーフは紀元前35~12年のインド・スキタイ王朝のアゼス2世のコインを含む層から出土したため、紀元前1世紀後期から紀元後初期のものとされているレリーフです。仏像の出現は紀元後とされているため、保守的な考古学者は紀元後1~2世紀ものと考えています。「仏像のはじまり」は常にガンダーラ美術の大きなテーマのひとつ。仏像の出現時期については議論が続いています。

 

メインストゥーパを取り囲む奉献塔(奉献ストゥーパ)を見て見ましょう。奉献塔は大きなストゥーパの周りに作られ小さなストゥーパ型のものです。当時の王侯貴族が寄進したものと考えられ、この奉献塔も崇拝の対象になりました。

 

奉献塔の方形基壇のレリーフの一部です。この図は「ブッダの一生」の出家のシーンのひとつで、愛馬カンタカがシッダールタの足をなめて別れを惜しんでいる図と思われます。奉献塔には寄進者の好むモチーフが描かれたのかもしれません。

 

奉献塔の葡萄のレリーフ

 

レリーフに表現された虎の頭です。右下には繊細に彫刻されたコリント式の柱頭。

 

パキスタンではトラは1900年ごろに絶滅したとされています。当時は豊かなスワートの森にベンガルタイガーが闊歩していたことでしょう。

 

仏鉢を持つ供養者のレリーフ

 

奉献塔のレリーフ、トリラトナ(三宝標)。法・仏・僧を現す3つのチャクラ(法輪)を崇拝の対象として描きました。

 

欠けた部分が多く、モチーフはわかりません。彫刻の素材には一般的に緑色千枚岩が使われています。

 

スワート博物館に展示されているブトカラⅠ出土品の一部を紹介します。スワートらしいものをピックアップしてみました。

 

ブトカラⅠ出土品:ブッダの一生のパネルのひとつ、「学校に通う太子」。ガンダーラではこの場面はなぜか「羊」に乗って通学する様子が描かれます。羊に直接乗っている場合もあれば、羊のカートに乗っている場合もあります。今のところこの理由について説明している学説はないようです。

 

ブトカラⅠ出土品:当時の貴族の女性像。大変豪華な髪飾りをしており、当時のスワートの風習を見ることができます。

 

ブトカラⅠ出土品:同じく、当時の貴族の女性を表現したと思われる彫像。蓮の花を片手に持つ女性の衣装・装飾が見事に描かれています。

 

ブトカラⅠ出土品:このレリーフは以前は遺跡にあったのですがスワート博物館に移設されました。シッダールタの「婚約」とされるシーンで、真ん中に立つのがシッダールタ太子、一番右端が恥ずかしそうにするヤショーダラーで、その横がヤショーダラーを紹介する祭祀。シッダールタの左側はひざまずくマーラとその周りはマーラの娘3人が描かれています。マーラは世俗の象徴でシッダールタの成道を阻止するものとして描かれています。

 

コリント式の柱頭。アカンサスの葉とともに寄進者と思われる女性が描かれています。

 

スワート博物館はバリコット、サイドゥシャリフストゥーパ、ブトカラⅠからの出土品展示室が設けられています。ぜひ、ゆっくり時間をとって見学してみてください。

 

↓↓ Butkara – Gandhara site of Pakistan

 

ブトカラⅠ – 今では周囲を住宅街に囲まれてしまいましたが、520年に中国の僧・宋雲が訪問した記録には大変豪華な寺院の姿が記されています。

 

Image & text: Mariko SAWADA

参考文献:栗田功著「仏陀の生涯」他

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DISCOVER AFGHANISTAN:キルギス族のブズカシ、ワハーン回廊 -Buzkashi in Wakhan Corridor

夏のワハーン回廊、チャクマクティン湖(Chaqmaqtin Lake)の湖畔で行われたブズカシです。ワハーン回廊のキルギス族の間では、イスラムのイード(犠牲祭)の時のほか、結婚式でも行われています。

 

>ワハーン回廊、アフガンパミールのキルギス族

 

ブズカシはアフガニスタンの国技で、2組の騎馬グループがヤギを奪い合います。ペルシャ語で「ヤギ=Buzを引っ張る、引きずる=kashi」と、そのままの意味です。ブズカシを見たのは、チャクマクティン湖畔のキルギス族のキャンプに3日滞在した最後の日、それまでキャンプで見てきた男性たちが馬に乗ったとたん、急にカッコよく見えた日です。正直、それまでは女性は朝から乳しぼりやクルト作りで働いているのに、男性は・・・と感じていました。

 

↑↑ ワハーン回廊の絶景の中で行われたキルギスのブズカシ

 

前タリバン(現在のタリバン政権ではありません)が支配していた1996年から2001年は多くの娯楽が「不道徳」なものとして禁止され、ブズカシも禁止されていました。その後、ブズカシは復活し、いまでは各州ごとのトーナメントが行われ国を挙げての一大行事になっています。大都市のブズカシはスポンサーのロゴをつけた衣装でスタジアムで行われたりしますが、地方のブズカシは純粋に人々が楽しむ伝統行事です。

 

結婚式へ向かう人々。

 

結婚式の祝い料理のため、羊が解体されていました。

 

羊の肉を運ぶキルギスの少女達。

 

お祝いとブズカシのために駆けつけた男性。

 

ブズカシの前に、一同が祈りをささげ、供食。ミルクティーと揚げパンがふるまわれました。

 

ブズカシが始まるまで遊びに興じる子供たち。

 

ブズカシをやってみたいという、キルギスの少年。

 

祈りと供食が終わり、ようやくブズカシが始まります。

 

頭を落としたヤギ。使われたのはこの日に殺したヤギではなく、ブズカシ用に村で用意されている詰め物になっているヤギでした。

 

頭を落としたヤギが大地に投げ落とされ、争奪戦が始まります。

 

このヤギを地面から片手で引き上げて、持ちながら走る力と技が必要です。この間、鞭は口に銜えます。

 

ヤギの争奪戦。

 

お茶を飲みながら観戦する家族。

 

参加者も休憩、ミルクティーを。

 

休憩の後、再びブズカシへ。

 

ワハーン回廊の山並みの絶景の中繰り広げられる、キルギス族のブズカシです。

 

Image & Text : Mariko SAWADA

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タルパンのアルターロック<祭壇の岩>、インダス河畔の岩刻画

タルパンのアルターロック(Alter Rock)「祭壇の岩」はインダス川北岸の砂地にあります。仏教モチーフより動物を中心としたモチーフが描かれた岩です。この古代シルクロードの魅力に満ちた岩刻画をご紹介します。

古来より多くの旅人が行き来したタルパン。最初にこの場所を選び彫刻をしたのは遊牧民でした。アルターロックの正面の岩面はさまざまな動物、屠殺シーンが描かれ、まさに「祭壇」として使われていたのかもしれません。

 

アルターロック、全景

このアルターロック(Alter Rock)の岩の岩刻画の中でも際立つのが、この「生贄を持つ戦士」の絵。生贄なのか狩猟した動物(多くの資料にはヤギとなっていますが動物好きの私にはアイベックスに見えます)を屠るシーンのようですが、大きなナイフを持つ中央アジア風の人物の姿が大変特徴的です。
この男性の服装は当時の騎馬遊牧民の衣装だと考えられ、紀元前3世紀から紀元後3世紀までイラン高原で栄えた王朝、パルティア(Parthian)の人物ではないかとされています。

パルティアは現在のトルクメニスタンで発祥し、イラン高原を中心に紀元前3世紀から広く西アジアを支配し、その治世末期の紀元20年頃分派し、ゴンドファルネス王によってインド・パルティア王国が建てられました。タキシラも一時都としたインド・パルティアはこのインダス河一帯でも活躍していたのでしょう。

この動物を生贄(または屠る)岩刻画のモチーフは殺生を禁ずる仏教の影響より、中央アジア民族の影響が強かったことが伺えます。

 

前足を45度にまげた、デザイン化された馬(また一角獣)の図です。
このポーズは”Knielauf”と呼ばれる表現で古代ギリシャで飛翔を描く際に見られた表現で、アケメネス朝ペルシャの芸術でも見られます。この馬はたてがみと尾が結ばれまるで弓のように見えます。

 

デザイン化したアイベックスでしょうか。目が円い、ことなるスタイルのイラン的な表現です。

 

角をデザイン化したシカのような生き物と、それを追う2つの尾を持つ生き物の図です。パキスタンで野生動物の観察をしている私には、崖にいるアイベックスを襲うユキヒョウに見えます。面白いのは崖のように見えるギザギザの線の先にヘビの頭があることです。
「これは前にはヘビがいて、後ろにはユキヒョウがいて、さらに狩人と猟犬がいて、行き場を失って困っているアイベックスの図です」と教えてくれた人がいました。
このような波状のようなデザインは南シベリアのアルタイ地方の芸術によく見られる特徴だそうです。

このアルターロックにおいて、イラン的な要素の岩刻画が見られることは、すでにアケメネス朝時代にガンダーラ、タキシラがサトラップであったことから驚くことはありませんが、世界でも有数の山脈地帯を越えた北にある南シベリアのアルタイ地方とこのインダス河畔地域に交流があったことは驚かされます。

 

光背持つ大きな仏陀座像と同じく光背を持つ4つの小さな仏陀座像の図です。どの仏陀像も定印 を結び、その衣装は両肩を隠し、衣紋が平行に優雅に描かれています。このような衣紋はインドでAD320~550年に栄えたグプタ朝で見られるデザインに似ています。同じ岩にアイベックスと思われる生き物が描かれていますが、その動きと方向から先にこのアイベックスが描かれ、その上に仏陀像が描かれたと考えられます。

このアルターロック岩刻画の製作年代ですが、仏教モチーフ以外のものは紀元前1千年期半ばごろのものと推測されています。

 

アルターロックの西側のパネルも岩刻画で覆われてます。

 

インダス河畔の岩刻画の中でもマスターピースとも言えるアルターロック。
繰り返し言い続けていますが、これらの岩絵がダムにより永久に失われることが残念でありません。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

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杏の花咲く、春の桃源郷フンザ

3月下旬、フンザの谷が淡いピンク色の杏の花に包まれました。畑には小麦の新芽の緑が。フンザは1947年の印パ分離独立後も1974年まで藩王が支配していました。ブルシャスキー語を話す、ブルショーの人々が暮らす谷です。

 

フンザは「桃源郷」と謳われ、「長寿の里」として知られています。この美しさ、果樹に支えられた村の暮らしが「長寿の秘訣」なのかもしれません。

ブルショー Brushoの人々が話す言葉、ブルシャスキー語 Burushaski は「孤立した言語」で他のいかなる言語とも関連性が見つかっていません。インド・アーリア系民族の到来以前にこの地に存在した言語集団の末裔ではないか、と言われています。フンザ谷、フンザ川をはさんで対岸のナガール谷、ワハーン回廊へ通じるヤスィーン谷、イシュコマン谷にもブルシャスキー語を話す人々が暮らしています。

 

バルティット村の中心地の景色です。昔は大きな建物というと、藩王の居城だったバルティットフォート Baltit FortとダルバールホテルDarbar Hotelくらいでしたが、今は大きな建物(ホテル)が目立つようになってきました。

 

バルティット村から望むラカポシ Rakaposhi (7,788m)。フンザ川対岸のナガール谷の山で、フンザのいたるところから展望できる名峰です。

 

同じくバルティット村から望むディラン峰 Diran  (7,266m)。

 

杏の花咲くアルティット村 Altit Village とドゥイカル Duikal の間を歩いてみました。

 

満開に咲き誇る杏。杏の実、その種、種から取る油がどんなに暮らしの中で大切かがわかります。

 

アルティット村はたくさんの杏の果樹に覆われていました。村歩きでは美しい村人との出会いが。フンザの人々、ブルショー人は見た目も色が白く、髪の毛の色が薄い人が多くいます。

 

可愛らしい子供たちとの出会いが。

 

この日のランチは、バルティット村のアミンさんの家でフンザの郷土料理を用意してもらいました。

 

ちょうど写真家・中西俊貴さんの撮影ツアーがフンザに来ており、郷土料理を作る様子を撮影。

 

フンザを代表するメニュー ドウドスープ Dowdo Soup を準備しています。

 

大変美味なチーズチャパティ(ブルシャスキー語でブルスシャピック Burus Sapik)を作っています。フンザのチーズ、ミント、トマト、ネギ、玉ねぎ、果実オイルが小麦のチャパティで巻かれています。とてもヘルシーで、パキスタンに来て食事に困っているベジタリアンの方にもおすすめです。

 

本日のランチ。果実油をたっぷり使った郷土料理、フンザの郷土ワインとの相性も抜群です。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

Visit : March 2023, Hunza, Gilgit-Baltistan

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DISCOVER AFGHANISTAN:ジャムのミナレット The Minaret of Jam

アフガニスタンにある2つの世界遺産のうちのひとつが「ジャムのミナレットと考古遺跡群 Minaret and Archaeological Remains of Jam」。ゴール州の山の中にあり、バーミヤンからもヘラートからもアクセスが容易でなく、悪路を延々と走らないと行けない場所にあります。

 

「ミナレットと考古遺跡群」と呼ばれていますが、実際にミナレットかどうかははっきりしていません。そこにはモスクはなく(もしかしたらオープンタイプのモスクがあったのかもしれません)、イスラム以前の異教の聖地の上に建てられた戦勝記念塔ではないか、など諸説があります。素敵な説のひとつに、「幻のフィローズコー(フィールーズクーフ)」説があります。ゴール朝には3つの主な都がありました。ガズニGhazni 、バーミヤン Bamiyan、フィローズコーFirozkohです。このうちフィローズコーのみ所在が明らかになっておらず、ミナレットのそばの遺跡群がその都跡なのではないかと推測されています。そういえば、ゴール州のチャグチャランChaghcharanは町の名を最近フィローズコーFirozkohに変え、バーミヤン側からジャムのミナレットを訪れる旅行者の玄関の町になっています。

 

ミナレットのそばの岩山に残る建築物の跡。見張り塔がはっきりとわかります。

ジャムのミナレットはアフガニスタン中央部の山岳地帯から興ったゴール朝がアフガンから北西インドまで支配した時代に作られました。1150年~1215年に栄えた王朝で12世紀の王、ギヤスウッディーンGhiyath al-Din Muhammad(1162年~1203年)とその弟ムイッズィディーンMu’izz ad-Din Muhammad (1203年~1206年)の時代が最盛期でした。王朝はこの兄弟の死後分裂し、1221年にはチンギスハーンの軍隊によりその都も滅ぼされました。その後、山奥に位置するため人目に触れることはありませんでしたが、1943年ヘラートの知事によりこの遺跡のことが公表され、1957年にアフガン歴史協会(Afghan Historical Society)とフランス考古学代表団(French Archaeological Delegation in Afghanistan)が訪問し、この貴重な遺跡が「発見」されました。

 

ジャムのミナレットは高さ65m、3層の構造になっている

この遺跡はハーリルード川とジャム川の合流地点にあることから土台が浸食され少し傾いています。ジャムのミナレットはゴール朝時代の残された唯一の建築物で中世のイスラム建築を知るために非常に重要であり、2002年に世界遺産に登録され「危機遺産」として遺跡の保護が叫ばれています。

ジャムのミナレットは3層構造になっていおり、各層は突き出たコーベルバルコニーで仕切られ最上部には6つのアーチの円形のアーケードがあります。

 

頂上部の6つのアーチのアーケード

37m付近までの第1層は型押しされた黄褐色のレンガのレリーフで精巧に装飾されています。

 

ミナレットの八角形の基礎部の直径は14.5mで高さは65m、先細りの塔で焼きレンガでできています。八角形の基壇に対応する8つの縦長のパネルは型押しのレンガで見事にされています。ブハラで発達したバラエティ豊かな幾何学模様、植物模様。素晴らしいのはアラビア語クーフィー体でコーラン第19章スーラ、マルヤム章の全文の碑文の帯が1つのパネルから別のパネルへと表現されているのです。

 

コーラン19章を現したクーフィー体のアラビア語がパネルを取り巻き延々と続きます。

最初のバルコニーのすぐ下に鮮やかなペルシャンブルーのクーフィー体の碑文、表面で唯一色のついた碑文があり、このミナレットの創建に関わった支配者の名が宣言されています。「サムの息子、ギャスウッディーン・モハマド、偉大なスルタン、王の中の王 Ghiyasuddin Mahammad ibn Sam, Sultan Magnificent! King of King!」この中に建築家の名前も「アリ、・・・の息子(・・・ Ali, son of ・・・)」と小さく刻まれています。

 

創健者ギヤスウッディーンの名を現す

インドのデリーにあるクトゥブ・ミナール Qutub Minarは1200年ごろデリー・スルタン朝時代に作られた、煉瓦で作られた世界一高いミナレット(72.5m)で、その建国者であるクトゥブッディーン・アイバクはゴール朝に仕えており、クトゥブ・ミナールはジャムのミナレットに影響され建設されたと言います。逆に、ガズナ朝時代のガズニに「ガズニのミナレット」があり、ジャムのミナレットはこれに影響されて建設されたようです。

 

ジャムのミナレットの影響を受けて建設されたというクトゥブミナ-ル(デリー)
ガズニのミナレットはジャムのミナレットの建築に影響を与えました

以前はミナレットの中のらせん状の階段を登ることができましたが、今はその出入り口は閉じられ入ることはできなくなっています。
長い悪路の旅の果てに見る「ジャムのミナレット」、その景色は圧巻で、遺跡ロマンたっぷりです。

 

Image & text : Mariko SAWADA

Reference :”An historical guide to Afghanistan ” Nancy Hatch Dupree

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デオサイ高原の5,000m峰、シャトゥン・ピーク登頂

2020年の夏に出発予定だった「デオサイ高原、シャトゥン・ピーク登頂」企画、コロナ禍でキャンセルとなって以来、念願のツアーを2023年夏に実現することができました。ガレ場続きのルートは大変でしたが、無事5名のメンバーと登頂を果たすことが出来ました。手厚いサポートをしてくれた登山ガイドやサトパラ村からのポーター達に感謝です。

 

山頂からの360度のパノラマビュー。気分は高所クライマー!

 

チラスからアストール渓谷を走りデオサイ高原へと上がります。途中、ナンガパルバットの圧巻の景色。デオサイ高原に上がると美しいショーサル湖畔でキャンプ。大変美しい場所ですが、標高4,200m近いキャンプ地で深夜まで騒々しい音楽で騒いでいるパキスタン国内観光客に驚きました。が、メイン道を外れると他に誰もいない秘境エリアに入り本来のデオサイ高原のが広がります。ベースキャンプからも世界第9位の高峰ナンガパルバット(8,126m)が見えます。

 

登山の序盤はのんびりしたルート、キンポウゲやサクラソウの群生に目を癒されながら歩いて行きます。後に困難なガレ場続きのルートが待っているとはつゆ知らず。

 

ルート上は山上湖が点在しています。とても美しい谷です。前方の雪山が今回目指すシャトゥン・ピーク!

 

サクラソウの群生地を歩きキャンプ1を目指します。楽なのはこの辺りまで。

 

ガレ場のキャンプ1に到着。さてどこにテントを張ろうか。

 

ガレ場の上で寝るよりは、雪の上がずっと快適です。雪渓が残っていてよかった、いよいよ明日早朝山頂アタックです!

 

キャンプ1から山頂までは95%がガレ場のルート。永遠に続くように思える急登をただひたすらに登ります。

 

立ち止まって振り替えると素晴らしい展望が広がります。

 

山の向こうはインド側のカシミール地方。シュリーナガルもすぐ近くです。インドヒマラヤの名峰ヌン峰・クン峰も見えました。

 

世界第9位峰ナンガパルバット8,126mも見えます。

 

ガレ場の急登もあと少し。稜線が近づいてきました。

 

稜線に出ると後は雪渓を登るだけです。日も高くなってきました。

 

5名のメンバーとガイド、ポーター達とシャトゥンピーク(5,260m)登頂に成功です!バックはナンガパルバット!

 

山頂からはK2をはじめバルトロ山群も展望する事が出来ました。つまりここからはパキスタンにある8,000峰5座、ナンガパルバット(8,126m)、K2(8,611m)、ブロードピーク(8,051m)、ガッシャーブルムⅠ(8,068m)、ガッシャーブルムⅡ(8,034m)のすべてを展望できるという事になります。天気に恵まれ、風もなく好天。この後、急なガレ場の下りが待っていることはとりあえず忘れて、約1時間近く山頂に滞在して至福の時を味わいました。

 

Image & text : Tomoaki TSUTSUMI

Tour conducted in July 2023, Deosai National Park, Gilgit-Baltistan

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DISCOVER AFGHANISTAN:ワハーン回廊、アフガンパミールのキルギス族

アフガニスタン、ワハーン回廊。秘境好きの旅人の間で“ラスト・フロンティア”と呼ばれてきたこの地も、チャクマクティン湖まで未舗装の自動車道が完成し、キルギス族の暮らすリトルパミールまで車で行けるようになりました。4日間のトレッキングが、4時間の4WDの旅になったのです。高原で暮らすキルギス族の暮らしにも変化が現れています。

ワハーン回廊

ワハーン回廊はアフガニスタンのバダフシャン州にあるタジキスタン、中国、パキスタンと接する細長い領土(回廊)。山岳高原地帯でアムダリヤの源流が発する場所であり、夏には豊かな水と草地が現れ「パミール」と飛ばれています。

この不思議な国境線は1873年にアフガニスタンとロシア帝国の間がパンジ川・パミール川沿いに国境がひかれ、1893年にアフガニスタンとイギリス領インド帝国(現在のパキスタン)の国境線(デュアランドライン)が引かれたことでできました。当時のロシアとイギリスの「グレートゲーム」の緩衝地帯となった場所です。

 

チャクマクティン湖 Chaqmaqtin Lake
キルギスの墓 Bozai Gumbaz アムダリヤ源流となるワフジール川とワハーン川の合流地点

ワハーン回廊のイシュカシムからサルハッドまではワヒ族が暮らし、そこから標高1,000mほど上がった「パミール」にはキルギス族が暮らしています。

チャクマクティン湖(Chaqmaqtin Lake)周辺は「リトルパミール」と呼ばれ、パミール川に沿ったタジキスタン国境からゾルクル湖にかけての高原は「ビッグパミール」と呼ばれています。いずれも標高4,000mを越える高原です。「リトルパミール」ではキルギス族は夏は湖の南で暮らし、冬は湖の北へと移動します。

 

チャクマクティン湖を背景に、キルギス族の家族

アフガンパミールのキルギス族

キルギス族はテュルク系の中央アジアに暮らす民族です。古くからアフガンパミールへ夏の放牧地を求めてやってくるキルギス族の小グループがいましたが、1917年のロシア革命時に多くのキルギス族がアフガンパミールへと移動してきました。そしてこの閉鎖的な地域で季節ごとの小移動を繰り返す生活を作り出しました。その後の1949年の中国の建国、1978年のアフガニスタンの共産主義政権の成立時に国境を越えた民族移動があり、現在は1,300~1,400人ほどのキルギス族がアフガンパミールに暮らしていると言われています。最近では2020年の新タリバン政権成立後にタリバンを恐れた人々が一時的にタジキスタン国境へと移動しましたが、自分たちの家畜・生活が守られると聞き戻ってきたそうです。

リトルパミールのアンダミン集落のシューラの責任者によると、2023年のリトルパミールには28の集落があり、従来はリトルパミールに500人、ビッグパミールに800人ほどが暮らしていたそうですが、3年ほど前からビッグパミールの方からリトルパミールに人が移動してきて、今はリトルパミールに1150人が暮らしているとのことでした。これは2020年の道路の完成が影響しているのかもしれません。

 

チャクマクティン湖周辺に暮らすキルギス族

厳しい高原での暮らし

イシュカシムからサルハッドへ移動の途中に、助けを求めるキルギスの男性に出会いました。男性によるとパミールで出産をした妻の体調が悪く、診療所でイシュカシムの病院へ行くように言われたとのことでした。「お金がない」、と。キルギス族の中にはパミールを訪れる商人と羊やヤギなどの家畜との交換で物を手に入れ、現金を持たない人もいます。「車に乗って病院へ行く」にはお金が必要なのです。この時はお金を渡し、この方の奥様の無事を祈ることしかできませんでした。

村でも子供を失った親、妻を失った男性にも出会いました。そして、老人の姿が少ないのです。厳しい環境に生きていることを実感しました。

 

キルギス族の少年

アフガンパミールのキルギス族は自給自足をしているわけではありません。家畜を育て乳製品を作り、パミールにやってくる商人<ワハーン回廊のワヒ族や南部から来るパシュトゥーン族>から必要なものを手に入れます。家畜や乳製品と交換したり、または売ることで生活に必要な商品や現金を手に入れています。羊との交換の場合は、今年の子羊を来年受け渡す約束で成立するケースも多々あります。

 

キルギス族の育てるヤギ・羊。羊はお尻に脂肪を蓄えたドンバ羊です
アフガンパミールのヤクは隣国パキスタンのヤクより大型です
乳製品<クルト>づくり

新タリバン政権(2020年)以前はパキスタンのチャプルソンと交易がありました。毎年500匹のヤク、夏の間に作った乳製品クルトが売られていきました。今は、カブールなどアフガニスタン南部から来る商人に羊・ヤギを売り、チャプルソンとの交易再開を心待ちにしていると言います。

キルギス族の女性の夏の暮らし

キルギス族は初夏に生まれた家畜の子の世話をし、乳を搾り乳製品を作り暮らしています。朝はそんなに早くなく、8~8時30分ごろに乳しぼりを開始します。その後は川で洗い物をしたりナンを焼いたり販売用の乳製品クルト作ったりします。ワハーン回廊や南部アフガニスタンから来る商人との交渉も楽しみの一つ。女性たちは競って派手な布を買い、行事の度に新しいものを身にまといます。商人たちも彼女たちの好みにあったものをしっかり把握しているようです。それに比べ、キルギスの男性は「古着」が中心で地味です。

 

ヤクの乳を搾る

美しすぎる、キルギス族の世界

リトルパミールへの旅ではキルギス族のある小グループの暮らす集落に4日滞在しました。私たちがユルトを訪問するだけでなく、キルギス族の子供や家族が我々のキャンプを訪問してくるようになりました。私たちの持っているものへの興味、食べているものへの興味。子供たちの中には好奇心旺盛で朝から晩まで私たちのキャンプにいる子もいれば、親と一緒にしか来れない子もいました。

朝のヤクの乳しぼり、洗濯、クルトづくり、ナン焼き、空いた時間に友人訪問。歩いて、そしてロバや馬に乗って一日が過ぎていきます。

 

クルト(乳製品)を作る傍らで髪を洗う女性。
髪を洗う女性
キルギス族の暮らすユルトの中
食器の片づけをする子供たち
キャンプ地を訪問する子供たち

パミールに20年以上やってきている商人は、「道路ができてから貧しくなった人たちがいる」「ヤクをたくさん売って車を買い、その車が故障して貧しくなった人がいた」と。車で来れるようになったことで以前より多くの商人が訪れるようになったのでしょう、現金でのやりとりが増え、貧しくなった人たちがいる一方、車も家畜も持つキルギスの家族は豊かになっているようにも見えました。

 

アフガンパミールのキルギス族は、想像していたよりずっと多くの経験をし、いろんな人と出会いながら暮らしていました。大変、魅力的で興味深いものでした。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

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捨身飼虎(しゃしんしこ)ジャータカ – チラスの岩刻画

インダス川にできる2つのダムのため、永久に失われることになる貴重なシルクロードの遺産、”インダス河畔の岩刻画”について記録しています。

 

「捨身飼虎(しゃしんしこ)」ジャータカをご存じでしょうか。日本では法隆寺所蔵の国宝「玉虫厨子(たまむしずし)」の側面に「捨身飼虎の物語」が描かれています。

チラスのインダス川沿いには、劣化はしているものの、その図を見ることができる岩刻画が残っています。

 

捨身飼虎(しゃしんしこ)ジャータカ Vyaghri-Jataka 

昔、インドに3人の兄弟王子を持つ王様がいました。ある日、王と3人の王子たちは竹林に遊びに行きました。そこで7匹の子虎を連れた母虎と出会いました。親子共々飢えてやせ衰え、餓死寸前でした。3人の王子は深く憐みの心を抱きましたが、二人の王子は「救うことはできない」とその場を立ち去りました。3番目の王子は、「菩薩は慈悲の心でわが身を捧げ、他人を救う。私はこの身を捧げ飢えている虎の親子の命を救おう」と決心しました。王子はその身をゆだね、虎は王子を食べました。この虎の親子の命を救った王子こそが、お釈迦様の前世であった、という物語です。

 

捨身飼虎(しゃしんしこ)ジャータカや法隆寺の「玉虫厨子(たまむしずし)」については各お寺様のホームページなどで詳しく紹介されています。

 

かなり薄くなっていてわかりにくいのですが、下記がこの岩刻画のスケッチ。

 

The Indus – Cradle and Crossroads of Civilizations (Pakistan-German Archeological Research)より

図はこの岩刻画をスケッチしたものですが、横たわる王子と王子を食べようとしている虎のトラの親子、その様子を岩の陰から見ている父王と二人の兄弟王子を現しています。

 

この図のそばに書かれているブラフミー文字の解読により、この図が捨身飼虎(しゃしんしこ)Vyaghri-Jatakaであることも証明されているそうです。

 

「捨身飼虎(しゃしんしこ)」ジャータカの描かれている岩の全面です。中心に大きなストゥーパが描かれています。方形基壇の上に半球状の伏鉢、仏舎利を収めた容器、傘蓋、旗などガンダーラ様式の特徴が伺えます。上部インダス川では5世紀ごろが仏教の最盛期だったと考えられます。

 

残念ながらこの、尊い岩刻画もダムの完成によって失われます。残念、という言葉で片づけられるものではありません。この岩刻画の破壊は1960年代のカラコルムハイウェイの建設から始まり、道の拡張工事の度に破壊されてきました。さらには、一時期仏教のモティーフを好まない人々により上にペンキや石灰が塗られて失われたものもあります。

 

カラコルムハイウェイ沿いのペンキを塗られた岩刻画。中央の「アイベックスを追うユキヒョウ」の図は2020年12月に洗い落としたものです。

 

今回もかぎられた時間の中で塗られた岩刻画を洗う作業をしました。

 

これが現在の岩刻画の状況。右から文殊菩薩、宝冠仏陀とその右横に香炉かランプを持つ信者、ストゥーパが描かれています。三つ葉形のアーチが仏陀の全身を囲んでおり、カシミール様式で描かれています。

 

下記の写真はペンキが塗られる前の図です。

 

The Indus – Cradle and Crossroads of Civilizations (Pakistan-German Archeological Research)より

このパネルのペンキの洗い落とし作業を続けていきます。

この素晴らしい仏教徒の遺産を、ダムに水没する前にぜひ見に来てください。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

Site : Chilas, Gilgit-Baltitstan

※記事について:古い書籍をもとに記事を書いています。別の見解や説明も存在するかと思います。勉強したいので是非お知らせくださるとうれしいです。Reference:”Human records on Karakorum Highway” “The Indus, cradle and crossroads of Civilization”

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カテゴリ:■ギルギット・バルティスタン州 > インダス河畔の岩刻画 > カラコルム・ハイウェイ
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桃源郷フンザのおみやげ

7,000m級のカラコルムの高峰群に抱かれ、「桃源郷」とも呼ばれるフンザの里。
フンザで人気のお土産をいくつかご紹介します。

フンザの中心地、カリマバードのメインストリートには特産品を売るバザールが並びます。規模は大きくありませんが、観光の合間に気軽に散策を楽しめる場所です。

 

カリマバードのバザール

最初にご紹介するのは、フンザの特産品ともいえるドライフルーツとナッツ。

杏などの果物の栽培が盛んなフンザでは、果実の収穫後すぐに種を取り出し天日干しをし、保存食としてドライフルーツにします。ドライアプリコットは一般的なものと比べると色は茶色く、食感も硬めですが、これは添加物が一切使われていない証。噛むほどに杏の華やかな香りが広がり、つい癖になる味わいです。

ナッツは新鮮なクルミやアーモンド、アプリコットシード(杏仁)が有名。アプリコットシードは一見アーモンドに似ていますが、その名の通り、杏仁豆腐でおなじみの独特な香りが楽しめます。少し苦味はありますが、免疫を高める効果があるといわれています。

その他にもさくらんぼや桑の実、梨のドライフルーツもなかなかこの地でしか手に入らないのでおすすめです。

 

お土産屋さんで売られるドライフルーツ

バザールでは木工製品のお土産も目立ちます。杏の木やくるみの木は木工細工にも適しているため、それらの木材を使った置物や小物入れ、食器などが並びます。

 

杏の木やくるみの木でできたスプーン。アーティストが毎日一つ一つ手作りしています。

 

精巧な彫刻が施されたティッシュボックス

フンザの伝統的な刺繍をあしらった手工芸品も人気のお土産の一つ。ウール製のバッグやスリッパ、帽子に鮮やかな刺繍が施されています。

 

ポーチバッグ
スリッパ

また、フンザ周辺の北部パキスタンは数多くの天然石の原産地。専門店では水晶、アクアマリン、トパーズ、ガーネット、ブラックトルマリンなど色とりどりの天然石を扱っており、小さい原石などは比較的安価で手に入れることができます。
お気に入りの石や誕生石などを探してみるのも特別なお土産になりそうです。

 

アクアマリンの原石

バザール散策で一息つきたくなったら、Cafe De Hunza(カフェ・ド・フンザ)に立ち寄るのもおすすめ。

ここではフンザのくるみをたっぷりと使った名物のくるみケーキがいただけます。
コーヒーとの相性は抜群。ケーキはお持ち帰りもできます。

 

キャラメルでからめたくるみがぎっしり入った名物ケーキ

Cafe De Hunzaではお土産用にアプリコットオイルも販売していました。
喉の痛みや滋養効果があり、サラサラしているのでスキンケアとしても使える万能オイルです。

 

アプリコットシードオイル

ドライフルーツに木工品、ナッツ、オイル…と杏を良いところを余す事なく使用していて、フンザの人々にとって杏は生活に欠かせない、とても大切な存在なのだなと感じます。

まだまだご紹介しきれていないものもたくさんありますが、フンザを訪れた際にはぜひ、バザール散策でフンザならではの「桃源郷土産」を探してみてはいかがでしょうか。

 

Photo &Text : Madoka Nishioka

Visit : March 2023, Karimabad, Hunza, Gilgit-Baltistan

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カテゴリ:■ギルギット・バルティスタン州 > フンザ
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シャティアールの岩刻画  失われるインダス河畔の岩刻画・シルクロードの遺産

インダス川にできる2つのダムのため、永久に失われることになる貴重なシルクロードの遺産、”インダス河畔の岩刻画”について記録しています。

 

圧巻のストゥーパ描写とインスクリプション、”シャティアールの岩刻画”

 

カラコルムハイウェイから少しそれてインダス川へ下った斜面にあるシャティアールの岩刻画群。インダス川の南岸に位置し、東のダレル谷と西のタンギール谷の間にある、当時の旅人、交易キャラバン、巡礼者にとってとても重要であったことがわかります。仏教以前と考えられる岩刻画から、ガンダーラ全盛期のもの、ポスト・ガンダーラ期と考えられるものまでその図象は多岐にわたります。

まず、一番有名な岩刻画です。これは一般の観光客の方でもバスから降りてみて「あ、すごい」と思っていただける岩刻画です。

 

大きな岩の中心には、ベルをたくさんつけた繊細な描写がなされた大きなストゥーパ、左には「シビ王ジャータカ」を描いた図、右には奉献ストゥーパが描かれています。岩の左側には、このストゥーパの建立者の名前がカロシュティー文字で刻まれ5世紀ごろのものであることがわかっています。ストゥーパと奉献ストゥーパの間にはブラフミー文字とソグド文字で人物の名前が刻まれています。

 

メインストゥーパの三段の階段の両側には中央アジア風の衣装を着た信者が描かれています。この階段は4つの「階段のモチーフ」で飾られた台座へと続きます。2本の柱が梁をささえ、ドーム状のストゥーパが載っています。ベルは梁、ストゥーパ、龕にもつけられています。ストゥーパの上には傘蓋が載せられ、旗が両側にはためき、まるでアーチのように描写されています。ベルは傘蓋にもつけられ、この岩刻画を他のストゥーパとは違う、斬新なものにしています。

 

メインストゥーパの右側にある奉献ストゥーパは4段の階段が高い基壇へと続き、三角形のストゥーパ、その上に傘蓋、そして旗がうねってたなびいてる様が描かれています。メインストゥーパとは異なるスタイルのものです。

 

この左側の図は、「シビ王ジャータカ」が描かれています。

 

シビ王ジャータカについて

(ジャータカはお釈迦様が誕生される前のお話です)シビ王という心やさしい王がいました。シビ王のところに鷹に追われた鳩が飛んで来て、命ごいをしました。そこに鷹がやってきて、鷹は王様に「私は何日も食べておらず、鳩を食べないと死んでしまいます。あなたは鳩と私の命のどちらが大切だと思っているのか」と問いました。そこでシビ王は鷹の命も大切だと思い、自分の足の肉を鳩と同じ重さに切り取り天秤の上に置きました。しかし鳩の方が重かったので、再び肉を切り取って置きましたが釣り合いません。シビ王は深く考え、自分の体を天秤に乗せると釣り合ったのです。王様は鷹に「どうぞ私を食べて元気になって下さい」と言いました。シビ王は自らの命を鷹に与ることで鳩の命を救おうとしました。シビ王の心を知った鷹は帝釈天の姿で表れ、シビ王の行動を「あなたは将来仏陀になるでしょう」と敬いました。

※「シビ王ジャータカ」「シビ王と鷹と鳩」は様々なお寺さまのWEBサイトで詳しく紹介されています。ぜひ検索なさってください。

 

この岩刻画では、仏陀が洞窟の中に座し、「鳩」を手にしています。右に描かれている人物は天秤を持っています。この天秤にのっているものは鳩の命を救うために切り取られたシビ王の肉です。鳩を抱く仏陀の下には信者が両側に描かれています。

 

以上がメインストゥーパの説明ですが、シャティアールには他にも、特徴的で貴重な岩刻画がたくさん残されています。

 

ストゥーパの反対側の岩に描かれているもので、右側がヤントラ Yantra、左下がラビリンス Labyrinthとされている図象です。

これは ゾグド人のタムガです。タムガ Tamgaは、古代ユーラシア大陸の遊牧民やその影響を受けた文化圏で使用されていた紋章のようなものです。岩刻画では下記の写真のように現れます。

 

トール ( Thor ) の岩刻画にはサマルカンドの町のタムガが発見されてるそうです。

 

これはとても見えにくいのですが、中央に杯のようなものを持つ人物像がわかりますでしょうか?

祭壇の前で儀式をしているソグド人とされる岩刻画です。ソグド人なので拝火壇でしょうか。

 

 

最後に、この地を行き来した人々が描いた動物たちを紹介します。インダス川上流部やギルギット川、フンザ川流域の岩刻画はアイベックスが中心でユキヒョウやマーコールも見られますが、ここではフタコブラクダ、アジアゾウの姿が。シルクロードのキャラバンはとってもロマンですし、ゾウの描写はインドが近くなったことを感じさせます。初めてゾウを見た中央アジアの旅人はそれは驚いたことでしょう。

下記の図象以外もラクダやゾウに見える岩刻画が何点かありましたが、確実そうなものだけここにあげました。

 

フタコブラクダ の岩刻画  Petroglyph of Bactrian Camel
ガンと思われる鳥の岩刻画   Petroglyph of Goose
ゾウの岩刻画   Petroglyph of Asian Elephant
フタコブラクダ の岩刻画  Petroglyph of Bactrian Camel

何度行っても新しい発見があるシャティアールの岩刻画です。

 

ところで岩刻画のあるサイトから眺める村は、水没による補償金目当てで急ピッチで建てられた住居でいっぱいです。古の岩壁画のまわりの環境もずいぶん変わってしまいました。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

※記事について:古い書籍をもとに記事を書いています。別の見解や説明も存在するかと思います。勉強したいので是非お知らせくださるとうれしいです。Reference:”Human records on Karakorum Highway” “The Indus, cradle and crossroads of Civilization”

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カテゴリ:インダス河畔の岩刻画 > ■カイバル・パクトゥンクワ州
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